『間宮兄弟』(監督・森田芳光:出演:佐々木蔵之介、塚地武雅、常盤貴子、北川景子)
これは「オタク映画」です。もちろん、これまでも「オタクのための映画」は無数に存在しました。しかし、『間宮兄弟』は『攻殻機動隊』とか『美少女戦士セーラームーン』のような「オタクのための映画」ではありません。これは「オタクについての映画」です。
ちょうどすぐれた人類学者があふれるほどの好奇心と控えめな好意をもって見知らぬ社会集団の人々の生活習慣や神話や親族制度について中立的な記述をめざすように、森田監督は「オタク」と呼ばれる先進国に固有のある種の「民族誌的奇習」に、予断を排した、クールで暖かいまなざしを向けています。
そろそろ中年にさしかかった間宮兄弟は「真性オタク」です。私見によれば、オタクの「真性度」は、オタク・アイテムのコレクションの充実とか、トリビア知識の多寡で計測できるものではありません。そうではなくて「決して裏切らないもの」に対する忠誠の深さによって考量されます。
オタクがもっとも愛するものは何よりもまず「精密で機能的なメカニズム」です。
「間宮」という姓が「田宮模型」と「マブチ・モーター」という、日本のオタクたちが変わらぬ敬意を捧げる「決して裏切らないメカニズム」のメーカーに対するひそやかなオマージュであることに、みなさんはお気づきになりましたか?
オタクは「決して裏切らないもの」に忠誠を誓います。
ですから、オタク男性の最初(にして最大)の偏愛の対象がしばしば「母親」であるのも当然のことです。この映画では中島みゆきが間宮兄弟を圧倒的な愛情で包み込む母親を演じています。
「若く美しい女たち」にも、もちろんオタクたちは強い固着を示します。でも、それは彼女たちの行動が母親とはちょうど逆の方向に首尾一貫しているせいです。つまり、「若く美しい女たち」は「オタクの一途な愛を歯牙にもかけず一蹴する」という仕方において、決して彼らの期待を裏切ることがありません。
いささか分析的な言い方になりますけれど、オタクたちはうっかりと「若く美しい女」との関係が好調に展開しそうになると、むしろそれを進んで台無しにして、「オタクに惚れる女はいない」という不易の真理を確認しようとします。不思議なことに、本人たちは自分たちが無意識のうちにそんな行動を選択していることに気づいていません。
間宮兄(佐々木蔵之介)はいかなる嗅覚によってか、逡巡の末に、女の子をデートに誘うのには微妙に悪いタイミングを狙い澄ましたように発見します。間宮弟(塚地武雅)は男が厭わしく思われるタイプの行動だけを選択的に取り続けます。そうして、それぞれみごとに求愛に失敗します。
でも、そもそも、間宮弟が二人の若く美しい女性(常盤貴子、北川景子)を兄のために取り持とうとするのは、「若く美しい女性」の方がそうでない場合よりも兄の期待を裏切る可能性が高いことを彼が知っているからです。弟は兄の恋が成就しないことをひそかに望んでいるのです。でも、彼は自分がそんな欲望を持っていることを知りません。
ラストシーンで間宮兄弟は少し悲しげに「二人だけの世界」に予定調和的に閉じこもります。「必ずや彼らを裏切るであろう」という彼らの予想を裏切らなかった女たちのメカニズムの精密さにひそやかな賛嘆の念を抱きながら。
彼らはまさに「お宅」(chez soi)に釘付けにされていることそれ自体から尽きせぬ快楽を汲み出すことのできる人々なのでした。
オタク、恐るべし。