Charlie and the Chocolate Factory by Tim Burton, Johnny Depp, Freddie Highmore)
「ティム・バートンにはずれなし」「ジョニー・デップにはずれなし」というのは私が経験から学んだ貴重な教訓です(もうひとつ「メル・ギブソンにはずれなし」というのもあります)。すべてが必ずしも名画というわけのですが、どういう嗅覚によるものか、彼らは決してスクリーンに向かってポップコーンが浴びせられるような「スカ」映画にはコミットしないのです。
「はずれなし」の二人のコラボレーションはいずれも傑作(『シザーハンズ』、『スリーピーホロウ』)。だから、本作も当然傑作。特に『マーズ・アタック!』の幼児的残虐性に爆笑した人と、『シザーハンズ』のジョニー・デップの控えめな狂い方が好きという人にとっては至福の二時間となることでしょう。
しかし、本作で私の映画史的な興味を強く惹きつけたのはそういうことではありません。私をわくわくさせたのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたという点です。
それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。
「まさか・・・」と思うかも知れませんが、これは本当の話。『ちびっこギャング』から『ホーム・アローン』に至るまで、アメリカ映画は「母親に棄てられた子供たち」がそのやり場のない憎悪と怨恨を暴力的に発動するという話型に充ち満ちています。代表作は『十三日の金曜日』シリーズ。あのジェイソン君はキャンプ場の怠惰なキャンプ・リーダーたちの犠牲者ではなく、実はそのような管理能力ゼロのバカ高校生に息子を委ねた母親の「未必の遺棄」の犠牲者なんです。彼が怨みをはらすべき母親は第一作でタフな女子高生に首を斬られて死んじゃいましたので、以後の9作品で彼の殺意はその本来の標的を失ってひたすら拡散し続けます。『チャイルド・プレイ』もそうですね。シリアル・キラーの邪悪な魂が乗り移ったかわいいチャッキー人形が形相を一変させて家の中で「母親」を包丁で追い回す場面、日本人にはちょっと理解しにくい状況設定ですけれど、あれは「子供の中に潜在する親への殺意」に対する親の側の恐怖が映像化されたものなんです。
『サイコ』から『エクソシスト』まで、母親の「遺棄」に対してアメリカの子供たちは決して直接に異議を申し立てることをしません(母親批判はアメリカ社会で許されないことの一つです)。ですから、その抑圧された憎しみは悪魔的な存在を迂回して、ゆきずりの人に向けて暴発することになります。
本作で、父親に棄てられた子供であるウィリー・ウォンカはその遺棄された怨みを父親にではなく、「子どもたち」に向けて行使します。でも彼がほんとうに憎んでいるのは、最後に和解する父親ではなく、この物語に一度も出てこない母親の方なんです。彼女は「その存在についてひとことも言及されない」という欠性的な仕方でウィリーの報復を受け取っているのです。そう、ウィリーはジェイソンだったんですよ!ティム・バートン恐るべし。