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8 Mile

(2002 by Curtis Hanson : Eminem, Kim Basinger, Mehki Phire)

「エミネム」というのが曲名なのか個人名なのかバンド名なのかはたまたレーベル名なのかさえ知らないヒップホップ無縁人間のウチダがなぜこのような映画を。
それはアーロン・マッグルーダーのマンガ『ブーンドッグス』(町山智浩訳、幻冬舎)で主人公のヒューイ・フリーマン(戦う小学生)がラッパーの「品定め」に熱中しているのを読んでから、「ラップって何なの?」ということにちょっとだけ興味が湧いたからである。
見て、びっくり。
この映画の中のラップはすべて「韻を踏んだ悪口」なのである。
ラップって、そういうもんだったのか。
おじさん、知らなかったよ。
ヒップホップ・バトルというのは出てきた二人が相手をいかに舌先三寸で傷つけて失語症に追い込むかという「勝負」である。
『朝まで生テレビ』の「タイマン45秒ヴァージョン」と考えていただければよろしいかと思う。
あるいは「水無瀬三吟」のデトロイト版というふうにみなすこともできるかもしれない(いちおう「脚韻を踏む」たびに「座布団一枚」的リアクションが観客から得られるから)。
映画の字幕では「ライム」と表記してあったけれど(「おまえのラップにはライムがない」というふうに)、日本の高校生は「ライム」というカタカナからrhymeという英語をただしく読み当てることができるのであろうか?
むしろ、「ラップと柑橘類の間にはどのような関係があるのか」にひそかに苦悩する内省的な若者を輩出することになりはしないかとウチダは危惧する。

私は音楽やことばが専一的に「誰かを傷つける」ために用いられ、その目的が「目の前にいる相手を沈黙させる」ことであるというヒップホップ・バトルの戦略を少しもよいものだとは思わない。
そのようなところで「勝つ」ことが勝者になにか「よきもの」をもたらすとも思わない。
これは音楽とことばと、人間そのものに対するある種の「暴力」である。
この映画では白人ラッパーB・ラビット(エミネム)は、自身が「ホワイト・トラッシュ」(クズ白人)であること、ビンボーで無教養で向上心はないけど一攫千金を夢見ることは止められないおバカであるという事実を「全肯定」することによって、プチブル出身の黒人ラッパーを「黙らせる」ことに成功する。
この戦略が短期的に有効であることに私は同意するが、長期的には帳尻の合わないバーゲンであると思う。
かつて高田渡はこう語ったことがある
「ぼくは貧乏人には絶対同情しない。貧乏であることを肯定した貧乏人はそれで楽になるからだ。」
自分がろくでもない人間であることを承認せよと社会に迫るのは悪いことではない。
けれども自分がろくでもない人間であることを自分に承認させるのはほとんど自殺行為にひとしい。

これがこの15年ほどアメリカの音楽シーンでドミナントで先端的なジャンルであり若いアメリカ人たちがこのような音楽に選択的に耽溺しているという事実はジョージ・ブッシュのような人間が大統領になるという事実とおそらく平仄が合っているように私には思われる。
コール・ポーターやホギー・カーマイケルやグレン・ミラーの音楽を愛してきたアメリカ人はもう絶滅しつつある。
私が『8マイル』を見て抱いた印象は、「アメリカの没落は私の悲観的予想を上回る速度で進行している」ということである。

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2005年2月 4日 10:51に投稿されたエントリーのページです。

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