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殯の森

『殯の森』(監督:河瀬直美 出演:うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子)
 カンヌ映画祭は「作家性の強いフィルムメーカー」評価します。ですから、本作がカンヌでグランプリを取ったというのは、その作家性が評価されたということを意味します。でも、「作家性が強い」というのは具体的にはどういうことなのか、映画を見ながらしばらく考えました。
そして、山下洋輔さんがエッセイにフリー・ジャズのアルバート・アイラーの日本公演について書いていていたことを思い出しました。アイラーが舞台に出て来て、ひとりでサックスをごうごうと吹き出す。ひとりぶうぶう吹き続ける。誰がなんといってもオレは止めないよというアイラーの決意がびしびし伝わってくる。それを聴いた山下さんは「うん、そうか。キミはそういうことがやりたかったのか」と不意にすとんと腑に落ちた・・・と書かれていたように記憶しています(うろ覚えですみません。探したんですけれど、本がみつからなくて)。
たぶん作家性というのは「そういうこと」だと思うのです。
つまり、オーディエンスがどう受け取るかということとは(とりあえず)無関係に、「私はこうしたい」ということが先方にはきっぱりとある。こういう決意溢れるものに対しては、相手が「やりたいこと」をやり終わって「はい、終わりました」と宣言するまでは、黙って身を委ねる、というのが受け手のあるべき態度ではないかと私は思います。
その種の作品に対峙するとき、観客は自分の好みとか批評的基準とかいうものを一時的に「かっこに入れる」必要があります。とりあえずしばらくの間は、作家の呼吸や脈動にできるだけ同化するように努力する。だって、そうする以外に作品の「中」に入る手だてがないからです。「作家性のつよい作品」というのはそういうしかたで観客に「身銭を切る」ことを要求する。そういうものだと思います。
本作も作家の息づかいや脈拍に同調することが観客には求められます。というか、観客に求められているのはほとんど「それだけ」なんです。映画のリズムと合わせて呼吸しているうちに、だんだん意識がぼんやり霞んできて、足元が崩れるように「あやかし」の世界に沈み込んでゆきます。この甘美な墜落感は間違いなく天才的な作家だけが作り出せるものでしょう。

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2007年10月 3日 18:59に投稿されたエントリーのページです。

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