『ミュンヘン』(監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、エアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ)
1972年のミュンヘンオリンピック開催中に起きたパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手襲撃事件を覚えていますか。試写会を一緒に見に行ったIT秘書のイワモトくんは「ぼくが生まれる前ですから・・・」と首を振っていました。そうか、ブラック・セプテンバーを知らないのか。ジョルジュ・ハバシュとかバーダー=マインホフとか、そういう名詞を耳にするとついどきどきしてしまうのは私たちの世代が最後なんですね。
さて、気を取りなおして。この映画の心情的な通底音は、「アメリカに住むユダヤ人がイスラエルに対して感じる疚しさ」です。ちょっと日本人には想像がつきにくい感情ですけど。
現在アメリカに住んでいるユダヤ人たちは、もう十分にアメリカ社会に根づいているにもかかわらず、「もしもここでまたホロコーストが起きたら・・・」という悪夢のような想像からはなかなか逃れることができません(意外に思われるかも知れませんが、アメリカにおける反ユダヤ主義はいまだに根深いものがあるのです)。万が一そのようなことが起きたとしても、逃れるべき「祖国」があるということが彼らを心理的に支えています。イスラエルという「心理的な支え」があるからこそ、アメリカのユダヤ人たちは「普通の生活」を享受できているのです。
しかし、当のイスラエルでは人々は存亡をかけた戦争を繰り返し、日常的にテロに脅かされ、テロを行っています。ですから、「私たちアメリカのユダヤ人は、イスラエルに踏みとどまっている同胞の血と罪によって、おのれの市民的平和を購っているのではないか?」という疚しさは程度の差こそあれアメリカ・ユダヤ人のうちに伏流しているのです。
自身がユダヤ人であるスピルバーグが主人公の「テロリスト狩り」アヴナー(エリック・バナ)を通じて描こうとしたのは、そんな「アメリカ・ユダヤ人の疚しさ」です。
孤立無援の暗殺者集団を率いて、冷血な殺人を繰り返すアヴナーは、自分が手を汚すことで、イスラエルの同胞の「普通の生活」を支えているのだと言い聞かせます。誰かがこういう「汚れ仕事」を引き受けなければいけない。その仕事を通じて仲間を失い、悪夢に取り憑かれるようになっても、誰かがそれを引き受けなければならない。それならば私がやろう。
そんなアヴナーの「献身」は、イスラエルがアメリカのユダヤ人に対して示している「献身」と同質のものではないかとスピルバーグは感じているようです。
映画の中では、やがて、「汚れ仕事」を通じて守ろうとした同胞への愛と、自分にだけ「汚れ仕事」をおしつけて素知らぬ顔をしている同胞への憎しみにアヴナーは引き裂かれ始めます。それは逆から見ると、イスラエルだけに「汚れ仕事」を押しつけてきたアメリカ・ユダヤ人たちがイスラエルに感じている「疚しさ」の構造そのものです。
この映画は「善玉イスラエル」が敵のゲリラを虐殺してみせる(『ランボー3』のような)「戦意高揚映画」ではありませんし、「イスラエルとパレスチナは今すぐにも愛し合える」という幼いオプティミズムとも無縁です。むしろイスラエルがどのように「汚れているか」を正面から描き、そのような状況を作り出し、維持していることに現に加担している「私」自身の罪深さを問うというしかたで、ユダヤ人の民族意識の「成熟」を示したもののように私には思われました。どなたも必