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ダニー・ザ・ドッグ Danny the Dog

ダニー・ザ・ドッグ(監督:ルイ・レテリエ、脚本:リュック・ベッソン、出演:ジェット・リー、モーガン・フリーマン、ボブ・ホスキンス、ケリー・コンドン)
☆☆☆☆

 リュック・ベッソンの書く物語には「幼児のように無垢な中年男」がわけのわからないことをするせいで、回りの秩序がだんだん混乱してきて、ついには破壊的暴力が解発される…という趣向のお話が多いですね。『グランブルー』も『レオン』も『フィフス・エレメント』も『TAXI』もそうでした。リュック・ベッソンはそのような物語原型にトラウマ的なこだわりがあるのかも知れません(知らないけど)。
 というわけで『ダニー・ザ・ドッグ』も「そういう話」です。
 主演は「幼児のように無垢な中年男」を演じさせたら当代一のリー・リンチェイ(「昔の名前」で呼ばせてください)。「ダニー・ザ・ドッグ」と呼ばれるこの男は首輪をつけられ、檻に飼われ、読み書きもできないし、社会的訓練を何一つ受けていない「闘犬」です。そして、舞台は霧深いグラスゴーの街。スペンサーの『進歩について』以来の英国人的視線から見れば中国人は「未開人=幼児」に他なりません。
 ここまで執拗に「幼児」の刻印を押された主人公はリュック・ベッソン作品でも例外的でしょう(「読み書きのできない幼児のように無垢な中年の殺し屋」という設定はジャン・レノの演じた「レオン」と同じですが)。
 物語はこの「無垢な殺し屋」が「家族」を見いだすまでの話です(おや、これも『レオン』と同じです)。
 彼の前には二つの「疑似家族」の選択肢として示されます。
 一つは「飼い主」であるバート親分(ボブ・ホスキンス怪演。『レオン』でダニー・アイエロが演じた「おいしい」役どころです)の「暴力団一家」が象徴する、お互いの恥部を剥き出しにした者同士の、血や唾がねばねばまとわりつくような騒がしく濃密な家族性。一つはサム(モーガン・フリーマン)とヴィクトリア(ケリー・コンドン)のピアニスト父娘が彼を迎え入れる、おたがいが敬意と距離感を保ち続ける静かで淡泊な家族性。
 ダニーは長く苦しい逡巡の末に、家族とは過去の「とりかえしのつかない関係性」に繋縛されることによってではなく、いつか全員がそれぞれの未知な可能性のうちに歩み去ることの予感によって結ばれる、という澄んだ結論にたどりつきます(素敵な結論ですね)。
 この新しいテンポラリーな家族を構成するのは、「幼児的中国人」と「歯列矯正中の少女」と「盲目の黒人」です。この〈トリアーデ〉はいったい記号学的には何を意味するのでしょうか。私は映画を見終えてからしばらく考え込んでしまいました( “アンクル”サムとヴィクトリア“女王”が中国人と家族関係になるということはアングロサクソン+中国による世界再編構想かな、とか)。
 いずれにせよ、この映画には観客の解釈への欲望に火を点ける「映画的記号」が乱舞しています。アクション映画のつもりで見るのはちょっともったいないですよ(もちろん、ユエン・ウーピンのカンフー・コレオグラフィーだけでも大いに楽しめるんですけれど)。

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2005年6月 6日 11:00に投稿されたエントリーのページです。

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