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2006年10月 アーカイブ

2006年10月12日

シン・シティ

監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー、クエンティン・タランティーノ、出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジョシュ・ハートネット、ジェシカ・アルバ

いやー面白かった。最高。映画ファンのみなさん、必見!ですよ。
フランク・ミラーのコミックスを漫画家自身が共同監督したので、映画というよりは「実写漫画」という方が適切かも知れません。相方のロバート・ロドリゲスも『デスペラード』に『フローム・ダスク・ティル・ドーン』に『スパイ・キッズ』と劇画センスの人だし。
そのわざわざしつらえた「嘘っぽさ」がなんとも不思議なリアリティを作り出しています。
ふつうの映画だと「いかにもほんとうらしく嘘の話をする」わけですが、『シン・シティ』はそれとは逆に「いかにも嘘くさく、嘘の話をする」のです。そんなことあるわけないでしょ的なシーンでは、「みなさん、こんな話あるわけないですよね」という目配せがフィルムメーカーから観客に送られます。この作法がまことに理性的でクールなものに私には思われました。
 だって、そうでしょ。「嘘ですよね。こんなの、ありえませんよね」というシグナルを送ってくるフィルムメーカーと観客は当然「同じ現実」の中にいるわけですね。映画内の出来事は「嘘くさい作り話」というくくり方をされて「私たちの現実」からは排除される。でも、フィルムメーカーと観客とが「同じ現実」の中にいるということになると、そこから排除された映画内的現実は引き取り手を失って浮遊し始めてしまう。
これは呪術医の治療術と少し似ています。呪術医は患者を責めません。「あなた自身の生活習慣が悪いから病気になるんだよ」というようなことは(それが真実であっても)決して口にしない。そうではなくて、医者と患者が「こちら側」にいて、協力し合って外界から到来した「病魔」と戦うという「物語」のうちに患者を巻き込んでしまうのです。そうすると患者はいつのまにか「病魔」という悪霊が実際に存在するように思い始める・・・
映画も同じです。映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が「同じ側」に立って映画内現実をみつめているという状況設定が必要なのです。「こちら」にフィルムメーカーと観客、「あちら」に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間たちが作り出したものではなく)、固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです。『カリガリ博士』のロベルト・ヴィーネ以来、真に創造的なフィルムメーカーは(タランティーノもその一人です)そのことを知っています。
 ですから、『シン・シティ』の世界では、ブルース・ウィリス演じる「あれから十七年経ったジョン・マクレーン刑事」や「いつもの」ベネチオ・デル・トロよりも、人間離れした「野獣」メイクをしたミッキー・ロークやジョシュ・ハートネットの詩人殺し屋の方がむしろリアルでフィジカルな存在感を帯びてしまうのです。

『Always 三丁目の夕日』

山崎貴監督:堤真一、吉岡秀隆、薬師丸ひろ子、小雪

 昭和33年(1958年)、敗戦後13年目、東京の街がしだいに復興して、年毎に生活が豊かになっていった日々のことを私は今もはっきり覚えています。大瀧詠一さんは以前ラジオで「1958-59年が日本の黄金時代だった」と言っていましたが、私もまったく同意見。街は活気にあふれ、子どもたちは笑いながら街を走り回り、ラジオからはエルヴィスと広沢虎造が流れ、TVのチャンネルを回すと志ん生からクレイジー・キャッツに画面が切り替わり、ヘミングウェイとアルベール・カミュと谷崎潤一郎と内田百閒が現役だった時代です。まことに「底抜けに明るく、ワイルドな時代」でありました。あの時の日本で子供時代を過ごせたことを私はとても幸運だったと思っています。
 しかし、その「黄金」の少なくとも一部分は私たちが事後的に作り上げた幻想なのかも知れません。というのは、私はこの映画を見たとき、1974年に西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を『ビッグコミック』誌上ではじめて読んだときに感じたのと同質の「懐かしさ」を感じたからです。
 これって変ですよね?
15年後と45年後に「同じ懐かしさ」を感じるということは、私と「黄金の1958年」を隔てている「遠さ」は時間の隔たりではないということです。
もしかすると私が懐かしんでいるのは実在したものではなく、無時間的に浮遊している「国民的幻影」だったのでしょうか?そして、それが「幻影」だからこそ、その時代を経験したことのなかった若いフィルムメーカーたちも同じ密度、同じリアリティをもってそれを共有し得たのではないでしょうか?そう考えなければ、この映画の細部にゆきわたる驚くべき時代考証的正確さを説明することは困難です。
おそらく私たちには「一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力」が備わっているのでしょう。この映画はそのような想像力が生み出したものだと私には思われます。

The 有頂天ホテル

監督・脚本:三谷幸喜 役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、戸田恵子

 三谷幸喜の監督映画は『ラヂオの時間』、『みんなのいえ』、そして本作と、どれもテイストがすごく似ていますね。三作を見て、私なりに理解したことがありますので、今回はそのことを書きます。
 三谷さんの映画のテーマはつねに「自分らしく生きる」とはどういうことかという問いを巡っています。
 今さら「自分らしく生きる」なんて言われても「おいおい、中学生じゃないんだからさ」と寒イボが立った人もいると思いますけど、三谷さんの考える「自分らしさ」というのは『しゃべり場』の子どもたちの考えているそれよりはずっとツイストの利いたものです。
「自分らしく生きる」というのは、自分の中からこみあげてくるピュアな欲望や衝動に身を委ねるということではなく、人々が自分に期待している役割を粛々と演じ切る覚悟性のうちにある。たぶん三谷さんはそういうふうに考えているんじゃないかと思います(大人ですねえ)。
『the有頂天ホテル』に出てくる登場人物たちは全員が、大晦日の夜にそれぞれの「アイデンティティの危機」に迫るような転機に遭遇します。凡庸な映画作家であれば、おそらくその転機を経由してまったく違う人生へ踏み出してゆく希望に満ちた人々の姿を描くことでしょうけれど、三谷さんはそんなに素直じゃありません。
驚くなかれ、この映画の中の人々は、エンドロールが出るときに、開幕と同じ場所にいて、同じ仲間と、同じ仕事をしているのです(仕事を換えそうなのは代議士秘書の一人だけ)。
でも、何かが変わっている。それは内面的な出来事です。
 彼らはそれぞれ大晦日の夜に「自分らしく生きる」契機に出会います。それはとりあえずは、仲間たちがその人に寄せている「期待やイメージを裏切る」ことへの欲望・・・というかたちを取ります。
クールでフレンドリーな副支配人(役所広司)はかつての妻(原田美枝子)に出会った瞬間に、エゴイスティックで幼児的な男でありたいという欲求にとらえられ、歌手志望のベルボーイ(香取慎吾)は夢を捨てて帰郷の途につこうとし、政治家(佐藤浩市)と演歌歌手(西田敏行)はタフな外面の下にひそんだ弱さに譲歩しかけます。
たしかにそれらの欲望や弱さは間違いなく彼らの「本心」なのです。ですから、「自分らしく生きる」という呪文は彼らを自分の欲望や弱さを「許す」という方向へ誘い込みます。「もう、我慢できない」と彼らはいったんはその仮面をむしり取ります(あるいは仮面をかぶります。副支配人は「鹿頭」のかぶりものを、愛人(麻生久美子)は「スチュアーデスの制服」を、総支配人(伊東四郎)は「白塗り」の化粧を・・・仮面をかぶるのと脱ぐのは、実は同じ行為の裏表なんです)。それらの「自分らしくあろうとする試み」はすべて彼らをいったん破滅の淵へと誘い込みます。
 物語の最後で人々はふたたび仲間たちの「期待通り」の人間を粛々と演じる日常へと復帰してゆきます。まるで何も起こらなかったかのように。でも、「何も起こらなかったように過ぎる一日」の下には実は無数のドラマが伏流しているのです。

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