監督・脚本:三谷幸喜 役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、戸田恵子
三谷幸喜の監督映画は『ラヂオの時間』、『みんなのいえ』、そして本作と、どれもテイストがすごく似ていますね。三作を見て、私なりに理解したことがありますので、今回はそのことを書きます。
三谷さんの映画のテーマはつねに「自分らしく生きる」とはどういうことかという問いを巡っています。
今さら「自分らしく生きる」なんて言われても「おいおい、中学生じゃないんだからさ」と寒イボが立った人もいると思いますけど、三谷さんの考える「自分らしさ」というのは『しゃべり場』の子どもたちの考えているそれよりはずっとツイストの利いたものです。
「自分らしく生きる」というのは、自分の中からこみあげてくるピュアな欲望や衝動に身を委ねるということではなく、人々が自分に期待している役割を粛々と演じ切る覚悟性のうちにある。たぶん三谷さんはそういうふうに考えているんじゃないかと思います(大人ですねえ)。
『the有頂天ホテル』に出てくる登場人物たちは全員が、大晦日の夜にそれぞれの「アイデンティティの危機」に迫るような転機に遭遇します。凡庸な映画作家であれば、おそらくその転機を経由してまったく違う人生へ踏み出してゆく希望に満ちた人々の姿を描くことでしょうけれど、三谷さんはそんなに素直じゃありません。
驚くなかれ、この映画の中の人々は、エンドロールが出るときに、開幕と同じ場所にいて、同じ仲間と、同じ仕事をしているのです(仕事を換えそうなのは代議士秘書の一人だけ)。
でも、何かが変わっている。それは内面的な出来事です。
彼らはそれぞれ大晦日の夜に「自分らしく生きる」契機に出会います。それはとりあえずは、仲間たちがその人に寄せている「期待やイメージを裏切る」ことへの欲望・・・というかたちを取ります。
クールでフレンドリーな副支配人(役所広司)はかつての妻(原田美枝子)に出会った瞬間に、エゴイスティックで幼児的な男でありたいという欲求にとらえられ、歌手志望のベルボーイ(香取慎吾)は夢を捨てて帰郷の途につこうとし、政治家(佐藤浩市)と演歌歌手(西田敏行)はタフな外面の下にひそんだ弱さに譲歩しかけます。
たしかにそれらの欲望や弱さは間違いなく彼らの「本心」なのです。ですから、「自分らしく生きる」という呪文は彼らを自分の欲望や弱さを「許す」という方向へ誘い込みます。「もう、我慢できない」と彼らはいったんはその仮面をむしり取ります(あるいは仮面をかぶります。副支配人は「鹿頭」のかぶりものを、愛人(麻生久美子)は「スチュアーデスの制服」を、総支配人(伊東四郎)は「白塗り」の化粧を・・・仮面をかぶるのと脱ぐのは、実は同じ行為の裏表なんです)。それらの「自分らしくあろうとする試み」はすべて彼らをいったん破滅の淵へと誘い込みます。
物語の最後で人々はふたたび仲間たちの「期待通り」の人間を粛々と演じる日常へと復帰してゆきます。まるで何も起こらなかったかのように。でも、「何も起こらなかったように過ぎる一日」の下には実は無数のドラマが伏流しているのです。