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2005年09月 アーカイブ

2005年09月05日

13日の金曜日V

13日の金曜日V Friday the 13th A New Beginnng (by Danny Steinmann)

漫画を読みながら晩飯を食べ(焼き鳥、冷やしトマト、厚揚げ、ざるそば)、そのまま寝転んで『13日の金曜日V』を見る。
感動的なまでにチープである。
安そうな俳優が森の中を逃げ回り、お約束どおりに女の子がシャワーを浴びるところにジェイソンが出てきて・・・総予算5万ドル、撮影日数一週間くらいか。
しかし、そういう骨と皮のような映画であればこそ、そこには『13金』の「本質」というべきものがいかなる装飾も抜きに剥き出しになっている。
『13金』の説話的本質とは何か?
これについては『街場のアメリカ論』で詳しく論じたし、『チャーリーとチョコレート工場』の映画評にもすこしだけ書いたので、興味のある方はそちらをお読みください。
予告編的にひとことで申し上げるなら、それは「息子の母親に対する憎悪」である。
アメリカ映画には「女性嫌悪」misogynyが伏流していることはつとにフェミニスト批評家によって指摘されていることであるが、「息子の母親に対する憎悪」がその女性嫌悪の核にあることは指摘する人が少ない。
でも、ほんとうはそうなのである。
アメリカ男性は「母親が大嫌い」なのである。
しかし、おのれの欲望充足を求めて息子を遺棄した母親に対する息子の憎悪は、「母性愛」幻想に抑止されて、直接母親にむかうことができない。
抑圧された憎悪は母親以外の人々に対して無差別に放出されることになる。
『13金』のジェイソン、『サイコ』のノーマン・ベイツ、『ホームアローン』のケヴィン坊や、『チャイルドプレイ』のチャッキー人形、そして『チャーリーとチョコレート工場』のウィリー・ウォンカ。
彼らを駆動しているのは「そこにいない母親」への殺意なのである。
男性が女性を嫌悪しているということをあれほど露悪的に批判したアメリカのフェミニストたちが、その原因として「子供を遺棄した母親に対する怨恨」の可能性だけを選択的に吟味し忘れたのは興味深いことと言わねばならない。
「子供を愛せない」と平然とカミングアウトし、母性愛幻想を完膚なきまでに破壊したあの恐れを知らぬフェミニストたちが、その当然の帰結として、「母親なんか大嫌いだ」という子供たちが組織的に出現することを予期しなかったのはなぜか。
おそらく「母親がどれほど子供を遺棄しても、子供は母親を慕うことを止めない」という信憑がひろくゆきわたっていたせいであろう。
たしかに「母親がどれほど子供を遺棄しても、子供は母親を慕うことを止めない」(「おっかさん、忠太郎でござんす」)。けれども遺棄されたことへの怨恨と憎悪のエネルギーは消えない。
その暴発というかたちで「シリアル・キラー」というものが出現すると私は解釈しているのである(同意してくれる人があまりおられないが)。
遺棄された息子がシリアル・キラーになるとして、では、遺棄された娘の方はどうなるのか。
もちろん母親に遺棄された娘は長じて子供を遺棄することで母への「仕返し」を完遂するのである。
こうしてアメリカ社会では男性は「シリアル・キラー」と女性は「シリアル・キラーのママ」に二分化することになるわけである。
もちろん良識ある人々は「そのような趨勢に無抵抗に流されてゆくのはいかがなものか」と心を痛めておられる。
そこでもう一度愛し合う親子関係を回復しようじゃないかということで、良風美俗の道徳再建運動の一環として『13金』のような「母たちの反省を促す映画」が組織的に制作されているのである。
事実、『13金』は「母親」がきわめて徴候的な役割をすることを特徴とするシリーズであるが、『V』も定法通り、そこで機能するのは「抑圧的で暴力的な、過剰に存在する母」と「子供を遺棄する、存在しない母」だけなのである。

チャーリーとチョコレート工場

Charlie and the Chocolate Factory by Tim Burton, Johnny Depp, Freddie Highmore)

 「ティム・バートンにはずれなし」「ジョニー・デップにはずれなし」というのは私が経験から学んだ貴重な教訓です(もうひとつ「メル・ギブソンにはずれなし」というのもあります)。すべてが必ずしも名画というわけのですが、どういう嗅覚によるものか、彼らは決してスクリーンに向かってポップコーンが浴びせられるような「スカ」映画にはコミットしないのです。
「はずれなし」の二人のコラボレーションはいずれも傑作(『シザーハンズ』、『スリーピーホロウ』)。だから、本作も当然傑作。特に『マーズ・アタック!』の幼児的残虐性に爆笑した人と、『シザーハンズ』のジョニー・デップの控えめな狂い方が好きという人にとっては至福の二時間となることでしょう。
 しかし、本作で私の映画史的な興味を強く惹きつけたのはそういうことではありません。私をわくわくさせたのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたという点です。
それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。
「まさか・・・」と思うかも知れませんが、これは本当の話。『ちびっこギャング』から『ホーム・アローン』に至るまで、アメリカ映画は「母親に棄てられた子供たち」がそのやり場のない憎悪と怨恨を暴力的に発動するという話型に充ち満ちています。代表作は『十三日の金曜日』シリーズ。あのジェイソン君はキャンプ場の怠惰なキャンプ・リーダーたちの犠牲者ではなく、実はそのような管理能力ゼロのバカ高校生に息子を委ねた母親の「未必の遺棄」の犠牲者なんです。彼が怨みをはらすべき母親は第一作でタフな女子高生に首を斬られて死んじゃいましたので、以後の9作品で彼の殺意はその本来の標的を失ってひたすら拡散し続けます。『チャイルド・プレイ』もそうですね。シリアル・キラーの邪悪な魂が乗り移ったかわいいチャッキー人形が形相を一変させて家の中で「母親」を包丁で追い回す場面、日本人にはちょっと理解しにくい状況設定ですけれど、あれは「子供の中に潜在する親への殺意」に対する親の側の恐怖が映像化されたものなんです。
『サイコ』から『エクソシスト』まで、母親の「遺棄」に対してアメリカの子供たちは決して直接に異議を申し立てることをしません(母親批判はアメリカ社会で許されないことの一つです)。ですから、その抑圧された憎しみは悪魔的な存在を迂回して、ゆきずりの人に向けて暴発することになります。
本作で、父親に棄てられた子供であるウィリー・ウォンカはその遺棄された怨みを父親にではなく、「子どもたち」に向けて行使します。でも彼がほんとうに憎んでいるのは、最後に和解する父親ではなく、この物語に一度も出てこない母親の方なんです。彼女は「その存在についてひとことも言及されない」という欠性的な仕方でウィリーの報復を受け取っているのです。そう、ウィリーはジェイソンだったんですよ!ティム・バートン恐るべし。

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