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2005年02月 アーカイブ

2005年02月03日

きみに読む物語

☆☆☆+1/2
『きみに読む物語』(The Notebook, 2004 by Nick Cassavetes : Ryan Gosling, Rachel McAdams, Gena Rowlands, James Garner)


 アメリカで大ヒット。『マディソン郡の橋』を抜いて、恋愛映画の歴代興収第二位(ところで歴代一位は何だと思います?『めぐり逢えたら』ですって。でも、こんな題名じゃどんな映画だか誰も思い出せませんね。『シアトルの不眠男』(Sleepless in Seattle) でいいじゃないですか。「あ、トム・ハンクスがメグ・ライアンとエンパイアー・ステートビルで会うやつね?」そうそう、あれです)。
 閑話休題。でも『めぐり逢えたら』や『マディソン郡』とこの映画を比べて論じたいんじゃないんです。私がこの映画を見て思い出したのは『ビッグ・フィッシュ』と『シービスケット』でした。
 そこでみなさんに質問です。この三本の映画に共通しているものは何でしょう?
 「昔の話?」
 そう。それが第一点ですね。髪の毛をポマードでなでつけて、帽子をとるとぱらりと前髪が垂れるゆったりしたスーツ姿の男たち。やっぱり帽子をかぶってふくらはぎまで隠れるぴったりしたスカートをはいた赤い口紅の淑女たち。そして顔が映るほど磨き上げられた40―50年代の悦楽的なラインのスポーツカー…アメリカの観客がいまいちばん見たがっているのは、「あの時代」の風景なんですね。
 あと何でしょう、三作品の共通点。
 「田舎の話?」
 ピンポン。都会のシーンがほとんど神経症的に削除されているんですね、これらの作品では。ここにはコンピュータも、テレビも、地下鉄も、ラッシュアワーも、摩天楼も出てきません。その代わりにあふれるほど美しく生き生きとした自然がたんねんにフィルムに焼き付けられています。
 そうなんですよ。アメリカの観客が今いちばん見たがっているのは、「1930-50年代くらいの時代背景」「アメリカの田園(できたら南部諸州のどこか)」で展開する「純愛物語」なんです。
 純愛が純愛であるためには条件が必要です。それは「身分違いの恋」、「逆らうことのできない親の命令」、「不治の病」。ここに「記憶喪失」が加われば完璧(そう、『きみに読む物語』はハリウッド版の韓流TVドラマだったんです。これはびっくり)。
 でも、私がもうひとつ気になったのは、ハリウッドがニューヨークとロサンゼルスを映画の舞台にするのを止めて、アメリカの理想的なライフスタイルの原点を「ブッシュの支持層」が集住しているエリアに求め始めたことです。この傾向はこれからさらに加速するであろうと私は予測しています。
 ですから、ハリウッドの辣腕プロデューサーは必ずや近々「1950年末の、アメリカの南部で、権威的な親と葛藤しつつ、身分違いの恋に身を灼くナーバスな若者」を描いた映画を撮るはずです(あら、『エデンの東』をリメイクすればいいんじゃないですか)。

ハウルの動く城

☆☆☆☆☆
by 宮崎駿 声の出演:倍賞千恵子・木村拓哉・美輪明宏・我集院達也

『ハウルの動く城』を見に行く。
映画館の前にゆくと長蛇の列である。
げ、まだそんなに客が入るのかよと驚いていたら、それは『Tokyo Tower』の方の列であった。「『東京タワー』ってどんな映画なの?」と聴くと「黒木瞳と岡田准一が年の差なんか超えた愛を貫く話」であるという回答が得られた。『さよならをもう一度』みたいな映画なのかな(なんて言っても誰も知らんか。年上の人イングリット・バーグマンがアンソニー・パーキンス青年に許されぬ恋心を抱くのを、訳知りおじさんイブ・モンタンが苦悩しつつ受け容れるというハートエイキングな名画である)。
しかし、黒木瞳と岡田准一のまんまTVで見られそうな恋愛ドラマを見るために平日の昼間から若い女性およびあまり若くない女性が長蛇の列をなしているというのはどう理解すればよろしいのであろうか。
私にはよくわからないし、ぜひとも考究したいという意欲もわかないので軽くスルー。
さいわい『ハウルの動く城』は五分の入り。「子連れの母」たちが多い。
子供がわいわい騒いでいる映画館で映画を見るというのも久しぶりである。
私はこれから劇場で見る予定の映画については一切映画評というものを見ないことにしているので、どういうストーリーでどういうねらいでどういう俳優が出ているというようなことは何も知らない。
だから、最初にソフィーの声を聴いたときに、「どこかで聴いたことのある声だなあ…」と考えて「あ、さくらの声だ」と気がつくまで10分くらいかかり、ハウルの声を聴いてから「どこかで…」(以下同文)、カルシファーの声を聴いて「どこかで…」でこれは最後のクレジットを見るまでわからなかった(『鮫肌男』の我集院達也=若人あきらさんでした)。
ストーリーも「若い女の子が呪いをかけられておばあさんになる」ということしか知らなかった。
何も知らないで見る映画は実に愉しい。
わくわくどきどきの二時間でした。
宮崎駿はそれにしてもほんとうに「産業革命直後のオーストリアあたり」の風景が好きなんだ。
前世では19世紀のウィーンでパン屋でもやっていたのではないか。
そんな気がするほどに、細部にリアリティがある。
家具や壁や床の「質感」や「温度」や「凹凸」まで画面を見ていると感じ取れる。
そんなアニメ作れる?ふつう。
第二帝政期の装飾のある部屋の温度や湿度や匂いや家具の手触りなんて、「そこ」にいたことのある人間にしかわからないと思う。
すごいよな。それだけでも他の追随を許さないと私は思う。
それに宮崎自身もいちばん見て欲しいのは、そういう細部の「書き込み」だと思う。
黒澤明は『赤ひげ』のセットで、小石川療養所の赤ひげの診療室の薬草棚の全部にほんものの薬草を詰めたそうである。
もちろん画面には映らない。薬草を取り出すシーンなんてないんだから。
でも、映画を見るとたしかにそれは薬草がぎっしり詰まっている棚のように見える。
重みや匂いが「わかる」のだ。
それと同じような「厚み」が宮崎駿のアニメにはある。
たぶんあの「動く城」についても宮崎は精密な「図面」を書いていて、どこに何があって、どういう「隠し階段」や「隠し部屋」があるか、どの棚にはどんなお皿が入っているか、どの箪笥にはどんなリネンが入っているかまでぜんぶきっちり書き込んだはずである。
もちろん、そんなものは画面には映らない。
でも、見る人には「わかる」。
子供だって(むしろ子供の方こそ)そういうところをちゃんと見ている。
だから、「ジブリのアニメはすごい。ほかと全然違う」ということがわかるのだ。

2005年02月04日

8 Mile

(2002 by Curtis Hanson : Eminem, Kim Basinger, Mehki Phire)

「エミネム」というのが曲名なのか個人名なのかバンド名なのかはたまたレーベル名なのかさえ知らないヒップホップ無縁人間のウチダがなぜこのような映画を。
それはアーロン・マッグルーダーのマンガ『ブーンドッグス』(町山智浩訳、幻冬舎)で主人公のヒューイ・フリーマン(戦う小学生)がラッパーの「品定め」に熱中しているのを読んでから、「ラップって何なの?」ということにちょっとだけ興味が湧いたからである。
見て、びっくり。
この映画の中のラップはすべて「韻を踏んだ悪口」なのである。
ラップって、そういうもんだったのか。
おじさん、知らなかったよ。
ヒップホップ・バトルというのは出てきた二人が相手をいかに舌先三寸で傷つけて失語症に追い込むかという「勝負」である。
『朝まで生テレビ』の「タイマン45秒ヴァージョン」と考えていただければよろしいかと思う。
あるいは「水無瀬三吟」のデトロイト版というふうにみなすこともできるかもしれない(いちおう「脚韻を踏む」たびに「座布団一枚」的リアクションが観客から得られるから)。
映画の字幕では「ライム」と表記してあったけれど(「おまえのラップにはライムがない」というふうに)、日本の高校生は「ライム」というカタカナからrhymeという英語をただしく読み当てることができるのであろうか?
むしろ、「ラップと柑橘類の間にはどのような関係があるのか」にひそかに苦悩する内省的な若者を輩出することになりはしないかとウチダは危惧する。

私は音楽やことばが専一的に「誰かを傷つける」ために用いられ、その目的が「目の前にいる相手を沈黙させる」ことであるというヒップホップ・バトルの戦略を少しもよいものだとは思わない。
そのようなところで「勝つ」ことが勝者になにか「よきもの」をもたらすとも思わない。
これは音楽とことばと、人間そのものに対するある種の「暴力」である。
この映画では白人ラッパーB・ラビット(エミネム)は、自身が「ホワイト・トラッシュ」(クズ白人)であること、ビンボーで無教養で向上心はないけど一攫千金を夢見ることは止められないおバカであるという事実を「全肯定」することによって、プチブル出身の黒人ラッパーを「黙らせる」ことに成功する。
この戦略が短期的に有効であることに私は同意するが、長期的には帳尻の合わないバーゲンであると思う。
かつて高田渡はこう語ったことがある
「ぼくは貧乏人には絶対同情しない。貧乏であることを肯定した貧乏人はそれで楽になるからだ。」
自分がろくでもない人間であることを承認せよと社会に迫るのは悪いことではない。
けれども自分がろくでもない人間であることを自分に承認させるのはほとんど自殺行為にひとしい。

これがこの15年ほどアメリカの音楽シーンでドミナントで先端的なジャンルであり若いアメリカ人たちがこのような音楽に選択的に耽溺しているという事実はジョージ・ブッシュのような人間が大統領になるという事実とおそらく平仄が合っているように私には思われる。
コール・ポーターやホギー・カーマイケルやグレン・ミラーの音楽を愛してきたアメリカ人はもう絶滅しつつある。
私が『8マイル』を見て抱いた印象は、「アメリカの没落は私の悲観的予想を上回る速度で進行している」ということである。

2005年02月08日

Intolerable cruelty

『それはないでしょ』(Intolerable cruely by Joel & Ethan Cohen : George Clooney, Catherine Zeta-Jones, Billy Bob Thorton)
☆☆☆+

邦題はそんなんじゃなかったようだけれど、忘れちゃったので、私が勝手につけさせていただきました。
ジョージ・クルーニーはコメディがやっぱり似合いますね。
コーエン兄弟の映画は『O Brother! Where art thou?』(「おい兄弟、どこだよ?」)以来ですが、息がぴたりとあってます。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズも性格の悪さをまんまキャラにしていますので、水を得た魚のようで。
ちょい役のビリー・ボブ・ソーントンが相変わらずいい味です。
ハリー=ディーン・スタントンといい、「テキサスの馬鹿な田舎者」役を演じる俳優というのは不思議なことに実は非常に内省的で知的な人物なんじゃないかなという気がします。
つまりテキサス的なものを「笑い飛ばす」行為そのものが知性に媒介されないと不可能である、ということが言外に暗示されているという。
これもきっとハリウッドの南部に対する無意識的な差別の表出の一つなんでしょうね。
だって、考えてみて下さいよ。
『悪魔のいけにえ』とか、そのリメイク版『テキサス・チェーンソー』みたいな映画って、日本で言ったら『鹿児島チェーンソー殺人鬼』とか『青森の人肉男』とか、そういうタイトルなんですよ。
日本だったら、絶対鹿児島県知事や青森県議会からクレームがついて、ことによったら九州東北では上映禁止運動だって起こってもおかしくないような地域差別的な内容なんですから。
そういう可能性をはなから排除してハリウッドの諸君が映画を作っているということは、彼らは南部の観客の「批評性」というものを「ゼロ査定」しているということですよね、きっと。
ハリウッド映画が『イージーライダー』以来どれほど南部諸州を「未開地」として表象してきたか、考えると恐ろしいばかりですが、そのことを指摘した批評家を私は寡聞にして知りません。

2005年02月27日

エターナル・サンシャイン

Eternal Sunshine of the Spotless Mind, directed by Michel Gondry : screenplay by Charlie Kaufmann : Jim Carrey, Kate Winslet, Kirsten Dunst, Elijah Wood
☆☆☆☆

日本人は年末になると『忠臣蔵』映画が見たくなります。同じようにアメリカのみなさんは年に一度『クリスマス・キャロル』映画が見たくなる。これは私が最近発見した「ハリウッド映画の隠された法則」の一つです。
『クリスマス・キャロル』というのはご存じディケンズの小説で、強欲な金貸しのスクルージ爺さんがクリスマスの夜に夢の中で彼自身の人生の過去、現在、未来のヴィジョンを見て、おのれ生き方の間違いを知り、目覚めるとすっかりよい人になりました…というお話です。おのれの人生を凝縮した時間のうちに幻視することによって「回心」を経験する、という話型はどうやらアングロ・サクソンの方々の琴線に触れるもののようです。

この『エターナル・サンシャイン』も「クリスマス・キャロルもの」に分類してよろしいと思います。主人公の青年ジム・キャリー(たいへんまじめに演じています。走るときだけ「ジム・キャリー」が出ますけど、それくらいは許してあげないとね)と恋人(ケイト・ウィンスレット)が喧嘩のあとに、それぞれ「記憶を消す」サービスを受けて、相手のことを忘れてしまう。そして二人とも相手が自分のかつての恋人であることを忘れたままに出会ってしまう…というわくわくする設定です。

で、どこが「クリスマス・キャロル」かと言いますと、記憶を消去する手術のさなかにジム・キャリーくんが自分の記憶の中に分け入って過去を「もう一度リアルに生きる」という経験をするところです。そうすると、過ぎ去ってしまって、もうその意味が確定したはずの過去の出来事が「別の意味」をもって甦ってくる。

人間て不思議なもので、確定したはずの過去に「別の解釈可能性」があり、そのとき「別の選択肢を取った場合の私」というものがありえたと思うと、なぜか他人に優しくなって、生きる勇気がわいてくるんです。

これは本当。若い人も長く生きてればわかるようになります。

さて、ジムくんとケイトくんは再び恋に落ちるのでしょうか。それとも別の人生を選ぶのでしょうか?
答えはもうおわかりですね。
『クリスマス・キャロル』と同じように、二人は「同じだけれど違う人生」を生きることになるんです。
なんていいお話なんでしょう。
 

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