山崎貴監督:堤真一、吉岡秀隆、薬師丸ひろ子、小雪
昭和33年(1958年)、敗戦後13年目、東京の街がしだいに復興して、年毎に生活が豊かになっていった日々のことを私は今もはっきり覚えています。大瀧詠一さんは以前ラジオで「1958-59年が日本の黄金時代だった」と言っていましたが、私もまったく同意見。街は活気にあふれ、子どもたちは笑いながら街を走り回り、ラジオからはエルヴィスと広沢虎造が流れ、TVのチャンネルを回すと志ん生からクレイジー・キャッツに画面が切り替わり、ヘミングウェイとアルベール・カミュと谷崎潤一郎と内田百閒が現役だった時代です。まことに「底抜けに明るく、ワイルドな時代」でありました。あの時の日本で子供時代を過ごせたことを私はとても幸運だったと思っています。
しかし、その「黄金」の少なくとも一部分は私たちが事後的に作り上げた幻想なのかも知れません。というのは、私はこの映画を見たとき、1974年に西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を『ビッグコミック』誌上ではじめて読んだときに感じたのと同質の「懐かしさ」を感じたからです。
これって変ですよね?
15年後と45年後に「同じ懐かしさ」を感じるということは、私と「黄金の1958年」を隔てている「遠さ」は時間の隔たりではないということです。
もしかすると私が懐かしんでいるのは実在したものではなく、無時間的に浮遊している「国民的幻影」だったのでしょうか?そして、それが「幻影」だからこそ、その時代を経験したことのなかった若いフィルムメーカーたちも同じ密度、同じリアリティをもってそれを共有し得たのではないでしょうか?そう考えなければ、この映画の細部にゆきわたる驚くべき時代考証的正確さを説明することは困難です。
おそらく私たちには「一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力」が備わっているのでしょう。この映画はそのような想像力が生み出したものだと私には思われます。