『パッチギ!Love & Peace』 (監督・井筒和幸 出演・井坂俊哉、藤井隆、中村ゆり、風間杜夫)
私たちは映画を見ているとき、必ず登場人物の一人に同一化します。そうしないと物語を愉悦することができないからです。そのとき同一化する相手は必ずしも外形的な条件が自分に似ている人間ではありません。『ドラゴン怒りの鉄拳』を見ているとき、私たちはブルース・リーに同一化して、彼が日本人の武道家たちを叩きのめす場面に拍手喝采を送ります。『父親たちの星条旗』ではアメリカの若者に同一化して、塹壕から襲ってくる日本軍兵士に恐怖を抱きます。私たちが帰属していると信じているナショナリティはごく脆弱な根拠しか持っていない。そのことを私たちは物語を享受する経験から学びます。深く身体にしみつているはずの国民性や愛国心は同一化の対象を変えるだけで簡単に逆転してしまう。それほどに脆いものなのです。その脆さを知るからこそナショナリストは声を荒げて、暴力的な対立の既成事実を積み重ねようとします。でも、この民族を隔てる「壁の薄さ」のうちに共生の希望もまた棲まっています。
『パッチギ!Love and Peace』を見ている日本人観客はアンソンとキョンジャの兄妹(井坂俊哉、中村ゆり)に同一化し、彼らに深く感情移入し、差別にさらされる在日コリアンとして日本社会を眺めることになります。彼らの眼を通して見られる日本人の自画像はときに私たちの知らない異様な相貌を示します。けれども、井筒監督はそれを「差別的な日本人は醜い(あるいは日本人は差別的で醜い)」という単純な物語に落とし込むことを自制します。映画はただ淡々と頁をめくるように差別と宥和の諸相を詳細に描いてゆきます。親和的な表情の下に隠れた差別意識の醜さを、私たちは若手俳優(西島秀俊)のふるまいを通じて知らされます。その一方で差別主義者の高校生や警官と戦う元鉄道員の佐藤くん(藤井隆)はコリアンたちに仲間として受け容れられます。前作で松本くん(塩谷瞬)が演じていた京都のフォーク高校生と同じく、二つの民族を「架橋する」のが彼の仕事です。
日本人と在日コリアンの間には親疎のグラデーションがあり、私たちは一人一人そのどこかに位置づけられています。映画の中で言及されるとおり、力道山はコリアンでしたが、日本人にとっての国民的英雄でもありました。美空ひばりも張本勲もそうでした。在日コリアン抜きに戦後の日本社会も日本文化もありえません。それほどにこの二つの集団は「壁」を超えて深く絡み合っており、これを切り分けることはもう不可能です。松本くんや佐藤くんが担ったような、ナショナリズムを武装解除し、共生的な社会を構築する仕事は、「隣人」の体温や息づかいを自分の生身に感じ取るところからしか始まりません。そして、まさに映画こそはそれを可能にする特権的な経験であることを井筒監督は教えてくれます。