おとぼけ映画批評

updated 5 Feb 2003

Vol. 7

『岸和田少年愚連隊−カオルちゃん最強伝説』(監督:宮坂武志 出演:竹内力、野村真美、鈴木希依子、山口祥行、古井榮一、池乃めだか、中山美保、伊佐山ひろ子、中場利一、布川敏和、田口トモロヲ)

中場利一の『岸和田少年愚連隊』は『本の雑誌』連載時から私の愛読書であり、単行本ももっているのだが、映画の方は吉本興業系の漫才タレントが出ているので、ちょっと敬遠して来た。

しかし、去年ご縁ができた『ミーツ』の江さんは岸和田のだんじりの若頭であり、中場さんは江さんの後輩。『ミーツ』にも爆笑連載エッセイを書いているという濃いご縁があることが発覚。今回は主演が漫才タレントではなく竹内力ということもあって、とりあえず借りてみたのである。

こここ、これは面白い。

『ティッカー』というゴミ映画は開巻10秒で駄作であることが分かったが、『カオルちゃん最強伝説』は開巻10秒で傑作であることが知れた。

最初に画面に出てくる役者が最初に何を言うかで、映画の緊張感の水準は決定されるのだが、この映画は「げふ」というコーラのげっぷから始まる。(それも二回も)そのあとは竹内力の「かー・・・・ぺっ」という唾吐き。(すごい水量なんだな、これが、毎度)

竹内力は『彼女が水着に着替えたら』のころは、織田裕二といっしょに湘南ナンパ少年役なんかしてたのに、『ミナミの帝王』で「わてもミナミのマンダだす。ちいと利子たこうおまっせ」でとんでもない人物造型に成功して、それ以来、完全に「たがのはずれた」俳優となってしまった。

カオルちゃんは、たしかナインティナイン版の『愚連隊』(見てないけど)では小林稔侍がやっていたと思うけど、中場利一の原作のイメージとはだいぶ違う。

というか原作をいくら読んでも、カオルちゃんについてだけはその姿が私にもイメージできなかった。原作ではカオルちゃんというのはこんなふうに記述されている。

 

「それほど怖い人である。たしか私より一回りほど年上ではあるが、オッサンなんて言おうもんなら『この口が言うたんかい』と上と下の唇を重ねて五寸釘をブスリと通したあと、唇が引き裂けるまで引きずり回されるであろう。

何十人が待ち受けるヤクザの事務所に、たった一人ダンプで突っ込み、全身ナマスのように切りきざまれても、毎日勝まで通い詰めた人である。今ではこの人が商店街を歩いていると、裏通りがヤクザで溢れると言われている。」

 

誤解を招く引用だが、以上はカオルちゃんではなく、イサミちゃんについての記述である。カオルちゃんはそのあとに登場。

 

「このイサミちゃんともう一人『カオルちゃん』と呼ばれる悪魔のような人がいて、カオルちゃんの場合はイサミちゃんが切りきざまれた事務所ぐらいなら、鼻歌を唄いながら素手で壊滅させるほど別格なのだ。一にカオル、二にイサミ、三、四がなくて、五にヤクザと言われるほどこのイサミちゃんも怖い人であることには間違いない。ただこの人の場合は、鬼のカオルに仏のイサミと言われる通り、普段から切れっぱなしのカオルちゃんとはかなり違い、話せば分かるタイプである。」(『岸和田少年愚連隊−血煙り純情篇』)

 

イサミちゃんは何となく想像できるが、カオルちゃんの人物像が分からない。

その長年の疑問が昨夜氷解した。

竹内力だったのである。

「切れっぱなし」の男というのは、なかなか造型がむずかしい役どころである。

ずっとガオガオほたえているだけでは、その「うるささ」にすぐ感覚が麻痺してしまう。

だから、ときどき「すっ」と鎮静して、その不安な静けさがつねにこちらの予測に先んじて「切れる」という絶妙の緩急が必要になるのである。

私の知る限り、これまで「切れっぱなしの男」の造型に成功した例は少ない。

思いだしつつ挙げるならば、『まむしの兄弟』の菅原文太、『仁義の墓場』の渡哲也、『仁義なき戦い・第二部』の千葉真一、『狂い咲きサンダーロード』の山田辰夫、『漂流街』の吉川晃司、など。この栄誉のリストにぜひ竹内力も付け加えなければならない。

竹内力のカオルちゃんは、中場利一の世界にみごとなリアリティを与えた。

異常に暴力的でありながら、熱い人間の血が流れている竹内力のカオルちゃんのおかげで、あとの個性がすべて際立ち、とてもよい映画に仕上がっている。

私はどういうわけか『ビー・バップ・ハイスクール』とか、『ろくでなしブルース』とか、『嗚呼、花の応援團』とか、学生服を着た子たちが乱闘を繰り返すというお話が大好きである。『ガキ帝国』もフェヴァリット・フィルムの一つだし。

どうしてなんだろう。私自身は物静かな秀才高校生だったのであるが。



『ザ・ギフト』(The gift by Sam Raimi, Kate Bachette, Keanu Reeves)

『エリザベス』でエリザベスだった人が超能力者で、『マトリックス』で超能力者だった人がバカ田舎もんの役。(キアヌさまはバカ田舎者の役がほんとにはまるなあ。たぶん、ほんとうにそういう人なんだろうけど)

でも、さすが『死霊のはらわた』のサム・ライミ、怖がらせ方がソフィスティケートされている。きっとこいつが「真犯人」なんだろうと思わせながら、そういう伏線をけっしてあざとく見せない。

主人公の目に見えるままに登場人物の像が少しずつ「歪む」。

出てくる人々は、主人公がその人に好感をもっているときには「柔らかい表情」になり、主人公が嫌悪を抱くと「汚い顔」になる。

だから観客は「神の視点」から登場人物たちを俯瞰することができない。

限定された視野からしか出来事が見えないことの焦燥感。私たちはそれを主人公と共有し、その情報の欠落が恐怖の培地になる。

矛盾した表現に聞こえるかも知れないけれど、ホラーの要諦は「節度」のうちにあるのだ。



『トラフィック』Traffic by Steven Soderbergh: Micheal Douglas, Benicio Del Toro)

ベニチオ・デル・トロがとっても、よい。

デル・トロくんがアカデミー賞をもらったときいて、わくわくして見て、「いつ出て来るんだろう」と楽しみにしていて、なかなか出てこなくて、それよりこのメキシコ人の刑事役のお兄ちゃんがすごく存在感あるなあ・・・こっちにアカデミー賞あげてもいいくらだぜと思っているうちにサングラスを外したら、それがベニチオ・デル・トロくんでした。

『ユージュアリー・サスペクト』で、「お、このあんちゃん、えーでないの」と思って「ツバつけて」おいたのに、『スナッチ』ではブラピに喰われて、ちょっとがっかりしたんだけれど、『トラフィック』では素晴らしかった。

それにつけても、自分の親が政府の麻薬対策本部長だというのに、すこすこヘロインなんかやって「おとなってやーね」とか言ってる女子高校生の知能の低さもひどいが、そんな娘に育て上げたうえに、そのバカ娘のために仕事を放り出す父親もとても政府中枢に置いてよいような知性があるとは思えない。

アメリカだとなれるのかな?

あと、松下君も言ってたけど、メキシコになるとフィルム黄色くするの、やめない?

見にくいよ。

それともアメリカの観客って、色変えないと、舞台が変わったこと分からないのかな。



『ティッカー』(Ticker )

とりあえず現段階で2002年度の「ゴミ映画」ダントツNo.1。

はじまって10秒で「あ、こんなヴィデオ借りるんじゃなかった」と後悔したけど、まさかラスト15分を早送りするとは・・・

この映画の関係者は全員すみやかに映画界から退場するように。(デニス・ホッパーさんも出る映画少しは選びなよ)



『15ミニッツ』15 Minutes)

アメリカの映画人のアメリカTV界に対する憎しみは深い。

そう言えば、ハリウッド映画に出てくる「ニュースキャスター」ってみんな最低の人間だな。

(『ダイ・ハード』から始まって)



『好き』

CM作ってる人が映画を撮ると、こういうふうになりますという見本みたいな映画。



『はつ恋』

かなわんなー。この「ほんとらしくなさ」。

とかいいながら田中麗奈の映画ってつい見ちゃうんだよね。

でも、『がんばっていきまっしょい』を超える作品に出会えない。



『デンゲキ』

『ロミオ・マスト・ダイ』の監督の次回作。

期待して見たんだけど・・・

期待に沿うことができなかったのは、リー・リンチェイとスティーヴン・セガールの身体運用能力の違いかな、やっぱり。


 


『アササン』(Assassin(s) by Mathieu Kassovitz)

クエンティン・タランティーノ、スパイク・ジョンズ、マシュー・カソヴィッツ、北野武。この四人のフィルムメーカーの共通点は何でしょう。

四人とも監督兼俳優なんだけれど、その役どころがいつも「ふだんはでれでれしているくせに、わけのわからないきっかけで、いきなり暴走を始める」バカ男だ、というところですね。

おそらく「映画をつくる」ということの本質的なエートスがそのようなものだからではないでしょうか。

『アササン』は前作『憎しみ』に比べると、だいぶ緊張感が落ちます。それは悪いけど、ヴァンサン・カッセルとマシュー・カソヴィッツの「役者」としての「オーラ」の違いのせいなんです。ごめんね、マシュー。



『スナッチ』(Snatch by Guy Ritchie: Benicio Del Toro, Dennis Farina, Vinnie Jones, Brad Pitt, Rade Serbedzija, Jason Statham, Alan Ford)

二つ見たらガイ・リッチーの作風が分かった。だって『ロック、ストック・・・』とまるでおんなじ話なんだもん。

でも、面白いことはとにかく面白い。アラン・フォードの悪いギャングが最高。

ブラピも『12モンキーズ』『ファイトクラブ』『カリフォルニア』以来すっかりはまり役となった「キチガイ」役で光彩陸離。



『ベーゼ・モア』(Baise-moi by Coralie & Virginie Despentes: Raffaela Andersonm, Karen Lancaume)

『テレマ&ルイーズ』や『バンディッツ』とちょっと似た「女の子たちの逃亡ロードムービー」。

いかにもフランスの「バンリュー」的にざらついて、まるで救いがない。

「わしら、やたらムカついているけんね」というの主人公たちの気持はよく分かった。

たしかに君らにはムカつく権利がある。なにしろ、バカでブスでビンボーで性格が悪いんだからね。生きててもいいことがなにもないだろうと私も思う。早く死ねるといいね。



『セシル・B・デメンテッド』(Cecil B. DeMented by John Waters: Melannie Griffith, Stephen Dorff, Alicia Witt, そしてMink Stole, Ricki Lake, Patty Hearst &ドリームランダースのみなさん)

ジョン・ウォーターズ師匠の新作をようやくヴィデオで拝見。ツタヤの新作コーナーにVHSが一本だけぽこっと置いてあった。師匠って、あんま人気ないんすね、ツタヤ的には。

アンディ・ウォーホルやデヴィッド・リンチやサム・フラーやサム・ペキンパやウィリアム・キャッスルらのバカ映画作品をこよなく愛するボルチモアのバカ映画青少年たちが、ハリウッド女優を誘拐して、彼女を主演にしたメジャー映画資本攻撃のプロパガンダ映画をドキュメンタリーで撮影してゆく、という、話だけ聞いたらそれとわかる「パトリシア・ハースト」の映画版。

しかし、なんだね。自分自身の運命を変えたすさまじい事件のパロディ映画に嬉々として出演しないと癒されないほどにパティ・ハーストのトラウマは深いということなのであろうか。それともパティはウォーターズ師匠のお導きで骨の髄までバカとなり、これが自分の人生のパロディであることにも気づかずにけらけら笑っているのであろうか。(後者の可能性のほうがなんだか高そう)

本作のおかげで、ウォーターズ師匠的に許容できるのは、さきの大監督の作品以外は「ポルノ」と「カンフー」だけ。この世で師匠がいちばん嫌いなのが『パッチ・アダムス』と『フォレスト・ガンプ』だということが分かった。

師匠が何よりも憎むのは「小市民」のエゴイズムと排他性である。

そうか、師匠は「アメリカのルイス・ブニュエル」だったんだ。『ピンク・フラミンゴ』が『アンダルシアの犬』なら、『セシル・B・デメンテッド』は『銀河』なんだ。

おお、巨大な環が今繋がったぞ。



松下正己くんがひさしぶりに投稿してくれました。お題は『アヴァロン』

押井守の画期的ともいうべき作品『アヴァロン』を見ました。

といっても、押井守の名前がどの程度一般に認知されているのかわからないので、こういう書き出しは、あまり意味を成さないのかもしれません。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『機動警察パトレイバー』そしてワチャウスキー兄弟の『マトリックス』に影響を与えた『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』をつくった押井守の、と言えば少しは判っていただけるかもしれません。何しろ押井初の実写映画なのですから。

映画の舞台は近未来の欧州のどこかの国。停滞した現実から逃避して、人々は、非合法の仮想戦闘ゲーム「Avalon」に熱中しています。そうした中のひとり、孤高の女戦士とも呼ばれるアッシュが主人公です。アッシュは仮想現実の中で激しい戦闘を繰り返しては、市街電車に乗って愛犬の待つ家に帰るという生活を続けています。アッシュは「Avalon」のフィールド「クラスA」を見事にクリアします。次のステップのためにゲームマスターは、パーティを組むことを提案しますが、ソロプレイを通しているアッシュは聞く耳をもちません。やがてアッシュは、幻のフィールド「クラススペシャルA」のうわさを聞きます。法外な経験値が得られるリセット不能のフィールドです。かつてアッシュがパーティを組んでいた男マーフィーは、そのフィールドで失敗し、今では廃人同様の姿になって病院に収容されているのです。アッシュがソロプレイにこだわるのも、それが理由です。

「クラススペシャルA」の情報を探すアッシュの身辺で、幾つもの不可解な出来事が起こり始めます。愛犬が失踪し、「クラスA」で自分を監視していたプレイヤービショップが現実のアッシュの部屋に姿を現します。やがてかつてパーティを組んだ男が手掛かりを示します。フィールド「クラスA」の中に潜む「ゴースト」、少女の姿をしたこの「ゴースト」こそが、「クラススペシャルA」への唯一のゲイトなのです。しかし失敗すれば廃人になってしまうことは避けられません。ビショップに導かれてアッシュはパーティを組み、再び、「クラスA」の戦闘に身を投じます。しかし迫り来る巨大戦車との激しい戦闘の中で、パーティは壊滅。ひとり生き残ったアッシュは、遂に青白く光る少女の姿を発見します。

『マトリックス』『イグジステンツ』『13F』『ダークシティ』『バーチャル・ウォーズ』など、仮想現実を主題とした映画は幾らでもありますが、そもそも映画それ自体が仮想現実の装置ともいえる訳ですから、観客に、映画内世界のリアリティと、その映画内世界における「もうひとつ」の映画内リアリティとしての仮想現実を、どのように相対的に実感させるのかが問題となります。(クローネンバーグの『イグジステンツ』は、そのお手本のような作品でした)

仮想現実はリアリティがあればあるだけ効果的ですが、それと対比される仮想現実の基礎としての(映画内の)「現実」も同様にリアリティが要求されるのです。そして勿論、この「現実」もまた、スクリーン上の仮想現実であることは言うまでもありません。

『アヴァロン』において、主人公アッシュの生きている停滞した世界、押井守がマグリットの『光の帝国』をイメージの基礎にしたという人の少ない暗い世界は、殆どモノクロームに近い独特の質感を持っています。ポーランドロケによって撮影された全ての画像が合成とデジタル処理を施され、色彩と質感は完璧にコントロールされています。明かりが窓から漏れる夜の建物の背後の空はダイナミックなグレーに輝く雲に覆われ、その前をオレンジ色の車内灯を光らせて路面電車が横切るといった具合。

セット、衣装、プレイ用のカードやヘッドギア等々、その美術も素晴らしく、統一したイメージでもって索漠としたアッシュの生きる世界のリアリティをつくりあげています。特にアッシュが自分の部屋で操作するコンピュータの、GUIではないテキストベースの画面づくりには、圧倒的なリアリティがあります。

古い街並の中で重量感抜群の戦車が人々を蹂躙し、最新鋭の戦闘へりが爆弾を投下するというゲーム内の戦闘は、ポーランド陸軍の協力を得てつくられました。ニューズリールと見紛うばかりの映像です。しかしその中で撃たれた人間はペラペラの紙状になって飛散し、爆発の炎には奥行きが欠如し、空中に巨大なmission complete の文字が出現したりするのです。

アッシュの生きている世界の独特なリアリティを基礎として、ゲーム『Avalon 』の世界も構築されているので、それぞれの世界の映像表現に明確な差異はありません。ここが、他の仮想現実を扱った映画との違いでありましょう。アッシュの世界もゲーム内世界も、撮影された映像の1カット1カットをマスキングし黒をのせ白をのせ、様々なデジタル加工がほどこした上で構成されています。静と動の違いはあれ、ふたつの世界は、どちらも同じような異世界の佇まいを見せます。われわれはアッシュの行動をトレースするうちに、次第にその異世界に馴染んで行くことになります。

アッシュは、「ゴースト」を追い詰めた末にようやく「クラススペシャルA」の世界に到達します。この、いわば究極の仮想現実の世界に直面したアッシュの困惑は、それまでアッシュと共に生き、アッシュと共にリアルなゲーム内世界で戦ってきたわれわれ自身の困惑でもあります。

ふたつの世界を生きてきたアッシュは困惑しながらも注意深く、今までのふたつの世界とは全く異なる「クラススペシャルA」の世界に足を踏み入れます。伝説のアーサー王最後の地といわれるアヴァロン。そこで彼女を待っていたのは一体何だったのか。

映画は、束の間われわれを別の世界に引き込む装置です。われわれはそこでほんの僅かの間だけ、別の世界を生きることになります。仮想現実を扱った映画では、別の世界の中にもうひとつ別の世界が存在することになります。しかしその映画内世界内世界を観客に明確に峻別させることができなければ、仮想現実は仮想現実ではなくなってしまう。

それは、もしかしたら、「もうひとつ」の現実なのかもしれません。

なるほど。ぜひ見にゆきます。でもなんとなく「ヴァーチャル・リアリティ」を描く物語群は、ある種の定型のうちにとりこまれているような気がするのですが・・・杞憂でしょうか?(内田)



『シベリア女収容所』(Tigress, by Jean Lafleur: Dyanne Thorne)

おおお、こんなバカ映画までDVD化されているのか。懐かしいなあ。ダイアン・ソーン姐さんではないか。みうら・じゅんが「ダイアン・ソーンはブルース・リーと同じくらい有名であった(私の中では)」というしみじみとしたコメントを寄せていたが、ほんとにそうだね。

DVDの普及のおかげで、このような「映画史のごみ箱」以外のどこにも行き場のないバカ映画が覆刻されてお手軽価格で買えるようになった。ありがたいことである。

さっそく拝見。

うーむ。間然するところがない。

ベニヤでつくったような強制収容所、死ぬほど安そうな俳優、ご都合主義のシナリオ、全編にみなぎるあまりにチープな「70年代テイスト」(『ブギー・ナイツ』がみごとに再現した世界だ)。

ダイアン・ソーンはそんな低予算環境に完全に調和しており、そこで水を得た魚のようにチャーミングだ。



『アンブレイカブル』(Unbreakable, by M. Night Shyamalan: Bruce Willis, Samuel L. Jackson)

監督お得意のどんでん返し。今回の「布石」は登場人物の名前。ブルース・ウィリスが「デイヴィッド」、サミュエル・L・ジャクソンが「イライジャ」。

お分かりだね。

そう、二人はDavid とElijah なのである。

ダビデは「メシア」、預言者エリヤは「メシアの到来を知らせる先駆け」である。

なるほど。そういうわけだったのか。ふむふむ。



『プルーフ・オブ・ライフ』(Proof of Life, by Taylor Hackford : Russel Crowe, Meg Ryan)

メグ・ライアンはまるでかわいくなくなってしまったなあ。トム・ハンクスとエンパイア・ステートの屋上で出会った頃はすごく可愛かったのに。

メグ・ライアンがまったく共感できないキャラクターなので、ラッセル・クロウが人質救出に無償で身を投じる理由にリアリティが感じられない。

このストーリーラインに迫真性をもたせようと思ったら、メグ・ライアンはミス・キャストである。目を閉じて自転車をこいでトラックにはねられたところでメグ・ライアンの将来には不安を感じていたんだけれど・・・もうこの先私はメグ・ライアンの出る映画は見ないであろう。



『ゼ・セル』(The Cell by Tarsem Singh: Jennifer Lopez, Vincent D'Onofrio)

こういう映画はシリアル・キラーにどれくらいリアリティがあるかで厚みが決まってくる。

ヴィンセント・ドゥノフリーオは実に印象深い「キチガイ」役者。

『フルメタルジャケット』で教官を射殺してからトイレで自殺する新兵、『メン・イン・ブラック』でエイリアンに憑依されて主人公たちを襲う農夫、といえば「ああ、あの変な人」と思い出されることであろう。彼は実に達者な人で『エド・ウッド』ではオーソン・ウェルズ役で登場してもいるし、『フルメタル』のときは役作りのために40キロ太ったそうである。

私がこれまでいちばんお気に入りだったシリアル・キラー役者は『コピーキャット』のHarry Connick Jr. であるが(この人、本業はジャズでグラミー賞二回も貰ってるんだって。才能ある人はやはりどこかが輝いているね)それに匹敵する悪ぶりでした。

ストーリーは定型的だし、ジェニファー・ロペスの「聖母役」もちょっと苦しいけれど、衣装と撮影と美術は素晴らしかった。



『ヴァーティカル・リミット』(Vetical Limit by Martin Campbell: Chris O'Donnell, Robin Tunney, Scot Glenn)

「ヤマちゃんさ、このホンのさ、『氷壁に閉じ込められた妹を救出にゆく兄』の兄妹愛ドラマって、悪くはないんだけど、もう少し、なんかインパクトないかな・・・」

「インパクトすか?」

「そう、やっぱさ、ただ山が高いとか雪崩がコワイてだけじゃさ、見る方も2時間もたないし・・」

「じゃ、22時間以内に救出にいかないと肺水腫で窒息死するというのはどうです?」

「いいね、ヤマちゃん、それだよ、サスペンスといったら時間との競争ですよ。でも、もう一つくらい、どきどきする要素入らない?」

「じゃあ氷壁を爆破するニトログリセリンが陽に当たると爆発するというのはどうです?」

「それいただき。ヤマちゃん。『恐怖の報酬』ね」

「それに主人公と同行する女性クライマーのロマンスもからめて」

「時間との競争の割には、ほのぼのシーンもいれるわけね。いいねいいね。なら、兄弟愛と従兄弟同士愛もついでに入れといて。あとさ、閉じ込められている側にもただ待ってるだけじゃなくてドラマ欲しいね」

「肺水腫の薬を取り合って殺し合いが始まることにしましょう」

「そこに復讐譚からめられない?」

「遭難しているやつが助けに行くガイドの妻を殺した真犯人ということにしておきましょう」

「国際政治のサスペンスもひと味欲しいなあ」

「印パ国境紛争を隠しネタに入れときましょう」

「ポリティカリー・コレクトネス的視点も入れたいな。評論家にいるじゃない、そういことばっか言うヤツ」

「主人公はヒマラヤの商業登頂に批判的なエコロジスト・カメラマンという設定にしましょう」

「マイノリティへの配慮も欲しいな」

「じゃ、ガイドはイスラム教徒ということにして、宗教論争ぽい会話もちょっと入れときますか」

「ヤマちゃん、これで完璧だよ」

「でも、これデタラメすぎません? どうして同じ高度にいるのに、一方は酸欠で死にかけていて、こっちは断崖にジャンプできるほど元気なんですか? どうしてさっきニトロが爆発したときは山半分がとこ吹っ飛んだのに、今度は、5メートル下にいる人間が無事なんですか?」

「堅いこと言いっこなしにしようよ、ヤマちゃん。8000メートル級の山に登ったやつなんか観客の中にいないいんだから。いいんだよ。どうせこんな映画見る客はみんなバカなんだから」



『欲望のあいまいな対象』(Cet obscur objet du desir, par Luis Bnuel: Fernando Rey, Carole Bouquet, Angela Molina, Julien Bertheau)

封切りの時、私はまだ20代の若者だったので、妖艶なコンチータに振り回される主人公フェルナンド・レイの「老いらくの恋」の哀感はあまり切実なものとは思われず、ただげらげら大笑いしてすましていた。だが、そんなお気楽な青年もいつしか五十路を超えて死に方の心配をする年となった。おのずと映画の見え方も違ってくる。

「じじいは恋をしてもよいか?」「どういう条件ならば許されるのか?」

それがこの映画のつきつける困難な問いである。

身につまされる問いでもある。

ブニュエルの示す答えはなかなかリアルかつクールである。

「じじいといえども美しい娘に恋をする資格はある。」

ただひとつだけ条件がある。

それは「大金持ちであること」である。

はい、お疲れさまでした。



『英雄の条件』(Rules of Engagement, by William Friedkin: Tommy Lee Jones, Samuel L. Jackson)

ハリウッド映画にはそれ以外のどんな国の映画にも見られない種類の屈折した批評性が備わっている場合がある。

それは、「制度を批判する反体制的言説が秘かにはらむ制度への加担を批判していると、くるりと回って現状肯定に堕すこともあるので、そのへんには気を付けたいものである」というようなことである。

ややこしくてすまない。

説明しよう。

まず「現状を批判する立場」というものがある。

「こんなことで日本はダメになってしまいます」とか「構造改革の急務であること」なんかはこれである。

しかし、これらは、そもそもが定型的な言説であり、これをサブシステムとして組み込んだかたちでシステム全体は安定的に機能している。

となると当然、少し賢いやつは、かかる「体制的なもの」と「反体制的なもの」の予定調和的な馴れ合いこそが「体制そのもの」なのだと批判するようになる。

この言説はとくに「一見、秩序紊乱的」と見られるようなタイプの言説の果たしているひそやかな秩序補完機能をきびしく断罪する。(「自民党政治の打破」を唱える小泉首相の「一見、秩序紊乱的」な発言が、自民党政治の延命に寄与していることを批判する朝日新聞の社説の類。)

しかし、その結果、「一見、壊乱的と見られるタイプの言説」への反体制性への信頼が損なわれてしまい、そのような批判を語っている当のご本人の反体制性さえ疑わしい目で見られるようになる。(「そういうことを言ってる朝日新聞自身が抑圧的な言説空間を権力的に統制してんじゃないの?」といった類の)

こういうことになる、体制を支えている「安定志向的なファクター」と「壊乱志向的なファクター」のバランスが崩れて、制度が過度に安定志向的になり、それはそれで社会全体の停滞と不活性化をもたらす。

それではまずいから、「一見秩序壊乱的であるようなファクターは、一応それなりに『なれあい』的にではあれ、多少秩序壊乱的にも機能しているわけだから、ま、あまり揚げ足とったりするのはやめて、それなりに怖がってみせるとか、まあ、いろいろ工夫しようじゃないの」という「大人の知恵」というものが語り出されることになるわけである。

つまり「多少ごちゃごちゃうるさいこと言う横紙破りがいたほうが、全体の『落としどころ』のおさまりがいいという場合も、あるわな」という竹下流調整術である。(ぜんぜん批評性がないなあ)

『英雄の条件』はそのような深い屈折をはらんだ映画である。

この映画の「悪役」は大統領補佐官である。

彼はイエーメンでの海兵隊の市民虐殺が国際世論に巻き起こした激しい非難にアメリカ合衆国が誠実に謝罪するためには、海兵隊指揮官を厳罰に処すことが必要である、と政治判断する。

どう考えても、アメリカ合衆国が自国の軍事行動の逸脱について、国際社会からの批判をかわし、信用を回復するためには誠意を尽くして謝罪するべきだというこの補佐官の高度の政治判断はたいへんに「まっとう」である。

この「まっとう」な政治判断に従って「トカゲのしっぽ切り」される海兵隊指揮官の「おれは、ちゃんと服務規程に従って戦闘行為をしたにすぎない」という弁明はたかだか個人の軍人的エートスとか内規の解釈問題にすぎない。

しかるに、映画の最後で、補佐官は敗北し、指揮官は名誉を回復するのである。

「ぜんぜん理解できんわ」と頭をかかえる方もおられるでしょうが、最初に言ったとおり、「ハリウッド映画にはそれ以外のどんな国の映画にも見られない種類の屈折した批評性が備わっている場合がある」ということで納得して頂きたいと思う。

監督もウィリアム・フリードキンだし。



『グリーン・デスティニィ』(臥虎蔵龍 Crouching Tiger Hidden Dragon, by Ang Lee: Chou Yung Fat, Michelle Yeoh, Chen Chang, Ziyi Zhang)

武侠映画がカンヌで絶賛され、アカデミー賞をもらうご時世になるとは、はじめてワイヤーワークを見て仰天した『蜀山奇伝』や『東方不敗』のころには想像もできなかった。

しかし、荒唐無稽なる武侠映画に一貫して好意的である私としては、この快挙をともに祝いたいと思う。

みどころは、ユエン・ウーピンのワイヤーワーク・カンフー。

特に、竹林での剣戟シーンは映画史上もっとも美しいアクションシーンといって過言でないであろう。

ユエン・ウーピンの「しなう身体の美しさ」へのこだわりは『マトリックス』で(のけぞって弾をよけるキアヌ・リーブスのアクションで)知ったけれど、この映画を見て、ユエン・ウーピンは人間の身体だけでなく、「しなうもの」すべてに美しさを感じる人であることが分かった。

白い霧の中に浮かぶ深い緑色の竹が、チョウ・ユン・ファの重みでゆっくりしなうシーンの素晴らしさだけで本作は映画史上にその名をとどめるであろう。



『小間使いの日記』(le Journal d'une femme de chambre, by Luis Bunuel: Janne Moroe, Michel Piccoli)

ブニュエル作品はメキシコ時代のものが未見であるが、ヨーロッパに戻ってからあと作った映画では唯一未見であった『小間使いの日記』がDVDになったので見る。

どうでもよいような話といえばどうでもよいような話、頭もしっぽもないような物語であり、登場人物の誰一人にも感情移入できないのだが、それでも一瞬の気の緩みもないまま最初から最後まで一気に見せてしまうのがさすがブニュエル。

ずいぶん以前、ベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』を翻訳したときフランスの右翼思想について文献を集めて研究したことがあって、ウチダはフランスの反ユダヤ主義や王党派については比較的詳しいのであるが、「これがアクション・フランセーズのみなさんです」というのをヴィジュアルで拝見したのはこれが初である。

主人公の小間使いの愛人である御者のジョセフがアクション・フランセーズの非合法活動家(カムロ・デュ・ロワ)なのである。壁には『陸軍万歳』と大書してあり、軍人の写真が飾ってある。(誰だか特定できなかったが、ペタン?)最後はこいつの「シアップ万歳!」のシュプレヒコールで映画は終わる。(シアップというのは、大戦間期に警視総監をやっていたごりごりの反動右翼である。ドイツとの緊張を高めた「シアップ事件」を起こしたことで知られている。時期的にシュールレアリスト時代のブニュエルたちがパリで活動していたころの警視総監だから、ブルトンたちが悶着を起こした当の相手である可能性も高い。)

映画のラストはアクション・フランセーズがシェルブールでデモ行進をしているシーン。「La France aux francais」(フランスをフランス人に)という有名な反ユダヤ紙『リーブル・パロール』のキャッチコピーを横断幕に掲げて、ステッキをもったおっさんたちの行進を追って映画は終わる。私は『リーブル・パロール』の創刊者エドゥアール・ドリュモンについてけっこう長いこと研究していたので、なんだか感動してしまった。「おお、あのスローガンはこういうふうに使われたのね」

この映画を見ると、啓蒙思想と進歩の国フランスが「本質的に排他的な農村」(la France profonde) を醜悪な双子のように、おのれの暗部として、抱え込んでいることがよく分かる。そして、本質的にシティ・ボーイであったルイス・ブニュエルがもっとも憎んだのが、この「田舎ものの頭の悪さと欲の深さ」だということも。



『バーバレラ』(Barbarella, by Roger Vadim: Jane Fonda, John-Philip Law, Marcel Marceau, David "Blow-up" Hemmings)

1968年にリアルタイムで見たときには、「くっだらねー」と怒った記憶あるが、33年ぶりに見て「くっだらねー」と大笑いしてしまった。

よく大金をかけてこんなくだらない映画を作るものである。さすがラウレンティス。

いまはすっかり恐いオバサンになってしまったジェーン・フォンダが実に可愛く頭の悪い役を楽しげに演じており、タイトルバックではみごとなフルヌードを惜しげもなくご披露している。

ロジェ・ヴァディムの甘言に乗せられてこんな映画に出てしまったことはジェーン・フォンダ的には「一生の恥」であって、フォンダ家では30年来『バーバレラ』は禁句なんだろうと思う。

しかし一人の女優がそののち一生「恥の十字架」として背負っていかなければならなかったほどに「くだらない映画」というのはそうざらにあるものではない。その意味では映画史に残る逸品である。



『JSA』(JSA: Joint Security Area, by Chan-wook Park: Yeong-ae Lee, Kang-ho Song, Byung-hun Lee)

あと3日で封切り上映が終わるがらがらの三宮。客は私を入れて4人! ついに新記録。

繰り返し言うように、私は空いている映画館で映画を見るのが大好きであり、そのような環境で見た映画に対しては、好意的な批評をする傾向にある。

『JSA』はその私のえこひいきを差し引いても、よい映画であった。

南北朝鮮はぜひはやく統一を果たしていただきたいものである。銃からは、憎しみからは、何も生まれない。

この映画はもちろん北朝鮮では公開されるはずもないが、北朝鮮の人はこの映画を見て、どんなふうに感じるのであろうか。私はそれが知りたかった。

「けっ。韓国のプロパガンダ映画だぜ」とうち捨てるのであろうか、それとも、「統一は南北の悲願だよね」とともに泣くのであろうか。

劇中、「チョコパイ」を食べる場面がある。ちゃんと「チョコパイ」と商品名を言っていた ので、「ええ?なんで日本語が出てくるの?」と驚いたが、チョコパイはロッテの製品で、ロッテは韓国のメーカーだということを思い出した。それによく考えたら、「チョコパイ」は日本語じゃないんだ。

日本人も韓国人も朝鮮人も、みんなでチョコパイを食べて、仲良くしたいものだとつくづく思いました。



Locke, Stock and two smoking barrels, by Guy Ritchie: Jason Flemyng, Dexter Fletcher, Nick Moran, Jason Statham, Sting)

イギリスの若手監督ガイ・リッチー(まだ32歳)の劇場映画第二作。ロンドンのバカ不良青年たちの間抜けな日常を活写した痛快作。

「英国病」の余波か、「イギリスの若者=暗い、貧しい、パンク、ジャンキー、栄養状態悪い、頭悪い」という定型がひさしく全世界に浸透していた。

『トレイン・スポッティング』で、いいかげんこの定型にも飽きたなあと思っていたら、『ロック、ストック・・・』で「私たちはバカですが、それが何か問題でも?」ときっぱりと切り返されてしまった。

そう言われてしまっては、私としては「べつに問題ないです、はい」と答えるほかない。

この「バカで何が悪い」的な「明るい居直り」は、90年代終わりのジャーマン・ニュー・シネマ(『ラン・ローラ・ラン』、『ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア』、『バンディッツ』)にも顕著に見られたし、リュック・ベッソンの『TAXI』シリーズにも濃厚だった。

私はかねてより、この「バカにだって幸福に生きる権利はあるぞ」主義的発想の淵源はジョン・ウォーターズ師匠にあると考えている。

この系譜は、本国ではポール・トーマス・アンダーソン(『ブギー・ナイツ』、『マグノリア』)が継承したが、ドイツ、フランス、イギリスにも道統を継ぐ若いフィルムメーカーの世代がけなげに育っていたのである。

ガイ・リッチーは映像的にはリチャード・レスター(『ナック』、『ア・ハード・デイズ・ナイト』)的なドキュメンタリー・タッチのわざと荒れた画像を採用しているが、本質的にはジョン・ウォーターズ派バカ映画の嫡流に位置していると私は見る。

この若い世代こそが21世紀の「シネマの保守本流」となるにちがいない。

刮目して見るべし。



『五条霊戦記』(監督:石井聰亙、出演:浅野忠信、隆大介、永瀬正敏)

石井聰亙の劇場デビュー作『狂い咲きサンダーロード』は映画史に残る快作であった。

だが、残念ながら以後のどの作品もこのデビュー作の鮮烈さに及ばない。

その理由が今回少しだけ分かった。

『サンダーロード』ではただ爆音と絶叫だけで成り立った劇である。その爆音と絶叫はほとんど官能的に美しかった。

しかし、それだけでは描けないものもある。

「ことば」の力でしかアクセスできない「劇的状況」というものもある。

その点で石井はほとんど致命的な弱点をかかえている。

それは「ことば」の「音質」に対する鈍感さである。

『爆裂都市』でもその弱点はなんとなく予感されていたのだが、その後の作品ではそれほどには目立たなかった。だが、『五条霊戦記』でそれがあらわに露呈した。

私はヴィデオを早送りするような失礼なことはほとんどしないのだけれど、この映画ではその操作を繰り返してしまった。

話がつまらないからではない。話はけっこう面白いのだ。だが、「声質の悪さ」に耐えられなかったのだ。

石井の映画では、登場人物たちは、誰もが最初から最後まで「同じトーン」「同じ語調」で語り続ける。彼らには発語する前の「ためらい」も、途中での語調の変化も、語のリズムや韻律も、それに支配されて「言うつもりがなかったことまで語ってしまう」意識と言語の逆転の経験も・・・そういうものが欠落している。

俳優たちは、ただ、決められた台詞を、ト書きに示された感情をこめて(「不安げに」「怒り狂いながら」「泣き叫びつつ」「脅すように」・・・)単調に繰り返すばかりである。

私が「不快」を感じたのは、単に録音が悪く、俳優のアーティキュレーションが悪いせいで台詞が聞き取りにくいという意味ではない。(もちろん、ひどく聞き取りにくい。)

台詞の語り方そのものの「異常なまでの単調さ」が違和感をもたらしたからである。

『ユメの銀河』のように登場人物全員がつぶやくように語る映画では、その違和感はそれほど際立たない。しかし、『五条霊戦記』では隆大介と永瀬正敏はほとんど全編、ある種の感情に取りつかれて(怒り、いらだち、哀しみ、絶望などなど)、そのつど絶叫している。

そして私にはその「絶叫」がただの騒音にしか聞こえなかったのである。

そのせいで、途中から私は二人が出てくるたびに反射的にヴィデオを早送りすることになった。(三人の主要登場人物のうちの二人を早送りするわけであるから、これは忙しい。)

人間が何かに感動したり、何かを決意したり、何かを失ったりしたときに、それは必ず身体的な変化として徴候化する。

いちばん際だった変化を示すのが「声」である。

声の「肌理」が変化する。

石井はそのことをどう思っているのだろう。

この映画では、登場人物たちのどのような「内面の変化」も「声質の変化」をもたらさない。感情が激すると音量が上がるだけである。

ふだん私たちは、「お早う、いい天気ですね」というような単純なメッセージを交わすだけで、相手が自分にたいしてどんな気持を抱いているかを知ることができる。

マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言った。

同じ頃に、グレゴリー・ベイトソンは「声はメタ・メッセージである」と言った。

同じ頃に、ロラン・バルトは「記号が何を意味するかを決定するもうひとつ次数の高い記号の審級」を「メタ・言語」と呼んだ。

同じ頃に、エマニュエル・レヴィナスは「意味作用(シニフィカシオン)から意味生成(シニフィアンス)への移行」について語っていた。

これらの考想はだいたい同じことを指し示している。

それは、私たちがコミュニケーションの現場で第一次的に接触するのは「メッセージの内容」ではなく、「メッセージの物質性」だということである。そして、その「物質性」が「内容」をどう解読すべきかを指示するのである。

「メッセージの読解の仕方を指示するメッセージ」のことを「メタ・メッセージ」と言う。コミュニケーションにおいて私たちがまず受信しようと感受性を高めるのは、「メタ・メッセージ」に対してである。

まなざし、表情、みぶり、そして声の肌理、速さ、息づかい、深み・・・

べつに難しい話をしているのではない。ごく単純なことだ。

「聞き取りにくい声」で語られるコトバから私たちが受け取る第一次的なメッセージは「私の言うことは聞かなくてもいいよ」である。「これはにあなたに聞かれるために発されているコトバではないからだ」

『サンダーロード』はそのような映画であった。

「これはおまえたちが見る映画ではない」と映画は宣言していた。その決然とした拒否の姿勢に観客はうちのめされた。

『サンダーロード』は何かを拒絶するみぶりのもつ官能性を描いた映画だったから、そのとき技術と主題はみごとに融合したのである。

だが、『五条霊戦記』はもう少し複雑な人間たちのドラマを描こうとしていたはずである。

だとすれば、登場人物の意識の不意の変化や、欲望の布置の変化や、身体性の変化を描くためには、単調な絶叫だけではいかにも足りない。もっと複雑な「音声の物質性」をコントロールできなければ、人々の心の中で起きている事件を描き出し、説得力のある仕方で観客に伝えることはできないだろう。

そのためには、どのような録音技術を用い、どのようなアーティキュレーションで、どのような息づかいで、どのような表情で、どのような身体運用で、「声」を表現するか、という技術的な課題が立てられなければならないはずである。

だが、石井はそのような問いにはほとんど関心を示していない。少なくとも私にはそう思えた。

それとも石井聰亙は「これはおまえたちが見る映画ではない」というメッセージをいまだに発信し続けているのだろうか。だとすれば、この映画の作り方は正しい。

しかし、商業映画として「見られないための映画」を作り続けるフィルムメーカーとは何ものなのだろう。



『ワット・ライズ・ビニース』(What lies beneath, by Robert Zemeckis: Harrison Ford, Michelle Pfeiffer)

『五条霊戦記』との対比的で言えば、この映画は「声の肌理の変化」だけでサスペンスを構築した映画であるというふうにも言える。

ハリソン・フォードは「声がいい」。

どういう種類の声かというと「人を安心させる声」「私はこの場の状況を全部理解していますから、ま、私に任せておきなさいといわんばかりの声」である。

深く静かで暖かみのあるバスで、興奮したときや、激高したときでさえ、擦過音や破裂音で濁らない。

おそらくアメリカのビジネス・シーンにおいて、エグゼクティヴの声として、もっとも好まれそうなのがハリソン・フォードの声である。(現に、トム・クランシーの「ジャック・ライアン・シリーズ」でのハリソン・フォードは、CIAの腕利き分析官からスタートしてCIA副長官、ついには大統領にまで出世してゆく。)

だから私たち観客はハリソン・フォードにあの声で語りかけられると、そこに「秩序と理性と問題解決への道」が保証されているような「錯覚」に陥る。

そうやって、私たちは彼の演じるスペンサー博士の妻クレア(ミシェル・ファイファー)とともに彼を信じ続ける。

状況証拠が彼を信じることをどれほど困難にしても、なお私たちは依然として「さらなるどんでん返しがあって、実はすべては冤罪事件ないし妻の幻覚」というような一筋の可能性にすがりつく。

スペンサー博士がバスタブから妻を覗き込みながら、犬の頭をなでて別れを告げるシーンに至ってもまだ、その声は快い音を響かせ、笑顔はひとを安心させる魔力を保っている。

「私を殺そうとしている人間」の声の美しさに魅了されるというような倒錯的事態が人間の身には起こる。

そうやって、私たちは映画の最後ですべてを失ってしまう。ラストシーンで私たちの手元に残ったのは、「性格の悪い女の怨霊は性格が悪い」という自明の理と、才能も若さも愛情も全てを失ってしまった中年女の展望のない未来だけである。

そう考えてみると、「ハンニバル・レクター博士」をハリソン・フォードがやったってよかったんだ。これは意外にグッド・キャスティングだったかも。



『ロミー&ミシェル』(Romy and Michele's High School Reunion by David Mirkin: Mira Sorvino, Lisa Kudrow)

映画にはいろいろなサブジャンルがある、という話を昨日書いたけれど、そういえば「同窓会(リユニオン)もの」というのもあるね。

高校卒業後、10年ぶり20年ぶりに故郷の街に集まってくる中年男女。

かつてのフットボールのスター選手はビール腹をゆらす田舎オヤジとなり、学園のクイーンは「ただのおばさん」になり果て、勉強ばかりしていてバカにされたガリ勉少年はせこい保険屋、気のいい兄ちゃんは街の自動車修理工場。そして、主人公(何のとりえもなかったバカ高校生だったはずだが)だけが、場違いに輝いていて、みんなから「お前はこの街のスケールを超えるやつだったよ」とほめそやされて、かつての憧れの美女から愛を告白されたりするのである。

この手の映画がやまのように作られている、ということは、アメリカが基本的に「田舎」だということを意味している。

アメリカの「田舎」ハイスクールには厳然たる身分制がある。(このへんの知識は『映画秘宝』およびウェイン町山氏からのご教示)

カーストの最上位にいるのが、「Jocks and Queens」。

男はアメフット選手で、女はチアリーダーという体育会系。男はスポーツ奨学金でとにかく大学にはゆくが、結局故郷に戻ってきて家業を継ぎ、かつてのプロム・クイーンとはやばやと結婚して、田舎の共和党オヤジになる。

妻になる「元プロム・クイーン=チア・リーダー=金髪バカ美女性格最悪知能指数測定不能」はハイスクール・ホラーものでは「一番先に惨殺される」ことになっているから分かるね。(『ロミー&ミシェル』ではビリー&クリスティー)

カーストの第二列にいるのが、「The Brains」。

ガリ勉くん。勉強で奨学金をとって大学にゆき、田舎からオサラバしようと思っている点ではもっとも上昇志向の強い人たち。ただ近視の度が進んでいるのと、筋肉がぜんぜんないので、高校時代は不遇。(『ロミー』ではサンディ)

カースト下層にいるのが「The Geeks」(ボンクラ)。

田舎脱出志向はあるが、スポーツも勉強もやる気なし。自分のことをちょっと才能があると思っているが、誰も認めてくれない。上昇志向はあるが向上心がない。

もちろん、映画作家の過半は「ボンクラ」出身であるので、あらゆるハイスクール映画は最終的にこの「ボンクラ」が名声と恋を手に入れることになっている。(ロミー&ミシェルはもちろんこの階層。)

そのさらに下層にいるのが「The Goth」。

「ゴスはゴス以外のすべてのグループから迫害される。将来性ゼロ」男は黒いトレンチコートを着て、「切れる」と自動小銃を乱射する。女性は『バッファロー66』のクリスチーナ・リッチを想像すればよいね。(『ロミー』ではヘザーがこれ。)

だから「リユニオンもの」映画では、当然このカーストが「根底から覆る」カタルシスにドラマのすべては凝縮される。「同窓会下克上」である。

しかし、そのような定型的な物語が量産されているということは、逆に言えば、どれほどこのカースト制度が転覆不可能、盤石不動のものであるかを証明している。

ケーブルTVのFOXでは『キング・オブ・ザ・ヒル』というくらーいアニメを放映している。

町山氏によると、アメリカの99%は田舎であり、ほとんどのアメリカ人にとって「都会生活」は幻想である。摩天楼を生涯一度もみることなしに生まれた町から一歩も出ないで死ぬアメリカ人は山のようにいる。彼らにとってハリウッド映画は完全に「ヴァーチャル」な世界の物語である。

そのような「ホワイト・トラッシュ」のリアルな生活(「日曜の午後に四畳半ほどの芝を刈って、その芝の輝きに見ほれながら、自分で焼いたバーベキューをサカナにビールを飲んでご満悦」)を描いたアニメが『キング・オブ・ザ・ヒル』である。暗いなー。(「ホワイトトラッシュ」の「等身大」(?)の生活を描いたアニメというと『ザ・シンプソンズ』もそうだな。)

ハリウッド映画の奇想天外さを支えているのは、実はアメリカ大衆の「あまりにも定型的な人生」に対するフラストレーションなのだ。

それにしても、この「下克上映画」そのものを貫徹する非情なまでの「田舎蔑視・貧乏蔑視・人種差別・女性差別」のすさまじさ。

主人公たちにとって「成功」とは、「クールな仕事とみばえのよい男と細身の肉体」を手に入れることに尽くされる。そして、すべての決定的局面を「色気」だけで乗り切ってゆくことになるのである。

「権力をもつ男性」の性欲を刺激することによってしか状況を突破できない主人公たちのキャラクター設定を私は「差別的」というよりほとんど「犯罪的」だと思う。

それなのに、DCDのカバーのコピーは「ポップでおしゃれ、とびきりかっこいい青春ムービー登場!マジにかっこいい生き方ってなんだろう?自分らしさにこだわるすべてのあなたにお贈りします!」だと。

この映画を見て「わ、これこそマジにかっこいい生き方だわ」と思ったあなた。悪いけど、あなたの将来は暗い。とても、暗い。それはウチダが保証してあげる。



『ファイナル・デスティネーション』(Final destination by James Wong: Devon Sawa, Ali Larter)

修学旅行でパリ行きの飛行機に乗った高校生が、飛行機が墜落する夢を見て、気分が悪くなって離陸直前に飛行機を降りる。そのとき飛行機を降りた7人を残して、飛行機は離陸直後に空中爆発する。

残った7人は「ほんとうは死ぬはずだった」のに、偶然生き残ってしまったわけである。

かくして「死神の残業」が始まる・・・

『スクリーム』とか『ラストサマー』とか『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とか、アメリカ映画には「学生映画もの」というサブ・ジャンルがある。

大学の映画学科の学生が卒業制作で「いかにも作りそうな」映画である。

出演者は無名の高校生や大学生たち。場所は、何にもない田舎町。その「普通の高校生」たちの身に、不条理に「出来事」がふりかかる。その意味が分からないまま、一人一人無気味な死に方をし始める。主人公は「出来事の意味」を解読しようとして、ついに恐るべき秘密を知ることになる・・・

まあ、だいたいこういうプロットである。

CGなし、ヌードなし、銃撃戦なし、血糊少々、主な武器は「刃物系」、壊れるものはガラス窓止まり(めったなことでは車は爆発しない)。

『ファイナル・デスティネーション』はまさしく「学生映画の黄金のワンパターン」を踏襲した映画である。

ウチダは、「これまで誰もやったことがない試み」も好きであるが、こういう「きっちりすみずみまで定型通り」という映画も好きである。

定型には「定型のよさ」というものがある。

それは、「もう観客もあらかた分かってるんだから」、省略できるところは徹底的に省略してよい、ということである。

だから、「説明的シーン」というものがほとんどない。「ダレ場」がないから、テンポがよい。「アイディア勝負」だけに集中できる。

ここでは、「殺し方」に工夫のあとが見られた。(バスでどん、パソコンのディスプレーがバン、金属片がぴゅん。)「いきなり」型「じわじわ」型「おっと意外な」型、とシナリオ段階で映画小僧たちがわいわい議論したあとが窺える。

ラストシーンも「お約束」通り。

予定調和のヨロコビがじわじわと身にしみる「C級映画」の佳作です。



今日のゲストライターは毛利さんです。ネタはジョン・ウオーターズ先生の新作『セシル・B』。ではどーぞ。

内田先生へ

今日はとても良い天気で、下川正謡会も大成功したのではないかと思います。

観に行きたかったのですが、さすがに遠すぎました。

「セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ」の映画評書きました。

名前も出してください。

ええ 覚悟を決めたのです。

でもHPにふさわしくなければこの映画評は出さなくて構いません。

普段はこんなことは言えないはずなのに、

文章を書くというのは不思議な行為なのですね。

でも作品にあわせて・・・というのは半分嘘で、

きちんとしたものがどうしても書けなかったのです。

『セシル・B・ザ・シネマ・ウォーズ』(Cecil B. DeMented by John Waters: Stephen Dorff. Melanie Griffith)

「アホアホマーン!」

♪ふぁっふぁっふぁーっ ふぁふぁっふぁーっ・・・♪

その昔アーティスト坂本龍一は、更なる隙のない全方位型セレブへと進化を遂げるべく、ダウンタウンの松本人志に厄落としをしてもらいました。

今回ジョン・ウォーターズ監督に厄落としをしてもらうセレブリティは、ハリウッド女優メラニー・グリフィス。

「2番(1番はキャスリーン・ターナー)、不肖わたくしメラニー・グリフィス、アホアホウーマンやらしていただきます! 押忍!」

そういう映画です。

どういう映画なの? 

メラニー・グリフィス演ずる放漫なハリウッド女優ハニーは、主演作『ある幸福』の慈善プレミア上映会会場で映画狂集団〈スプロケット・ホールズ〉にさらわれ、映画ジャック・映画『狂える美女』の主役に仕立てられます。

パトリシア・ハースト事件のパロディでもあるのですが、

ひょっとしたらパトリシア&ジョンの暴露映画かもしれません。

「いやあ、私洗脳されてたなんて言われてるけど、あんときはあれでまんざらでもなかったのよ。楽しかったわぁ・・・さ、みんな!こんな私を笑って笑って!私も笑うから!あははあはあは・・・とほほのほ。」

最初はいやいやだったハニーですが、いろいろあってどんどんあっちのほうへ崩れてゆきます。

『パッチ・アダムス完全版』なる外道映画の上映を阻止せんとする一行!

「アカデミー賞落選女優よ」

ハニーの事情なんてそっちのけで罵る家族客の群れ・・・怖い!

「次のセリフは?」

髪を撫で付けて必死に動揺を取り繕うハニー!

「もう仲間だ 考えろ」

さっきまで無理やり台本読ませてたくせに!

「・・・(ピンポーン)!ファミリーは検閲の卑語よ」

♪愚かなハニー お前が悪いのよ 私は仕方なく言っただけ♪

ハニー、魂の叫び。でも誰にも聞こえやしない。

だって見えないものは存在しないんだもん☆

「聞いたかいリンダ?」 

「ええ聞いたわビル!」

「火蓋はきって落とされた!」 

「オトしたのは誰?」  

「「ハニー!!」」

ハモる二人。

「撃て!」

「ヤれ!」

「「ポップコーンでシューッ!!シューッ!!シューッ!!」」

またハモる二人。 

「Wow!」

「Yes!」

「「That’s America!! Gyaaaaaaaah!!」」

もうなにがなんだかわかりません。

そんな二人は出てきませんが、とにかくそういう映画です。

アカデミー賞の授賞式で脱糞ならぬ産卵をかましたビョークにもひけをとらぬその傾きっぷりや善し!

お笑いはイバラの道なのだそうです。

天然ボケの人は己の天然を自覚してはならないそうです。

悪趣味もまた然り。

やりすぎず、躊躇せず、慢心せず、日本刀の上を歩くような峻厳さをもって臨まなければ。

すべって血まみれになっても、それはそれで ・・・ぉ ぃ ι ぃ 。

なぜ、日本刀の上を?なんて野暮なことは言いっこなしです。

ジョン・ウォーターズ、まだまだ若いものには負けません。

より激しく、よりひげを細く、

洗練された喉越しの悪趣味を極める所存です。



『インビジブル』(Hollow Man by Paul Verhoeven: Elizabeth Sue, Kevin Bacon, Josh Brolin)

原題は「透明人間」ではなくて「中身からっぽ人間」。

そう、この映画は「透明人間」の話ではなく、「中身からっぽ人間」の話なのである。邦題もぜひ「スカスカ人間」あたりにして欲しかった。

それにしてもポール・ヴァーホーヴェン、性格の悪い人間を描かせるとほんとうに上手。

この映画でいちばん性悪なのは、もちろんケヴィン・ベーコンの「スカスカ人間」であるが、主演のエリザベス・シューもどうかと思う。

だって、仮にも昔の恋人で、つい2日前までいっしょに仕事をしていた研究チームのリーダーが狂い出したからといって、いきなり「火炎放射器」で焼くか? 「地獄に堕ちろ」といって火炎渦巻く地下に蹴り落とすか?

そんなに簡単に「気持ちの切り替え」ができちゃうの? ねえ?



『スペース・カウボーイ』(Space Cowboys, by Clint Eastwood: Clint Eastwood, Tommy Lee Jones, Donald Sutherland, James Garner)

デヴィド・リンチの『ストレート・ストーリー』の評に、私は「ハリウッドは『老人映画』という新しいジャンルを手に入れた」と書いた。

この新しいジャンルを「エンターテインメント」として最初に成功させるのは誰だろうと思っていたら、やはり、というかクリント・イーストウッドであった。

考えてみると、クリント・イーストウッドはすでに老人映画として『許されざる者』、『シークレット・サービス』、『目撃』とこの10年間手堅い成功を収めてきた。(ただし、『トゥルー・クライム』では「邪念の多い老人」という「一回ひねり」を試みて失敗。)

今回の『スペースカウボーイズ』はイーストウッド自身が監督した、先行する「老人映画」群の中でもっとも成功した『許されざる者』の話型を再び取り上げた。

つまり「老人の抵抗」ではなく、「老人たちの抵抗」の話型である。

その能力をアンダーレイトされた孤独な老人が、「若い連中に一泡ふかせる」ために「一仕事」する、という話型はどことなく「哀愁」が漂う。

しかし、「老人たち」が集まって、「むかしに帰ってバカ騒ぎ」をする、という話になると、そこには何かしら「少年の輝き」のようなものがきらめく。

『許されざる者』ではチームを組む相手がモーガン・フリーマンなので、ちょっと「コンビ」としては重かった。

しかし、今度は『ローリング・サンダー』のジョニー、『M*A*S*H』のホークアイ、そして”マーヴェリック”という異常にフットワークのよい「おじさんたち」とのコンビである。(そう言えば、ジョニーは『ローリングサンダー』の戦友チャールズ・レイン少佐(ウィリアム・ディヴェイン)とこの映画で再会を果たしていた。おひさしぶりだす)

「バカ騒ぎ」向きのキャラ大集合である。

『七人の侍』以来の「チームもの」の定跡(前半の「メンバー集め」のエピソードと、中盤の「集団訓練」のエピソードと、最後の「仲間の死」のエピソード)を律儀に踏まえた、たいへんに完成度の高い、爽快感のある作品に仕上げた。

ただし、『スペース・カウボーイズ』が「本歌取り」したのは『七人の侍』ではなくて、『ライト・スタッフ』(1983)である。

『ライト・スタッフ』は宇宙をめざす五人の空軍パイロットのお話であった。(サム・シェパード、スコット・グレン、エド・ハリス、デニス・クエイド、フレッド・ウォード)

『スペース・カウボーイズ』でも、四人の老人宇宙飛行士が「the Ripe Stuff」(「熟れすぎスタッフ」)とメディアにあだ名されて、すっかり人気ものになる、というエピソードが利かされている。つまり、『スペース・カウボーイズ』は「あれから35年後の『ライトスタッフ』たち」なのである。

クリント・イーストウッドは『目撃』(Absolute Power, 1997) でそのスコット・グレンとエド・ハリスと共演して「老け方勝負」をしている。

こう考えると、『ライト・スタッフ』を「老人映画」で、という構想は97年段階でクリント・イーストウッドの中でかたちを取りつつあった、と考えてよいだろう。

クリント・イーストウッドが『スペースカウボーイズ』で実証したのは、これまで作られたすべての名作映画はもう一度「老人映画」としてリメイク可能であるということである。

ジェームス・ボンドの「老人ヴァージョン」が可能なことは『ザ・ロック』と『エントラップメント』で実証済みである。(後者は失敗作だけど)

ウチダ個人としてはジェームス・コバーンが生きているうちに、『荒野の七人』の老人版が見たい。クリント・イーストウッドさん、お願いします。



『鉄十字章』Cross of Iron, by Sam Peckinpah: James Coburn, Maxmilian Schell, James Mason, 1977)

ロシア戦線の悪夢のような後退戦を「ドイツ軍の側から」描いた映画があれば見たいものだと前に書いたことがあるが、ちゃんとそういう映画を撮った人がいた。

知らなかった。

誰あろう、サム・ペキンパーである。

邦題が『戦争のはらわた』(いくらなんでもこれはひどい)というものだったので、私はペキンパー作品と知りつつ公開時には足を向けなかった。このようなよい映画を20年も知らずに見落としていたのは千載の悔。この邦題をつけた配給会社のバカ野郎に猛省を求めたい。

ロシア戦線でほんとうはどんなことが起こったのか、戦後のドイツの歴史家たちは、それについて沈黙を守っていた。「スターリンの軍隊」がそこでどれほどの暴虐を行ったか、ドイツの兵士たちがどれほどの悪戦に耐えたか、それは「連合軍=善/ヒトラー=悪」という単純な図式に則して物語を構築する限り、決して前景化しないし、されてはならない主題であった。

「ロシア戦線でほんとうに起こったこと」を究明する、それが80年代のドイツ「歴史家論争」のひとつの重要な主題であった。それは学術論争のかたちをとって展開したが、左翼知識人の猛然たる反撃にであった。

ドイツ人たちには「義のない戦い」で犬死した兵士たちを弔う「権利」がない。ドイツの人々はそう言い聞かされてきた。

だから、この空しく死んだ「兵士たち」を、物語の水準で鎮魂する「喪の作業」のためには、アメリカの監督とアメリカの俳優が必要だったのである。

英語を話すドイツ兵たちが主役である、この「ねじれた」戦争映画には、まぎれもなく、空しく死んだドイツとロシアの兵士たちへの、静かな鎮魂の思いが込められている。

兵士は死ぬ。ほとんど必ず死ぬ。ただ、その死に方には「まっとうな死に方」と「救いのない死に方」の違いがある。それを隔てる境界線はほとんど見えないくらいにぼんやりしている。けれども、その「境界線」を見誤らないことに命をかける以外に、「義のない戦争」で命をかけるに値するどんな目的が他にあるというのだろう。

ジェームス・コバーン(掛け値なしに生涯最高のパフォーマンス)演じるシュタイナー伍長は、そのこと「だけ」に戦う目的を凝集させることで、義のない後退戦をはいずって戦う日々にひとかけらほどの「意味」を見出そうとする。

戦争に大義あり、と言うことはたやすい。それは安手のプロパガンダ映画になるだろう。

戦争に意味はない、と言うこともたやすい。それは安手の反戦映画になるだろう。

戦争は無意味である。だが、そこで死ぬ人間は「自分の死が無意味だ」ということを受け容れるわけにはゆかない、といういちばん「あたりまえの事実」を語ることがいちばんむずかしい。

この映画はそれに成功した希有の例である。



『ブリット』(Bullitt by Peter Yates: Steve McQueen, Jacqueline Bisset, Robert Vaughn, Don Gordon, Rober Duvall, Simon Oakland)

1968年のスティーヴ・マックイーン全盛期の刑事アクション映画。

よい時代であった。

刑事はあくまで刑事らしく、主人公が捜査の過程で出会う人たちはみんな自分の仕事を淡々とこなし、同僚は以心伝心で、上司は権限は部下に任せて責任は引き受ける。恋人はあくまでやさしく、事件は無事に解決し、ワルモノは最後にちゃんと殺される。

これを予定調和のオハナシと笑うことはたやすい。

しかし、私はそうは思わない。

ブリットはかなり危険な「綱渡り」をしている。

しかし、それにもかかわらず彼が少しもあわてず、騒がず、のんびりしていられるのは、彼が有能だから(だけ)ではない。

同僚が彼に劣らず有能で、上司が有能で、医師が有能で、現場の警官が有能だからである。みんながきちんと「プロの仕事」をするから、主人公は(車の運転以外には)特段の「超人的」な能力を発揮しなくても、することだけしていれば、ちゃんと犯人はつかまるのである。

私はこういう映画が見たかった。

全員が十分に有能であるために、誰かが一人だけ突出して有能である必要がないような、素晴らしい「チーム」のメンバーであることの快感。そういうものをハリウッド映画はもう何年も描いてこなかった。

主人公の刑事はつねに例外的に有能であり、そのせいで、同僚に足をひっぱられ、上司に押さえ込まれ、犯人に狙われ、家族に嫌われる。

そんな話はもう飽きた。



『60セコンド』(Gone in Sixty seconds by Dominic Sena: Nicolas Cage, Robert Duvall, Delroy Lindo)

ニコラス・ケイジが指先をぶるぶるさせて「OK. Let's go」という予告編をみて、「おお、かっこいい」と思って借りたが、かっこいいのはそのシーンだけだった。

でも、ニコラス・ケイジほど「かっこつけてるだけのバカ」にリアリティと親近感を与えられる俳優はレアだ。その点はほんとうにすばらしい。



『キッド』The Kid by Jon Tarteltaub: Bruce Willis, Lily Tomlin)

藤子・F・不二雄先生お得意の「むかしの私に会ってしまった」タイムパラドクスもの。

もちろん藤子先生のつくるお話のほうが100倍も面白い。途中で飽きてしまったが、それでも最後まで見られたのは、リリー・トムリンの献身的な演技の手柄。

映画をつまらなくした最大の原因は子役のミスキャスト。

あのデブガキがどうしたって、ブルース・ウィリスになるわけない。こういうのって「どれくらいそっくりの子役を探してくるか」というところで半分決まってしまうんだから。(『ラスト・エンペラー』のジョン・ローンの青年時代なんて、本人が特殊メイクしたのかと思うほどそっくりだった。手間を惜しむなよ、こういうところで。)



『夕陽のガンマン』(For a few dollars more, by Sergio Leone: Clint Eastwood, Lee Van Cleef, Gian-Maria Volonte)

『荒野の用心棒』に続く、レオーネ=イーストウッドの「マカロニ・ウェスタン」第二弾。1965年製作。DVDで買ったので、さっそく拝見。

TVで何度も放映していたけれど全編ノーカット版を見たのはこれがはじめてだ。

(1)登場人物がじつによく煙草を吸う。(これはハンフリー・ボガードの映画を見てもそう思う。ヘビースモーカーである私がみても、煙で息が詰まりそう)

(2)ジャン=マリア・ヴォロンテのやたら汗びっとりのアップが暑苦しい。変な回想シーンも変。(でもこの「大芝居」私は好き)

(3)リー=ヴァン・クリーフのハゲかたがとってもチャーミング。青い目もきれい。

(4)当時は「残酷西部劇」と言われていたけれど、今見るとぜんぜんおとなしい。血もあんまり出ないし。撃たれても痛くなさそう。

(5)死体を数えながらクリント・イーストウッドが「えーと、こいつで5000ドル、7000ドル、おお、こいつも死んだか、10000ドル」と足し算してゆくラストシーンがとっても素敵。この場面はTV放映のときはつねにカットされていた。



『NYPD15分署』(The Corruptor, by James Foley: Cho Yun Fat, Mark Wahlberg)

NY市警チャイナタウン分署の汚職警官(チョウ・ユン・ファ)とそれを内偵する内務捜査官(マーク・ウォールバーグくん)の友情と葛藤のドラマ。

マーク・ウォールバーグくんは『ブギー・ナイツ』以来、すっかり売れっ子であるが、今回も『スリー・キングス』同様、「自分が何をやっているんだかよく分からなくなってしまった」「何が正しくて何が悪いのか判断停止に陥ってしまった」アメリカの若い世代の当惑をみごとに演じている。

『NYPD15分署』の中で、マーク君は、あらゆる登場人物たちから(同僚から、中国人マフィアから、FBIから)こづき回されるが、そのすべての質問に彼は「知らない」「分からない」という答だけで応じる。

チョウ・ユン・ファ刑事がマーク君に命じるのは「自分で考えるな、おれのいうことをそのまま繰り返せ」というだけである。

そして結局マーク君はその教えに従うことにする。

『ブギー・ナイツ』でも『パーフェクト・ストーム』でも『スリー・キングス』でも、マークくんは、いつでも最終的には「何考えてるんだか、よくわかんないけど、隣にいて、ぼくのことをどやしつけるけど、なんだか優しそうなこの『おじさん』(バート・レイノルズ、ジョージ・クルーニー、チョウ・ユン・ファ)についていこう」という結論に達する。

この「おじさん」たちがマーク君の「ソーシャライザー」である。

この「おじさん」たちはみんな「汚れて」いる。(エロ映画監督、欲かき船長、火事場泥棒、汚職刑事)

けれども、この「汚れたおじさん」たちのばかばかしいほどひたむきな生き方の中には一貫した何かがある。

それは「人間がチームをつくって何かをするときにだいじなことは、『何をするか』ではなく、『チームである』こと、そのものなのだ」という教えである。

「おじさん」と組んで仕事をする意味は、「おじさん」から仕事についてのスキルや情報を獲得することではなく、「ぼくのおじさん」を持つ、という事実そのもののうちにある。そのことを「おじさん」たちはマーク君に教えるのである。

この映画でのマーク君の「おじさん」は中国人の汚職刑事である。(戸籍上の「父」も登場するけれど、彼はいかなる意味でもソーシャライザーとして機能していない。)

血縁においても、文化的バックグラウンドにおいても、価値観においても、何一つ共有するところのないこの人物を「知っていると想定される主体」に擬すことでマーク君は生き残り、成熟への階段を昇り始める。

アメリカ社会はフロイトがまるで分かっていないと私はかつて『ゴーストバスターズ』を論じた折りに書いたことがある。

その断定は撤回せねばなるまい。

建国200年余、ようやく、マーク・ウォールバーグというキャラクターを得て、アメリカ社会は「エディプス」という概念のとばぐちにさしかかったからである。

顧みるに、わが国の映画に「父」として機能するような「おじさん」が映像化されなくなって久しい。(「寅さん」の甥っこはぜんぜん成熟できずに相変わらず世界の「果樹園めぐり」をして「何言ってんだか」とせせら笑われているけれど、あれはまあ「おじさん」のほうに問題があったみたいだし)

記憶をたどっても、『姿三四郎』の矢野正五郎先生(大河内傳次郎)と、あの「悪いおじさんたち」(中村伸郎、佐分利信、北龍二)くらいしか思いつかない。(それにつけても黒澤明と小津安二郎の偉大さよ。)



『醜聞(スキャンダル)』(監督:黒澤明、出演:三船敏郎、志村喬、山口淑子)

1950年、ということは私が生まれた年の映画である。

私が生まれた頃の東京の街は(かすかな記憶にあるとおり)、道が広く、空が広く、空気が透明だった。昭和30年代まで、東京の空は目線の先にあった。(いまは見上げないと見えない。)

この時代に暮らしていた人はずいぶん「すっきりした」気分だったんだろうと思う。

帝都はその5年前に破壊され尽くして、廃墟から「まったく新しい社会」が生まれつつあった。そんな時代の「エートス」が横溢する映画。

子どもらしい子ども(桂木洋子)と、大人らしい大人(この映画では「絶滅した明治人」、青山杉作と高堂國典を同時に見ることができる)、そして「青年」が主人公の時代である。

あれから50年経って、みんな絶滅した。

とくにその喪失が悔やまれるのは「青年」という社会集団である。

すばやい行動力、生硬なロジック、純粋な信念、多感な感受性。それなりの社会的立場を獲得していながら、その立場にまだなじむことができずにいる。「子どもと大人の中間」にいて、ある意味でその両方の「美味しいところ」だけを取った生き物である「青年」は、おそらく明治30年代に『三四郎』や『青年』とともに出現し、石原裕次郎が石坂洋次郎的世界を逃れて「ボス」になったころに絶滅した。

この映画のなかの魅力あるもの(青年、「気骨ある明治人」、清純な少女、美しい山河、涼やかな東京)はすべて消え去った。そして、この映画のなかの「邪悪なもの」(正義派をきどったジャーナリズムと拝金主義)だけはいまだに繁昌している。


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