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2005年7月 アーカイブ

2005年7月22日

蝶の舌

夜はひさしぶりにトンカツを揚げる。
こんな手の込んだ料理をつくるのも久しぶりである。
「時計をみながら」の暮らしではトンカツも作る気にならないのである。
ご飯を食べてから、ワインをのみながら『蝶の舌』を見る。
1936年のスペインを舞台にした映画である。
共和制が瓦解し、フランコ将軍たちによる軍事クーデタで内戦が始まる直前の不安な時代の地方都市の一年を子どもの眼から描いた映画である。
敬愛する先生が共和派の活動家として王党派のクーデタ勢力に逮捕されてトラックで連れ去られるのを見送る主人公のモンチョ少年が、自己保身のために「アテオ(無神論者)!赤!人殺し!盗人!」と叫ぶのに唱和する場面のストップモーションが痛切で美しい。
ヨーロッパ映画って、こういうところがほんとうに残酷なまでにリアルである。
ヨーロッパ映画は「子どもの純真」や「小市民の善意」を決して簡単には許さない。
子どもは無垢なほど邪悪であり、小市民は平気で人を殺す。
日常生活の中のファシズムという同じテーマを扱った映画はフランスにもイタリアにもある。
けれども、『リュシアンの青春』も『アマルコルド』も『蝶の舌』よりは明るい。
それはフランスでもイタリアでも、その映画の舞台になった時代の数年後には戦争が終わり、自由が戻ってくるからだ。
スペインはこのあと1975年にフランコが死ぬまで強権的な独裁体制が40年間続く。
だから先生は死ぬまで名誉回復することがないし、モンチョ少年にも自分の少年の日の忘恩のふるまいを謝罪するチャンスは決して訪れなかったはずなのである。
その時間の長さが重い。

日曜日には鼠を殺せ

Behold the Pale Horse by Fred Zinnemann: Gregory Peck, Anthony Quinn, Omar Shariff 1964
☆☆☆☆

『蝶の舌』を見て、内戦時代のスペインのざらっとした空気の感触を思い出した(って、そんな時代のスペインに私がいたわけじゃないんだけれど、『誰がために鐘は鳴る』とか『カタロニア賛歌』とかロルカとか、60年代の終わりころの極左少年は「30年代スペイン」に根拠のない共感を抱いたのである)。
政治的信条をかけて(「共和制か王政か、自由か圧政か」)市民たちが銃を執って立ち上がる・・・という「ラテン的なわかりやすさ」が少年たちの琴線に触れたのかもしれない。
DVD返しついでに「スペインもの」を探す。
そしたら『日曜日には鼠を殺せ』があった。
64年の映画がいまごろDVD化されている。
中学生のころ映画館で予告編を見て「暗そう・・・」と思った記憶だけ残っている。
内戦で敗れた共和派の闘士たちはフランスに亡命し、国境近くの街に蟠踞して、ときどきピレネーを越えてスペインの警察や銀行を襲っていた。
戦士たちはしだいに疲弊し、高齢化するけれど、スペインの政治状況は少しも変わらない。
そんな希望のないゲリラ戦の疲れ切ったリーダー、マヌエルがグレゴリー・ペック。
彼を20年間追い続けている警察署長ヴィニョラスがアンソニー・クィン。
闘争心を失いかけたマヌエルは故郷の街に残してきた母の訃報に接して、埋めてあった銃を掘り起こし、ヴィニョラスと雌雄を決するためにたったひとり雪のピレネーを越える・・・
という話だけ聞くと「けっこう面白そう」なのであるが、実はこの映画はまるでアクション映画ではない。
なかなか腰を上げないマヌエルの逡巡と政治的信条の揺らぎの方が主題なのである。
マヌエルは若い神父(オマー・シャリフ)から「国に戻るな。これは罠だ」という瀕死の母からの伝言を受け取る。
カトリック教会を敵として戦ってきたマヌエルは神父の言葉を信じることができない。
しかし、この若い神父もまた貧窮の育ちで、内戦の犠牲者であることを知るにおよんで、マヌエルの年来の革命的労働者としてのアイデンティティが揺らぎ始める。
私こそが理想的な被抑圧者であり、駆り立てられ、投獄され、拷問され、殺されてきたすべての同志たちの負託を受けた私こそが「正系の復讐者」であり、私のふるう暴力はそれゆえすべて「政治的に正しい」と言い続けてきた老ゲリラが直面する政治的確信の揺れ。
それがこの映画の主題である。
最後の「ピレネー越え」以降の展開は『昭和残侠傳』と説話的には同一であるから、60年代の日本の左翼少年たちの圧倒的支持を得てよかったはずのこの映画が当時彼らにほとんど評価されなかったのは、「革命的暴力は正しいのか?」という答えのない内省に主人公が踏み込み、自殺的なテロによってそれまで自分がふるってきたすべての暴力を「清算」して終わるという物語構成が少年たちには「痛すぎた」のだろう。
よい映画である。
当時はハリウッドでもこのようなレベルの映画を作ることができたのである。
いまハリウッドがリメイクしたら、「ピレネー越え」からあとの銃撃シーンだけで全体の25%くらい使う大冒険活劇にしてしまうであろう。
キャスティングは・・・マヌエルがブルース・ウィリス、ヴィニョラスがミッキー・ローク、神父はアントニオ・バンデラス(ハリウッド版では神父が最後に銃を執って警察官を皆殺しにしてしまうのである。おお、それはそれで、けっこう面白そうかも)

ところでこの題名の『日曜日には鼠を殺せ』というのはいったいどういう由来なのであろう。
原題はBehold the Pale Horse 「蒼ざめた馬を見よ」
『ヨハネ黙示録』6章8節の有名な聖句である。
「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名は死。黄泉これに従う。」
たぶん60年代には『蒼ざめた馬』といえばサヴィンコフ(五木寛之じゃないよ)ということになっていたので、このタイトルが避けられたというのはわからないでもないのだが、「日曜日には鼠を殺せ」がどういう典拠なのかわからない。
誰か知っていたら教えてください。

『日曜日には鼠を殺せ』というタイトルの出典をご教示願いたいと書いたら、さっそくお知らせ下さった方がいる。
Richard Braithwaite (1588 - 1673)という人が“Barnabee Journal”というところで引用していたもので、そのさらにオリジナルもどこかにあるのだろうが、それは不明。
こんな戯詩である。
To Banbury came I, O profane one!
Where I saw a Puritane-one
Hanging of his cat on Monday
For killing of a mouse on Sunday.
「不信心なおいらがバンベリーに行った。
そこでおいらは清教徒のやつが
月曜日に猫を吊しているのを見た。
日曜日に鼠を殺したからなんだって」
(たぶん、そんな意味だと思います)
バンベリーがどういうところかは寡聞にして知らないけれど(バンベリー・バンという挽肉入りケーキが名物らしい)、安息日の日曜には猫が鼠を捕っても涜神行為とみなされるほどにストリクトな清教徒の街だったようである。
そこから転じて、「日曜日に鼠を殺した猫は月曜に清教徒に吊される」というのは「諸行無常、盛者必衰」を意味する英語の格言だったのである(嘘です)。
というわけで、映画『蒼ざめた馬を見よ』(Behold the Pale Horse)の原作小説のタイトルKilling a mouse on Sundayは『日曜日には鼠を殺せ』じゃなくて、『日曜日に鼠を殺すと』だったらよかったんですね。
越膳さん、ご教示ありがとうございました。

オープン・ユア・アイズ

Abre los ojos, by Alejandro Amenabar: Eduardo Noriega, Penelope Cruz、1997)
☆☆☆☆+

『蝶の舌』から始まった「スペインもの」探求の旅(つうほどでもないけど)が続いている。
今回は若手のアレハンドロ・アマネバール(でいいのかな、読み方)くんの話題作(といってもだいぶ前だけど)をチェック。
うーむ、スペイン映画侮りがたり。
革命直後のロシアとか、敗戦後の日本とか、解放後の中国とか、政治的・文化的な抑圧がはじけ飛んだ後に出てくる「娯楽」映画には特有の「勢い」がある。
この時期のスペイン映画にもそれに近いものを感じる。
ペドロ・アルモドバルの『All about my mother』も、60年代のフランス・ヌーヴェル・ヴァーグの最良の作品に通じる娯楽性と冒険心があった。

よい映画に共通するのは自分の映画史的・映画地政学的「立ち位置」についてのはっきりした認識を持っていることである。
自分がどのような「特殊な」映画を選択的に「見せられて」育ってきたのか、どのようなローカルな「映画内的約束事」を「自然」とみなすように訓練されてきたのかについての自覚があるということである。
フィルムメーカーとしての自分の「可動域」について、自分が作れる映画の制限条件について自覚をもっているということである。
そういう自覚を持っているフィルムメーカーは決して「まったく新しいタイプの映画」を作るというようなむなしい野心を持たない。映画による「自己表現」とか、映画をつうじての「メッセージの発信」というような愚かしいことも試みない。
自覚的なフィルムメーカーは映画的「因習」をむしろ過剰に強調することで桎梏を逃れ出ようとする。
伝統的な演出術以上にくどい演出をし、出会い頭に絶世の美男美女が恋に落ち、正義は勝利し、邪悪なものは天罰を受け、錯綜したストーリーラインが最後にすべて説明される「ご都合主義」という形容では収まらないほど好き勝手な話をこしらえる。
しかし、映画的「常識」に過剰に寄り添うことによって、不思議なことだが、彼は「映画という制度」に対する観客の無防備な信頼をむしろ揺るがせることになる。
「映画って、『こういうもん』だったっけ?」
というすわりの悪い疑問が観客の中にすこしだけ芽生える。
でも、観客は無防備だから「『こういうもん』ですってば」とささやかれると、「そ、そうだね」と簡単に信じてしまう。
そのようにして「映画」なるものの棲息可能条件をゆっくりと拡大してゆくこと、それが野心的なフィルムメーカーに共通する手法である。

その意味でアマネバールくんは、たいへん野心的なフィルムメーカーと私は見た。
本作は「あまりにご都合主義的な映画」である。
不条理なまでにご都合主義的なせいで、映画が逆にある種のリアリティを獲得するということがある。
「ありえなさ」が現実の不条理と同程度に不条理だとそういうことが起こる。
ここには「不条理映画」の因習的ファクターがたっぷりと入っている。
アマネバールくんがどんな物語を滋養にして育ってきたのかがよくわかる。
彼のシネアスト・ファヴォリは間違いなく同郷の偉人ルイス・ブニュエルと「不条理映画の巨匠」デヴィッド・リンチである。
会うたびに同じ女が別人になってしまうというのはブニュエルの『欲望の曖昧な対象』。
目が覚めるたびに自分が別人になってしまうというのはリンチの『ロスト・ハイウェイ』と『マルホルド・ドライブ』(そして、主人公セサール君の「壊れた顔」は『エレファント・マン』の造形から)
冷凍睡眠と仮想現実はフィリップ・K・ディックのSFの定番。『マトリックス』もその意味では同系列の物語である。
このスペイン映画はそのあとハリウッドでトム・クルーズ主演でリメイクされた。
「本歌取り」をきちんとしている作品には必ずフォロワーがいる。
これはジャンルを問わずにそうなのである。
自分がどういう檻の中に幽閉されているのかを知っている人間に人はついて行く。
そういう人間だけに「出口」を発見するチャンスが訪れることを知っているからである。
とりあえず、みなさんは『ヴァニラ・スカイ』と二本立てでごらんになってください。
「リメイク」と「本歌取り」はまったく次元の違うものだということがわかります。
(☆4つ+の「+」はペネロペ・クルスの美乳と美尻にボーナスポイント!)

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