おとぼけ映画批評

updated 17 Feburary 1999

Vol. 1 (1998August-September)

『スピード2』 (Speed 2)

 映画館で見てきた娘が「すんげえ、つまんなかった」と言ってた言葉を信じないではなかったのですが、なんとなくサンドラ・ブロックの「まる鼻」が見たくなったのと、ウィレム・デフォーの「きれ」ぶりが見たくなったので、借りてしまいました。

 主人公の男が(名前も忘れた)ぜんぜんぱっとしないのが致命的。敏捷性とかタフネスとかうことではなく、身体の動きの「線」そのものが美しい、というのがアクション映画のヒーローの条件なのだけれど、その点がだめでした。

 あまりにつまらなかったので、呆然として「やっぱり『スピード』はヤン・デボンじゃないとだめだな」と思ってエンド・クレジットを眺めていたら、なんと監督はヤン・デボン。

 ウィレム・デフォーの爆弾犯人も「私はいっしょうけんめい会社のために働いたのにリストラされたからこんなことをするのだ」と繰り返し「説明」するのが男らしくありません。第一作のときのデニス・ホッパーの方は動機はさておき、とにかく爆弾を破裂させるのがうれしくてたまらないというスタンスが徹底していて、好感が持てましたが、リストラをうらんで爆弾をしかけるというのは、なんだか給湯室で課長のお茶わんによだれをたらすOLみたいでもの悲しい。

 

 突然ですが、「きれた」役で異能を発揮する役者さんというのはよいですね。

 古くは『イージーライダー』のジャック・ニコルソン、『タクシー・ドライバー』のデニーロ、『ブルー・ベルベット』のデニス・ホッパー、『ワイルド・アット・ハート』のウィレム・デフォー、近年では『レオン』のゲイリー・オールドマンと、(私の好みですが)『沈黙の戦艦』のゲイリー・ビジー。『レザボア・ドッグス』のマイケル・マドセンもよかったですね。

 タランティーノの『トルー・ロマンス』の中のクリストファー・ウオーケンとデニス・ホッパーの「シチリア小ばなし合戦」は二大基地外役者ががっぷり四つに組んだ「映画史上最高のせせら笑い大会」でした。

 あとはできればジェレミー・アイアンズとトミー・リー・ジョーンズの共演映画を見るのが願いです。私の友人に「白人識別不能」をわずらっているオペラ歌手がおりまして、ふつうの映画でも、白人男性が二人以上でてくると、誰が誰だか分からなくなるほど重症です。この人にジェレミー・アイアンズが「弁護士だけれど実はシリアルキラー」、トミー・リー・ジョーンズが「暴力衝動制御不能の基地外検事」という設定の映画を見せて、彼女が混乱のうちに溺れ込むさまを見るのはどれほど楽しいことでしょう。



 閑話休題(といっても全編そうなんだけど)。次の映画は。

『東邪西毒』(監督:王家衛、主演:九大スター)邦題「楽園の瑕」。

 うーむ。ウオン・カーウアイの映画は「なんとかのなんとか」というのが多いですね。『欲望の翼』とか『天使の涙』とか。(『恋する惑星』というのもありました。こんなことならこれを『恋の惑星』にしときゃよかったといまごろ悔やんでいる配給会社の人がふたりくらいいると私は思います。)

 映画の内容についてはとくに言うべきこともありません。古装武侠片(ちゃんばら時代劇)を前衛的に撮るとこういうふうになる、ということでしょうか。そういうことはあまりしないほうがいいような気がするとだけ言い添えておきましょう。



『アニマルハウス』&『ブルースブラザース』(ジョン・ランディス)

 ジョン・ランディス絶頂期のニ作。『アニマルハウス』が1978年、『BB』が80年。

どちらもリアルタイムで見て、とてもしあわせな気分になった映画です。先日マイク・マイヤーズの『オースティン・パワーズ』を見てきて、彼のコメディ・センスとジョン・ベルーシのコメディ・センスをこの機会に見比べてみようと思い立って借りてきたのでした。

 主観的な印象を言わせていただくと、マイク・マイヤーズは「志村けん」で、ベルーシは「ビートたけし」でした。

 とにかくこの二作を見のがしているあなた、あなたは幸せものです。これからの人生に少なくとも二つの楽しみが残されているのですから。

 

 ところで、『アニマル・ハウス』の軟派医学生役のティム・マトソンはどう見てもハリソン・フォードにしか見えません。私は20年くらいずっとハリソン・フォードは何か事情があって若い頃は別の芸名をつかっていて、その後も事情があって自分のフィルモグラフィーから『アニマル・ハウス』だけを削除しているのだと思っていました。

 本家のティム・マトソン氏はアメリカではいまでもなかなか人気のある俳優さんだそうですが、日本では映画がひとつも公開されないのは何か訳があるのでしょうか?

 そうだ、ティム・マトソンとハリソン・フォードが共演する映画を撮って・・・、あ、これはさっきやりましたね。



『オースティン・パワーズ』(監督、主演:マイク・マイヤーズ)

 『映画秘宝』のウェイン町山氏この夏いちおしのマイク・マイヤーズもの。わざわざ渋谷シネセゾンまで見に行きました。(この3週間で映画館で見たのは、これと『ゴジラ』だけ。)

 封切り1週間後くらいでしたけれど、客は30人くらい。まあ、そんなもんでしょう。MMが好き、『ウェインズ・ワールド』大好き、という人にとっては最初から最後まで至福の時間だろうけれど、始めて見る人は困ったでしょうね。MMの笑いのセンスと「合わない」ひとはぜんぜんおかしくないだろうし、「合う」ひとは、何を見ても笑っちゃうし。

 とにかく徹底して、いっそ小気味がよいほど「しもねた」です。『ウェインズ・ワールド2』では少し品がよくなってしまったMMですが、今回は60-70年代のスパイ映画への下品なオマージュにあふれた心あたたまる佳作でした。



『アナコンダ』(監督・誰だか知らない人、主演:エリック・“ゼット”・ストルツ、ジョン・ヴォイト、アイス・キューブ、きれいな女の人二人&大きい蛇。)

 昔パリのヴァンセンヌ動物園の爬虫類館に入った時、「ワニの部屋」がありました。円筒状の建物で上のバルコンみたいなところから下をみおろすと、数メートル下にワニさんがうじゃうじゃいるのです。私はそのとき、どんな死に方をするにせよ、ワニに喰われて死ぬのはいやだなと思いました。そして自殺したいとか言う人には、じゃあここから飛び込めるかと言ってやりたいと思いました。

 この映画をみて「蛇にまるごと呑み込まれるのもすごくいやだな」と思いました。

 

 この映画はおそらく映画史上はじめて「人間を呑み込む蛇の食道(!)から人間の頭部に迫るカメラアイ」というものを見せてくれました。

 瑣末なようですが、これは非常に大事なことです。これまで誰も「そこから、それを」撮ったことのない映像というものは実はもうあまり残されていないのです。それをひとつ思い付いたというだけでも私はこの映画を評価したいと思います。



『ロスト・ハイウェイ』(監督:デヴィッド・リンチ(!)。主演:『インディペンデンスデイ』で大統領やった人、なんとか・アークエット(だって、似た名前の女優が二人いるじゃない。どっちがどっちか私には分かりません)、チャーリー・シーン(に似ている人)。)

 うん、これは凄い。さすがデヴィッド・リンチ。どう凄いかうまく言えないけれど、この映画については語りたいことがやまのようにあるので、時間をとってじっくり書かせて頂きます。



『ゲーム』(監督:デヴィッド・フィンチャー、主演:マイケル・ダグラス)

 このオチはありでしょうか?

 考えても見て下さい。ドアを閉め切ったタクシーごと海にひとを放り込んでおいて、「洒落ですよ、洒落」でふつう通るでしょうか?それに最後にマイケル・ダグラスが撃つ銃は自分で装填してあるはずだから、あれで撃たれたショーン・ペンが「へへ、ケチャップさ」みたいに蘇るのはぜったい変。それに、もし弟を殺したショックでマイケル・ダグラスが「クッションが置いてない方の側」に身投げしたらどうなるんです?

 どう考えても不条理な結末です。

 おそらくこれはおばかな観客ばかりでハッピーエンドじゃないと怒り出すアメリカ向けヴァージョンで、実は別ヴァージョンがあると私はにらんでいます。

 そのヴァージョンでは、マイケルが墜落死した瞬間、最初のCRSの診察室で「はっと目がさめる」わけです。そしてにっこりわらった営業マンが「ゲーム、楽しめました?」と言って終わる「夢オチ」。

 『邯鄲の夢』やSFとかでおなじみの古典的なオチのつけかたですが、私は好きです。

 シェクリーのSFはこんな話。

 核戦争と環境破壊で地獄と化した未来の都市。人類がゆっくりと滅びつつある時代を何の希望も持てずに生きる人々のあいだに不思議なうわさが流れる。高額の料金をとって「夢を見せてくれる機械」があるという。すでに何人かがその機械で「夢」をみせてもらって一瞬の快楽を得たらしい。主人公もそのうわさを聞いて有り金をふところに教えられた町外れに出かけて行く。その場所にいた老人は、あやしげな機械を示して、法外な料金をもちかける。主人公は老人の薄汚ない様子と、機械の気味の悪さに逡巡し、「とりあえず今日はやめて、明日でなおします」といって町へ戻る。

 ところが翌日はいつになく仕事が忙しくていく時間がとれない。そのあとも、出直そうと思う日に限っていそぎの仕事があって行けない。ある日意を決して「明日こそ行こう」と思ったら妻が結婚記念日だと言うし、別の日に「明日こそ行こう」と思うと息子がいっしょにキャンプにゆく約束だと言う。そんなふうにして一日のばしにしているうちに、どんどん日がたって、主人公はすっかり年をとってしまい、ついに「夢見る機械」のことも町外れの老人のことも忘れてしまい、いつか臨終のときを迎えた・・・ 

 「おめざめですか?」

 

 もうひとつブラックなオチを思いつきました。

 映画のとおり、最後はマイケル・ダグラスのバースデイ・パーティで終わり。そしてエンド・クレジットが出て、気の早い観客がたち上がりかけたところで、ガラスが割れてパーティ会場の床にたたき付けられる直前のマイケル・ダグラスの視野が画面いっぱいにひろがって、はげしい衝撃音。

 デヴィッド・フィンチャーらしい後味の悪さで、いいんじゃありません?



『フェイス/オフ』(監督:ジョン・ウー主演:ジョン・トラヴォルタ、ニコラス・ケイジ)

 やかましい銃撃戦にほろりと人情ドラマをかませるジョン・ウー節、『男たちの挽歌』以来大好きです。ふつうはアクションのつなぎに、くだらない人間ドラマ(主人公の暗い家庭風景とか、おこりんぼの恋人との痴話喧嘩とか)をはさむとテンションがどっと下がってひどいことになるのですが、この話では、むしろひとアクション終わって、主人公たちが家族や仲間といて日常的な会話をしている部分にこそ「いつ嘘がばれるか?」というサスペンスの山場がしかけてあるという巧妙なつくりになっています。悪いひともいいひとも、それぞれ嘘の役を演じているうちに、自分の「うそ家族」にだんだん妙な親近感を感じてゆくあたりがいいですね。

 この映画を見て、ラカン理論を思い出したあなた、着眼点グッドです。『フェイス/オフ』は「私」の自己同一性なるものがそもそも外部の視覚像から到来することに起因する自己同一性の混乱をみごとにサスペンスに生かしています。

 テロリストの顔を移植したFBI捜査官が、周囲をだますために、やむなくテロリストっぽい行動をとるうちになんとなく「その気」になって、つい「眼がきらり」としてしまうところとか、銃撃戦になって「自分の顔をした相手」を撃つことができなくて、「鏡像」を撃ち合う、というのも実にラカン的状況でした。

 「自分の顔をした他人」は、やはり「自分」であり、「他人の顔をした自分」はやはり「自分」ではないのだ、ということですね。



 黒澤明監督ご逝去

 御冥福を祈って、その偉大さについて私見を書きとめておきます。

 ずいぶん前に伊丹十三との対談の中で、蓮實重彦が黒澤映画の「徴候」として、「上がばたばた、下がどろどろ」という図像的な強迫があることを指摘していました。私は(蓮實という人は嫌いだけれど)この指摘には「眼から鱗が落ちた」思いがしました。

 私はそれまでひさしくフィルムメーカーというのは、なんらかの言語化できるメッセージ(戦争の苦しみとか、親子の情愛とか)を発信しているものであって、映像そのものに固執して、ただそういう「絵」がほしい一心で映画を作っているなんて思ったことがなかったからです。

 しかし、蓮實の指摘するとおり、黒澤の映画で印象深い映像はことごとく『野良犬』も『七人の侍』も『影武者』もとにかくなんでも、上では(旗とか洗濯物とか木の枝とか)「ばたばたするもの」が風にはためき、下では(泥とかペンキとか屍体とか血とか)「足にからみつくもの」がねとねとしているのです。

 蓮實は黒澤の映画をみるものは、言語的メッセージなんか探さずず、この「上ばた下ねと」映像にどっぷり身を委ねるべきであるというようなことを言っていました。私はこれは映画にかかわる正しい姿勢であると思います。

 黒澤はしばしば「完全主義」というふうに言われましたが、それはある種の「言語的メッセージ」の媒体として映画を考えるから出てくる評価であって、「ある絵がほしい」ということが最優先であるようなフィルムメーカーであれば、「もっと風を」とか「もっと雨を」とか「もっと土をどろどろにして」とか注文するのは考えてみれば、当たり前なのです。

 黒澤の場合は幸いプロットもすごく面白いので、つい映画のメッセージを言語的な水準に求めてしまいますが、それはおそらく黒澤の映画を「堪能する」ためには適切なアプローチではではないのです。きっと黒澤にとって「上ばたばた下ねとねと」というのは、人間とその世界についての根本的な図像学的表現なのでしょう。

 

 そういうふうに考えると、小津安二郎は「洗濯物」と「列車」の好きな人でした。

 小津の場合は、「ピーカンに洗濯物ぱたぱた(またはふとん干し)」と「列車がゴー」のない映画はないといって過言ではありません。(過言かもしれません)

 『お早よう』は青空にはためく洗濯物のアップではじまり、終わります。

 『晩春』の原節子のだらけた洗濯物とりこみシーン、『秋刀魚の味』の岩下志麻のきちきちアイロンかけ・・・

 列車はもっとすごい。『晩春』の北鎌倉駅。『彼岸花』の京都から広島へのラストシーン。『東京物語』なんてとにかく列車ばかり。もちろんラストシーンも原節子が尾道から東京へ帰る列車。『秋日和』は東京駅の駅員の会話から始まり、『早春』は蒲田駅の京浜東北線ホームにつどうサラリーマンの話、もちろんラストシーンは岡山の山中を走り去る列車。『浮草』も夜行列車の中で終わります。

 メラニー・クライン的に謎ときすれば、みもふたもない説明になるのだろうけれど、とにかく、小津が「列車がばりばり走らないと映画を撮った気がしない」と思っていたことは間違いありません。ですから、小津の映画の中の列車の場面はどれも印象的で、心があたたまる場面、しめつけられるような思いがする場面ばかりなのです。

 というわけで、よい映画というのは、「この絵が好き!」という強迫的な欲望に駆られたフィルムメーカーによって撮られる、というのが私の結論です。というより、そのような欲望にとらえられてしまう人のことを天才と呼ぶのではないでしょうか。

 現に「こういうメッセージを映画を通じてぜひ若い人たちに伝えたい」というようなことを言う監督の映画に面白い作品があったためしがありません。

 というわけで、天才監督を見分ける方法が分かりました。

 「あなたにとって映画とは何ですか?」(それにしてもばかな質問だ)と聞かれたら「知らないね」と答える人。「あなたはこの映画をつうじて何を訴えたいのですか?」と聞かれたら「べつに」と答える人。

 こういう人の映画を見ましょう。



 黒澤明追悼シリーズその2

 これまで見のがしていたものを見る事にしました。

 見ていないものはいくつもあります。古いのは『姿三四郎』や『わが青春に悔いなし』しか見てないし、黄金時代のものも、リアルタイムで見たのは『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』だけ。近年のものも『乱』『夢』『八月の狂詩曲』を見ていません。(これは『影武者』がありにつまらなかったので愕然とした後遺症のため)

 『まあだだよ』だけは見たけれど、これは黒澤映画だからというよりは私の敬愛する内田百鬼園先生のエッセイの映画化だから。

 というわけでまず皮切りに『乱』を見ました。

 この映画は全然期待していませんでした。

 というのは、私は仲代達矢という俳優があまりすきじゃないからです。この人の新劇的演技が私はむかしからどうも苦手なのです。(『椿三十郎』のときは例外的によいけれど。)

 案の定、仲代達矢が『乱』ではここを先途と「新劇」していました。髪を乱し、着物の裾を翻して、荒野をよばわるのです。もう完全に『リア王』。けれどもそこから私に伝わるのは、人間の悲劇性とか邪悪さとか恐怖とかではなく「シェークスピアの大芝居を黒澤演出でできて嬉しくてしょうがない」仲代達矢の「満足感」だけなのです。これはちょっと...

 それにピーター・・・思わず「私が悪かった。お願い、やめてくれませんか」とヴィデオの画面にとりすがってしまいました。私はヴィデオを早送りして見るようなひどいことはできるだけしないようにしているのですが、仲代とピーターの二人芝居のときは、かなり心が揺らいでしまいました。

 それにしても、主人公が死んでほっとした(もうあの芝居を見ないですむから)という映画はいくらなんでもあんまりではないですか。

 あるいはこれは私のきわめて偏奇な意見であって、世の中にはあの映画の仲代達矢の芝居に震えが来て、ピーターの芝居が「すてきい」とか思う人がいるのかもしれません。私にはよく分かりません。

 

 しかし、「演技」ということの本質について、何か仲代達矢は根本的な思い違いをしているように私には思わます。

 それは仲代的演技の対極にある演技者を考えれば分かります。

 私が仲代的=新劇的=デカルト的演技術の対極に想定するのはクエンティン・タランティーノの芝居です。タランティーノは『パルプ・フィクション』でカンヌ・グランプリをとりましたけれど俳優としても凄い。

 役者タランティーノは恐いくらいに上手いのです。どういうふうに上手いかと言うと、喜怒哀楽の演技が「とってつけたように不自然」なのです。

 ふつうの上手い役者は喜怒哀楽の表現を「自然に」演じようとします。

 つまり、怒りや怯えやおかしさの感情が「心の内部からわき上がってきて、表情に現れる」という感情表出回路をたどろうとするのです。

 仲代的演技の場合は、たとえば「怒る」場面では、「怒りをもたらすような外部情報が頭脳に達する→それが何を意味するのかしばし熟慮する→それが怒るべきことであるという判断が成立する→怒る」という順序で演技が構築されます。ですから、仲代演じる一文字秀虎が「怒るようなことを(寺尾聡や隆大介に)言われて」から「怒り出す」までには、必ず若干の「タイムラグ」があります。このタイムラグは仲代がデカルト的な心身観を信じている限りは必然的なものです。

 だから、「恐怖を感じる」「驚く」というような演技でも、かならず「ため」が入ります。

 

 これに対してタランティーノはいきなり、「とってつけたように」怒り、「とってつけたように」笑います。非常に不自然なその演技は私には恐いくらいリアルに感じられるのです。

 それはタランティーノが、人間は怒る時に内側からこみ上げてくる自然な情動に身を任せているのではなく、誰かが怒るのを見た「映像的な記憶」をたぐりよせて、それを「再演」してみせるものだと思っているからです。(たぶん)

 彼の理解によれば、(と私が勝手に想像しているだけですけど)喜怒哀楽の感情は心の中からわき上がって表情に達するのではありません。まず、喜怒哀楽の表情の模倣がなされ、感情は事後的に形成されるのです。だからタランティーノはいきなり怒り出します。そして彼が怒り出してから周囲の人間たちは「どの言葉がいけなかったのか、何が気に触ったのか」というふうに慌て出すのです。(しかし、よくやっぱりよく分からなかったりします。)そうこうしているうちにますます彼の怒りは激しくなり、「彼の怒り」を既成事実として、状況はいやおうなしに展開しはじめる・・・という順序で感情をめぐる状況は推移するのです。

  

 この人の伝記によると(すごいね、もう伝記が出てるんだ)タランティーノは生まれてからの人生をほとんど映画を見るか、映画を撮るかのどちらかの仕事で過ごしてきたそうです。学校なんて全然行ってないし、家庭生活もないにひとしい。教養も、美意識も、イデオロギーも、修辞法も、感情表現も、映画から学んだのです。

 だから、このひとにはおそらく「名状しがたいほどリアルな現実経験」というものをたぶん知らないのだと私は思います。どのような個人的体験をしても、それがつねに「あ、これはあの映画のあのシーンだ」というかたちで映画的記憶とリンクしてしまうからです。

 そのような人間の感情表現が「とってつけたよう」になるのは当然です。

 彼はたぶん「なまの感情」というようなものがよく理解できないのだと思います。表情に表現されるまでにタイムラグがあるような、「まだ映像化されない段階の感情」というものがうまく想像できないのだと思います。

 しかし、このような感情表現についての理解は、人間の精神の動きについての、彼なりの観察を踏まえています。そして、私はこの見識は深いと思います。

 心理学的知見によれば、幼児はまずまわりの大人たちの「表情の模倣」からその感情生活を始めるといわれています。表情の模倣によって、その表情が持つ感情を追体験することができるからです。表情はまさしく「とってつけたように」私に外部から到来するのであり、感情はその「とってつけた」表情の効果として、私の内部に発生するのです。

  こういうふうに考えると、「上手い役者」と言われる人の演技がさっぱりリアルでなく、「変な役者」がときに異常にリアルな理由が分かると思います。

 「変な役者」という人は、「内面」というようなものをおそらく持っていません。だからリアルなのです。彼らがリアルなのは、自分には「内面」なんてないことを私たちがじつは知っているからではないでしょうか。

 

 急に例をあげるのも難しいですが、私が「これは変だ」と思うのは(もうあまり見る機会がないけれど)かつて状況劇場の看板役者だった大久保鷹。この人はずっと役者を止めていたのだが、何年か前に『ふぞろいの林檎たち』に突然、端役で出てきたことがありました。

 無責任な病院職員というどうでもいい役のその役者がひとことふたこと台詞を言っただけで、そのときタレントさんたちが作り上げていた「お芝居」の世界に中に、いきなり「暗くて底なしの現実」が禍々しい亀裂のように走って寒気がしたのをはっきり覚えています。「お、誰だ、こいつ」と思って跳ね起きてブラウン管を凝視したら、まさかの大久保鷹でした。

 この人も芝居が「速い」。相手に対して「反応」しないで、きめられた言葉だけを、とってつけたような表情で、言うのです。しかし、そのときに「内面のない人間」だけがもたらす異様なリアリティが立ち上がります。

 

 小津安二郎の演出もこれに似ています。

 俳優が数十回のカメラテストの末に、内面の表出というような演技回路がぼろぼろになってしまって、あまりに繰り返し過ぎて自動化してしまった台詞をメカニカルに口にしたときに、小津はにこやかにOKを出したと言います。

 小津はあきらかに「人間の内面の表出」というような機制を信じていませんでした。

 だから「一種類しか表情のない」菅原通斉や「3種類しか表情のない」佐田啓二が重用されたのでしょう。(ちなみに佐田啓二の3種類とは、「うれしい顔」、「不機嫌な顔」、「なにも考えていない顔」の3種類。寒気がするほどリアリティがあるのは、3番目の「なにも考えていない顔」です。これは『秋刀魚の味』で佐田啓二以外誰にもまねができない壮絶なのを見る事ができます。)

 黒澤明だってそれは分かっていたはずです。後年の黒澤がとりわけクローズアップを嫌ったのは、表情によって内面を説明させることの本質的な虚妄に気付いていたからではないでしょうか。

 しかし、三船敏郎と勝新太郎という天才的な「内面のない役者」を失った黒澤にはもはや仲代達矢しか残っていなかったのでした。

 惜しむらくは、日本にはそれでもまだ小林旭、高倉健、丹波哲郎といった「平気で内面のない役者」が残されていたことです。黒澤監督で小林旭がリア王を演じたら、どのような謎めいた映像空間が現出したことでしょう。ああ、見たかった。


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