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2006年12月 アーカイブ

2006年12月31日

ミュンヘン


『ミュンヘン』(監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、エアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ)

 1972年のミュンヘンオリンピック開催中に起きたパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手襲撃事件を覚えていますか。試写会を一緒に見に行ったIT秘書のイワモトくんは「ぼくが生まれる前ですから・・・」と首を振っていました。そうか、ブラック・セプテンバーを知らないのか。ジョルジュ・ハバシュとかバーダー=マインホフとか、そういう名詞を耳にするとついどきどきしてしまうのは私たちの世代が最後なんですね。
さて、気を取りなおして。この映画の心情的な通底音は、「アメリカに住むユダヤ人がイスラエルに対して感じる疚しさ」です。ちょっと日本人には想像がつきにくい感情ですけど。
現在アメリカに住んでいるユダヤ人たちは、もう十分にアメリカ社会に根づいているにもかかわらず、「もしもここでまたホロコーストが起きたら・・・」という悪夢のような想像からはなかなか逃れることができません(意外に思われるかも知れませんが、アメリカにおける反ユダヤ主義はいまだに根深いものがあるのです)。万が一そのようなことが起きたとしても、逃れるべき「祖国」があるということが彼らを心理的に支えています。イスラエルという「心理的な支え」があるからこそ、アメリカのユダヤ人たちは「普通の生活」を享受できているのです。
しかし、当のイスラエルでは人々は存亡をかけた戦争を繰り返し、日常的にテロに脅かされ、テロを行っています。ですから、「私たちアメリカのユダヤ人は、イスラエルに踏みとどまっている同胞の血と罪によって、おのれの市民的平和を購っているのではないか?」という疚しさは程度の差こそあれアメリカ・ユダヤ人のうちに伏流しているのです。
自身がユダヤ人であるスピルバーグが主人公の「テロリスト狩り」アヴナー(エリック・バナ)を通じて描こうとしたのは、そんな「アメリカ・ユダヤ人の疚しさ」です。
孤立無援の暗殺者集団を率いて、冷血な殺人を繰り返すアヴナーは、自分が手を汚すことで、イスラエルの同胞の「普通の生活」を支えているのだと言い聞かせます。誰かがこういう「汚れ仕事」を引き受けなければいけない。その仕事を通じて仲間を失い、悪夢に取り憑かれるようになっても、誰かがそれを引き受けなければならない。それならば私がやろう。
そんなアヴナーの「献身」は、イスラエルがアメリカのユダヤ人に対して示している「献身」と同質のものではないかとスピルバーグは感じているようです。
映画の中では、やがて、「汚れ仕事」を通じて守ろうとした同胞への愛と、自分にだけ「汚れ仕事」をおしつけて素知らぬ顔をしている同胞への憎しみにアヴナーは引き裂かれ始めます。それは逆から見ると、イスラエルだけに「汚れ仕事」を押しつけてきたアメリカ・ユダヤ人たちがイスラエルに感じている「疚しさ」の構造そのものです。
この映画は「善玉イスラエル」が敵のゲリラを虐殺してみせる(『ランボー3』のような)「戦意高揚映画」ではありませんし、「イスラエルとパレスチナは今すぐにも愛し合える」という幼いオプティミズムとも無縁です。むしろイスラエルがどのように「汚れているか」を正面から描き、そのような状況を作り出し、維持していることに現に加担している「私」自身の罪深さを問うというしかたで、ユダヤ人の民族意識の「成熟」を示したもののように私には思われました。どなたも必

『Vフォー・ヴェンデッタ』

(監督:ジェイズ・マクティーグ、脚本:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー、出演:ナタリー・ポートマン、ヒューゴ・ウィービング、スティーブン・レイ、ジョン・ハート)

ご承知の方も多いと思いますが、この映画は去年のロンドンの地下鉄バスの連続爆破事件のせいで公開延期になりました。なにしろ地下鉄車両に積まれた爆弾でウェストミンスター宮殿を爆発させようとするテロリストがヒーローという話なんですから、テロ直後の公開は無理です。ようやく公開の運びとなってよかったですね。
 タイトルから内容を推測するのは絶望的に困難ですが、「ヴェンデッタ」はイタリア語で「家族ぐるみの仇討ち」のことです。『ゴッドファーザー・パート2』で、ヴィトー・コルレオーネが故郷のシシリアに戻り、かつて父と母と兄を殺したドン・チッチオの腹にナイフを突き刺す、あれが「ヴェンデッタ」。
この映画での復讐者はV(ヴィー)と名乗る仮面の男。ですから、『復讐鬼V』というような邦題を想像してご覧いただくとよろしいかと思います。その仮面の復讐鬼が独裁者サトラー(もちろんサッチャーとヒトラーという二つの名前からのパロディですね)の支配する暗黒の近未来イギリスで、言論・集会結社の自由のために民衆を率いて立ち上がるというたいへん「政治的に正しい」映画です。
 ストーリーラインはジョージ・オーウェルの『1984』から、圧制下の民衆たちの暗い生活はフリッツ・ラングの『メトロポリス』とトリュフォーの『華氏451度』から、民衆蜂起のシーンはジッロ・ポンテコルヴォの『アルジェの戦い』から・・・と映画からの引用は無数ですけれども、ストーリーの骨格をなしているのは意外にも『モンテクリスト伯』と『紅はこべ』という「革命エンターテイメント」の古典です。テロリストにしては、Vの雰囲気がなんとなくおっとりしているのは、主人公が「動乱の渦中における騎士的ふるまい」にこだわりがあるせいです(その点ではVは「卑しい街の騎士」フィリップ・マーロウに似ていないもありません)。
Vはもちろんハリウッド・ヒーローですからアクションでも強いのですが、彼の武器はむしろ知謀と教養です。Vが「巻き込まれ型ヒロイン」イヴィー(ナタリー・ポートマン)をテロリスト仲間に引き入れるのに成功するのは、その趣味のよさ(特にジャズの選曲)とシェークスピアをツボにはまったタイミングで引用してみせる教養の深さによってなんですが、最大の魅力は声。
Vを演じているのは最後まで一度も仮面を取らないヒューゴ・ウィービング(『マトリックス』のエージェント・スミス)。彼はものすごく声がよいんですね。『マトリックス』の冒頭で黒塗りの車から降りてきたエージェント・スミスが「警部補、特別指令(スペシフック・オーダー)を受け取ったはずだが」という最初の台詞で、ヒューゴ・ウィービングは「スペシフィック・オーダー」の「スペ」と「シフィック」の間を区切って発音します。俳優の声にこだわる観客はこの最初の台詞で「むむ、おぬし、やるな」と身構えたはずです(私は身構えました)。ヒューゴ・ウィービングは人間の発するどのような音韻が浸透性を持つか(つまり、内容にかかわらず身体にしみこんで、説得されてしまうか)を熟知しているようです。
 この映画はいろいろな見方で楽しめますが、私はストーリーもナタリー・ポートマンのかわいさも二の次で、Vの深みのあるバリトンに身を委ねるという悦楽的な仕方で132分を過ごしました。ものすごくいい気分でした。

間宮兄弟

『間宮兄弟』(監督・森田芳光:出演:佐々木蔵之介、塚地武雅、常盤貴子、北川景子)

これは「オタク映画」です。もちろん、これまでも「オタクのための映画」は無数に存在しました。しかし、『間宮兄弟』は『攻殻機動隊』とか『美少女戦士セーラームーン』のような「オタクのための映画」ではありません。これは「オタクについての映画」です。
ちょうどすぐれた人類学者があふれるほどの好奇心と控えめな好意をもって見知らぬ社会集団の人々の生活習慣や神話や親族制度について中立的な記述をめざすように、森田監督は「オタク」と呼ばれる先進国に固有のある種の「民族誌的奇習」に、予断を排した、クールで暖かいまなざしを向けています。
 そろそろ中年にさしかかった間宮兄弟は「真性オタク」です。私見によれば、オタクの「真性度」は、オタク・アイテムのコレクションの充実とか、トリビア知識の多寡で計測できるものではありません。そうではなくて「決して裏切らないもの」に対する忠誠の深さによって考量されます。
 オタクがもっとも愛するものは何よりもまず「精密で機能的なメカニズム」です。
「間宮」という姓が「田宮模型」と「マブチ・モーター」という、日本のオタクたちが変わらぬ敬意を捧げる「決して裏切らないメカニズム」のメーカーに対するひそやかなオマージュであることに、みなさんはお気づきになりましたか?
 オタクは「決して裏切らないもの」に忠誠を誓います。
ですから、オタク男性の最初(にして最大)の偏愛の対象がしばしば「母親」であるのも当然のことです。この映画では中島みゆきが間宮兄弟を圧倒的な愛情で包み込む母親を演じています。
「若く美しい女たち」にも、もちろんオタクたちは強い固着を示します。でも、それは彼女たちの行動が母親とはちょうど逆の方向に首尾一貫しているせいです。つまり、「若く美しい女たち」は「オタクの一途な愛を歯牙にもかけず一蹴する」という仕方において、決して彼らの期待を裏切ることがありません。
いささか分析的な言い方になりますけれど、オタクたちはうっかりと「若く美しい女」との関係が好調に展開しそうになると、むしろそれを進んで台無しにして、「オタクに惚れる女はいない」という不易の真理を確認しようとします。不思議なことに、本人たちは自分たちが無意識のうちにそんな行動を選択していることに気づいていません。
間宮兄(佐々木蔵之介)はいかなる嗅覚によってか、逡巡の末に、女の子をデートに誘うのには微妙に悪いタイミングを狙い澄ましたように発見します。間宮弟(塚地武雅)は男が厭わしく思われるタイプの行動だけを選択的に取り続けます。そうして、それぞれみごとに求愛に失敗します。
でも、そもそも、間宮弟が二人の若く美しい女性(常盤貴子、北川景子)を兄のために取り持とうとするのは、「若く美しい女性」の方がそうでない場合よりも兄の期待を裏切る可能性が高いことを彼が知っているからです。弟は兄の恋が成就しないことをひそかに望んでいるのです。でも、彼は自分がそんな欲望を持っていることを知りません。
ラストシーンで間宮兄弟は少し悲しげに「二人だけの世界」に予定調和的に閉じこもります。「必ずや彼らを裏切るであろう」という彼らの予想を裏切らなかった女たちのメカニズムの精密さにひそやかな賛嘆の念を抱きながら。
 彼らはまさに「お宅」(chez soi)に釘付けにされていることそれ自体から尽きせぬ快楽を汲み出すことのできる人々なのでした。
オタク、恐るべし。

ダヴィンチ・コード

『ダ・ヴィンチ・コード』(監督:ロン・ハワード、出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、ジャン・レノ)

 映画の公開と同時にアメリカのカトリック団体がソニーに抗議するという事件が起きました。どうして『ダ・ヴィンチ・チコード』でソニーなの?と不思議に思われることでしょうが、これは、映画の内容がカトリック信徒10億人を侮辱するものであるとして、アメリカで反中絶運動などをしている団体が配給元のソニー・ピクチャーズへのペナルティとしてソニー製品の不買運動を提唱したからです。
イエスがマグダラのマリアを妻としていて、子どもがあり、その子どもの血脈が代々伝えられて今に至る。さて、イエスの末裔の運命や・・・という物語が「けしからんヨタ話だ」だということなら、ダン・ブラウンの原作がベストセラーになった段階で「こんな小説を映画化したら許さないぞ」とアナウンスしていただいておいてほしかったとソニーの役員会では今頃みなさん頭をかかえていることでしょう。ひとごとながら、お気の毒です。
その後の報道では、ロシアやフィリピンやソウルやインドでも上映禁止運動が起きているそうです。今のうちに見ておかないと上映禁止になってしまうかも知れないから「早めに見ておこう」と映画館に走っている人もいるでしょうし、世界中のメディアが毎日『ダ・ヴィンチ・コード』の宣伝をしてくれるんですから、ソニー・ピクチャーズ的には「おいしい営業」なのかも知れません。
でも、『ダ・ヴィンチ・コード』をめぐる一連の事件は間違いなく「キリスト教のドグマはどんなふうにして成立したか」というふだんなじみのない主題に私たちの目を向けさせてくれるという功績がありました。
「イエスは人間か神か?」という問題はパウロの時代から信徒たちを悩ませてきた難問ですが、イエスの死後325年経ってから、ニカイア宗教会議で「イエスは神の子で、父なる神と同一の神性をもつ」ということが機関決定されました。でも、それからも「イエスは人間である」という教えを信じるキリスト教徒はいなくなったわけではありません。原作者のブラウンはもしかすると「『イエスは人間である』というニカイア宗教会議以前の古い教えを奉じるキリスト教徒」(どこに隠れていたんでしょうね)なのかも知れません。
だとすると、『ダ・ヴィンチ・コード』はキリストの血脈をめぐるエンターテインメントであるというにとどまらず、それ自体がキリスト伝承の「読み換え」を要求する宗教的異議申し立てでもあるということになります。これで教皇庁が狂信的なカトリック組織に『ダ・ヴィンチ・コード』上映禁止運動やソニー不買運動に黙許を与えたということにでもなると、「あれ?それって、『ダ・ヴィンチ・コード』のまんまやん」ということになります。「ヨタ話だ」と批判されればされるほど「ヨタ話」の信憑性が高まる仕掛けとは。『ダ・ヴィンチ・コード』、侮りがたし。
映画は長い原作を二時間半に手際よく圧縮してあって、謎は次から次へとハイスピードで解決されますから、「イラチ」なあなたにはぴったりです。でも、英語をしゃべるオドレ・トトゥが『アメリ』のときほど可愛くないのがちょっと残念。トム・ハンクスくんは次回出演作までに、おでこの縦じわをなんとかしておいたほうがいいと思います。

『M:i:III』 

(監督:J.J.エイブラスム、出演:トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ヴィング・レイムス、マギー・Q)

ジャン!ジャン!ジャンジャン!と『スパイ大作戦』のテーマが流れると、TVシリーズを見ていた人間としては、やはりどきどきしますね(「ジャン!」だけじゃ、曲知らない人にはまるでわかんないですけど)。作曲はラロ・シフリン。知りませんか?ラロ・シフリン。『燃えよドラゴン』と『ダーティ・ハリー』のテーマを作曲した人です。この人の曲が流れてくると、70年代はじめのアメリカ映画のざらっとした粒子の粗い映像の感触が蘇ってきます。
だから、『M:i:III』というタイトルはその点ではかなり不満です。やはりここは『スパイ大作戦・法王庁の抜け穴』くらいの中学生的タイトルにして欲しいです(だいたい「そういう」映画なんですから!)。なんですか、「エム・アイ・スリー」って。ひとこと文句言わせて頂きますけれど、最近の洋画タイトルはカタカナが多すぎますよ。トム・クルーズの出演作にしても、『宇宙戦争』や『七月四日に生まれて』のような日本語タイトルだとすぐに画面が浮かんできますけれど、『コラテラル』とか『ザ・エージェント』とか『ア・フュー・グッドメン』とか、どんな映画だったか、とてもすぐには思い出せません。だいたい『コラテラル』なんて英語の意味、知っている中学生いませんよ。お願いだから、ボンクラ中学生が汗で湿った百円玉握りしめて映画館に走りたくなるようなタイトルをつけてくださいね。
さて、肝心の映画ですが、コンテンツは中学生的にはたいへん面白かったです。アクション映画はこうでなくっちゃね。
映画のあとに生ビールを飲みながら「でも、どこか既視感があるね」という話をしていたら、一緒に試写会に来たウッキーが「先生、あれは『ルパン三世』ですよ」と教えてくれました。おお、そうか。そういえば、イーサン・ハントさまご一行は男性三人に女性一人。ルパン、次元、五右衛門に峰不二子・・・キャラ設定まで、そっくりじゃないか!「銭形警部がロレンス・“モーフィアス”・フィッシュバーンですね。」ほんとだ、顔の輪郭が似てる。
「それからバチカンで塔の中を昇ってゆく場面ありますね。」あったね、あまり意味のないシーン。「あれはルイジですよ」。ほんとだ。あれ、『スーパーマリオ』じゃないか!
 いやあ、J・J・エイブラムス、舞台挨拶でお姿を拝見して、これぞ「全身総オタク」ということはわかりましたが、なるほど日本サブカルチャーへの造詣の深さは侮りがたいものがあったのでした。
 映画の最後で、イーサン・ハントが妻に「実はぼくはIMFという政府の秘密機関に勤めているんだ」と告白します。もちろん「国際通貨基金」じゃありませんよ。何の略語なんだろうとぼくもどきどきしてイーサンの次の言葉を待ちました。
なんとこれがImpossible Mission Force の略でした。「不可能使命軍団」。あら、映画のタイトル、これにすればよかったじゃないですか。

スーパーマン・リターンズ 

(監督:ブライアン・シンガー、出演:ブランドン・ラウス、ケイト・ボスワース、ケビン・スペイシー)

 世論調査によると、アメリカ人の95パーセントは「神あるいは偉大なるもの」の存在を信じているそうです。意外かもしれませんが、世界でもっとも宗教的な国なんです、アメリカは。
CCMってご存じですか?ご存じない?CCMは「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック」のこと。オークランドのマチヤマさんから聴いた話では、CCMにはクリスチャン・アイドル、クリスチャン・ヘビメタ、クリスチャン・ハードコア・パンク、クリスチャン・テクノ、クリスチャン・ギャングスタ・ラップなど、あらゆる音楽ジャンルがあって、クリスチャン・パンクなんかだと、ミュージシャンは頭はモヒカン、全身タトゥーにピアスで、ギターをぎんぎん鳴らしてライブをやるけど、歌詞はすべて「イエスを称える」内容なんだそうです。共和党とFOXテレビの強力なプッシュを得て、中西部では大人気な音楽ジャンルだそうです。
そんなディープにリリジャスなアメリカからこの夏ニッポンに届いたコンテンポラリー・クリスチャン・ムーヴィー。それが『スーパーマン・リターンズ』です。
お話は78年のクリトファー・リーヴの『スーパーマン』の続き。地球を離れて五年。久しぶりにメトロポリスの『デイリー・プラネット』社に戻ってきたクラーク・ケント(ブランドン・ラウスは先代クリトファー・リーヴの顎を少しほっそりさせた涼しい風貌。とってもキュートです)は、かつての恋人ロイス・レインに夫と子どもがいる(ただし未入籍)と知ってびっくり。でも、気を取り直して、成層圏から耳を澄ませて、地球上の困った人たちを救う仕事に日々精を出します。しかし、悪の天才レックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー怪演)の謀略で重傷を負ってしまいます。その瀕死の病床に近づいて、耳元にロイスがあることばをささやきます(観客には聞こえません)。でも、そのあとにスーパーマンがロイスの息子のジェイソンくんの寝顔に向かって、「おまえが私の使命を継ぐのだよ」と告げるところで、ロイスがささやいた言葉が何だったか知れるのです。そう、ジェイソンくんはスーパーマンの息子だったんです(ネタをばらしてごめんなさい!)
しかし、これはよく考えると不条理な話です。だって、78年版『スーパーマン』をご覧の方はご存じでしょうけれど、スーパーマンとロイスは「そういう」関係じゃなかったんですから(スーパーマンが射精すると、その勢いで相手の女性は内臓破裂で即死してしまうという説もありますし)。ということは・・・
ロイスには俗世の「夫」リチャードがいますし、ジェイソンくんも彼を「父さん」と呼んでいます。でも、ほんとうのお父さんは、いつも成層圏の高みから世界の苦しむ人々の声に耳傾ける「天なるあの方」。つまり、「ヨセフ」がいて、「処女懐胎するマリア」がいて、「天なる父」がいてということになると・・・。「なるほど!そうきたか・・・」と私がうなったのもおわかりになるでしょう。
考えてみたら、クラーク・ケントって出が中西部のスモールヴィルで、子ども時代はネルシャツにジーンズでトウモロコシ畑を走り回っていましたから、きっと飲むのはバーボン、選挙のときには共和党に入れて、CCM聴いてるようなタイプの青年なんでしょうね。救世主はどうやら「そこから」世界に来臨するようです。
という点からして、遠からず映画史的には「2006年アメリカ」のランドマークを画した作品として繰り返し言及されることになるでしょう。ですから、必見。

ザ・フォッグ

(監督:ルパート・ウェインライト、出演:トム・ウェリング、マギー・グレイス、セルマ・ブレア)

 夏はホラー。加えて、『ザ・フォッグ』の舞台はオレゴン州の港町。船と海の話ですから、暑気払いにはぴったりです。オリジナル版(80年)の監督脚本ジョン・カーペンター自身がこの作品のプロデュースにも参加。だから、お話はまったく同じです。
同じ話が二度映画化される場合、そこにはそのような「話型」に対する国民的欲求があると推論することができます。現に、アメリカでは公開第一週で第一位をゲットしました。でも、こんなことを申し上げるのは失礼なんですけれど、よくあるふつうの幽霊船話なんです。だとしたら、『ザ・フォッグ』のどのあたりがアメリカの観客たちの琴線に触れたんでしょう?
釣り船屋のニック(トム・ウェリング。脱力的好演。ホラーの場合、主人公があまり賢いと事件は未然に防がれちゃうので、適度にボンクラ)は島の子持ち美人DJのスティーヴィー(セルマ・ブレア。貫禄)といい仲ですけど、そこに元カノ、エリザベス(マギー・グレイス。TVシリーズの『ロスト』では性格の悪い女を演じていましたが、この映画でもやっぱり性格悪そう。地なのかも)がニューヨーク戻ってきて「焼けぼっくいに火」となります。そんな折に、19世紀末にアントニオベイの創設者たち(ニックもエリザベスもその子孫)がその財宝を奪って殺した死人たちが昔年の恨みを晴らすべく、霧に乗って帰ってきます。
「ゴシック・ホラー」のゴシック性というのは、平たく言ってしまうと「どうしてこんな怖い目に遭うのか、よく理由がわからない」という不条理感にあります。主人公はきちんと合理的かつ常識的に行動しているにもかかわらず怪物に襲われます(「その山には入っちゃならねえだ」という村人の制止を無視したり、ろくでもない科学実験をして怪物を創り出してしまう、というパターンではありません)。
これはアメリカ人の現在の世界認識そのものをかなり正直に表しているんじゃないかと思います。グローバル・スタンダードであるはずの「自由と民主主義」を掲げて、「市場原理」でカタギの商いをしているだけなのに、どうして血の復讐に怯えなければならないのか。そんな不条理感がハリウッド・ゴシック・ホラーには伏流しております。
でも、恨んで出てくる方にはちゃんと言い分があるんです。『ザ・フォッグ』では先祖が他人を殺して奪った財宝で町を創建したという事実については幽霊に申し開きができません。これはどうもネイティヴ・アメリカンの土地を奪い、アフリカ人を奴隷にすることで国の礎を築いたアメリカ合衆国の「起源における疚しさ」に通じるものがありそうです。映画では美女を「生け贄」に捧げて、幽霊たちにはお引き取り願ったわけですが、アメリカがこの先「アメリカの犠牲者」たちにどんな「美女」を差し出して、怨念のトレードオフを成就することになるのでしょう。

『トンマッコルへようこそ』

(監督・パク・クァンヒョン、出演:シン・ハギュン、チョン・ジョエン、カン・ヘジョン)

 『トンマッコルへようこそ』を見ながら、「この映画、北の人たちは見る機会があるんだろうか?」とふと考えました。だって、どう見てもこれは「南から北へのラブコール」だからです。そうである以上、南からの声が北に届かないと話にならない。
現に、「南から北へのラブコール映画」というと、『シュリ』、『JSA』、『二重スパイ』、『ブラザーフッド』とすぐに指折り数えることができます。こういう映画を作り手たちが「北の人」は自分たちの作る映画を絶対に見ることができないと予想して製作しているとは考えられません。
ビデオデッキやDVDプレイヤーは北にだってあるし、TV電波だって北に届いている。ですから、いくら非合法とされていても、北には現に何万人か何十万人か熱心な韓国映画ウォッチャーがいると私は思います。もちろん、党中央や情報局や軍部では、韓国の状況をリサーチしている部門の「北の人」たちが、仕事としてこういう映画を全部チェックしている。「南北もの」を撮っている韓国のフィルムメーカーたちは、もしかするとそういう「北の人」をも観客に想定して映画を作っているんじゃないかしら、とふと私には思えたのです。
『トンマッコル』は今も臨戦状態にある同胞が、かつて南北に別れて殺し合いを演じていた時代を描いた作品です。そこに出てくる「北の人」をある種の人間的魅力とか尊厳を備えた人物として描くというのは、「南の人」にとってはかなり心理的には困難なことでしょう。でも、人民軍のリ・スファ中隊長(チョン・ジョエン)も、下士官のヨンヒ(イム・ハリョン)も、新兵のテッキ(リュ・ドックァン)も、いずれも深みのある人情味豊かな人物として造型されています。その一方で、南の連合軍は(韓国軍人もアメリカ軍兵士も)物語的にはトンマッコルを滅ぼす「敵役」を配役されている。そして、最終的には南北統一朝鮮が力を合わせて、壮絶な銃撃戦でアメリカを撃退することになります(トンマッコル仲間のアメリカ人スミス大尉も「君はここにいる人間ではない」と最後の戦いの場からは排除されます。アメリカと戦うのは純粋コリアン連合でなければならないからです)。
これは朝鮮労働党の幹部が見たって、ちょっと目頭が熱くなるエンディングでしょう。
そうか、『シュリ』以下一連の映画はこれすべて南北朝鮮統一の心理的地ならしのための映画なんだ、ということがすとんと腑に落ちました。
韓国軍の戦時統制権はいまもアメリカが握っています。それは「北と戦うときはアメリカが南の指揮を執る」ということです。この古典的なスキームを覆すに「南と北が連合してアメリカと戦う」というまったく新しい話型を以てしたことが、おそらく韓国内で800万人を動員して年間最大のヒットを記録した理由なのでしょう。
『トトロ』みたいに牧歌的なお話のつもりで見られてももちろん結構なんですけれど、朝鮮半島でこれからはじまる政治的激震の序曲である可能性も否めないと思って見ると、興味倍増の『トンマッコル』です。

「父親たちの星条旗」

(監督:クリント・イーストウッド、出演:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ、バリー・ペッパー)

 クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーである。もしかする未来の映画史には20-21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれない。なにしろ、『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ、『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ、『ハートブレーク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたのだから。
「スタイルを完成させた」というのは、これ以上洗練された映像をつくり出すことがほとんど不可能ということである。クリント・イーストウッドの映画について形容する言葉を一つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるだろう。
彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」。
俳優は説明的な演技を禁じられており、感情表現はできる限り抑制されている。画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされる。ライトは画面のすみずみまでに行き渡り、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りない。重要な台詞を語るときは、観客が耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出す程度に音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足りない」。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないものを見、聞こえない音を聴くように(それと気づかないうちに)誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の「創造」に参加させてしまう。
「洗練」とはこの「節度」と「参加」のことだと私は思う。
私たちが「洗練」を感じるのは、よけいなものをすべて削ぎ落としただけでなく、それが完成するために私たちのわずかな「参加」を控えめに求めるものについてである。それを享受するために私たちがささやかな「身銭を切る」ことによって、そこにはあるオリジナリティが加算される。クリント・イーストウッドの映画を見ている私たちはそれぞれに少しだけ違う「私だけの映画」を見ているのである。
だから、硫黄島の映画をクリント・イーストウッドが監督したということには必然性があると私は思う。なぜなら、私たちがもっとも「節度」と「参加」を求められるのは戦死者について物語るときだからである。
アメリカ人にはアメリカ人の戦争の物語があり、日本人には日本人の戦争の物語がある。そして、ひとりひとりのアメリカ人日本人にとっても、語り継ぐ戦争の物語はひとりひとり違っている。
死者の固有名は、その名を記憶しておきたいと強く念じる人間だけが記憶し、死者についての物語は、その物語を語り継ぐ決意を持つ人間がいるときだけ語り継がれる。死者ついて、「このように記憶せよ」「このように物語れ」と他者に強要する権利は誰にもない。その死の現場に立ち会ったものにさえ。
「戦死者を弔う」ための正しい服喪の儀礼があるとすれば、それはこの映画でクリント・イーストウッドが採用したような物静かで謙抑的な語法をもって語られる他にないだろう。クリント・イーストウッドが「戦争映画のスタイルを完成させた」というのはそのような意味においてである。

硫黄島からの手紙

(監督:クリント・イーストウッド、出演:渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、中村獅童)

 先月、同じクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』をこのコラムで取り上げました。その第二部を続けて取り上げることになります。それだけ重要な仕事をクリント・イーストウッドはこの二作を通じて成し遂げたということです。
 「よいニュースと悪いニュースがある。どちらを先に聴きたいか?」と問いかける、という場面にハリウッド映画ではよくお目にかかります。「悪い方から」と答えるのが映画の定法ですから、ここも悪い方から。
「悪いニュース」はこの映画が日本ではなくアメリカのフィルムメーカーによって作られたということです。硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。にもかかわらず、日本には戦後60年間それだけの志と力量のあるフィルムメーカーが出てこなかった。
この映画の中で私たちは「天皇陛下万歳」と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまで見たどのような戦争映画でも、私はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、私はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのですから。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに、「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。
このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよろしい(私には想像できません)。
一方、「よいニュース」もあります。それは日本人であれアメリカ人であれ、誰が営んでも喪の儀礼は喪の儀礼として呪鎮の機能を果たすということです。戦後60年間、日本人のほとんどの記憶から忘れ去られようとしていた硫黄島の死者たちの霊はこの映画によって少なからぬ慰めを得たと私は思います。
大岡昇平は「死んだ兵士たちに」捧げたその『レイテ戦記』にこう書き記しています。「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである。」
『レイテ戦記』を読んだときに、この島の絶望的な防衛戦を映像的に再現することは不可能だろうと思いました。でも、『硫黄島からの手紙』を見て、おのれの短見を恥じました。クリント・イーストウッドはおそらく大岡昇平の名前を知らないでしょうけれど、大岡がレイテ島の死者たちのために採用した慰霊の語法については全幅の同意を示して、「私が硫黄島の死者たちのために用いたのはまさにそれなのです」と答えるはずです。

カジノ・ロワイヤル

寒空の下三宮まで出て、『カジノ・ロワイヤル』を見る。
先週から始まった「007全巻制覇の旅」は順調に続いている(一日1本ペースでこれまで8本見た。でも、まだあと12本・・・)。
ジェームズ・ボンド役はご案内の通り初代ショーン・コネリーから始まって、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンと続いて、今回が六代目ダニエル・クレイグ。
私の採点ではベストは『ドクター・ノウ』のショーン・コネリー。
日本公開当時(1963)のタイトルは『007は殺しの番号』。
私は中学校1年生。
文藝春秋の映画評の欄で、ベレッタを擬しているショーン・コネリーのスチールを見て「があん」と来たのを覚えている。
中坊が掌の汗でじっとり湿った百円玉を握りしめてそのまま映画館まで走ってゆきたくなるような映画であった。
このときのショーン・コネリーのベストショットは総督の中国人秘書(ドクター・ノウの手下)の色仕掛けに応じてキスしながら腕時計を見るときの冷たい眼と、「S&Wは6発しか撃てないんだぜ」と言いながら、デント教授をサイレンサー付きのベレッタで一発で射殺してから、サイレンサーをはずして「ふっ」と煙を吹くところ。
原作者イアン・フレミングは映画化に際してジェームズ・ボンド役にケイリー・グラントを希望していた。
プロデューサーのアルバート・ブロッコリがショーン・コネリーを選んだときには「洗練が足りない」と言って渋ったそうである。
たぶん、ショーン・コネリー自身もそのことは聞いていたはずである。
だから、最初の二作におけるショーン・コネリーの演技には微妙な「ケイリー・グラントっぽさ」がある(『ゴールド・フィンガー』以降にはもう見られない)。
無意識のうちにイアン・フレミングの「好み」を意識していたのかも知れない(実際にイアン・フレミングは映画を見てコネリーに対する評価を一変させた)。
私はこの「ケイリー・グラントっぽいショーン・コネリー」のジェームズ・ボンドがたいへん気に入っているのである。
このキャラクター設定の成功が以後のシリーズの長期化を確定したはずである。
ジョージ・レーゼンビーとティモシー・ダルトンには「ケイリー・グラント」風味がない。
ロジャー・ムーアとピアース・ブロスナンは「ケイリー・グラントの軽み」はあるけれど、「ケイリー・グラントの非人情」がない。
ケイリー・グラントはショーン・コネリーと同じくイギリスの労働者階級の出で、十代からサーカスの芸人をしていた苦労人だけれど、不思議な上品さと退廃を感じさせる。
それはとってつけたものではなく、ケイリー・グラントが生まれ持ったある種の「オーラ」のようなものではないかと思う。
メイ・ウェストがブロードウェイの舞台に出ていたこの無名の青年を抜擢したのも、それを感知したからだろう。
ジェームズ・ギャッツ少年がダン・コーディに出会ってジェイ・ギャツビーになったように、アーチボルド・アレクサンダー・リーチ少年はメイ・ウェストに出会ってケイリー・グラントになったのである。
だから、『グレード・ギャツビー』を30代のときのケイリー・グラントが演じたら「完璧な映画」になったかも知れない。
話を戻すと、(最初の二作品における)ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが卓越しているのは、無意識のうちにケイリー・グラントの軽さと非人情の芸風を「本歌取り」しようとしていたからである。
と私は考える。
『カジノ・ロワイヤル』は映画としては大変に面白い。
中だるみがまったくない(ほとんど神経症的な)「ジェットコースター・アクション・ムーヴィ」である。
でも、ダニエル・クレイグをジェームズ・ボンドに見立てるのはどうやっても無理である。
ダニエル・クレイグは顔の右半分はわりといいのだけれど、左半分が悪相である。
たぶんこのアンバランスをプロデューサーは「ジェームズ・ボンドの複雑な内面」を記号的に示す利点と理解したのであろうが、ジェームズ・ボンドの複雑な内面はそういうものではない。
ジェームズ・ボンドの残忍さと邪悪さは、ケイリー・グラントが『疑惑』のラストシーンで毒入りミルクを持って階段を上るときの、あのブラックホールのような無表情によって示すべきなのだ。
私が今もしジェームズ・ボンド役をキャスティングするとしたら、誰を選ぶだろう。
むずかしいなあ。
やっぱジョニー・デップかな。
ただしこのボンドはミス・マネーペニーから「ジェームズ、あなたどこにいるの?探し回ったわよ」という電話がかかってきたとき、阿片を吸飲してラリっている。

冬のソナタ再論

BSJ(ペ・ヨンジュン・サポーターズ・イン・ジャパン)主宰の第一回日本ヨンヨン学会が京都キャンパスプラザで開催され、私はその栄えある第一回の特別講演を承ることとなった。
熱気あふれる会場は男性二名(私ともうひとりスタッフのご夫君)以外は全員女性である。
まず開会の挨拶「アンニョンハシムニカ!」を全員で唱和。
遠路東京からご参加のお二人に「ヨンヨン巡礼者」の称号、参加最年長者には「本日の最高尚宮(チェゴサングン)さま」の称号が授与される。
さっそく学会発表が始まる。
発表は三件。
「ヨンジュン・カジョク九類型分類」「冬ソナ一期生の愛と涙の日々」「冬ソナサイドストーリーの世界的展開」
私はすでに日本フランス語フランス文学会、日仏哲学会、日本映像学会のすべてをオサラバしてしまった身である。(いま会員名簿に名前が残っているのは日本ユダヤ学会のみ)
どの学会に行っても私を聴き手に想定している発表に出会うことがないからである。
私が何の興味も持てない主題について、さっぱり理解できないジャルゴンで語られているのを座って聴くのは純粋な消耗である。
行っても仕方がないので、次々と学会をやめてしまった。
だから、学会発表を聴いて、膝を打って納得し、腹を抱えて笑ったというのはほんとうにひさしぶりのことである。
私はこれほど批評性とユーモアの感覚に横溢したプレゼンテーションを久しく見た覚えがない。
ここには知的威信を得ようとか、他人の学説を貶めようとか、博識をひけらかそうとか、そういう「さもしい」モチベーションがまったくない。
全員が「ひとりひとりのペ・ヨンジュン経験からどのようにして最大の快楽を引き出しうるか」ということに知性的・情緒的リソースのありたけを投じているのである。
純粋である。
学術というものはこうでなければなるまい。
発表のあと、私が1時間ほどの講演を行う。
『冬ソナ』を「死者をいかにして死なせるか」という「死者とのコミュニケーション論」を軸に解析する試みである。
あまり知られていないことだが(私が昨日思いついたのだから)、『冬ソナ』は複式夢幻能と同一の劇的構成を持っている。
ワキ方がいわくありげな場所で「影の国から来た」人物(前シテ)と出会う。
そして、あるキーワードで物語が始まる。
「なぜ、あなたは他の人のように立ち去ることをせずに、ここにとどまっているのか?」
それは言い換えると「あなたはなぜ死者の国から戻ってきたのか?」ということである。
その問いに応えて、シテは「では、ほんとうのことをお話ししましょう」と予告して橋がかりから去ってゆく(ここで中入り)。
そしてワキの待謡に応じて、後ジテが「一声」とともに舞台に再登場する。
装束を改め面をつけて「別人」となった後ジテがそのトラウマ的経験のすべてをワキ方を聴き手に再構成してゆく。
そして、彼の「死」にまつわるすべてを語り終えたときに、「あと弔ひて給び賜え」と告げて亡霊は冥界へ去ってゆくのである。
『冬ソナ』において「前シテ」は「ミニョン」であり、「後ジテ」は「チュンサン」である。
ワキは「ユジン」である。
ユジンが初雪のソウルの街角でミニョンに出会うときから夢幻能は始まる。
中入りはミニョンの二度目の交通事故である。
そして、記憶を回復したチュンサンが病床からかすれ声で呼びかける「ユジナ」が後ジテの「一声」なのである。
このひとことを転轍点にして、物語は劇的展開を遂げることになる。
ワキを導き手に後ジテは「自分が何ものであるのか」を探って、「トラウマの物語(チュンサンはなぜ死んだのか?)を再構成する分析的な旅に出発する。
そして、後ジテは彼を殺したのが「母」であること、彼を棄てたのが「父」であること、そしてユジン以外のすべての知人友人がチュンサンの死(とミニョンとしての再生)を願っていたことを知る。
チュンサンが死なないことを望んでいたのはこの世界にユジンしかいなかったのである。
彼女だけが「正しい服喪者」であった。
それはユジンがチュンサンに関するすべてを記憶しているだけでなく、彼の死後も「チュンサンに訊きたいたいこと」があったからである。
「大晦日の夜に、あなたは私に何を言うつもりだったの?」
チュンチョンのクリスマスツリーの前で、缶コーヒーを手に戻ってきたユジンに背中を向けたまま、チュンサンが「言いたかった言葉を思い出したよ」と告げる場面で私は繰り返し号泣したのであるが、その理由がやっとわかった。
あの瞬間に、服喪者と死者のあいだの通信ラインが繋がったのである。
死者の声が服喪者に届き、「喪の儀礼」がそのピークを迎えた場面に立ち会って、私の心身の古層にわだかまっていた「人間が人間になる瞬間」の感動が蘇って、私は涙ぐんだのである。
正しい儀礼をすれば、私たちは死者からのメッセージを過たず聴くことができる。
繰り返し書いているように、そう信じたことで人類の始祖は他の霊長類と分岐した。
だからこの場面で私たちは「人間性の起点標識が立ち上がった」そのときの感動を追体験しているのである。
正しい儀礼とは死者と言葉を交わすことができると信じることである。
そのとき死者たちは彼らだけの世界に立ち去る。
死者とはもう言葉を交わすことができないと思うと、死者はこの世界にとどまって、さまざまな災禍をなす。
だから、正しい服喪者は死者に向かって「あなたは何をしたかったのですか?」と問いかける。
その問いには原理的に答えがない。
だから、問いかけは必ずやエンドレスのものになる。
それでよいのである。
私たちが死者に問いかけ続け、死者からの応答を待ち続けるとき、ようやく死者は立ち去るのである。
死者に問うことを止め、死者はもう何も語らない(なぜなら死者が何を語るのかを私は知っているから)と宣告すると、死者は立ち去ることができず「死者の国」から戻ってくる。
チュンサンが「影の国」から帰ってきたのは、ユジン以外の全員が喪の儀礼を誤ったせいである。
だから、チュンサン=ミニョンは「幽霊」として戻ってきたのである。
『冬ソナ』はこの「幽霊」がユジンの導きで「成仏」するまでの物語である。
「あなたは何をしたかったの?」とワキが問いかけ、「私はなぜここに戻ってきたのか?」と後ジテは問い返す。
この問答は、「私は死んでいるのだが、正しい服喪の儀礼を経験していないせいで、まだ死にきっていないのだ」という答えを死者自身が見出すまで続けられる。
死者自身が「私は『私はもう死んでいる』という言葉をあなたに伝えるために戻ってきたのだ」という言葉を発見したときに喪の儀礼は終わるのである。
死者自身が自分の死を認めない限り、物語は終わらない。
チュンサンが冬の海ですべての思い出を海に棄てるところで、「トラウマ的記憶の再構成」という分析的行程は完了する。
それ以降のエピソードは物語的には不要のものである。
もうどのような人為もチュンサンを生者の世界に引き戻すことはできないからである。
だから、物語の最後でふたりが出会う海辺の家の風景は、あれは「影の国=死者の国」でチュンサンが見ている「夢」なのである。
けれどもここに至る長い物語なしには、チュンサンはあの「夢」を見ることができなかった。
チュンサン=ミニョンはユジンの服喪儀礼によってようやくあの夢を見る権利を手に入れたのである。
という話をする。
会場のペ・ヨンジュン・カジョクのみなさんは「チュンサンは死者である」という大胆な仮説にがっくりと肩を落として、ずいぶん心を痛めておられた。
ごめんね。イジワルな分析で。
それからBSJのスタッフの方々と打ち上げ。
ペ・ヨンジュン・ファン活動というまったく新しい生活思想的な(と申し上げてよいであろう)運動が21世紀の日本にどうして生まれたのか、それは私たちの社会をどこへ導くことになるのかをめぐって熱く語り合う。
果たしてペ・ヨンジュンは私たちをどこへ連れて行くのであろうか?

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