おとぼけ映画批評

updated 17 February 1999

Vol. 2 (1998October-1999January)

 先日、お能の発表会のあとの懇親会で下川宜長先生と話しているうちに、「舞台に出たら臨機応変」という話題から、下川先生のフェヴァリットが『ハートブレイクリッジ』であることが判明。退役まぎわのハイウェイ曹長(クリント・イーストウッド)がだらけた海兵隊員をびしびししごいて、りっぱなUSマリーンに仕立て上げましたという直球一本勝負の痛快ビルドウングス・ロマン(ていうのかなあ)と能楽とどう関連があるのだろうと思わず考え込んでしまいました。そういうふうに言われると、気になってしかたがありません。さっそくヴィデオ屋にいって、もう一度見ることにしました。

 すると、前回は気がつかなかったディティールが目についてきました。

 意外にもこれはアメリカ海兵隊のような、いわばナショナリズムとミリタリズムの純粋培養無菌室みたいな場所がすでに「他者」の侵入によって汚染され、崩壊しはじめていることのクールな認識から始まる話なのです。

 

 朝鮮戦争、ベトナム戦争を最前線で戦い、名誉と勲功に彩られたハイウェイ曹長もはや50代。はるか年下の海軍士官学校あがりの実戦経験はないがデスクワークや人事管理はばりばりこなすビジネスマンタイプの上司にとっては博物館行きの旧時代の遺物にしか目見えません。これが「他者1」。つまり、忠誠と友情と勇気といった「ロマン」によってではなく、合理性とコストパフォーマンスという「ビジネス」センスで軍隊組織をコントロールしようとするヤッピー型将校です。これがハイウェイ曹長の象徴する老兵を追い出しにかかってきます。

 他者その2は、彼が訓練することになる海兵隊員たち。これが黒人とヒスパニックといかにも頭の悪そうなプア・ホワイトの連合軍。パッパラパーのファンク兄ちゃんや英語もしゃべれないメキシコ系おじさんが今じゃUSマリーンなんです。

 他者3はもちろん「女」ですね。男は戦場、女は銃後というパターンに我慢しきれず離婚しちゃった古女房がマーシャ・メイスン(あ、この人もサンドラ・ブロックと同じまる鼻)。どうして離婚されちゃったのか理解できないハイウェイ曹長は、いっしょうけんめい『ウーマン』とか『ファム』とかいう題名の婦人雑誌を読んで、「女は男のどういうところに我慢できないのか?」について学習します。

 この三者三様の「他者」をひとつひとつ攻略し、ついに、すべての「他者」は一掃されハイウェイ曹長の世界はとりあえず秩序を回復します。(上官はデスクワークに左遷され、あほな部下たちは一人前のUSマリーンに鍛え上げられ、別れた妻は星条旗をふりながら戻ってくる。)

 これだけ読むとなんだかつまらない話のようですけれど、意外に面白いのは、この映画のテーマがまさに下川先生御指摘のとおり「臨機応変」ということだからです。

 ハイウェイ曹長は古兵ではあるのですが、きわめて柔軟な思考の持ち主であります。

 彼は直属上官のたよりないリンド中尉を決して批判せず、中尉が自分のほんとうの仕事が何であるかを理解するまで気長に教化してゆきます。

 隊員たちに対しても、けっしてその資質を批判することはありません。彼の指導方法は単なる「ストレス強化型」の訓練ではなく、訓練の成果がすぐにプラス・フィードバックされ、目に見えるように巧妙に仕組まれています。

 マーシャ・メイスンに対しても、この手のキャラクターの場合の定番である「わかってくれ、俺は不器用で、自分の生き方を変えることはできないんだ」ということを言いません。だって「臨機応変」なんだから。生き方なんて、目の前の戦略目標の攻略のためならどんどん変えちゃうのです。

 その場でぱっと思いついたら、逡巡しないで即行動。

 それまでのいきがかりとか、前後の整合性とか、そういうことはどうでもいい、というのがハイウェイ曹長のスタイルです。

 この映画のメッセージ(というようなものがあるとすれば)、それは「アメリカ社会はどんどん変わって行く。それは誰にも止められない。その変化の中で、ほんとうに大事なものを手放さないためには、臨機応変に、しなやかに生きて行くほかない」というものでありましょう。

 けれども、「ほんとうに大事なもの」が何か分かっている人間しか、たくみに変化することはできません。そうして変化することのできる人間だけが、生き延びることができるのです。(うう。いい教訓だなあ)

 経験的に言って、ほんとうに危険な状況を生き抜いてきた人間には、ある種の共通性があります。それは「ユーモア」の感覚と、「フレキシビリティ」です。(「根性」とか「筋力」とかいうものでは、ほんとうに危機的な状況は乗り切れないのです。)

 これにくらべると『GIジェーン』のだめさが分かりますね。

 デミ・ムーアには筋肉はあるけど、知性がない。この人はただ大声で自己主張して、相手を怒らせるだけなんだもの。彼女には「ロマン」もないけど、いちばん欠けているのは「臨機応変」でしょ。リドリー・スコットは反省するように。



『スターシップ・トルーパーズ』(監督:ポール・ヴァンホーヴェン、出演:青春を謳歌するわかものたち、『スキャナーズ』で頭を吹き飛ばされたはずのおじさん&カマキリたくさん)

 虫がたくさんでてきて人間をばりばり食べてしまうこわいSF映画だと思ったら、なんと青春映画でびっくり。青春映画ふうのイントロで、そのあといきなり阿鼻叫喚の地獄絵図かいおいけっこうえぐいしかけじゃんと思っていたら、最後まで青春映画で二度びっくり。うーむ。ヴァンホーヴェンあなどりがたし。

 この青春ばんざい軍隊ばんざい愛国精神鼓舞映画はしかし「国策映画」というフレームそのものもいっしょに撮し込んでいます。つまり、この映画そのものがあるSF的状況(宇宙開発の辺境で人類が昆虫生物と遭遇戦を戦っている未来社会)の中で視聴者たちを辺境での肉弾戦にかり集めるための徴兵用のプロパガンダ映画であるという体裁をとっているのであります。

 さて、「プロパガンダ映画の体裁をとった」映画ははたして何映画といったらよいのでありましょう?

 物語の虚構性そのものを前景化することを演劇の術語では「異化」と呼びます。

 ブレヒトはたとえば舞台装置に「月」を出すとき、「月」の大道具にわざわざ「これは月です」と文字を書き込む、ということをやりました。そうすると、芝居の物語の世界のなかにどっぷりと浸かって、現実感覚を失ってしまっていた観客たちも、はっとわれにかえって「おお、これはただの芝居なのだ」ということに気づきます。

 そのような「物語からの覚醒」経験を繰り返していると、観客たちはしだいに「自分たちは現実をみているのではなく、つくられた物語を見せられているのではないか?」という疑念をもつようになり、やがて、ブルジョワイデオロギーの紙芝居を蹴散らす革命的市民として市街戦に決起するようになる、というのがブレヒトの長期戦略ではあったのでした。

 ヴァンホーヴェンも出がヨーロッパのインテリですから異化効果のなんであるかは承知の上のしかけでありましょう。

 そして、ちょっと気の利いた観客が「おいおい、これってただのプロパガンダ映画じゃないの」といおうものなら、「ふふ、プロパガンダ映画がおのれのプロパガンダ性を意識的に前景化しているということは、それがすでにプロパガンダ映画への批評として機能しているということなのだよ。あたまの悪いやつは困ったもんだ」とヴァンホーヴェンさんは答えるのかもしれません。

 しかし、ちょっと待ってください。この言い方って、どっかで聞いたことありませんか?

 これは、あのポストモダニストたちの決めのせりふじゃあなかったでしょうか?

 ほら「東大総長その人が過剰に東大総長らしくふるまっているとき、そのふるまいのわざとらしさこそが東大を頂点とする日本の学校制度全体への批評として機能している」なんて、いかにもH実S彦が言いそうではありませんか。

 でもこれって変だと思いません?

 「過剰に金にせこく立ち回るふるまいの愚かしさが、貨幣の幻想性への批評として機能する」とか「過剰に好色であるふるまいのえげつなさが、性文化そのものへの批評として機能する」とか言ってると、吝嗇漢もエッチなおじさんも、みんな脱構築するポストモダニストになってしまうのではありますまいか。(ポストモダニストって、まあたいがいそんな程度のものでしょうけど)

 ジャン・ポーランというフランスの作家は『タルブの花』という本を1942年にナチス占領下のパリで出版しました。その最後に彼はこう書いています。

 「ぼんやり見ているものだけに見え、凝視しているものには見えないものがある。」

 この本でポーランは、ナチスの検閲をのがれるために、「政治用語をメタファーに使って文学を論じている」ふりをしながら、「政治用語を使って政治を論じる」というアクロバシーを演じて見せました。テクストの背後の意味を深読みした文学通の検閲官は、これが反ドイツ的な政治パンフレットであることに最後まで気がつきませんでした。

 その本の一番最後にポーランはこう書いて、自分の本の読み方を読者にちゃんと教えてくれたのです。私たちがここから得ることのできる教訓は「ものの本質は表層に露出している」ということです。(同じことはオーギュスト・デュパンも『モルグ街の殺人』の中で語っておりました。)

 私の見るところ、「プロパガンダ映画」のふりをする映画はやっぱり「プロパガンダ映画」です。そのような批評性は知的な批評家には理解できるかもしれませんが、スクリーンをぼんやりみている観客にはついに届くことがないからです。

 ポール・ヴァンホーヴェンは『ショーガール』で「登場人物全員最低のひとたち」という不思議な映画を作りました。私はそこにラスヴェガスのショービジネスへの辛辣な批評性を認めることはできません。「きっとヴァンホーヴェンはああいう性格の悪そうな巨乳バカ女が好きなんだろうなあ」と思うばかりです。

 というわけで、『スターシップトルーパーズ』は輝く今月のバカ映画でありました。ヴァンホーヴェンはさらに深く反省するように。



『マスク・オブ・ゾロ』(監督:知らない人、出演:アントニオ・”エル・マリアッチ”・バンデーラス、アンソニー”執事”ホプキンス、きれいなラテン娘。悪い総督。ベビーフェイスの悪者などなど)

 『タイタニック』がようやくヴィデオ発売になったので、さすがに映画館はがらがらだろうと思って日曜日にモザイクへ行ってみたら、あらびっくり。満席でした。私と同じことを考えるひとがこんなにいたのかと思ったら、急に自分がみすぼらしく思えてすごすごと引っ返し、あてつけにがらがらの映画館を探したら、センタープラザのフェニックスで『マスク・オブ・ゾロ』をやっていました。客は8人。

 期待通り、たいへん楽しい映画でした。ただバンデーラス君はなんとなく顔がアンソニー・クインに似て来ちゃったなあ。(若い頃のアンソニー・クインはけっこうハンサムだったけど)とりあえずバンデーラス君はすこしダイエットするように。



『馬年』(監督:ジム・ジャームッシュ、主演:ニール・ヤング)

 これがなんとニール・ヤング&クレイジー・ホースのヨーロッパ・ツアーのバックステージ・ドキュメンタリー。

 私は1970年にいまはなき渋谷のグランドファザーで『After the Gold Rush』の一曲目、Tell me why を聴いて衝撃を受け、そのままニール・ヤング教に入信してひさしい古手のファンなので、こういう映画はやはり見逃せません。

 ジャームッシュは『デッドマン』でニール・ヤングを音楽監督に迎えたので、仲良しなのかなと思っていましたが、ファンだったんだね。なるほど。

 映画館は、ジム・ジャームッシュの新作だと思って、スタイリッシュな映画を期待してきたかわいそうな若者たちが半分。ニール・ヤングをまだ見捨てることができないかわいそうなおじさんたちが半分。

 はっきり言って、かっぱ禿となったニール・ヤングがよれよれTシャツに半ズボンに革靴でステージに立つ姿は正視に耐えぬものがありました。

 映画のラスト近くに70年代のフィルムが混じります。その画面のなかのニール・ヤングのかわいいこと、その声のつやのあること。胸がつまってしまいました。

 「ロッカーはいかに年をとるべきか?」

 1940年代生まれのお兄ちゃんたちもうすぐ還暦。これはむずかしい問題ですね。いまのところきれいに年をとることに成功しているのは、エリック・クラプトンだけ。

 ぼくとしてはやはり還暦を迎えてもぜんぜんめげずに悪童ぶりを発揮するジョン・レノンじいさまのすがたを見たかったです。

 最近気がついたのですが、ぼくの好きな男性ヴォーカリストは全員「はなごえファルセット」なのです。(ジェームス・テイラー、ニール・ヤング、J・D・サウザー、ライ・クーダー、大瀧詠一、山下達郎)その原点はまぎれもなくジョン・レノンだったのでした。

 ビートルズの『アンソロジー』の3にはジョンとポールがエヴァリー・ブラザース・スタイルでやっているTwo of us が入っています。これとCry baby cryのジョン・レノンのヴォーカルは聴くたびにふるえがきます。だってジョンの声がすんごくかわいいんだもん。おっと取り乱してしまった。

 どうも70年代の音楽を聴くと涙もろくなっちまうぜ。堪忍してくんな。おう、夜風が涙を吹き飛ばしてくれらあ。ぐす。



『ジャッキー・ブラウン』(監督:クエンティン・タランティーノ 主演:パム・グリアー、ロバート・フォスター、ロバート・デニーロ、サミュエル・L・ジョンソン、マイケル”バットマン”キートン)

 映画館にみにゆこうと思っていたら、あっというまにロードショーが終わってしまったような印象があるので、きっとあまり受けなかったんでしょうね。いっしょに見ていた娘が「あんまりおもしろくなかったね」とぽつりとつぶやいておりました。そうだね。お父さんもちょっと期待はずれだったよ。

 さて、タランティーノの映画については、前から一度言っておきたかったことがあります。それは彼の脚本は中世の笑劇(ファルス)あるいはその伝統を継承しているシェークスピアのコメディに似た劇構造をもっているということです。シェークスピアの笑劇のパターンは登場人物たちがそれぞれ「真実」の断片だけしか知らされておらず、自分が大きな物語のなかで、どんな役割を演じているのか、最後まで知らないで、出会ったりすれ違ったりする、というサスペンスの構造です。

 『レザボア・ドッグス』では「誰が警察のスパイか分からない」という相互不信のドラマが「同じ場面を、違う登場人物の眼から繰り返し、追体験する」というかたちで進行します。観客は「別の」登場人物の目に映る「同じ」世界を繰り返し見ることを通じて、しだいしだいに状況を把握し、同時にだんだんと混乱してゆきます。(「ほんとのところは、いったい何が起きたんだろう?」)

 ドラマの最初において、話はもう始まっています。タランティーノらしく、「説明的な台詞」はいっさいありませんから、観客はスクリーンの上で何が起きているのかよく分かりません。けれども、話が進行してゆき、同一の出来事を複数の登場人物の立場から眺めるという特権的な視座を経由することによって、観客は、いつのまにか、登場人物と同程度には状況についての「知識」を獲得します。(ただし、複数の視点から同一事件を眺めることによってもたらされる「混乱」も同時に)

 このプロセス(「事実を知るにつれ、だんだん混乱してくる」)にまきこむ手際がタランティーノは非常に巧みなのです。

 複雑なストーリーを観客に理解させるためにもっとも拙劣な手段は「神の視点」を設定することです。

 誰も見ていないところで犯人があたりを見回しながら死体を埋めている場面とか、誰にも見られないところで犯人が「ひとりごと」をいったりする(「ふふふ、みんなだまされやがったな。これでダイヤはぜんぶ俺のものだ」)のは、観客を「神の視点」に擬する手口ですが、これは心あるフィルムメーカーはぜったいにやってはいけないことです。

 じゃあ『大岡越前』とかでやる「ふふふ、越後屋。おぬしも悪よのう」なんかはどうなんでしょうね。まあ、あれは完全なストックフレーズですから、一種の古典芸能として正しく継承してゆけばいいなじゃないですか。そもそも『大岡越前』や『水戸黄門』に「サスペンス」をもとめているひとなんていないし。

 さて、話は戻りますが、タランティーノは、観客にストーリーの全体を見せず、断片だけを与えて、少しずつ観客を映画の物語のうちにまきこんでゆきます。

 ですから、彼の脚本の特徴は:

 (1)「登場人物のうちのひとりだけしか経験していない出来事」は画面に出さない。(やむなく「ひとりごと」を言う場合は、「鏡」に向かって言う。あるいは、いないはずの「幽霊」と対話する。『パルプ・フィクション』のトラボルタのおしっこシーン、『トゥルー・ロマンス』のプレスリーの亡霊との対話などなど)

(2)したがって、ストーリー上重要な出来事は、必ず「二人以上」の登場人物によって経験される。

(3)ストーリー上、もっとも重要な出来事は、「三人以上」によって経験されるが、それぞれはその出来事の「断片」しか知らされていないので、ほんとうは何が起こっているかを誰も理解していない。

 この構造は、ロラン・バルトがギリシャ悲劇について書いたことを思い出させます。

 バルトはこんなことを書いています。

 「ギリシャ悲劇ではテクストは二重の意味を持つ言葉で編まれている。そして、それぞれの登場人物は二つの意味のうちのひとつしか理解していない。この終わりなき誤解が「悲劇」を「悲劇」たらしめているのである。しかし、その二重性を理解しているものがいる。それどころか、こういってよければ、自分の前で語っている登場人物たちの無理解そのものを聞き取っているものがいる。これこそ読者(いまの例なら聴衆)である。かくしてエクリチュールの存在全体があらわになる。」(『作者の死』)

 ギリシャ悲劇を知って知らず化、このタランティーノの映画文法は『ジャッキー・ブラウン』でも印象的な使われ方をしていました。(どの場面かは各自で探してね)

 作家は「登場人物が経験したこと」以上のことを書いてはならないと言ったのはサルトルです。文学が「何かについての物語」ではなく「物語そのもの」になるためには、「何かについての経験」ではなく「経験そのもの」になるためには、そのような禁欲が必要だということをサルトルは指摘したわけですが、それと同じ「節度」を私はタランティーノのうちに見いだすのです。タランティーノはサルトルなんて読みはしないでしょう。でも、私たちが生きている世界をそのまま物語の水準に移すときに、ある種の精密な「技巧」がなくてはすまされない、ということについて彼ほど意識的なフィルムメーカーはあまりいなような気がします。

 『ジャッキー・ブラウン』はつまんなかったけど、タランティーノの次回作に期待。



『スクリーム2』(監督:ウェス・”エルム街”・クレイヴン)

『スクリーム』はホラー映画についてのメタ映画という設定が楽しい仕掛けでした。続編は、その「ホラー映画についてのメタ映画」についてのメタ映画という自己言及過剰がわざわいしてスカでした。(真犯人が『サイコ』というのはちょっと芸がない。)

しかし、ウェス・クレイヴンにはこれに懲りずに、『スクリーム3』を作るように。これは大化けして傑作になると私は見た。



『ブルースブラザーズ2000』(監督:ジョン・ランディス、出演:ダン・エイクロイド、ほか綺羅星のごときブルースメンたち)

 ああ、いいものを見せていただいた。思わぬ眼福にあずかりました。なんまいだなんまいだ。

 まさかB.B.キングが中古車屋のじさまとは気がつかなかった。まさかあんなところにエリック・クラプトンが出てくるとは思わなかった。キーボードをひいている色白男、もしやとは思ったがまさかスティーヴィ・ウインウッドだとは。(私の義妹は日本全国で4人しか会員がいなかった「日本スモール・フェイセズ・ファンクラブ」の創設者だったのでした。)

 贅沢な映画でした。

 ブルースなんかぜんぜん聴かない娘も眼をまんまるくして見ていました。「この映画、すごく面白いね」

そうだろ。



『スフィア』(監督:バリー・レヴィンソン、出演:ダスティン・ホフマン、シャロン・ストーン、サミュエル・L・ジャクソン)

 マイクル・クライトンの原作もつまらなかったけれど、映画も輪をかけてつまらなかったです。私がいかに「バカ映画」に寛容とはいえ、これは許せん。

 許せないところ、その1:ネタが使い回し。深海ものは『アビス』、『デプス』、『遊星からの物体X』と似たものが揃っているところへもってきて、「深海で異星人と遭遇」というマンネリ設定の工夫のなさ。同じ設定でやるなら、期待の裏をかくかと思えば、これが同じストーリー。おーい。

 おまけに異星人の力が「無意識が物質化」。それって、まんま『ソラリス』じゃん。

 許せないところ、その2:登場人物にぜんぜん魅力がない。

 登場人物たちはそれなりの科学者なはずなのに、誰一人セルフコントロールができずに、すぐに怒るし、わめくし、泣くし・・・もういい加減にして下さい。

アメリカ社会はいつのころから知らないけれど、老若男女をとわず、幼児的な感情表出をよしとする風潮が瀰漫しておるようです。私はこの風潮は、ははっきりいって、きらいです。

どんな危機的状況も鼻歌まじりで乗り越えるようなタフガイはたしかに「強いアメリカ」の幻想自我みたいなもので、そういう偽りのセルフイメージを打ち壊すことがアメリカ社会の自己確認のためには多少は必要だったのかもしれません。しかし、それにしても映画に出てくる人間がみんなエゴイストで幼児的で感情抑制ができなくて・・・ということによって、いったいアメリカ社会はどういう利益を得るというのでしょう?(「おれたち、みんなそういうくだらない人間なんだよ。へへへ」ということなのでしょうか?)

ともあれ、いつのころからか、タフでクールな「大人の男」というマチスモの幻想がフェミニズムの集中砲火を浴びて、「自らの幼児性に自覚的であり、あえてそれを露出することをいとわない男」(泣く男、愚痴る男、女に甘える男、うじうじ悩む男)の方が、「自らの幼児性に無自覚なままタフぶってるバカ男」より偉いということになったようです。

でも、そういうぐちぐち男と、それを怒鳴りつけるばかりのギャータラ女(君のことだよ、シャロン)だけしか出てこない映画を見せられ続けるのは、私はもう飽きたです。

主人公がひとことも泣き言をいわずに、だれからもこずきまわされず、女の子にののしられることもない映画がみたいです。ハリウッドのひとたちはぜひそういう映画を私のためにつくってください。



『大脱走』(監督:ジョン・”荒野の七人”・スタージェス、出演:スティーヴ・”Vin” ・マックイーン、ジェームス・”Marverick"・ガーナー、リチャード・”Sir"・アッテンボロー、ジェームス・”Britt”・コバーン、チャールス・”O'Reilly”・ブロンソン)

ふふふ。『大脱走』だよ。「そういう映画」だよ。

なんで、1963年の映画をいまごろ見るかというと、DVDを買ってしまったからなのです。DVDは買ったけど、ソフトがひとつもないので、学校のAV Library に借りに行って、『マッドマックス』とこれを借りてきたのです。

DVDはいいですね。(『大脱走』には24分のメイキング・ドキュメンタリーまで付いてました。)

『荒野の七人』は私の「ベスト・オブ・ベスト」ですが、『大脱走』はその同じ監督、同じ俳優。かゆいところに手が届く100%の戦争エンターテインメントです。私がこの映画が大好きなのは、もちろん骨の髄まで「男の映画」だから。

『大脱走』にはみごとに、一人も女が出てきません。収容所内はもちろん。脱走したあとの列車の中や町中でも、カメラのフレームのはじのほうに、単なる「背景」として数秒間映り込んでいるだけ。

『荒野の七人』ではチコ(ホルスト・ブッフホルツ)がメキシコの女の子と仲良くなってそのまま村に居着くというオチがなんとなくすわりが悪く、オライリー(ブロンソン)やヴィン(マックイーン)が子供たちに「君たちに、きれいなお姉さんいない?」と尋ねたりするあたりが、とってつけたように軟弱でしたが、『大脱走』はそういう軟派要素が根絶された、きわめてクリアーカットな「男だけの世界」です。

この映画の魅力はなによりも、ホモジーニアスな男たちの組織だけでのみ可能な、「打てば響く」コミュニケーションがもたらす「効率の快感」です。『大脱走』では非言語的コミュニケーションはほとんど Call & Response の音楽性に達しています。

歩哨の接近は壁へのノックで連絡され、トンネル掘り作業の物音は畑の杭打ちの音で、パイプの折り曲げ作業は男性「合唱」によって消されます。映画の中でもっとも印象深い音は、トンネルの中で「ロープを引け」を合図するスコップの「二回打ち」でしょう。

重要な情報が、つねに言語ではなく非言語記号で伝えられていること、これは同性同質集団の顕著な特徴です。

事実、主人公たちは言葉を惜しみます。

ミスターX(アッテンボロー)はゲシュタポとSSの拷問に耐えて「ひとこともしゃべらなかった男」として登場します。ルガー大佐はナチへの反感を「ハイル・ヒトラー」の唱和に「遅れる」という仕方で表明します。”独房王”ヒルツ(マックイーン)への特殊な任務の依頼と経過報告はほとんどミスターXとヒルツのあいだの「目配せ」だけで進められます。”なんでも作る”セジウィック(コバーン)や”土捨て”アシュレイ・ピット(デヴィッド・”イリヤ”・マッカラム)たちはトンネル掘りにかかわる業務報告以外には映画のなかでひとことも発しません。

脱出の訓練のときに、身分を偽る脱走者たちにマクドナルドが注意するのは、「できるだけ口をきかない」ということです。(もちろんへたなドイツ語ではすぐに身元がばれるからです。)しかし、実際にはそのマクドナルド自身がいちばん簡単なトリックにひっかかって命を落とします。ゲシュタポの査察のあと、小声でささやきかけられた"Good luck" にうっかり"Thank you" と答えてしまうのです。

映画の中で脱走に成功するのは結局無言で自転車をこいでいったセジウィックと、無言でボートをこいだダニー(ブロンソン)とウィリー(ジョン・レイトン)の三人だけでした。

「沈黙のうちにメッセージを正しく読みとるものは生き延び、言語でメッセージを受け渡ししようとするものは死ぬ」というのが、この映画が男たちに伝える教訓だと私は思います。

言語を媒介としないコミュニケーションが成立するような集団に身を置くことの快感。それは「言わず語らず心が通う」『昭和残侠伝』のエートスとも通じるものであるように私には思われました。



『ポストマン』(ケヴィン・コスナーによるケヴィン・コスナーのための映画)

 いんちき「ポストマン」コスナーが「新しいアメリカ合衆国の大統領の名前は?」と聞かれて、返答に窮して、おもわず辺りを見回し、舞台の上にギター弾きが三人いるのを見て、「リチャード・スターキー」と答えるところが面白かったです。ついでに悪のりして、「大統領の口癖は Not stop getting better 。」

 リチャード・スターキーは芸名リンゴ・スター。ビートルズのドラマーだった人です。It's getting better は St.Pepper's Lonely Heart Club Band の4曲目に収録されていた曲で、70年代のはじめの暗い時代に「いまに時代はよくなるよ」とつぶやく少年たちに愛唱されたのでした。

 これは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマイケル君がブリーフのロゴを名前の縫い取りだと勘違いした40年前の母親に「カルヴァン・クライン」と呼ばれたり、100年前の西部の酒場で「名前は?」と聞かれて「クリント・イーストウッド」と名乗ったりするのと同系列のギャグですね。知らないと全然おかしくないけど。

 ポストマンが酒場に入ってくるときにうしろで小さくかかっている曲が Mr.Postman。(「ねえ、ミスター・ポストマン、お願い、調べてみてよ。私あての手紙は来てない?」)

 ポストマンに「あなたもしかして有名な人?」と訊ねられて「昔は、ね」と答えるブリッジタウンの町長の長髪男はトム・ペティ(ハートブレイカーズ!)さんでした。

 ポストマンは映画のラストの墓碑銘によると1973年生まれという設定だから、わりと渋めの音楽通だったんですね。(ふつう知らないよね。トム・ペティの顔なんて)

 悪の軍団のキャンプでドルフ・ラングレンの映画が上映されると、みんながブーイングして、スクリーンに石を投げ、『サウンド・オブ・ミュージック』をやるとにこにこするとか、『黄色いリボン』もけっこう人気だったり、なんとなく2013年ころの気風がしのばれました。

 

 映画の中で映画が言及されること、これが映画の自己言及性とよばれるものです。それは「映画についての映画」という仕方で「メタ映画」となることもありますし(ふるくはゴダール、いまでは『スクリーム2』)、『ポストマン』のように「フェイク」と「パロディ」の物語になることもあります。(今思いつきましたが、ポストマンが腕に「8」の焼き印を押されるのって、『エイリアン4』のパロディだったんですね。うーむ、ケヴィン・コスナーあなどりがたし。ほかにこのての「おふざけ」を見つけた人はご一報下さい。)

 『ポストマン』はフェイクの物語です。

 主人公は最初は「にせ役者」で、ついで架空のアメリカ合衆国の公務員「にせポストマン」になります。彼の郵便システムは「ポストマンがポストマンを任命する」という仕方で、「親ネズミ」であるポストマンの知らないうちに、たちまちネズミ算的に増殖してゆきます。「第一世代ネズミ」のフォード班長は「スターキー大統領」を神話化した初代ポストマンの手口のままに、(彼自身半信半疑のままに)「ポストマン神話」をつくりだしてゆきます。

 「起源のない運動」の自己増殖。

 「起源なんか、なくても平気」「正統性なんか、あとからついてくる」というのがこの映画を貫徹する原理であるとするなら、このフェイク映画は典型的に「ポストモダン」的な映画だったということになるでしょう。

 それにしても「ポストモダン」てつまんないですね。


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