トレイ・パーカーとマット・ストーンの『サウスパーク』はアメリカのあらゆる種類の「正しさ」を絨毯爆撃的に粉砕する痛快お下劣アニメですけれど、私は『サウス・パーク』を見るたびに「このようなものを日本で作ることは絶対に不可能だろうな」と思います。
アメリカ人はよその国に兵隊を送って、都市を焼き払い、非戦闘員を殺すようなことを大まじめに「正義と民主主義」の名においてやっておきながら、同時にそんなアメリカ人の暴力性と自己中心性を抉り出すようなブラックな物語を商業的に成功させるマーケットを持っています。アメリカの知性はタフだなあ・・・とつくづく感心します。
殺人機械ジェイソン・ボーンの「自分探し」の旅をテーマにした『ボーン』シリーズ(『ボーン・アイデンティティ』、『ボーン・シュプレマシー』)もこの三作目で完結。悪の黒幕は(やっぱり)CIAです。『羊たちの沈黙』でジョディ・フォスターの「理想の上司」ジャック・クロフォードを鮮やかに演じていたスコット・グレンが今回はワルモノCIA長官エズラ・クレイマーを演じます。この二人は説話的には「同一人物」と見なしてよろしいでしょう(コンプライアンスの感覚がちょっと麻痺しちゃったクロフォード捜査官が勇み足で「アメリカの敵はみんな暗殺」部隊の元締めになる・・・という流れはアメリカ的には「いかにもありそう」なことですから)。
それにしてもハリウッド映画は「アメリカの敵は(議会の承認抜きで、できれば大統領の承認も抜きで)みんな暗殺」しちゃう組織という設定が好きですね(『スウォードフィッシュ』の裏FBIもそうでした)。きっとこれはアメリカ人にとってのある種のダークな「夢」なんでしょう。
これらの映画群はそのようなワルモノ組織が最後に主人公の必死の戦いで破滅するという話型に落とし込むことによって、「アメリカ的正義のフリーハンドな実現」という幼児の欲望と「そういうことはしちゃダメなんですよ」という成人の抑制を同時に表現しているのです(たぶん)。
主人公のジェイソン・ボーン君は彼自身のうちに「殺人に快感を覚えるクレイジーな人格」と「殺人を否定するノーマルな人格」の二人を解離的な仕方で抱え込んでいます。この映画がアメリカで歴史的なヒット作になったのは、このボーン君の分裂のありようのうちに多くのアメリカ人が彼ら自身の分裂を感じ取ったからなのでしょう。
イニャリトゥ監督は『21グラム』(2003年)でショーン・ペン、ベネチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツというめちゃくちゃ濃い役者たちに思う存分演じさせるという「猛獣使い」の手際を見せた若き天才です。そのときは「名前が読めない!」(Iñárrituなんて読めませんよ)と「若い!」(1963年生まれ)にびっくりしました。次回作に熱く注目していたのですが、その期待にたがわぬ作品でした。
「バベル」というのは、ご存じの通り、旧約聖書に出てくる話です。昔、人々は同じ言葉を話していました。そして煉瓦を積み上げて、天まで届くような塔を建設し始めました。そのとき主が下ってきます。「彼らが皆、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようとしていることで、とどめられることはない。」そこで主は「彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにした」のです。
不思議な物語ですね。主は人間たちが互いに言葉を通じ合うことではなく、言葉が通じ合わないことを望まれた。でも、どうしてなんでしょう。聖書を読む限りでは、人間は互いに言葉が通じないことではじめて「人間らしく」なれると主が考えたからです。なるほど。そういうものかも知れません。
『バベル』では四つのエピソードが並行して描かれます。モロッコの山羊飼いの兄弟の物語、モロッコを旅する倦怠期の夫婦(ブラピとケイト・ブランシェット)の物語、サンディエゴに住むその夫婦の子どもたちとメキシコ人の乳母の物語、そして、山羊飼いの父親が買った猟銃のもともとの持ち主であった日本人(別所広司)とその聾唖の娘(菊池凛子)の物語。その四つの物語が因果の糸で絡み合います。
四つの物語に共通するのは、「言葉が通じない」(その国の言語が理解できない、電話が通じない、話が噛み合わない・・・などなどで「言いたいことがうまく伝わらない」)という状況です。けれども映画はそれを「克服すべき欠陥」として描き、最後に「みんな気持ちが通い合いました(ぱちぱち)」というハッピーエンドに落とし込むわけではありません。逆です。最後まで話はうまく通じない。でも、話が通じないからこそ、人間たちはその乗り越えがたい距離を隔てたまま、向き合い、見つめ合うことを止めることができません。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。
「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意思を含意しています。私たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。菊池凜子さんの切ないまなざしにはその思いが溢れておりました。
私は映画を見る前には映画評やプレス・リリースの類は眼に入れないようにしています(いやでも入ってきますけれど)。できるだけ予備知識のない状態で映画館のシートに座って、映画の中の出来事にびっくりしたいからです。
『トランスフォーマー』についてはスピルバーグがプロデューサーで、マイケル・ベイが監督のSF大作ということしか知らずに試写会に行きました。「情報が抜けている」点ではかなりベストに近い状態です。
だから、ほんとうにびっくりしました。
だって、「こんな映画」だとぜんぜん想像してなかったから・・・いやあ、びっくりしました。
さて、この映画をいったいどう形容したらいいんでしょうね。
やっぱり、ひとことで言うと「中学生映画」でしょうか。あわてて付け足しますけれど、これはぜんぜん悪い意味じゃないんですよ。映画というのはほんらい「中学生がてのひらに汗で濡れた百円玉を握りしめて、胸をどきどきさせながら駆けてゆくようなもの」であるべきだと私はいつも思っているんですから(私だってそうやって『眠狂四郎炎情剣』や『ニッポン無責任時代』を見たんですから)。
最初のうちだけ戦争映画っぽいんですけれど、すぐに映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的学園SFラブコメになります。主役を演じるシャイアくんはマイケル・J・フォックス的な「強いんだから弱いんだか、賢いんだかバカなんだかよくわかんない高校生キャラ」をたいへん楽しそうに演じております。
高校生の夢といったら、なんたって「車」と「彼女」ですね(『バック・トゥ』もそうでした)。今度の彼女(ミーガン・フォックス)はマイケルの彼女だったクローディア・ウェルズとちょっと似てます。車は、今回はデロリアンじゃなくて、カマロです。デロリアンがただのデロリアンじゃなかったように、こんどのカマロもただのカマロじゃありません。どう「ただじゃない」のかは映画を見てのお楽しみです。
この映画が「はじめてのスピルバーグ映画」という人でも十分に楽しめますけれど、スピルバーグを見て育ってきた世代は『グレムリン』や『ジュラシック・パーク』など過去の作品からの「引用」を探し出す楽しみがたっぷり「おまけ」に付いてます。
先月、同じクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』をこのコラムで取り上げました。その第二部を続けて取り上げることになります。それだけ重要な仕事をクリント・イーストウッドはこの二作を通じて成し遂げたということです。
「よいニュースと悪いニュースがある。どちらを先に聴きたいか?」と問いかける、という場面にハリウッド映画ではよくお目にかかります。「悪い方から」と答えるのが映画の定法ですから、ここも悪い方から。
「悪いニュース」はこの映画が日本ではなくアメリカのフィルムメーカーによって作られたということです。硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。にもかかわらず、日本には戦後60年間それだけの志と力量のあるフィルムメーカーが出てこなかった。
この映画の中で私たちは「天皇陛下万歳」と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまで見たどのような戦争映画でも、私はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、私はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのですから。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに、「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。
このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよろしい(私には想像できません)。
一方、「よいニュース」もあります。それは日本人であれアメリカ人であれ、誰が営んでも喪の儀礼は喪の儀礼として呪鎮の機能を果たすということです。戦後60年間、日本人のほとんどの記憶から忘れ去られようとしていた硫黄島の死者たちの霊はこの映画によって少なからぬ慰めを得たと私は思います。
大岡昇平は「死んだ兵士たちに」捧げたその『レイテ戦記』にこう書き記しています。「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである。」
『レイテ戦記』を読んだときに、この島の絶望的な防衛戦を映像的に再現することは不可能だろうと思いました。でも、『硫黄島からの手紙』を見て、おのれの短見を恥じました。クリント・イーストウッドはおそらく大岡昇平の名前を知らないでしょうけれど、大岡がレイテ島の死者たちのために採用した慰霊の語法については全幅の同意を示して、「私が硫黄島の死者たちのために用いたのはまさにそれなのです」と答えるはずです。
クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーである。もしかする未来の映画史には20-21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれない。なにしろ、『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ、『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ、『ハートブレーク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたのだから。
「スタイルを完成させた」というのは、これ以上洗練された映像をつくり出すことがほとんど不可能ということである。クリント・イーストウッドの映画について形容する言葉を一つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるだろう。
彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」。
俳優は説明的な演技を禁じられており、感情表現はできる限り抑制されている。画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされる。ライトは画面のすみずみまでに行き渡り、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りない。重要な台詞を語るときは、観客が耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出す程度に音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足りない」。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないものを見、聞こえない音を聴くように(それと気づかないうちに)誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の「創造」に参加させてしまう。
「洗練」とはこの「節度」と「参加」のことだと私は思う。
私たちが「洗練」を感じるのは、よけいなものをすべて削ぎ落としただけでなく、それが完成するために私たちのわずかな「参加」を控えめに求めるものについてである。それを享受するために私たちがささやかな「身銭を切る」ことによって、そこにはあるオリジナリティが加算される。クリント・イーストウッドの映画を見ている私たちはそれぞれに少しだけ違う「私だけの映画」を見ているのである。
だから、硫黄島の映画をクリント・イーストウッドが監督したということには必然性があると私は思う。なぜなら、私たちがもっとも「節度」と「参加」を求められるのは戦死者について物語るときだからである。
アメリカ人にはアメリカ人の戦争の物語があり、日本人には日本人の戦争の物語がある。そして、ひとりひとりのアメリカ人日本人にとっても、語り継ぐ戦争の物語はひとりひとり違っている。
死者の固有名は、その名を記憶しておきたいと強く念じる人間だけが記憶し、死者についての物語は、その物語を語り継ぐ決意を持つ人間がいるときだけ語り継がれる。死者ついて、「このように記憶せよ」「このように物語れ」と他者に強要する権利は誰にもない。その死の現場に立ち会ったものにさえ。
「戦死者を弔う」ための正しい服喪の儀礼があるとすれば、それはこの映画でクリント・イーストウッドが採用したような物静かで謙抑的な語法をもって語られる他にないだろう。クリント・イーストウッドが「戦争映画のスタイルを完成させた」というのはそのような意味においてである。
『トンマッコルへようこそ』を見ながら、「この映画、北の人たちは見る機会があるんだろうか?」とふと考えました。だって、どう見てもこれは「南から北へのラブコール」だからです。そうである以上、南からの声が北に届かないと話にならない。
現に、「南から北へのラブコール映画」というと、『シュリ』、『JSA』、『二重スパイ』、『ブラザーフッド』とすぐに指折り数えることができます。こういう映画を作り手たちが「北の人」は自分たちの作る映画を絶対に見ることができないと予想して製作しているとは考えられません。
ビデオデッキやDVDプレイヤーは北にだってあるし、TV電波だって北に届いている。ですから、いくら非合法とされていても、北には現に何万人か何十万人か熱心な韓国映画ウォッチャーがいると私は思います。もちろん、党中央や情報局や軍部では、韓国の状況をリサーチしている部門の「北の人」たちが、仕事としてこういう映画を全部チェックしている。「南北もの」を撮っている韓国のフィルムメーカーたちは、もしかするとそういう「北の人」をも観客に想定して映画を作っているんじゃないかしら、とふと私には思えたのです。
『トンマッコル』は今も臨戦状態にある同胞が、かつて南北に別れて殺し合いを演じていた時代を描いた作品です。そこに出てくる「北の人」をある種の人間的魅力とか尊厳を備えた人物として描くというのは、「南の人」にとってはかなり心理的には困難なことでしょう。でも、人民軍のリ・スファ中隊長(チョン・ジョエン)も、下士官のヨンヒ(イム・ハリョン)も、新兵のテッキ(リュ・ドックァン)も、いずれも深みのある人情味豊かな人物として造型されています。その一方で、南の連合軍は(韓国軍人もアメリカ軍兵士も)物語的にはトンマッコルを滅ぼす「敵役」を配役されている。そして、最終的には南北統一朝鮮が力を合わせて、壮絶な銃撃戦でアメリカを撃退することになります(トンマッコル仲間のアメリカ人スミス大尉も「君はここにいる人間ではない」と最後の戦いの場からは排除されます。アメリカと戦うのは純粋コリアン連合でなければならないからです)。
これは朝鮮労働党の幹部が見たって、ちょっと目頭が熱くなるエンディングでしょう。
そうか、『シュリ』以下一連の映画はこれすべて南北朝鮮統一の心理的地ならしのための映画なんだ、ということがすとんと腑に落ちました。
韓国軍の戦時統制権はいまもアメリカが握っています。それは「北と戦うときはアメリカが南の指揮を執る」ということです。この古典的なスキームを覆すに「南と北が連合してアメリカと戦う」というまったく新しい話型を以てしたことが、おそらく韓国内で800万人を動員して年間最大のヒットを記録した理由なのでしょう。
『トトロ』みたいに牧歌的なお話のつもりで見られてももちろん結構なんですけれど、朝鮮半島でこれからはじまる政治的激震の序曲である可能性も否めないと思って見ると、興味倍増の『トンマッコル』です。