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2005年5月 アーカイブ

2005年5月 3日

ミリオンダラー・ベイビー

『ミリオンダラー・ベイビー』(Milliondollar Baby By Clint Eastwood : Clint Eastwood, Morgan Freeman, Hilary Swank)

☆☆☆☆+1/2

 何かにすごく似た話だと思ったら(という書き出しは先月といっしょですね)、誰でも気がつく「あの物語」とまるで同じ話でした。
 そう、『あしたのジョー』です。
 泪橋の下の「丹下拳闘クラブ」が「ヒット・ピット・ジム」。そこにふらりと現れる、ボクシング以外にこの世の中に自分の足跡を残す術を思いつかない貧しい青年がヒラー・スワンク。彼女に世界チャンプの夢を託す老ボクサーがクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマン(この二人は、二人一役で「丹下段平」です。モーガン・フリーマンはちゃんと片目だし)。
 それにしても、『あしたのジョー』を「ヒラリー・スワンクでリメイク」というのは意外な線だけれど、私の見るところでは大正解だったと思います。
 ヒラリー・スワンクは出世作『ボーイズ・ドント・クライ』もそうでしたけれど、男性と女性の「中間」という立ち位置にあるとき不思議な輝きを発する女優さんです。彼女が放つオーラは、デミ・ムーアが『GIジェーン』で「男みたいな女」を演じたときに発散したぎらぎらした感じとはまるで異質のものです。それは、なんというか「さわがしくない性」なんです。「私は女よ!だから…」という押しつけがましさがどこにもない。「あ、そう言えば、私、女なんですけど、それが何か問題でも?」という肩の力の抜けた性意識なんです。彼女がクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという圧倒的な存在感をもつ名優に挟まれてなお堂々たる存在を示すことのできた理由はそこにあると思います。
 谷川俊太郎さんは「騒がしい詩」とそうでない詩の差についてこう書いています。
 「たった三行でも騒がしい詩というのはあります。(…)いま、だれもが『オレが、オレが』と自分を表現しようとしていることが、たぶん騒がしさのいちばんの源じゃないでしょうか。」
 ヒラリー・スワンクはこの映画で「騒がしくない性」を演じています(それは二人の男優も同じです)。その「静けさ」は引き続き谷川さんのことばを借りて言えば、「個人に属しているものではなくて、もっと無名性のもの」から生まれてきたものように思われます。それは彼女がボクシングをする理由が結局「よくわからない」ことにも通じています。女性であることを彼女が選んだわけではないように、ボクサーもたぶん彼女が進んで選んだ職業ではないのです。むしろ、ボクシングが彼女を選択したのです。彼女はその宿命に従って、「まっしろな灰に」向かう道を美しく、最高速で駆け抜けます。その点で、彼女は「矢吹丈そのもの」のように私には思われたのでした。

というのが読賣新聞『エピス』に寄稿したもの。
次は『エルマガ』に寄稿したもの。「クリント・イーストウッド監督作品に見るアメリカ」というお題があったので、内容がちょっと違います。

クリント・イーストウッドからはこれまでアメリカについてたくさんのことを教えてもらった。
開拓時代におけるキリスト教伝道活動のタフさについて知ったのは『ペイルライダー』によってである。
『許されざる者』はジョン・フォード以来のハリウッド西部劇に「黒人カウボーイ」が登場しないことを一度も不思議に思わなかった私自身の死角に気づかせてくれた。
そして、『ミリオンダラー・ベイビー』で、私はアメリカ男性の性意識がこれまでと全く違うタイプの女性像を「ヒロイン」として認識するまでに成熟したことを知った。
それは宿命と「闘う」女性ではなく、おのれの宿命をまっすぐに「受け容れる」女性である。
ヒラリー・スワンクはクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンの間に立って、彼らと同じように無欲で冷静で決然としている。そのような女性を「美しい」と感じる感受性を私は健全だと思う。

コンスタンティン

『コンスタンティン』(Constantine by Francis Lawrence: Keanu Reeves, Rachel Weisz)

☆☆☆+

「ぜんぜん似てない何か」に似ているなと思ったら、村上春樹の『アフターダーク』と
「まったく同じ話」であることに気がつきました。

村上春樹のすべての長編小説作品を貫く基本的な構図は『1973年のピンボール』にすでに予示されています。
私たちの世界にはときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」が入り込んできて、愛する人たちを拉致してゆくことがある。だから、愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、境界線を見守る「センチネル(歩哨)」が存在しなければならない…というのが村上春樹の長編の変ることのない構図です(ご存じなかったですか?)。

『コンスタンティン』は『アフターダーク』と同じく「センチネル」をめぐるお話です。
二人の「センチネル」(『アフターダーク』ではタカハシくんとカオルさん、『コンスタンティン』ではコンスタンティンとアンジェラ)が、「邪悪なもの」の領域へと滑落する境界線ぎりぎりまで来てしまった「若い女の子」を「底なしの闇」から押し戻します。「センチネル」たちのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的になる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復することになります。

「センチネル」たちの仕事は、わりと単純です。それを『ダンス・ダンス・ダンス』で、村上春樹は「文化的雪かき」と呼んでいました。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとでどこかでほかの誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」がこの世界に浸潤することを食い止めることはできない。

そうなんです。

実は、私たちの平凡で変化のない日常生活そのものが、気づかないうちに「世界の運命」に結びつけられ、世界の運命を決しています。そのことを実感するからこそ、村上春樹の小説の中の「センチネル」たちは、家を掃除したり、アイロンかけをしたり、パンの耳をきちんと切り落としたハムサンドを作ったりします(そういった「ささやかだけれどたいせつなこと」への気づかいだけが「異界からの邪悪な侵入者」を食い止める命がけの仕事を最終的に支えていることを彼らは知っているんです)。

『コンスタンティン』のラストで、コンスタンティン(キアヌ・リーブス)は「煙草」をやめて「ガム」を選択します。たぶん「一秒でも長生きしたい」と生まれてはじめて思ったからです。「一秒の命」という「ささやか」なものの「たいせつさ」を深く感じ始めたからです。コンスタンティンはこのあと「以前よりもっと優秀なセンチネル」になったに違いありません。

『アフターダーク』をまだ読んでない人は、読んでから行くといいですよ。たぶん100人中97人くらいは「ぜんぜん『違う話』じゃないか!ウソつき!」と思うでしょうけど、「同じ話」であることに気づいた3人の上には神の豊かな祝福があることでしょう。

冬のソナタにただ涙

『冬のソナタ』(製作・演出:ユン・ソクホ 出演:チェ・ジウ、ペ・ヨンジュン、パク・ヨンハ、パク・ソルミ)

☆☆☆☆☆

冬のソナタ』全20話を見終わる。
今頃こんなところに感想を記すのはまことに時宜を得ない発言であることは重々承知であるが、あえて言わせていただく。
泣いた。
ずいぶん泣いた。
ユジンが泣くたびに、チュンサンが泣くたびに、私もまた彼らとともにハンカチ(ではなくティシュだったが)を濡らしたのである。
『冬ソナ』は日本の中高年女性の紅涙を絞ったと巷間では喧伝されていたが、そういう性差別的な発言はお控え願いたいと思う。
五十余年の劫を経た老狐ウチダでさえ、「それから10年」というタイトルが出たところから(第三話の終わりくらいからだね)最後まで、暇さえあればむせび泣いた。
心が洗われるような涙であった。
「ユジン、戻り道を忘れないでね」
というところでは、頬を流れる涙を止めることができなかった。
ミニョン、おまえ、ほんとうにいいやつだな。
一方、サンヒョクが「ユジン、もう一度やり直さないか」と言うたびに、チェリンが「ミニョン、私のところに戻ってきて」と言うたびに、私はTV画面に向かって「ナロー、これ以上うじうじしやがると、世間が許してもおいらが許さないぞ」と頬を紅潮させて怒ったのである。
ともあれ、一夜明けて、われに帰ったウチダは、映画評論家として、この世紀の傑作についてひとことの論評のことばを述べねばならない。
私は自分が見る予定の映画については映画評というものを事前には読まないことにしている。
だから、『冬ソナ』について私がこれまで得た知識は、三宅接骨院の待合室でめくる女性誌の「ヨン様」関連記事だけであった。
さいわい、女性誌の提供する情報は、どのようなものであれ作品鑑賞上益するところも害するところも全くない(ということを今回しみじみ実感した。世にあれほど「情報的に無価値」な情報を提供するメディアが存在するということも驚嘆すべきことではあるが)。
女性誌の報じるとおり、ペ・ヨンジュンくんが本邦で「ヨン様」と呼称され、彼に関するいかなる貶下的コメントも熱烈なるファンたちから断固として排撃せられてきたその理由が私にはよくわかった。
それ以外に私はこの作品についての体系的批評というものを読んでいない。
唯一の例外は兄上さまから拝聴した「韓流ドラマ四つのドラマツルギー上の秘法」すなわち「身分違いの恋」(これは『初恋』についてのものであり、『冬ソナ』には適用されない)「親の許さぬ結婚」「不治の病」「記憶喪失」がドラマの綾となるという知見のみである。
しかし、私は今回韓国TVドラマおよび韓国恋愛映画に伏流するドラマツルギー上の定型が何であるかを確信するに至った。
それについてご報告申し上げたい。
それは「宿命」である。
宿命というと大仰だが、言い換えると「既視感」である。
「同じ情景が回帰すること」
それが宿命性ということである。
フロイトはそれを「不気味なもの」と名づけた。
重要なのは「何が」回帰するかではなく、「回帰することそれ自体」である。
わけもなく繰り返し訪れる「同一の情景」。
それに私たちは呪縛される。
同じ状況が意味もなく繰り返されるという事実のうちに私たちは人知を超えた何ものか、「神の見えざる手」を直感するのである。
「宿命」について、かつてレヴィナス老師はこう書かれたことがある。
宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。
はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。
はじめての出会いが眩暈のするような「既視感」に満たされて経験されるような出会い。
私がこの人にこれほど惹きつけられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、その人を失い、その埋めることのできぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。
それこそが宿命性の刻印なのである。
だから、どのような出会いも、作為なく二度繰り返され、そこに既視感の眩暈が漂うと、私たちはそこに宿命の手を感じずにはいられない。
『猟奇的な彼女』も『ラブストーリー』もそうだった。
『冬ソナ』は全編が「同一情景の回帰」によって満たされている。
そういう意味ではきわめて経済効率のよい脚本である。
なにしろ「同じ情景」が二度繰り返されると、みんな感動しちゃうんだから。
私だって、「その手はもうわかった」とうめいたこともある。
しかし、二度の交通事故、二度の「入院」による関係の断絶、そして繰り返される二人の偶然の出会い(一度目はチュンサンとして、二度目はミニョンとして、三度目はチュンサンとして、四度目は…)という「これでもか」とたたみかけるような「同一情景再帰の手法」の前にウチダはなすすべもなく、ただ滂沱の涙で応じるばかりだったのである。
ラストシーンで私はまた泣いた。
必ずや二人は偶然の糸に導かれてまた会ってしまうに違いないと知りつつ、その偶然の糸をウチダは「作為」ではなく「宿命」と呼びたくて、「宿命」の甘美さに、泣いた。
わかっちゃいるけどやめられない的に泣いた。
この確信犯的な「宿命の乱れ撃ち」に、条理をもって抗することは不可能である。
なんとでも言うがよろしい。
私はDVDを買うことにした。
おそらくこれから先、心が凍てつく夜が訪れる度に、私は「予定調和的な宿命」というドラマの不条理に「やっぱ人生って、こうじゃなくちゃ」と深く頷きつつ、熱い涙を注ぎ続けるであろう。

と書いたそのあとに『僕の彼女を紹介します』も同じ話でした、というご報告を頂いたので、さっそく見る。
同じ話であった・・・

「僕の彼女を紹介します」・・・って「誰」に向かって言ってるんだよ

『僕の彼女を紹介します』(監督:カク・ジェヨン 出演:チャン・ジヒョン、チャン・ヒョク、チャ・テヒョン)

☆☆☆☆

『冬ソナ』について、私はこう書いた。

はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。
はじめての出会いが眩暈のするような「既視感」に満たされて経験されるような出会い。(・・・) 『猟奇的な彼女』も『ラブストーリー』もそうだった。

『僕の彼女を紹介します』も、そういう映画だった。

驚くべきことは「最初なのに二度目の出会い」の相手が『猟奇的な彼女』でそれと知らずに二度出会うことになるチャ・テヒョンくんであったこと。
それと知らずに三回目。
もはや複数作品を貫いて「宿命」の糸はチャン・ジヒョンちゃんを深く深く繋縛しているのであった。
他の映画を参照することなしには単独の映画に刻印された宿命性が理解できないほどに重複する物語。
あ、そういえば映画の中の「劇中劇」シーンでは『ラブストーリー』ですぐ卒倒しちゃう長身痩躯のイ・ギウくんが出てきて、ばたばたと二回卒倒してみせてくれた。
当然これは「『ラブストーリー』も併せてご覧ください」という「目配せ」なんだろう。
そこに存在しないものと照合することによって浮かび上がる宿命性・・・
恐るべし韓国恋愛映画!

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