<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>おとぼけ映画批評</title>
      <link>http://movie.tatsuru.com/</link>
      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Wed, 24 Oct 2007 22:31:03 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>ボーン・アルティメイタム</title>
         <description>『ボーン・アルティメイタム』（監督：ポール：グリーングラス、出演：マット・デイモン、デヴィッド・ストラザーン）

　トレイ・パーカーとマット・ストーンの『サウスパーク』はアメリカのあらゆる種類の「正しさ」を絨毯爆撃的に粉砕する痛快お下劣アニメですけれど、私は『サウス・パーク』を見るたびに「このようなものを日本で作ることは絶対に不可能だろうな」と思います。
アメリカ人はよその国に兵隊を送って、都市を焼き払い、非戦闘員を殺すようなことを大まじめに「正義と民主主義」の名においてやっておきながら、同時にそんなアメリカ人の暴力性と自己中心性を抉り出すようなブラックな物語を商業的に成功させるマーケットを持っています。アメリカの知性はタフだなあ・・・とつくづく感心します。
　殺人機械ジェイソン・ボーンの「自分探し」の旅をテーマにした『ボーン』シリーズ（『ボーン・アイデンティティ』、『ボーン・シュプレマシー』）もこの三作目で完結。悪の黒幕は（やっぱり）ＣＩＡです。『羊たちの沈黙』でジョディ・フォスターの「理想の上司」ジャック・クロフォードを鮮やかに演じていたスコット・グレンが今回はワルモノＣＩＡ長官エズラ・クレイマーを演じます。この二人は説話的には「同一人物」と見なしてよろしいでしょう（コンプライアンスの感覚がちょっと麻痺しちゃったクロフォード捜査官が勇み足で「アメリカの敵はみんな暗殺」部隊の元締めになる・・・という流れはアメリカ的には「いかにもありそう」なことですから）。
　それにしてもハリウッド映画は「アメリカの敵は（議会の承認抜きで、できれば大統領の承認も抜きで）みんな暗殺」しちゃう組織という設定が好きですね（『スウォードフィッシュ』の裏ＦＢＩもそうでした）。きっとこれはアメリカ人にとってのある種のダークな「夢」なんでしょう。
これらの映画群はそのようなワルモノ組織が最後に主人公の必死の戦いで破滅するという話型に落とし込むことによって、「アメリカ的正義のフリーハンドな実現」という幼児の欲望と「そういうことはしちゃダメなんですよ」という成人の抑制を同時に表現しているのです（たぶん）。
主人公のジェイソン・ボーン君は彼自身のうちに「殺人に快感を覚えるクレイジーな人格」と「殺人を否定するノーマルな人格」の二人を解離的な仕方で抱え込んでいます。この映画がアメリカで歴史的なヒット作になったのは、このボーン君の分裂のありようのうちに多くのアメリカ人が彼ら自身の分裂を感じ取ったからなのでしょう。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/24_2231.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/24_2231.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Oct 2007 22:31:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ヘアスプレー</title>
         <description>『ヘアスプレー』（監督：アダム・シャンクマン、出演：ジョン・トラヴォルタ、クリトファー・ウォーケン、ミシェル・ファイファー、ニッキー・ブロンスキー）
　ジョン・ウォーターズ師匠の（私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルムメイカーはこの世に小津安二郎とジョン・ウォーターズのお二人だけです）ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』（１９８８）のリメイクである（師匠はちゃんと本作にもカメオ出演されて「変態男」を楽しげに演じておられました）。
この二人の師匠のすごいところは「テーマなし、（ほとんど）ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから五秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところです。
『ヘアスプレー』はそのウォーターズ師匠が「ロケンロール大好きな子どもたち」に贈った二作品のうちの一つです（もう一つはジョニー・デップ主演の『クライ・ベイビー』。これも名作）。
この映画はアメリカでは赤ちゃんからお年寄りにまで広く深くに愛されました。だからこそ、この（ほとんどストーリーらしきもののない）映画がハリウッドスターを動員し、巨額の制作費を投じてリメイクされたのです。
映画はただ一つのことしか扱っていません。それは「ロケンロールへの愛」です。
ロケンロールは２０世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象でした。アメリカ人が１９４５年以後に肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて一つに結びついたたった一度だけの歴史的経験だったのです。だって、ブルースは黒人の音楽でしたし、カントリーは中西部の白人の音楽でしたし、ポップスは中産階級の音楽で、ラップは被抑圧階級の音楽だったからです。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り超え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのです。
そのような文化の「入会地」はもう２１世紀のアメリカ社会には存在しません。だから、アメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように天に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませながら回顧しているのです。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/24_2229.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/24_2229.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 24 Oct 2007 22:29:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>バベル</title>
         <description>バベル（監督・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ　出演・ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、役所広司、菊池凜子）

　イニャリトゥ監督は『２１グラム』（２００３年）でショーン・ペン、ベネチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツというめちゃくちゃ濃い役者たちに思う存分演じさせるという「猛獣使い」の手際を見せた若き天才です。そのときは「名前が読めない！」（Iñárrituなんて読めませんよ）と「若い！」（１９６３年生まれ）にびっくりしました。次回作に熱く注目していたのですが、その期待にたがわぬ作品でした。
　「バベル」というのは、ご存じの通り、旧約聖書に出てくる話です。昔、人々は同じ言葉を話していました。そして煉瓦を積み上げて、天まで届くような塔を建設し始めました。そのとき主が下ってきます。「彼らが皆、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようとしていることで、とどめられることはない。」そこで主は「彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにした」のです。
不思議な物語ですね。主は人間たちが互いに言葉を通じ合うことではなく、言葉が通じ合わないことを望まれた。でも、どうしてなんでしょう。聖書を読む限りでは、人間は互いに言葉が通じないことではじめて「人間らしく」なれると主が考えたからです。なるほど。そういうものかも知れません。
　『バベル』では四つのエピソードが並行して描かれます。モロッコの山羊飼いの兄弟の物語、モロッコを旅する倦怠期の夫婦（ブラピとケイト・ブランシェット）の物語、サンディエゴに住むその夫婦の子どもたちとメキシコ人の乳母の物語、そして、山羊飼いの父親が買った猟銃のもともとの持ち主であった日本人（別所広司）とその聾唖の娘（菊池凛子）の物語。その四つの物語が因果の糸で絡み合います。
四つの物語に共通するのは、「言葉が通じない」（その国の言語が理解できない、電話が通じない、話が噛み合わない・・・などなどで「言いたいことがうまく伝わらない」）という状況です。けれども映画はそれを「克服すべき欠陥」として描き、最後に「みんな気持ちが通い合いました（ぱちぱち）」というハッピーエンドに落とし込むわけではありません。逆です。最後まで話はうまく通じない。でも、話が通じないからこそ、人間たちはその乗り越えがたい距離を隔てたまま、向き合い、見つめ合うことを止めることができません。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。
「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意思を含意しています。私たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。菊池凜子さんの切ないまなざしにはその思いが溢れておりました。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1902.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1902.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 19:02:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>パッチギ！</title>
         <description>『パッチギ！Love &amp; Peace』 （監督・井筒和幸　出演・井坂俊哉、藤井隆、中村ゆり、風間杜夫）
　私たちは映画を見ているとき、必ず登場人物の一人に同一化します。そうしないと物語を愉悦することができないからです。そのとき同一化する相手は必ずしも外形的な条件が自分に似ている人間ではありません。『ドラゴン怒りの鉄拳』を見ているとき、私たちはブルース・リーに同一化して、彼が日本人の武道家たちを叩きのめす場面に拍手喝采を送ります。『父親たちの星条旗』ではアメリカの若者に同一化して、塹壕から襲ってくる日本軍兵士に恐怖を抱きます。私たちが帰属していると信じているナショナリティはごく脆弱な根拠しか持っていない。そのことを私たちは物語を享受する経験から学びます。深く身体にしみつているはずの国民性や愛国心は同一化の対象を変えるだけで簡単に逆転してしまう。それほどに脆いものなのです。その脆さを知るからこそナショナリストは声を荒げて、暴力的な対立の既成事実を積み重ねようとします。でも、この民族を隔てる「壁の薄さ」のうちに共生の希望もまた棲まっています。
『パッチギ！Love and Peace』を見ている日本人観客はアンソンとキョンジャの兄妹（井坂俊哉、中村ゆり）に同一化し、彼らに深く感情移入し、差別にさらされる在日コリアンとして日本社会を眺めることになります。彼らの眼を通して見られる日本人の自画像はときに私たちの知らない異様な相貌を示します。けれども、井筒監督はそれを「差別的な日本人は醜い（あるいは日本人は差別的で醜い）」という単純な物語に落とし込むことを自制します。映画はただ淡々と頁をめくるように差別と宥和の諸相を詳細に描いてゆきます。親和的な表情の下に隠れた差別意識の醜さを、私たちは若手俳優（西島秀俊）のふるまいを通じて知らされます。その一方で差別主義者の高校生や警官と戦う元鉄道員の佐藤くん（藤井隆）はコリアンたちに仲間として受け容れられます。前作で松本くん（塩谷瞬）が演じていた京都のフォーク高校生と同じく、二つの民族を「架橋する」のが彼の仕事です。
日本人と在日コリアンの間には親疎のグラデーションがあり、私たちは一人一人そのどこかに位置づけられています。映画の中で言及されるとおり、力道山はコリアンでしたが、日本人にとっての国民的英雄でもありました。美空ひばりも張本勲もそうでした。在日コリアン抜きに戦後の日本社会も日本文化もありえません。それほどにこの二つの集団は「壁」を超えて深く絡み合っており、これを切り分けることはもう不可能です。松本くんや佐藤くんが担ったような、ナショナリズムを武装解除し、共生的な社会を構築する仕事は、「隣人」の体温や息づかいを自分の生身に感じ取るところからしか始まりません。そして、まさに映画こそはそれを可能にする特権的な経験であることを井筒監督は教えてくれます。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1901.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1901.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 19:01:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>殯の森</title>
         <description>『殯の森』（監督：河瀬直美　出演：うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子）
　カンヌ映画祭は「作家性の強いフィルムメーカー」評価します。ですから、本作がカンヌでグランプリを取ったというのは、その作家性が評価されたということを意味します。でも、「作家性が強い」というのは具体的にはどういうことなのか、映画を見ながらしばらく考えました。
そして、山下洋輔さんがエッセイにフリー・ジャズのアルバート・アイラーの日本公演について書いていていたことを思い出しました。アイラーが舞台に出て来て、ひとりでサックスをごうごうと吹き出す。ひとりぶうぶう吹き続ける。誰がなんといってもオレは止めないよというアイラーの決意がびしびし伝わってくる。それを聴いた山下さんは「うん、そうか。キミはそういうことがやりたかったのか」と不意にすとんと腑に落ちた・・・と書かれていたように記憶しています（うろ覚えですみません。探したんですけれど、本がみつからなくて）。
たぶん作家性というのは「そういうこと」だと思うのです。
つまり、オーディエンスがどう受け取るかということとは（とりあえず）無関係に、「私はこうしたい」ということが先方にはきっぱりとある。こういう決意溢れるものに対しては、相手が「やりたいこと」をやり終わって「はい、終わりました」と宣言するまでは、黙って身を委ねる、というのが受け手のあるべき態度ではないかと私は思います。
その種の作品に対峙するとき、観客は自分の好みとか批評的基準とかいうものを一時的に「かっこに入れる」必要があります。とりあえずしばらくの間は、作家の呼吸や脈動にできるだけ同化するように努力する。だって、そうする以外に作品の「中」に入る手だてがないからです。「作家性のつよい作品」というのはそういうしかたで観客に「身銭を切る」ことを要求する。そういうものだと思います。
本作も作家の息づかいや脈拍に同調することが観客には求められます。というか、観客に求められているのはほとんど「それだけ」なんです。映画のリズムと合わせて呼吸しているうちに、だんだん意識がぼんやり霞んできて、足元が崩れるように「あやかし」の世界に沈み込んでゆきます。この甘美な墜落感は間違いなく天才的な作家だけが作り出せるものでしょう。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1859.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1859.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 18:59:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>トランスフォーマー</title>
         <description>『トランスフォーマー』（監督：マイケル・ベイ、出演：シャイア・ラブーフ、ミーガン・フォックス、ジョン・タトゥーロ、ジョン・ヴォイド）

　私は映画を見る前には映画評やプレス・リリースの類は眼に入れないようにしています（いやでも入ってきますけれど）。できるだけ予備知識のない状態で映画館のシートに座って、映画の中の出来事にびっくりしたいからです。
『トランスフォーマー』についてはスピルバーグがプロデューサーで、マイケル・ベイが監督のＳＦ大作ということしか知らずに試写会に行きました。「情報が抜けている」点ではかなりベストに近い状態です。
だから、ほんとうにびっくりしました。
だって、「こんな映画」だとぜんぜん想像してなかったから・・・いやあ、びっくりしました。
さて、この映画をいったいどう形容したらいいんでしょうね。
やっぱり、ひとことで言うと「中学生映画」でしょうか。あわてて付け足しますけれど、これはぜんぜん悪い意味じゃないんですよ。映画というのはほんらい「中学生がてのひらに汗で濡れた百円玉を握りしめて、胸をどきどきさせながら駆けてゆくようなもの」であるべきだと私はいつも思っているんですから（私だってそうやって『眠狂四郎炎情剣』や『ニッポン無責任時代』を見たんですから）。
最初のうちだけ戦争映画っぽいんですけれど、すぐに映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的学園ＳＦラブコメになります。主役を演じるシャイアくんはマイケル・Ｊ・フォックス的な「強いんだから弱いんだか、賢いんだかバカなんだかよくわかんない高校生キャラ」をたいへん楽しそうに演じております。
高校生の夢といったら、なんたって「車」と「彼女」ですね（『バック・トゥ』もそうでした）。今度の彼女（ミーガン・フォックス）はマイケルの彼女だったクローディア・ウェルズとちょっと似てます。車は、今回はデロリアンじゃなくて、カマロです。デロリアンがただのデロリアンじゃなかったように、こんどのカマロもただのカマロじゃありません。どう「ただじゃない」のかは映画を見てのお楽しみです。
この映画が「はじめてのスピルバーグ映画」という人でも十分に楽しめますけれど、スピルバーグを見て育ってきた世代は『グレムリン』や『ジュラシック・パーク』など過去の作品からの「引用」を探し出す楽しみがたっぷり「おまけ」に付いてます。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1858.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1858.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 18:58:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>グラインドハウス</title>
         <description>グラインドハウス（監督：クェンティン・タランティーノ＆ロバート・ロドリゲス、出演：カート・ラッセル、フレディ・ロドリゲス、ローズ・マッゴーワン、シドニー・タミーア・ポワチエ）
　『グラインド・ハウス』はタラちゃん＆ロドちゃんの「中坊映画マニア」二人が、子どもの頃に百円玉（ニッケル玉かな）を握りしめて通った場末の映画館で垂れ流し的に上映されたＢ級Ｃ級バカ映画を再現しようとした「雰囲気映画」です（もっともロドちゃんは年がまだ若く、彼が映画を見始めた頃にはもうそういう場末の映画館は姿を消していたので、タラちゃんからさんざんその魅惑について聞かされただけのようですが）。
もともと二本立て（プラス予告編三本）の予定でしたが、調子に乗って撮影しているうちに一本ずつが長尺になりすぎて（二時間近くあるんです）、こんな長い映画を続けて上映したら、ロードショー館では客の回転が悪くてぜんぜん儲からない・・・ということで、『プラネット・テラー』（ロドちゃん）と『デス・プルーフ』（タラちゃん）それぞれ独立した作品として上映されることになりました。切ないですね。オリジナルの雰囲気をぜひ経験したいという人には場末の映画館で「二本立て」になったころを見計らって見に行くことをお勧めします（いつになるかわかりませんけど）。
さて、映画の中身ですが、これはもう「極上中坊映画」と言えば十分おわかり頂けるでしょう（銃がばんばん、車がびゅんびゅん、人がばらばら）。
ロドちゃんのゾンビー映画『プラネット・テラー』はノンストップの疾走感がすばらしいです。とくに身体破壊シーンはおそらく映画史上最高の「ありえね～」度を達成しています。タラちゃんのカー・クラッシュ映画『デス・プルーフ』は彼の「指紋」とでもいうべき「自動車の中（あるいはバーのカウンター）でまるで無意味な話を延々とする人たち」で汗牛充棟。「なんだよこれは・・・」と観客が切れかける直前で話が急転直下、いきなり死人の山という結構も『レザボア・ドッグス』、『パルプ・フィクション』、『キル・ビル』とそっくりですが、今度の「むだばなし」のひっぱり方はちょっと尋常じゃないです。今回「むだばなし」は可愛い女の子たち８人が順番に担当します。この８人の中で、個人的な趣味を言ってもよいなら、僕は“ジャングル・ジュリア”のシドニー・タミーア・ポワチエ（私らの世代にとっては彼女の母ジョアンナ・シムカスは天使のような存在でした）より“バタフライ”の猫眼少女（ヴァネッサ・フェルリト）が気に入りました。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1855.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1855.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 18:55:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ヘアスプレー</title>
         <description>『ヘアスプレー』（監督：アダム・シャンクマン、出演：ジョン・トラヴォルタ、クリトファー・ウォーケン、ミシェル・ファイファー、ニッキー・ブロンスキー）
　ジョン・ウォーターズ師匠の（私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルムメイカーはこの世に小津安二郎とジョン・ウォーターズのお二人だけである）ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』（１９８８）のリメイクである（師匠はちゃんと本作にもカメオ出演されて「変態男」を楽しげに演じておられた）。
この二人の師匠のすごいところは「テーマなし、（ほとんど）ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから五秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところである。
　『ヘアスプレー』はそのウォーターズ師匠が「ロケンロール大好きな子どもたち」に贈った二作品のうちの一つである（もう一つはジョニー・デップ主演の『クライ・ベイビー』。これも名作だぞ）。
この映画はアメリカでは赤ちゃんからお年寄りにまで広く深くに愛された。だからこそ、この（ほとんどストーリーらしきもののない）映画がハリウッドスターを動員し、巨額の制作費を投じてリメイクされたのである。
映画はただ一つのことしか扱っていない。それは「ロケンロールへの愛」である。
ロケンロールは２０世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象である。それはアメリカ人が１９４５年以後に肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて一つに結びついたたった一度だけの歴史的経験だった。だって、ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは被抑圧階級の音楽であったからだ。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り超え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのである。
そのような文化の「入会地」はもう２１世紀のアメリカ社会には存在しない。だから、アメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように天に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませながら回顧しているのである。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1854.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/10/03_1854.html</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 18:54:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『パフューム』</title>
         <description>監督：トム・ティクヴァ、出演：ベン・ウィショー、レイチェル・ハード＝ウッド、アラン・リックマン、ダスティン・ホフマン
　
私は「これまで誰もやったことがないこと」を映画で実現したフィルムメーカーにはつねに高い評価を与えることにしています。『パフューム』は「これまで誰も映画ではやったことがないこと」を実現しました。
それは「匂いを映画の主題にすること」です。
　映画は視覚と聴覚にしか訴えることができませんから、原理的には「匂い」を映画で伝えることは不可能です。では、トム・ティクヴァ監督はどうやって「匂い」を観客に感じさせたのでしょう。
一つは「手触り」を通じて。
主人公のグルヌイユ（ベン・ウィショー、若い頃のピエール・クレマンティにそっくり、素晴らしい）の両手が若い娘の素肌をゆっくり、舐めるように撫でさすって、掌に掬った水を味わうように、鼻孔に近づけ、鼻孔が画面一杯にアップになる場面があります。「ライムとオレンジとローズマリーとグローブを混ぜた匂い」なんて台詞で言われても、どんな匂いが素人には想像もつきませんが、若い女性の素肌の手触りとそこからたちのぼる芳香なら、記憶を総動員すれば、近似的な経験はできないことはありません。
『パフューム』はそんなふうに、観客自身が自分の感覚記憶のアーカイヴを探って、「身銭を切って」映画に踏み込んでゆかないと、映画のもたらす愉悦を十全には享受できないように仕掛けられています。
それともう一つ、「匂い」を映像的に示す効果的な方法があります。
「風」です。
映画では「匂いが立つ」という場面で何度かハンカチが用いられています。ハンカチを空に泳がせる。布の揺れが「空気の流れ」を表す。「風下」にいる人間の鼻孔がぴくりと動く。すると、そこに「匂いが立った」ということが映画的に表象される。この技法は調香師バルディーニ（ダスティン・ホフマン、快演）が映画の前半でたっぷり演じて「地ならし」をしておき、クライマックスシーンで、グルヌイユが壮大なスケールで再演します。
このクライマックスの「芳香になぎ倒されて、愛を感じる人々」のシーンはおそらく映画史上に残る名場面でしょう。パゾリーニやフェリーニが（草葉の陰から）この映画を見たら「ああ、私もこれがやりたかった！」と悔しがるに違いありません。
「パゾリーニとフェリーニが悔しがりそうな場面のある映画」というだけで必見でしょう、これは。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2007/02/06_0957.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2007/02/06_0957.html</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 06 Feb 2007 09:57:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>冬のソナタ再論</title>
         <description>ＢＳＪ（ペ・ヨンジュン・サポーターズ・イン・ジャパン）主宰の第一回日本ヨンヨン学会が京都キャンパスプラザで開催され、私はその栄えある第一回の特別講演を承ることとなった。
熱気あふれる会場は男性二名（私ともうひとりスタッフのご夫君）以外は全員女性である。
まず開会の挨拶「アンニョンハシムニカ！」を全員で唱和。
遠路東京からご参加のお二人に「ヨンヨン巡礼者」の称号、参加最年長者には「本日の最高尚宮（チェゴサングン）さま」の称号が授与される。
さっそく学会発表が始まる。
発表は三件。
「ヨンジュン・カジョク九類型分類」「冬ソナ一期生の愛と涙の日々」「冬ソナサイドストーリーの世界的展開」
私はすでに日本フランス語フランス文学会、日仏哲学会、日本映像学会のすべてをオサラバしてしまった身である。（いま会員名簿に名前が残っているのは日本ユダヤ学会のみ）
どの学会に行っても私を聴き手に想定している発表に出会うことがないからである。
私が何の興味も持てない主題について、さっぱり理解できないジャルゴンで語られているのを座って聴くのは純粋な消耗である。
行っても仕方がないので、次々と学会をやめてしまった。
だから、学会発表を聴いて、膝を打って納得し、腹を抱えて笑ったというのはほんとうにひさしぶりのことである。
私はこれほど批評性とユーモアの感覚に横溢したプレゼンテーションを久しく見た覚えがない。
ここには知的威信を得ようとか、他人の学説を貶めようとか、博識をひけらかそうとか、そういう「さもしい」モチベーションがまったくない。
全員が「ひとりひとりのペ・ヨンジュン経験からどのようにして最大の快楽を引き出しうるか」ということに知性的・情緒的リソースのありたけを投じているのである。
純粋である。
学術というものはこうでなければなるまい。
発表のあと、私が１時間ほどの講演を行う。
『冬ソナ』を「死者をいかにして死なせるか」という「死者とのコミュニケーション論」を軸に解析する試みである。
あまり知られていないことだが（私が昨日思いついたのだから）、『冬ソナ』は複式夢幻能と同一の劇的構成を持っている。
ワキ方がいわくありげな場所で「影の国から来た」人物（前シテ）と出会う。
そして、あるキーワードで物語が始まる。
「なぜ、あなたは他の人のように立ち去ることをせずに、ここにとどまっているのか？」
それは言い換えると「あなたはなぜ死者の国から戻ってきたのか？」ということである。
その問いに応えて、シテは「では、ほんとうのことをお話ししましょう」と予告して橋がかりから去ってゆく（ここで中入り）。
そしてワキの待謡に応じて、後ジテが「一声」とともに舞台に再登場する。
装束を改め面をつけて「別人」となった後ジテがそのトラウマ的経験のすべてをワキ方を聴き手に再構成してゆく。
そして、彼の「死」にまつわるすべてを語り終えたときに、「あと弔ひて給び賜え」と告げて亡霊は冥界へ去ってゆくのである。
『冬ソナ』において「前シテ」は「ミニョン」であり、「後ジテ」は「チュンサン」である。
ワキは「ユジン」である。
ユジンが初雪のソウルの街角でミニョンに出会うときから夢幻能は始まる。
中入りはミニョンの二度目の交通事故である。
そして、記憶を回復したチュンサンが病床からかすれ声で呼びかける「ユジナ」が後ジテの「一声」なのである。
このひとことを転轍点にして、物語は劇的展開を遂げることになる。
ワキを導き手に後ジテは「自分が何ものであるのか」を探って、「トラウマの物語（チュンサンはなぜ死んだのか？）を再構成する分析的な旅に出発する。
そして、後ジテは彼を殺したのが「母」であること、彼を棄てたのが「父」であること、そしてユジン以外のすべての知人友人がチュンサンの死（とミニョンとしての再生）を願っていたことを知る。
チュンサンが死なないことを望んでいたのはこの世界にユジンしかいなかったのである。
彼女だけが「正しい服喪者」であった。
それはユジンがチュンサンに関するすべてを記憶しているだけでなく、彼の死後も「チュンサンに訊きたいたいこと」があったからである。
「大晦日の夜に、あなたは私に何を言うつもりだったの？」
チュンチョンのクリスマスツリーの前で、缶コーヒーを手に戻ってきたユジンに背中を向けたまま、チュンサンが「言いたかった言葉を思い出したよ」と告げる場面で私は繰り返し号泣したのであるが、その理由がやっとわかった。
あの瞬間に、服喪者と死者のあいだの通信ラインが繋がったのである。
死者の声が服喪者に届き、「喪の儀礼」がそのピークを迎えた場面に立ち会って、私の心身の古層にわだかまっていた「人間が人間になる瞬間」の感動が蘇って、私は涙ぐんだのである。
正しい儀礼をすれば、私たちは死者からのメッセージを過たず聴くことができる。
繰り返し書いているように、そう信じたことで人類の始祖は他の霊長類と分岐した。
だからこの場面で私たちは「人間性の起点標識が立ち上がった」そのときの感動を追体験しているのである。
正しい儀礼とは死者と言葉を交わすことができると信じることである。
そのとき死者たちは彼らだけの世界に立ち去る。
死者とはもう言葉を交わすことができないと思うと、死者はこの世界にとどまって、さまざまな災禍をなす。
だから、正しい服喪者は死者に向かって「あなたは何をしたかったのですか？」と問いかける。
その問いには原理的に答えがない。
だから、問いかけは必ずやエンドレスのものになる。
それでよいのである。
私たちが死者に問いかけ続け、死者からの応答を待ち続けるとき、ようやく死者は立ち去るのである。
死者に問うことを止め、死者はもう何も語らない（なぜなら死者が何を語るのかを私は知っているから）と宣告すると、死者は立ち去ることができず「死者の国」から戻ってくる。
チュンサンが「影の国」から帰ってきたのは、ユジン以外の全員が喪の儀礼を誤ったせいである。
だから、チュンサン＝ミニョンは「幽霊」として戻ってきたのである。
『冬ソナ』はこの「幽霊」がユジンの導きで「成仏」するまでの物語である。
「あなたは何をしたかったの？」とワキが問いかけ、「私はなぜここに戻ってきたのか？」と後ジテは問い返す。
この問答は、「私は死んでいるのだが、正しい服喪の儀礼を経験していないせいで、まだ死にきっていないのだ」という答えを死者自身が見出すまで続けられる。
死者自身が「私は『私はもう死んでいる』という言葉をあなたに伝えるために戻ってきたのだ」という言葉を発見したときに喪の儀礼は終わるのである。
死者自身が自分の死を認めない限り、物語は終わらない。
チュンサンが冬の海ですべての思い出を海に棄てるところで、「トラウマ的記憶の再構成」という分析的行程は完了する。
それ以降のエピソードは物語的には不要のものである。
もうどのような人為もチュンサンを生者の世界に引き戻すことはできないからである。
だから、物語の最後でふたりが出会う海辺の家の風景は、あれは「影の国＝死者の国」でチュンサンが見ている「夢」なのである。
けれどもここに至る長い物語なしには、チュンサンはあの「夢」を見ることができなかった。
チュンサン＝ミニョンはユジンの服喪儀礼によってようやくあの夢を見る権利を手に入れたのである。
という話をする。
会場のペ・ヨンジュン・カジョクのみなさんは「チュンサンは死者である」という大胆な仮説にがっくりと肩を落として、ずいぶん心を痛めておられた。
ごめんね。イジワルな分析で。
それからＢＳＪのスタッフの方々と打ち上げ。
ペ・ヨンジュン・ファン活動というまったく新しい生活思想的な（と申し上げてよいであろう）運動が２１世紀の日本にどうして生まれたのか、それは私たちの社会をどこへ導くことになるのかをめぐって熱く語り合う。
果たしてペ・ヨンジュンは私たちをどこへ連れて行くのであろうか？</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1943.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1943.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:43:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>カジノ・ロワイヤル</title>
         <description>寒空の下三宮まで出て、『カジノ・ロワイヤル』を見る。
先週から始まった「００７全巻制覇の旅」は順調に続いている（一日１本ペースでこれまで８本見た。でも、まだあと１２本・・・）。
ジェームズ・ボンド役はご案内の通り初代ショーン・コネリーから始まって、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンと続いて、今回が六代目ダニエル・クレイグ。
私の採点ではベストは『ドクター・ノウ』のショーン・コネリー。
日本公開当時（１９６３）のタイトルは『００７は殺しの番号』。
私は中学校１年生。
文藝春秋の映画評の欄で、ベレッタを擬しているショーン・コネリーのスチールを見て「があん」と来たのを覚えている。
中坊が掌の汗でじっとり湿った百円玉を握りしめてそのまま映画館まで走ってゆきたくなるような映画であった。
このときのショーン・コネリーのベストショットは総督の中国人秘書（ドクター・ノウの手下）の色仕掛けに応じてキスしながら腕時計を見るときの冷たい眼と、「Ｓ＆Ｗは６発しか撃てないんだぜ」と言いながら、デント教授をサイレンサー付きのベレッタで一発で射殺してから、サイレンサーをはずして「ふっ」と煙を吹くところ。
原作者イアン・フレミングは映画化に際してジェームズ・ボンド役にケイリー・グラントを希望していた。
プロデューサーのアルバート・ブロッコリがショーン・コネリーを選んだときには「洗練が足りない」と言って渋ったそうである。
たぶん、ショーン・コネリー自身もそのことは聞いていたはずである。
だから、最初の二作におけるショーン・コネリーの演技には微妙な「ケイリー・グラントっぽさ」がある（『ゴールド・フィンガー』以降にはもう見られない）。
無意識のうちにイアン・フレミングの「好み」を意識していたのかも知れない（実際にイアン・フレミングは映画を見てコネリーに対する評価を一変させた）。
私はこの「ケイリー・グラントっぽいショーン・コネリー」のジェームズ・ボンドがたいへん気に入っているのである。
このキャラクター設定の成功が以後のシリーズの長期化を確定したはずである。
ジョージ・レーゼンビーとティモシー・ダルトンには「ケイリー・グラント」風味がない。
ロジャー・ムーアとピアース・ブロスナンは「ケイリー・グラントの軽み」はあるけれど、「ケイリー・グラントの非人情」がない。
ケイリー・グラントはショーン・コネリーと同じくイギリスの労働者階級の出で、十代からサーカスの芸人をしていた苦労人だけれど、不思議な上品さと退廃を感じさせる。
それはとってつけたものではなく、ケイリー・グラントが生まれ持ったある種の「オーラ」のようなものではないかと思う。
メイ・ウェストがブロードウェイの舞台に出ていたこの無名の青年を抜擢したのも、それを感知したからだろう。
ジェームズ・ギャッツ少年がダン・コーディに出会ってジェイ・ギャツビーになったように、アーチボルド・アレクサンダー・リーチ少年はメイ・ウェストに出会ってケイリー・グラントになったのである。
だから、『グレード・ギャツビー』を３０代のときのケイリー・グラントが演じたら「完璧な映画」になったかも知れない。
話を戻すと、(最初の二作品における)ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが卓越しているのは、無意識のうちにケイリー・グラントの軽さと非人情の芸風を「本歌取り」しようとしていたからである。
と私は考える。
『カジノ・ロワイヤル』は映画としては大変に面白い。
中だるみがまったくない（ほとんど神経症的な）「ジェットコースター・アクション・ムーヴィ」である。
でも、ダニエル・クレイグをジェームズ・ボンドに見立てるのはどうやっても無理である。
ダニエル・クレイグは顔の右半分はわりといいのだけれど、左半分が悪相である。
たぶんこのアンバランスをプロデューサーは「ジェームズ・ボンドの複雑な内面」を記号的に示す利点と理解したのであろうが、ジェームズ・ボンドの複雑な内面はそういうものではない。
ジェームズ・ボンドの残忍さと邪悪さは、ケイリー・グラントが『疑惑』のラストシーンで毒入りミルクを持って階段を上るときの、あのブラックホールのような無表情によって示すべきなのだ。
私が今もしジェームズ・ボンド役をキャスティングするとしたら、誰を選ぶだろう。
むずかしいなあ。
やっぱジョニー・デップかな。
ただしこのボンドはミス・マネーペニーから「ジェームズ、あなたどこにいるの？探し回ったわよ」という電話がかかってきたとき、阿片を吸飲してラリっている。</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1933.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1933.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:33:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>硫黄島からの手紙</title>
         <description>（監督：クリント・イーストウッド、出演：渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、中村獅童）

　先月、同じクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』をこのコラムで取り上げました。その第二部を続けて取り上げることになります。それだけ重要な仕事をクリント・イーストウッドはこの二作を通じて成し遂げたということです。
　「よいニュースと悪いニュースがある。どちらを先に聴きたいか？」と問いかける、という場面にハリウッド映画ではよくお目にかかります。「悪い方から」と答えるのが映画の定法ですから、ここも悪い方から。
「悪いニュース」はこの映画が日本ではなくアメリカのフィルムメーカーによって作られたということです。硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。にもかかわらず、日本には戦後６０年間それだけの志と力量のあるフィルムメーカーが出てこなかった。
この映画の中で私たちは「天皇陛下万歳」と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまで見たどのような戦争映画でも、私はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、私はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのですから。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに、「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。
このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよろしい（私には想像できません）。
一方、「よいニュース」もあります。それは日本人であれアメリカ人であれ、誰が営んでも喪の儀礼は喪の儀礼として呪鎮の機能を果たすということです。戦後60年間、日本人のほとんどの記憶から忘れ去られようとしていた硫黄島の死者たちの霊はこの映画によって少なからぬ慰めを得たと私は思います。
大岡昇平は「死んだ兵士たちに」捧げたその『レイテ戦記』にこう書き記しています。「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである。」
『レイテ戦記』を読んだときに、この島の絶望的な防衛戦を映像的に再現することは不可能だろうと思いました。でも、『硫黄島からの手紙』を見て、おのれの短見を恥じました。クリント・イーストウッドはおそらく大岡昇平の名前を知らないでしょうけれど、大岡がレイテ島の死者たちのために採用した慰霊の語法については全幅の同意を示して、「私が硫黄島の死者たちのために用いたのはまさにそれなのです」と答えるはずです。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1930.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1930.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:30:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「父親たちの星条旗」</title>
         <description>（監督：クリント・イーストウッド、出演：ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ、バリー・ペッパー）

　クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーである。もしかする未来の映画史には２０－２１世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれない。なにしろ、『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ、『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ、『ハートブレーク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたのだから。
「スタイルを完成させた」というのは、これ以上洗練された映像をつくり出すことがほとんど不可能ということである。クリント・イーストウッドの映画について形容する言葉を一つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるだろう。
彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」。
俳優は説明的な演技を禁じられており、感情表現はできる限り抑制されている。画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされる。ライトは画面のすみずみまでに行き渡り、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りない。重要な台詞を語るときは、観客が耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出す程度に音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足りない」。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないものを見、聞こえない音を聴くように（それと気づかないうちに）誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の「創造」に参加させてしまう。
「洗練」とはこの｢節度｣と「参加」のことだと私は思う。
私たちが「洗練」を感じるのは、よけいなものをすべて削ぎ落としただけでなく、それが完成するために私たちのわずかな「参加」を控えめに求めるものについてである。それを享受するために私たちがささやかな「身銭を切る」ことによって、そこにはあるオリジナリティが加算される。クリント・イーストウッドの映画を見ている私たちはそれぞれに少しだけ違う「私だけの映画」を見ているのである。
だから、硫黄島の映画をクリント・イーストウッドが監督したということには必然性があると私は思う。なぜなら、私たちがもっとも「節度」と「参加」を求められるのは戦死者について物語るときだからである。
アメリカ人にはアメリカ人の戦争の物語があり、日本人には日本人の戦争の物語がある。そして、ひとりひとりのアメリカ人日本人にとっても、語り継ぐ戦争の物語はひとりひとり違っている。
死者の固有名は、その名を記憶しておきたいと強く念じる人間だけが記憶し、死者についての物語は、その物語を語り継ぐ決意を持つ人間がいるときだけ語り継がれる。死者ついて、「このように記憶せよ」「このように物語れ」と他者に強要する権利は誰にもない。その死の現場に立ち会ったものにさえ。
「戦死者を弔う」ための正しい服喪の儀礼があるとすれば、それはこの映画でクリント・イーストウッドが採用したような物静かで謙抑的な語法をもって語られる他にないだろう。クリント・イーストウッドが「戦争映画のスタイルを完成させた」というのはそのような意味においてである。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1929.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1929.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:29:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『トンマッコルへようこそ』</title>
         <description>（監督・パク・クァンヒョン、出演：シン・ハギュン、チョン・ジョエン、カン・ヘジョン）

　『トンマッコルへようこそ』を見ながら、「この映画、北の人たちは見る機会があるんだろうか？」とふと考えました。だって、どう見てもこれは「南から北へのラブコール」だからです。そうである以上、南からの声が北に届かないと話にならない。
現に、「南から北へのラブコール映画」というと、『シュリ』、『JSA』、『二重スパイ』、『ブラザーフッド』とすぐに指折り数えることができます。こういう映画を作り手たちが「北の人」は自分たちの作る映画を絶対に見ることができないと予想して製作しているとは考えられません。
ビデオデッキやDVDプレイヤーは北にだってあるし、TV電波だって北に届いている。ですから、いくら非合法とされていても、北には現に何万人か何十万人か熱心な韓国映画ウォッチャーがいると私は思います。もちろん、党中央や情報局や軍部では、韓国の状況をリサーチしている部門の「北の人」たちが、仕事としてこういう映画を全部チェックしている。「南北もの」を撮っている韓国のフィルムメーカーたちは、もしかするとそういう「北の人」をも観客に想定して映画を作っているんじゃないかしら、とふと私には思えたのです。
『トンマッコル』は今も臨戦状態にある同胞が、かつて南北に別れて殺し合いを演じていた時代を描いた作品です。そこに出てくる「北の人」をある種の人間的魅力とか尊厳を備えた人物として描くというのは、「南の人」にとってはかなり心理的には困難なことでしょう。でも、人民軍のリ・スファ中隊長（チョン・ジョエン）も、下士官のヨンヒ（イム・ハリョン）も、新兵のテッキ（リュ・ドックァン）も、いずれも深みのある人情味豊かな人物として造型されています。その一方で、南の連合軍は（韓国軍人もアメリカ軍兵士も）物語的にはトンマッコルを滅ぼす「敵役」を配役されている。そして、最終的には南北統一朝鮮が力を合わせて、壮絶な銃撃戦でアメリカを撃退することになります（トンマッコル仲間のアメリカ人スミス大尉も「君はここにいる人間ではない」と最後の戦いの場からは排除されます。アメリカと戦うのは純粋コリアン連合でなければならないからです）。
これは朝鮮労働党の幹部が見たって、ちょっと目頭が熱くなるエンディングでしょう。
そうか、『シュリ』以下一連の映画はこれすべて南北朝鮮統一の心理的地ならしのための映画なんだ、ということがすとんと腑に落ちました。
韓国軍の戦時統制権はいまもアメリカが握っています。それは「北と戦うときはアメリカが南の指揮を執る」ということです。この古典的なスキームを覆すに「南と北が連合してアメリカと戦う」というまったく新しい話型を以てしたことが、おそらく韓国内で８００万人を動員して年間最大のヒットを記録した理由なのでしょう。
『トトロ』みたいに牧歌的なお話のつもりで見られてももちろん結構なんですけれど、朝鮮半島でこれからはじまる政治的激震の序曲である可能性も否めないと思って見ると、興味倍増の『トンマッコル』です。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1928.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1928.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:28:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ザ・フォッグ</title>
         <description>(監督：ルパート・ウェインライト、出演：トム・ウェリング、マギー・グレイス、セルマ・ブレア)

　夏はホラー。加えて、『ザ・フォッグ』の舞台はオレゴン州の港町。船と海の話ですから、暑気払いにはぴったりです。オリジナル版（８０年）の監督脚本ジョン・カーペンター自身がこの作品のプロデュースにも参加。だから、お話はまったく同じです。
同じ話が二度映画化される場合、そこにはそのような「話型」に対する国民的欲求があると推論することができます。現に、アメリカでは公開第一週で第一位をゲットしました。でも、こんなことを申し上げるのは失礼なんですけれど、よくあるふつうの幽霊船話なんです。だとしたら、『ザ・フォッグ』のどのあたりがアメリカの観客たちの琴線に触れたんでしょう？
釣り船屋のニック（トム・ウェリング。脱力的好演。ホラーの場合、主人公があまり賢いと事件は未然に防がれちゃうので、適度にボンクラ）は島の子持ち美人ＤＪのスティーヴィー（セルマ・ブレア。貫禄）といい仲ですけど、そこに元カノ、エリザベス（マギー・グレイス。ＴＶシリーズの『ロスト』では性格の悪い女を演じていましたが、この映画でもやっぱり性格悪そう。地なのかも）がニューヨーク戻ってきて「焼けぼっくいに火」となります。そんな折に、１９世紀末にアントニオベイの創設者たち（ニックもエリザベスもその子孫）がその財宝を奪って殺した死人たちが昔年の恨みを晴らすべく、霧に乗って帰ってきます。
「ゴシック・ホラー」のゴシック性というのは、平たく言ってしまうと「どうしてこんな怖い目に遭うのか、よく理由がわからない」という不条理感にあります。主人公はきちんと合理的かつ常識的に行動しているにもかかわらず怪物に襲われます（「その山には入っちゃならねえだ」という村人の制止を無視したり、ろくでもない科学実験をして怪物を創り出してしまう、というパターンではありません）。
これはアメリカ人の現在の世界認識そのものをかなり正直に表しているんじゃないかと思います。グローバル・スタンダードであるはずの「自由と民主主義」を掲げて、「市場原理」でカタギの商いをしているだけなのに、どうして血の復讐に怯えなければならないのか。そんな不条理感がハリウッド・ゴシック・ホラーには伏流しております。
でも、恨んで出てくる方にはちゃんと言い分があるんです。『ザ・フォッグ』では先祖が他人を殺して奪った財宝で町を創建したという事実については幽霊に申し開きができません。これはどうもネイティヴ・アメリカンの土地を奪い、アフリカ人を奴隷にすることで国の礎を築いたアメリカ合衆国の「起源における疚しさ」に通じるものがありそうです。映画では美女を「生け贄」に捧げて、幽霊たちにはお引き取り願ったわけですが、アメリカがこの先「アメリカの犠牲者」たちにどんな「美女」を差し出して、怨念のトレードオフを成就することになるのでしょう。
</description>
         <link>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1928.html</link>
         <guid>http://movie.tatsuru.com/2006/12/31_1928.html</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 19:28:06 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
