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2007年10月 アーカイブ

2007年10月03日

ヘアスプレー

『ヘアスプレー』(監督:アダム・シャンクマン、出演:ジョン・トラヴォルタ、クリトファー・ウォーケン、ミシェル・ファイファー、ニッキー・ブロンスキー)
 ジョン・ウォーターズ師匠の(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルムメイカーはこの世に小津安二郎とジョン・ウォーターズのお二人だけである)ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988)のリメイクである(師匠はちゃんと本作にもカメオ出演されて「変態男」を楽しげに演じておられた)。
この二人の師匠のすごいところは「テーマなし、(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから五秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところである。
 『ヘアスプレー』はそのウォーターズ師匠が「ロケンロール大好きな子どもたち」に贈った二作品のうちの一つである(もう一つはジョニー・デップ主演の『クライ・ベイビー』。これも名作だぞ)。
この映画はアメリカでは赤ちゃんからお年寄りにまで広く深くに愛された。だからこそ、この(ほとんどストーリーらしきもののない)映画がハリウッドスターを動員し、巨額の制作費を投じてリメイクされたのである。
映画はただ一つのことしか扱っていない。それは「ロケンロールへの愛」である。
ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象である。それはアメリカ人が1945年以後に肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて一つに結びついたたった一度だけの歴史的経験だった。だって、ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは被抑圧階級の音楽であったからだ。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り超え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのである。
そのような文化の「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しない。だから、アメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように天に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませながら回顧しているのである。

グラインドハウス

グラインドハウス(監督:クェンティン・タランティーノ&ロバート・ロドリゲス、出演:カート・ラッセル、フレディ・ロドリゲス、ローズ・マッゴーワン、シドニー・タミーア・ポワチエ)
 『グラインド・ハウス』はタラちゃん&ロドちゃんの「中坊映画マニア」二人が、子どもの頃に百円玉(ニッケル玉かな)を握りしめて通った場末の映画館で垂れ流し的に上映されたB級C級バカ映画を再現しようとした「雰囲気映画」です(もっともロドちゃんは年がまだ若く、彼が映画を見始めた頃にはもうそういう場末の映画館は姿を消していたので、タラちゃんからさんざんその魅惑について聞かされただけのようですが)。
もともと二本立て(プラス予告編三本)の予定でしたが、調子に乗って撮影しているうちに一本ずつが長尺になりすぎて(二時間近くあるんです)、こんな長い映画を続けて上映したら、ロードショー館では客の回転が悪くてぜんぜん儲からない・・・ということで、『プラネット・テラー』(ロドちゃん)と『デス・プルーフ』(タラちゃん)それぞれ独立した作品として上映されることになりました。切ないですね。オリジナルの雰囲気をぜひ経験したいという人には場末の映画館で「二本立て」になったころを見計らって見に行くことをお勧めします(いつになるかわかりませんけど)。
さて、映画の中身ですが、これはもう「極上中坊映画」と言えば十分おわかり頂けるでしょう(銃がばんばん、車がびゅんびゅん、人がばらばら)。
ロドちゃんのゾンビー映画『プラネット・テラー』はノンストップの疾走感がすばらしいです。とくに身体破壊シーンはおそらく映画史上最高の「ありえね~」度を達成しています。タラちゃんのカー・クラッシュ映画『デス・プルーフ』は彼の「指紋」とでもいうべき「自動車の中(あるいはバーのカウンター)でまるで無意味な話を延々とする人たち」で汗牛充棟。「なんだよこれは・・・」と観客が切れかける直前で話が急転直下、いきなり死人の山という結構も『レザボア・ドッグス』、『パルプ・フィクション』、『キル・ビル』とそっくりですが、今度の「むだばなし」のひっぱり方はちょっと尋常じゃないです。今回「むだばなし」は可愛い女の子たち8人が順番に担当します。この8人の中で、個人的な趣味を言ってもよいなら、僕は“ジャングル・ジュリア”のシドニー・タミーア・ポワチエ(私らの世代にとっては彼女の母ジョアンナ・シムカスは天使のような存在でした)より“バタフライ”の猫眼少女(ヴァネッサ・フェルリト)が気に入りました。

トランスフォーマー

『トランスフォーマー』(監督:マイケル・ベイ、出演:シャイア・ラブーフ、ミーガン・フォックス、ジョン・タトゥーロ、ジョン・ヴォイド)

 私は映画を見る前には映画評やプレス・リリースの類は眼に入れないようにしています(いやでも入ってきますけれど)。できるだけ予備知識のない状態で映画館のシートに座って、映画の中の出来事にびっくりしたいからです。
『トランスフォーマー』についてはスピルバーグがプロデューサーで、マイケル・ベイが監督のSF大作ということしか知らずに試写会に行きました。「情報が抜けている」点ではかなりベストに近い状態です。
だから、ほんとうにびっくりしました。
だって、「こんな映画」だとぜんぜん想像してなかったから・・・いやあ、びっくりしました。
さて、この映画をいったいどう形容したらいいんでしょうね。
やっぱり、ひとことで言うと「中学生映画」でしょうか。あわてて付け足しますけれど、これはぜんぜん悪い意味じゃないんですよ。映画というのはほんらい「中学生がてのひらに汗で濡れた百円玉を握りしめて、胸をどきどきさせながら駆けてゆくようなもの」であるべきだと私はいつも思っているんですから(私だってそうやって『眠狂四郎炎情剣』や『ニッポン無責任時代』を見たんですから)。
最初のうちだけ戦争映画っぽいんですけれど、すぐに映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的学園SFラブコメになります。主役を演じるシャイアくんはマイケル・J・フォックス的な「強いんだから弱いんだか、賢いんだかバカなんだかよくわかんない高校生キャラ」をたいへん楽しそうに演じております。
高校生の夢といったら、なんたって「車」と「彼女」ですね(『バック・トゥ』もそうでした)。今度の彼女(ミーガン・フォックス)はマイケルの彼女だったクローディア・ウェルズとちょっと似てます。車は、今回はデロリアンじゃなくて、カマロです。デロリアンがただのデロリアンじゃなかったように、こんどのカマロもただのカマロじゃありません。どう「ただじゃない」のかは映画を見てのお楽しみです。
この映画が「はじめてのスピルバーグ映画」という人でも十分に楽しめますけれど、スピルバーグを見て育ってきた世代は『グレムリン』や『ジュラシック・パーク』など過去の作品からの「引用」を探し出す楽しみがたっぷり「おまけ」に付いてます。

殯の森

『殯の森』(監督:河瀬直美 出演:うだしげき、尾野真千子、渡辺真起子)
 カンヌ映画祭は「作家性の強いフィルムメーカー」評価します。ですから、本作がカンヌでグランプリを取ったというのは、その作家性が評価されたということを意味します。でも、「作家性が強い」というのは具体的にはどういうことなのか、映画を見ながらしばらく考えました。
そして、山下洋輔さんがエッセイにフリー・ジャズのアルバート・アイラーの日本公演について書いていていたことを思い出しました。アイラーが舞台に出て来て、ひとりでサックスをごうごうと吹き出す。ひとりぶうぶう吹き続ける。誰がなんといってもオレは止めないよというアイラーの決意がびしびし伝わってくる。それを聴いた山下さんは「うん、そうか。キミはそういうことがやりたかったのか」と不意にすとんと腑に落ちた・・・と書かれていたように記憶しています(うろ覚えですみません。探したんですけれど、本がみつからなくて)。
たぶん作家性というのは「そういうこと」だと思うのです。
つまり、オーディエンスがどう受け取るかということとは(とりあえず)無関係に、「私はこうしたい」ということが先方にはきっぱりとある。こういう決意溢れるものに対しては、相手が「やりたいこと」をやり終わって「はい、終わりました」と宣言するまでは、黙って身を委ねる、というのが受け手のあるべき態度ではないかと私は思います。
その種の作品に対峙するとき、観客は自分の好みとか批評的基準とかいうものを一時的に「かっこに入れる」必要があります。とりあえずしばらくの間は、作家の呼吸や脈動にできるだけ同化するように努力する。だって、そうする以外に作品の「中」に入る手だてがないからです。「作家性のつよい作品」というのはそういうしかたで観客に「身銭を切る」ことを要求する。そういうものだと思います。
本作も作家の息づかいや脈拍に同調することが観客には求められます。というか、観客に求められているのはほとんど「それだけ」なんです。映画のリズムと合わせて呼吸しているうちに、だんだん意識がぼんやり霞んできて、足元が崩れるように「あやかし」の世界に沈み込んでゆきます。この甘美な墜落感は間違いなく天才的な作家だけが作り出せるものでしょう。

パッチギ!

『パッチギ!Love & Peace』 (監督・井筒和幸 出演・井坂俊哉、藤井隆、中村ゆり、風間杜夫)
 私たちは映画を見ているとき、必ず登場人物の一人に同一化します。そうしないと物語を愉悦することができないからです。そのとき同一化する相手は必ずしも外形的な条件が自分に似ている人間ではありません。『ドラゴン怒りの鉄拳』を見ているとき、私たちはブルース・リーに同一化して、彼が日本人の武道家たちを叩きのめす場面に拍手喝采を送ります。『父親たちの星条旗』ではアメリカの若者に同一化して、塹壕から襲ってくる日本軍兵士に恐怖を抱きます。私たちが帰属していると信じているナショナリティはごく脆弱な根拠しか持っていない。そのことを私たちは物語を享受する経験から学びます。深く身体にしみつているはずの国民性や愛国心は同一化の対象を変えるだけで簡単に逆転してしまう。それほどに脆いものなのです。その脆さを知るからこそナショナリストは声を荒げて、暴力的な対立の既成事実を積み重ねようとします。でも、この民族を隔てる「壁の薄さ」のうちに共生の希望もまた棲まっています。
『パッチギ!Love and Peace』を見ている日本人観客はアンソンとキョンジャの兄妹(井坂俊哉、中村ゆり)に同一化し、彼らに深く感情移入し、差別にさらされる在日コリアンとして日本社会を眺めることになります。彼らの眼を通して見られる日本人の自画像はときに私たちの知らない異様な相貌を示します。けれども、井筒監督はそれを「差別的な日本人は醜い(あるいは日本人は差別的で醜い)」という単純な物語に落とし込むことを自制します。映画はただ淡々と頁をめくるように差別と宥和の諸相を詳細に描いてゆきます。親和的な表情の下に隠れた差別意識の醜さを、私たちは若手俳優(西島秀俊)のふるまいを通じて知らされます。その一方で差別主義者の高校生や警官と戦う元鉄道員の佐藤くん(藤井隆)はコリアンたちに仲間として受け容れられます。前作で松本くん(塩谷瞬)が演じていた京都のフォーク高校生と同じく、二つの民族を「架橋する」のが彼の仕事です。
日本人と在日コリアンの間には親疎のグラデーションがあり、私たちは一人一人そのどこかに位置づけられています。映画の中で言及されるとおり、力道山はコリアンでしたが、日本人にとっての国民的英雄でもありました。美空ひばりも張本勲もそうでした。在日コリアン抜きに戦後の日本社会も日本文化もありえません。それほどにこの二つの集団は「壁」を超えて深く絡み合っており、これを切り分けることはもう不可能です。松本くんや佐藤くんが担ったような、ナショナリズムを武装解除し、共生的な社会を構築する仕事は、「隣人」の体温や息づかいを自分の生身に感じ取るところからしか始まりません。そして、まさに映画こそはそれを可能にする特権的な経験であることを井筒監督は教えてくれます。

バベル

バベル(監督・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ 出演・ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、役所広司、菊池凜子)

 イニャリトゥ監督は『21グラム』(2003年)でショーン・ペン、ベネチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツというめちゃくちゃ濃い役者たちに思う存分演じさせるという「猛獣使い」の手際を見せた若き天才です。そのときは「名前が読めない!」(Iñárrituなんて読めませんよ)と「若い!」(1963年生まれ)にびっくりしました。次回作に熱く注目していたのですが、その期待にたがわぬ作品でした。
 「バベル」というのは、ご存じの通り、旧約聖書に出てくる話です。昔、人々は同じ言葉を話していました。そして煉瓦を積み上げて、天まで届くような塔を建設し始めました。そのとき主が下ってきます。「彼らが皆、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようとしていることで、とどめられることはない。」そこで主は「彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにした」のです。
不思議な物語ですね。主は人間たちが互いに言葉を通じ合うことではなく、言葉が通じ合わないことを望まれた。でも、どうしてなんでしょう。聖書を読む限りでは、人間は互いに言葉が通じないことではじめて「人間らしく」なれると主が考えたからです。なるほど。そういうものかも知れません。
 『バベル』では四つのエピソードが並行して描かれます。モロッコの山羊飼いの兄弟の物語、モロッコを旅する倦怠期の夫婦(ブラピとケイト・ブランシェット)の物語、サンディエゴに住むその夫婦の子どもたちとメキシコ人の乳母の物語、そして、山羊飼いの父親が買った猟銃のもともとの持ち主であった日本人(別所広司)とその聾唖の娘(菊池凛子)の物語。その四つの物語が因果の糸で絡み合います。
四つの物語に共通するのは、「言葉が通じない」(その国の言語が理解できない、電話が通じない、話が噛み合わない・・・などなどで「言いたいことがうまく伝わらない」)という状況です。けれども映画はそれを「克服すべき欠陥」として描き、最後に「みんな気持ちが通い合いました(ぱちぱち)」というハッピーエンドに落とし込むわけではありません。逆です。最後まで話はうまく通じない。でも、話が通じないからこそ、人間たちはその乗り越えがたい距離を隔てたまま、向き合い、見つめ合うことを止めることができません。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。
「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意思を含意しています。私たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。菊池凜子さんの切ないまなざしにはその思いが溢れておりました。

2007年10月24日

ヘアスプレー

『ヘアスプレー』(監督:アダム・シャンクマン、出演:ジョン・トラヴォルタ、クリトファー・ウォーケン、ミシェル・ファイファー、ニッキー・ブロンスキー)
 ジョン・ウォーターズ師匠の(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルムメイカーはこの世に小津安二郎とジョン・ウォーターズのお二人だけです)ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988)のリメイクである(師匠はちゃんと本作にもカメオ出演されて「変態男」を楽しげに演じておられました)。
この二人の師匠のすごいところは「テーマなし、(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから五秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところです。
『ヘアスプレー』はそのウォーターズ師匠が「ロケンロール大好きな子どもたち」に贈った二作品のうちの一つです(もう一つはジョニー・デップ主演の『クライ・ベイビー』。これも名作)。
この映画はアメリカでは赤ちゃんからお年寄りにまで広く深くに愛されました。だからこそ、この(ほとんどストーリーらしきもののない)映画がハリウッドスターを動員し、巨額の制作費を投じてリメイクされたのです。
映画はただ一つのことしか扱っていません。それは「ロケンロールへの愛」です。
ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象でした。アメリカ人が1945年以後に肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて一つに結びついたたった一度だけの歴史的経験だったのです。だって、ブルースは黒人の音楽でしたし、カントリーは中西部の白人の音楽でしたし、ポップスは中産階級の音楽で、ラップは被抑圧階級の音楽だったからです。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り超え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのです。
そのような文化の「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しません。だから、アメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように天に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませながら回顧しているのです。

ボーン・アルティメイタム

『ボーン・アルティメイタム』(監督:ポール:グリーングラス、出演:マット・デイモン、デヴィッド・ストラザーン)

 トレイ・パーカーとマット・ストーンの『サウスパーク』はアメリカのあらゆる種類の「正しさ」を絨毯爆撃的に粉砕する痛快お下劣アニメですけれど、私は『サウス・パーク』を見るたびに「このようなものを日本で作ることは絶対に不可能だろうな」と思います。
アメリカ人はよその国に兵隊を送って、都市を焼き払い、非戦闘員を殺すようなことを大まじめに「正義と民主主義」の名においてやっておきながら、同時にそんなアメリカ人の暴力性と自己中心性を抉り出すようなブラックな物語を商業的に成功させるマーケットを持っています。アメリカの知性はタフだなあ・・・とつくづく感心します。
 殺人機械ジェイソン・ボーンの「自分探し」の旅をテーマにした『ボーン』シリーズ(『ボーン・アイデンティティ』、『ボーン・シュプレマシー』)もこの三作目で完結。悪の黒幕は(やっぱり)CIAです。『羊たちの沈黙』でジョディ・フォスターの「理想の上司」ジャック・クロフォードを鮮やかに演じていたスコット・グレンが今回はワルモノCIA長官エズラ・クレイマーを演じます。この二人は説話的には「同一人物」と見なしてよろしいでしょう(コンプライアンスの感覚がちょっと麻痺しちゃったクロフォード捜査官が勇み足で「アメリカの敵はみんな暗殺」部隊の元締めになる・・・という流れはアメリカ的には「いかにもありそう」なことですから)。
 それにしてもハリウッド映画は「アメリカの敵は(議会の承認抜きで、できれば大統領の承認も抜きで)みんな暗殺」しちゃう組織という設定が好きですね(『スウォードフィッシュ』の裏FBIもそうでした)。きっとこれはアメリカ人にとってのある種のダークな「夢」なんでしょう。
これらの映画群はそのようなワルモノ組織が最後に主人公の必死の戦いで破滅するという話型に落とし込むことによって、「アメリカ的正義のフリーハンドな実現」という幼児の欲望と「そういうことはしちゃダメなんですよ」という成人の抑制を同時に表現しているのです(たぶん)。
主人公のジェイソン・ボーン君は彼自身のうちに「殺人に快感を覚えるクレイジーな人格」と「殺人を否定するノーマルな人格」の二人を解離的な仕方で抱え込んでいます。この映画がアメリカで歴史的なヒット作になったのは、このボーン君の分裂のありようのうちに多くのアメリカ人が彼ら自身の分裂を感じ取ったからなのでしょう。

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