ヘアスプレー
『ヘアスプレー』(監督:アダム・シャンクマン、出演:ジョン・トラヴォルタ、クリトファー・ウォーケン、ミシェル・ファイファー、ニッキー・ブロンスキー)
ジョン・ウォーターズ師匠の(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルムメイカーはこの世に小津安二郎とジョン・ウォーターズのお二人だけである)ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988)のリメイクである(師匠はちゃんと本作にもカメオ出演されて「変態男」を楽しげに演じておられた)。
この二人の師匠のすごいところは「テーマなし、(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから五秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところである。
『ヘアスプレー』はそのウォーターズ師匠が「ロケンロール大好きな子どもたち」に贈った二作品のうちの一つである(もう一つはジョニー・デップ主演の『クライ・ベイビー』。これも名作だぞ)。
この映画はアメリカでは赤ちゃんからお年寄りにまで広く深くに愛された。だからこそ、この(ほとんどストーリーらしきもののない)映画がハリウッドスターを動員し、巨額の制作費を投じてリメイクされたのである。
映画はただ一つのことしか扱っていない。それは「ロケンロールへの愛」である。
ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象である。それはアメリカ人が1945年以後に肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて一つに結びついたたった一度だけの歴史的経験だった。だって、ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは被抑圧階級の音楽であったからだ。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り超え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのである。
そのような文化の「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しない。だから、アメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように天に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませながら回顧しているのである。