シン・シティ
監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー、クエンティン・タランティーノ、出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジョシュ・ハートネット、ジェシカ・アルバ
いやー面白かった。最高。映画ファンのみなさん、必見!ですよ。
フランク・ミラーのコミックスを漫画家自身が共同監督したので、映画というよりは「実写漫画」という方が適切かも知れません。相方のロバート・ロドリゲスも『デスペラード』に『フローム・ダスク・ティル・ドーン』に『スパイ・キッズ』と劇画センスの人だし。
そのわざわざしつらえた「嘘っぽさ」がなんとも不思議なリアリティを作り出しています。
ふつうの映画だと「いかにもほんとうらしく嘘の話をする」わけですが、『シン・シティ』はそれとは逆に「いかにも嘘くさく、嘘の話をする」のです。そんなことあるわけないでしょ的なシーンでは、「みなさん、こんな話あるわけないですよね」という目配せがフィルムメーカーから観客に送られます。この作法がまことに理性的でクールなものに私には思われました。
だって、そうでしょ。「嘘ですよね。こんなの、ありえませんよね」というシグナルを送ってくるフィルムメーカーと観客は当然「同じ現実」の中にいるわけですね。映画内の出来事は「嘘くさい作り話」というくくり方をされて「私たちの現実」からは排除される。でも、フィルムメーカーと観客とが「同じ現実」の中にいるということになると、そこから排除された映画内的現実は引き取り手を失って浮遊し始めてしまう。
これは呪術医の治療術と少し似ています。呪術医は患者を責めません。「あなた自身の生活習慣が悪いから病気になるんだよ」というようなことは(それが真実であっても)決して口にしない。そうではなくて、医者と患者が「こちら側」にいて、協力し合って外界から到来した「病魔」と戦うという「物語」のうちに患者を巻き込んでしまうのです。そうすると患者はいつのまにか「病魔」という悪霊が実際に存在するように思い始める・・・
映画も同じです。映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が「同じ側」に立って映画内現実をみつめているという状況設定が必要なのです。「こちら」にフィルムメーカーと観客、「あちら」に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間たちが作り出したものではなく)、固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです。『カリガリ博士』のロベルト・ヴィーネ以来、真に創造的なフィルムメーカーは(タランティーノもその一人です)そのことを知っています。
ですから、『シン・シティ』の世界では、ブルース・ウィリス演じる「あれから十七年経ったジョン・マクレーン刑事」や「いつもの」ベネチオ・デル・トロよりも、人間離れした「野獣」メイクをしたミッキー・ロークやジョシュ・ハートネットの詩人殺し屋の方がむしろリアルでフィジカルな存在感を帯びてしまうのです。