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「父親たちの星条旗」

(監督:クリント・イーストウッド、出演:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ、バリー・ペッパー)

 クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーである。もしかする未来の映画史には20-21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれない。なにしろ、『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ、『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ、『ハートブレーク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたのだから。
「スタイルを完成させた」というのは、これ以上洗練された映像をつくり出すことがほとんど不可能ということである。クリント・イーストウッドの映画について形容する言葉を一つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるだろう。
彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」。
俳優は説明的な演技を禁じられており、感情表現はできる限り抑制されている。画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされる。ライトは画面のすみずみまでに行き渡り、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りない。重要な台詞を語るときは、観客が耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出す程度に音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足りない」。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないものを見、聞こえない音を聴くように(それと気づかないうちに)誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の「創造」に参加させてしまう。
「洗練」とはこの「節度」と「参加」のことだと私は思う。
私たちが「洗練」を感じるのは、よけいなものをすべて削ぎ落としただけでなく、それが完成するために私たちのわずかな「参加」を控えめに求めるものについてである。それを享受するために私たちがささやかな「身銭を切る」ことによって、そこにはあるオリジナリティが加算される。クリント・イーストウッドの映画を見ている私たちはそれぞれに少しだけ違う「私だけの映画」を見ているのである。
だから、硫黄島の映画をクリント・イーストウッドが監督したということには必然性があると私は思う。なぜなら、私たちがもっとも「節度」と「参加」を求められるのは戦死者について物語るときだからである。
アメリカ人にはアメリカ人の戦争の物語があり、日本人には日本人の戦争の物語がある。そして、ひとりひとりのアメリカ人日本人にとっても、語り継ぐ戦争の物語はひとりひとり違っている。
死者の固有名は、その名を記憶しておきたいと強く念じる人間だけが記憶し、死者についての物語は、その物語を語り継ぐ決意を持つ人間がいるときだけ語り継がれる。死者ついて、「このように記憶せよ」「このように物語れ」と他者に強要する権利は誰にもない。その死の現場に立ち会ったものにさえ。
「戦死者を弔う」ための正しい服喪の儀礼があるとすれば、それはこの映画でクリント・イーストウッドが採用したような物静かで謙抑的な語法をもって語られる他にないだろう。クリント・イーストウッドが「戦争映画のスタイルを完成させた」というのはそのような意味においてである。

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2006年12月31日 19:29に投稿されたエントリーのページです。

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