『ミリオンダラー・ベイビー』(Milliondollar Baby By Clint Eastwood : Clint Eastwood, Morgan Freeman, Hilary Swank)
☆☆☆☆+1/2
何かにすごく似た話だと思ったら(という書き出しは先月といっしょですね)、誰でも気がつく「あの物語」とまるで同じ話でした。
そう、『あしたのジョー』です。
泪橋の下の「丹下拳闘クラブ」が「ヒット・ピット・ジム」。そこにふらりと現れる、ボクシング以外にこの世の中に自分の足跡を残す術を思いつかない貧しい青年がヒラー・スワンク。彼女に世界チャンプの夢を託す老ボクサーがクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマン(この二人は、二人一役で「丹下段平」です。モーガン・フリーマンはちゃんと片目だし)。
それにしても、『あしたのジョー』を「ヒラリー・スワンクでリメイク」というのは意外な線だけれど、私の見るところでは大正解だったと思います。
ヒラリー・スワンクは出世作『ボーイズ・ドント・クライ』もそうでしたけれど、男性と女性の「中間」という立ち位置にあるとき不思議な輝きを発する女優さんです。彼女が放つオーラは、デミ・ムーアが『GIジェーン』で「男みたいな女」を演じたときに発散したぎらぎらした感じとはまるで異質のものです。それは、なんというか「さわがしくない性」なんです。「私は女よ!だから…」という押しつけがましさがどこにもない。「あ、そう言えば、私、女なんですけど、それが何か問題でも?」という肩の力の抜けた性意識なんです。彼女がクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという圧倒的な存在感をもつ名優に挟まれてなお堂々たる存在を示すことのできた理由はそこにあると思います。
谷川俊太郎さんは「騒がしい詩」とそうでない詩の差についてこう書いています。
「たった三行でも騒がしい詩というのはあります。(…)いま、だれもが『オレが、オレが』と自分を表現しようとしていることが、たぶん騒がしさのいちばんの源じゃないでしょうか。」
ヒラリー・スワンクはこの映画で「騒がしくない性」を演じています(それは二人の男優も同じです)。その「静けさ」は引き続き谷川さんのことばを借りて言えば、「個人に属しているものではなくて、もっと無名性のもの」から生まれてきたものように思われます。それは彼女がボクシングをする理由が結局「よくわからない」ことにも通じています。女性であることを彼女が選んだわけではないように、ボクサーもたぶん彼女が進んで選んだ職業ではないのです。むしろ、ボクシングが彼女を選択したのです。彼女はその宿命に従って、「まっしろな灰に」向かう道を美しく、最高速で駆け抜けます。その点で、彼女は「矢吹丈そのもの」のように私には思われたのでした。
というのが読賣新聞『エピス』に寄稿したもの。
次は『エルマガ』に寄稿したもの。「クリント・イーストウッド監督作品に見るアメリカ」というお題があったので、内容がちょっと違います。
クリント・イーストウッドからはこれまでアメリカについてたくさんのことを教えてもらった。
開拓時代におけるキリスト教伝道活動のタフさについて知ったのは『ペイルライダー』によってである。
『許されざる者』はジョン・フォード以来のハリウッド西部劇に「黒人カウボーイ」が登場しないことを一度も不思議に思わなかった私自身の死角に気づかせてくれた。
そして、『ミリオンダラー・ベイビー』で、私はアメリカ男性の性意識がこれまでと全く違うタイプの女性像を「ヒロイン」として認識するまでに成熟したことを知った。
それは宿命と「闘う」女性ではなく、おのれの宿命をまっすぐに「受け容れる」女性である。
ヒラリー・スワンクはクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンの間に立って、彼らと同じように無欲で冷静で決然としている。そのような女性を「美しい」と感じる感受性を私は健全だと思う。