うほほいシネクラブ開設
内田樹の「うほほいシネクラブ」(ひどいタイトルだな)というコラムが讀賣新聞の「エピス」という映画専門のフリーペーパーで始まりました。
というわけで、これまでお休みしておりました「おとぼけ映画批評」にも月一で「エピス」の原稿を流用することにいたしました。
はい第一回はこれです。
『2046』(監督:ウォン・カーウァイ 出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー)
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みなさん、こんにちは。内田樹です。今月から『エピス』で映画評を担当することになりました。よろしくお願いします。
はじめにお断りを。この映画評では「あらすじ」「バックステージ情報」「監督、プロデューサー、俳優などの自作解説」には触れないということを原則としてゆきたいと思っています。そういう種類の情報については私が書かなくても、提供してくれる機会がいくらもありますからね。「じゃあ、キミは何を論じるのかね?」と当然疑問に思われるはずですが、それには「映画とそれ以外のものとの関連性」とお答えすることにしております。でも、こんな説明だけでは、何のことだかわからないですね。とりあえず始めちゃいましょう。
初回は『2046』です。何かを決定的に失った人間だけがひきずる「虚ろさ」を帯びた俳優たちをウォン・カーウァイ監督はキャスティングしたようです(たぶん、そのせいでしょう、佐田啓二と岸恵子主演の昭和40年頃の松竹映画のリメイクを見ているような既視感を覚えました。あの頃の日本人はどんなににこやかにしていても、どこか「虚ろ」でしたから)。
おや、そう言えば、『2046』の時代設定も昭和で言えば40年から44年にかけての話だな。
小津映画の中で、佐田啓二や佐分利信が戦時中の経験を決して語らないように、『2046』の登場人物たちも、自分たちがどのような種類の「喪失」を抱えているのか、それを語ることがありません。
そもそも、彼らが自身について語ろうとしても、この映画では対話はつねに「相手に理解できない外国語」で語られるからです。トニー・レオンが広東語で語りかけることばにチャン・ツィイーは北京語で答え、フェイ・ウォンが愛のことばを日本語でつぶやくのはキムタク君がそこにいないときだけです。
ことばは誰にも届かない。
けれども人々は語ることを止めず、その誰にも届かないことばを、響きのよい音調で、あるいは絞り出すように、あるいはつぶやくように語り続けます。
おそらく、聴き取って欲しい人にことばの「意味」が届かないとわかったときに、人間はいちばん美しい「音声」を発して、それを補償しようとするからでしょう。
こういう映画については「プロットは?」「主題は?」なんて、野暮なことは訊いちゃだめです。泡立つように輻輳するその声に耳を傾けているだけで悦楽的な時間が過ごせるんですから。