寒空の下三宮まで出て、『カジノ・ロワイヤル』を見る。
先週から始まった「007全巻制覇の旅」は順調に続いている(一日1本ペースでこれまで8本見た。でも、まだあと12本・・・)。
ジェームズ・ボンド役はご案内の通り初代ショーン・コネリーから始まって、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンと続いて、今回が六代目ダニエル・クレイグ。
私の採点ではベストは『ドクター・ノウ』のショーン・コネリー。
日本公開当時(1963)のタイトルは『007は殺しの番号』。
私は中学校1年生。
文藝春秋の映画評の欄で、ベレッタを擬しているショーン・コネリーのスチールを見て「があん」と来たのを覚えている。
中坊が掌の汗でじっとり湿った百円玉を握りしめてそのまま映画館まで走ってゆきたくなるような映画であった。
このときのショーン・コネリーのベストショットは総督の中国人秘書(ドクター・ノウの手下)の色仕掛けに応じてキスしながら腕時計を見るときの冷たい眼と、「S&Wは6発しか撃てないんだぜ」と言いながら、デント教授をサイレンサー付きのベレッタで一発で射殺してから、サイレンサーをはずして「ふっ」と煙を吹くところ。
原作者イアン・フレミングは映画化に際してジェームズ・ボンド役にケイリー・グラントを希望していた。
プロデューサーのアルバート・ブロッコリがショーン・コネリーを選んだときには「洗練が足りない」と言って渋ったそうである。
たぶん、ショーン・コネリー自身もそのことは聞いていたはずである。
だから、最初の二作におけるショーン・コネリーの演技には微妙な「ケイリー・グラントっぽさ」がある(『ゴールド・フィンガー』以降にはもう見られない)。
無意識のうちにイアン・フレミングの「好み」を意識していたのかも知れない(実際にイアン・フレミングは映画を見てコネリーに対する評価を一変させた)。
私はこの「ケイリー・グラントっぽいショーン・コネリー」のジェームズ・ボンドがたいへん気に入っているのである。
このキャラクター設定の成功が以後のシリーズの長期化を確定したはずである。
ジョージ・レーゼンビーとティモシー・ダルトンには「ケイリー・グラント」風味がない。
ロジャー・ムーアとピアース・ブロスナンは「ケイリー・グラントの軽み」はあるけれど、「ケイリー・グラントの非人情」がない。
ケイリー・グラントはショーン・コネリーと同じくイギリスの労働者階級の出で、十代からサーカスの芸人をしていた苦労人だけれど、不思議な上品さと退廃を感じさせる。
それはとってつけたものではなく、ケイリー・グラントが生まれ持ったある種の「オーラ」のようなものではないかと思う。
メイ・ウェストがブロードウェイの舞台に出ていたこの無名の青年を抜擢したのも、それを感知したからだろう。
ジェームズ・ギャッツ少年がダン・コーディに出会ってジェイ・ギャツビーになったように、アーチボルド・アレクサンダー・リーチ少年はメイ・ウェストに出会ってケイリー・グラントになったのである。
だから、『グレード・ギャツビー』を30代のときのケイリー・グラントが演じたら「完璧な映画」になったかも知れない。
話を戻すと、(最初の二作品における)ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが卓越しているのは、無意識のうちにケイリー・グラントの軽さと非人情の芸風を「本歌取り」しようとしていたからである。
と私は考える。
『カジノ・ロワイヤル』は映画としては大変に面白い。
中だるみがまったくない(ほとんど神経症的な)「ジェットコースター・アクション・ムーヴィ」である。
でも、ダニエル・クレイグをジェームズ・ボンドに見立てるのはどうやっても無理である。
ダニエル・クレイグは顔の右半分はわりといいのだけれど、左半分が悪相である。
たぶんこのアンバランスをプロデューサーは「ジェームズ・ボンドの複雑な内面」を記号的に示す利点と理解したのであろうが、ジェームズ・ボンドの複雑な内面はそういうものではない。
ジェームズ・ボンドの残忍さと邪悪さは、ケイリー・グラントが『疑惑』のラストシーンで毒入りミルクを持って階段を上るときの、あのブラックホールのような無表情によって示すべきなのだ。
私が今もしジェームズ・ボンド役をキャスティングするとしたら、誰を選ぶだろう。
むずかしいなあ。
やっぱジョニー・デップかな。
ただしこのボンドはミス・マネーペニーから「ジェームズ、あなたどこにいるの?探し回ったわよ」という電話がかかってきたとき、阿片を吸飲してラリっている。