おとぼけ映画批評

Vol. 9

『ハルク』(Hulk by Ang Lee: Eric Bana, Jeniffer Connelly)

おっと、これもコミックスの映画化か。

アメリカ映画の幼児退行ももはやとどまるところを知らないな。

でも『ディアデビル』より少しましなのは、怒りとともに変身するハルク君が「化け物」であるということと、「化け物になって、怒りに身を任せていると、なんだか自由で、解放されたようで、すごく気持ちがいいんだ」と正直に告白するところ

そういう「怪物」の正体が、「抑圧された記憶」に苦しむトラウマ少年(おいおいまたかよ)というのも定型通り。

しかし、さすがのウチダもいいかげん飽きたてきたなあ。ハリウッド映画に。



『ディアデビル』(Daredevil: by Mark Steven Johnson: Ben Affleck, Jennifer Garner, Colin Farrel, Michael Clarke Duncan)

アメコミ映画化シリーズ。

『スーパーマン』『バットマン』、『スパイダーマン』、『ハルク』までで、さすがに日本の観客の知っているネタは尽きたようである。

知ってました?『ディアデビル』?

ウチダは知らなかった。

昼間は盲目の正義派弁護士、夜は「勧善懲悪」のスーパーヒーローというこの説話原型がアメリカ映画には異常に多い。

つまり「人の目があるところでは」合法的に正義を実現すべくこれつとめ、「人目がなくなると」直接的に暴力行使をして「正義」を実現するのである。

『ソードフィッシュ』は裏FBIが潤沢な資金と練度の高い兵員を駆使して、世界中のテロリストを「テロ返し」するという話だった。

これこそはまさしくアメリカ国民の多くの偽らざる欲望だろう。

国連安保理とか総会決議とか国際協調とかの枠組みの中で「悪」を退治しようとするのが「昼間の正義派」のやり方である。もちろん、こんな手ぬるいやり方では「悪」は痛痒を感じることもなく繁昌するばかりである。

だから、「夜の正義派」の登場が懇請されるのである。

しかし、「夜の正義派」はしばしばその意図を誤解されて、メディアによって、あるいは彼がその生命身体を守ろうとして苦闘している当の愛する女性によってまで「血に飢えた暴力主義者」だと誤認されて憎まれる。

「彼ら」が、彼の真の善意と英雄性に気づくのは、いつでも正義の執行が終わったあとになってからなのである。

だから、今はどれほど憎まれようと誤解されようと、なによりもまず「正義の執行」が果たされねばならない。

 

「正義の味方」ディアデビル君には、残念ながら「正義」とは何かということの定義が彼一人に委ねられていることは「合法的」かという自省が欠けている。

彼が自分には「正義の暴力」と「不正な暴力」の違いを判定する能力があると彼はああも素朴に信じ込めるのは、「過去において不正なる暴力の被害者となった」というトラウマ的経験を彼が後生大事に抱え込んでいるからである。

自分は正義を体現しているという素朴な信憑と、その信憑を担保する「トラウマ的経験」。

おそらく、このチープでシンプルな物語をこれからもハリウッドは量産し続けることだろう。



Carne/Seul contre tous/Irrversible par Gaspar Noe: Philippe Nahon, Monica Bellucci, Vincent Cassel, Albert Dupontel)

食後にAVライブラリーから借りたギャスパー・ノエの『カルネ』(Carne)と『カノン』(Seul contre tous)を見る。

豚肉で満腹状態で見始めるべき映画ではなかったようである。

そ、それにしても、救いのない映画である。

フランスの「レッドネック」というか「プア・ホワイト」というか、要するにLa France profonde と呼ばれる社会階層(無知で暴力的で利己的で排外主義的なボンクラたち)の出口のないバカさが活写されている。

歴史が教えるところでは、この階層が19世紀末から大戦間期にかけて、フランスにおける反ユダヤ主義とファシズムの培養基となった。

主人公の肉屋が勤務していた畜殺場、パリ郊外のラ・ヴィレットは、かのモレス侯爵の組織した「世界最初のファシスト武装集団」モレス盟友団(Mores et ses amis) の根拠地である。

侯爵はここの屠殺人たちに紫色のシャツとソンブレロをかぶせてパリの街路を行進させ、パリのブルジョワたちははそれをこわごわとみつめながら、そこに漂う血と暴力の匂いにひそかに魅了されたのである(モード史の教えるところでは、このシーズンにモレス侯爵が着こなした「ヘビー・デューティなアウトドア志向のサファリ・ジャケット」は「モレス」という名前を冠されて、パリのブルジョワたちにもてはやされたそうである)。

ギャスパー・ノエはおそらくそのような歴史的事実を踏まえて、「ひとはどうやってファシストになるのか?」という古くて新しい政治的主題に挑んでいるようにウチダには思われた。

 

こうなったら「毒を食らわば皿までも」と、松下正己くんご推奨の『アレックス』(Irreversible)に挑戦。

うーむ。

教訓としてはですね・・・

(1)深夜に地下道を歩くのは止めましょう

(2)鼻っ柱は強いが喧嘩は弱い友だちとアブナイところには行かないほうがいいね

(3)人生の重大な決断は、酒、ドラッグなどを吸飲していないときにしましょう

(4)あまり「セックスの話」ばかりしていると、罰があたりまっせ

というくらいが重要度の順でしょうか。

なに?

ウチダには「アートっつうものが分かってない」と?

「映画は教訓を引き出すために見るもんじゃないぞ」と。

こうおっしゃるか。

いや、もっともですが、この映画を見て、「これからは真夜中にひとりで地下道を歩くのはやめよう」と思ったおかげで遭遇したかもしれないレイプを事前に回避することができた女性が世界に一人でもいれば、この映画は人類に「善きこと」を一つ贈ったとウチダは思うけどね。

アーティスティックでかっこいい映画であることより、そっちの方をウチダは評価する。

物語が人間の愚かさと邪悪さを描くことに少しでも意味があるとすれば、それは「人間の愚かさと邪悪さ」についての知見を広め、それを「どうやって回避するか」についてひとりひとりが真剣に考え始めることにある、とウチダは思う。

それが「物語」の人類学的な意味でもっとも起源的な機能なのではないのだろうか。

という点で、ギャスパー・ノエをウチダは高く評価するのである。

松下くんの評価軸とはぜんぜん違うけどさ。

ギャスパー・ノエくんは、さらに「人間の愚かさと邪悪さ」について深く追求するように。

カンヌでは地下道のレイプ・シーンで続々とジャーナリストが席を立って、抗議の意志を表示したそうであるが、そういう「良識ある」態度はモレス盟友団を見て見ぬふりをした1890年代のパリのブルジョワと変わらないぞ。



『キルビル』(Kill Bill by Quentin Tarantino: Uma Thurman, David Carradine, Lucy Liu, Daryl Hannah Vivica A. Fox, Michael Madsen, Michael Parks, 千葉真一, 栗山千明, Julie Dreyfus, Chia Hui Liu, 國村隼, 北村一輝, 麿赤児)

いやー、おどろきました。

映画の冒頭が

Dedicated to Fukasaku Kinji

で映画が終わって、クレジットのところで延々と梶芽衣子の『怨み節』が流れるんだよね。

バカな、バカな、バカな女の、うーらみー、ぶうううし。(これは梶芽衣子の『女囚さそり701号・怨み節』の主題歌)

信じられないよな。

横の女の子が連れの男の子に、映画が終わったあと「ねえ、これ日本の映画?」って聞いてたもん。

ウチダはたまたま先般、共同通信の依頼で『映画監督深作欣二』という本の書評のために、深作監督の全フィルモグラフィーを検索して、未見の代表作をTSUTAYAでチェックして見たばかりなので、この「深作オマージュ」にはちょっと感動しちゃいました。

全作『ジャッキー・ブラウン』でちょっと味噌をつけたタランティーノ、今回は、バカ全開、絶好調です。

しかし、タランティーノの「ニッポン1970年代サブカルチャー」への傾倒ははんぱじゃない。

ベースになっているのは、『修羅雪姫』(by 藤田敏八:釈由美子のリメイクじゃなくて、73年の梶芽衣子のやつね)、TVシリーズ『影の軍団』(by 深作欣二:なにしろ千葉ちゃんの役名は「服部半蔵」だし、「神に会ったら神を斬り・・・」というのもね)、『柳生一族の陰謀』(by 深作欣二:これは家光の首がころりと落ちるところ)『子連れ狼・三途の川の乳母車』(by 三隅研次:勝プロダクション。これはジュリー・ドレファスの腕がぴょんぴょんと切られるところ。もう全編、小池一夫オマージュ。ご存じのとおり、この映画をアメリカに持ち込んで、Shogun Assasin というシリーズ名でヒットさせたのは、「あの」ロジャー・コーマン。もちろん若きタランティーノは『子連れ狼』に熱狂したのだ)、『座頭市二段斬り』(by 井上昭:これはユマ・サーマンが途中で、両刀使って「座頭市」殺陣をやるところ)

もちろん『仁義なき戦い』も『極道の女たち』も『スケ番刑事』も『グリーン・ホーネット』も『フォクシー』も『バトルロワイヤル』も・・あらゆる先行作品から引用にあふれている。

最後の雪の庭での決闘シーンはユマ・サーマンが『死亡遊戯』のブルース・リーのジャンプスーツ、ルーシー・リュウが修羅雪姫。

よくやるよな。

だけどユマ・サーマンの原点はやっぱサリー・メイだろうな。

え?サリー・メイ知らない?

金髪のアメリカ女が、やくざになって、だんびら振り回す・・・

『らしゃめんお万』、知らない?

知らないか・・・ま、ふつう知らないよね。

そういう映画を見てる人間の方が問題だよな。むしろ。

しかし、とにかくこの映画をいちばん楽しめるのは、60−70年代にひたすら日本のゴミ映画、バカ映画を見てむなしく青春を過ごしたわが同時代人たちであることは贅言を要さない。

こんなところでしょんべん臭い映画館でむなしく過ごした青春の思い出がよみがえるとは・・・

タランティーノって、ほんとに「いい奴」だぜ。(泣)



『きゃっち・みー・いふ・ゆー・きゃん』(Catch me if you can: by Steven Spielberg: Leonardo DiCaprio, Tom Hanks, Christoper Walken, Martin Sheen)

天才詐欺師フランクくんは「形から入る」という原則に忠実だ。

医者に化けるときは『ドクター・キルデア』で、弁護士に化けるときは『ペリー・メイスン』でお勉強。

女の子をひっかけるテクは、『007/ゴールド・フィンガー』でお勉強。もちろん、ボンド・スーツにアストン・マーチン。偽名は「ミスター・フレミング」だ。

不思議な話だけれど、考えてみたら、アメリカで60年代に医者になろうと思った人のかなりの部分は『ベン・ケーシー』や『ドクター・キルデア』をみて、医者にあこがれたんだし、弁護士になる人のかなりの部分は『ペリー・メイスン』に触発されたというのは、まぎれもない事実なんだから、そういうTV番組での「定型的なふるまい方」が、現場に逆輸入されてしまうということは当然あったはずなのだ。

私は予言するが、あと何年かしたら、茶色のダウンジャケットを着て東京地検に出勤してくる検事がぜったい何人かいるはずである。



ひさしぶりに松下正己くんが投稿してきました!

『アレックス』(Irrevisible by Gaspar Noe: Monica Bellucci, Vincent Cassel, Albert Dupontel)

『カルネ』『カノン』に続くギャスパー・ノエの新作『アレックス』を見ました。これは必見。

物語は単純です。

アレックス(モニカ・ベルッチ)とマルキュス(ヴァンサン・カッセル)のカップルが、アレックスの元恋人でカッセルとも友人であるピエール(アルベール・デュポンテル)と三人でパーティに出掛ける。が、ささいなことでひとりパーティを抜け出して帰ろうとしたアレックスは、地下道でレイプされてしまう。それを知ったマルキュスとピエールはレイプ犯を探し、とあるゲイクラブを突き止める。しかし結局マルキュスは重傷を負い、ピエールは激昂して間違った男を殺してしまう。

ところが映画は、前作の主人公をからめながら、ゲイクラブからマルキュスが担架で運び出されピエールが逮捕されるシーンから始まります。

アメリカ映画『メメント』と同様、『アレックス』も、すべてのシークェンスが、時間軸を逆にして並べられているのです。ただ、『メメント』では謎の解明とそれに伴うどんでん返しのためのトリッキーな方法論だったものが、ここでは深く映画の感情に関わる重大な意味を担っています。

観客は、無気味な音響効果に彩られた、異常なまでに暴力的に揺れ動く暗い画像によってグロテスクな殺人行為を目撃し、揺れる手持ちカメラの画像によって昂奮したマルキュスが犯人を探す様子を眺め、地下通路の床でレイプされるアレックスの姿を今度はフィックスされた画面で延々9分間も凝視することを強制されます。

画面の揺れは徐々におさまり、パーティの場面、パーティへ向かう三人の地下鉄内の会話の場面、二人のベットでの場面と、時間を遡るにつれ、ワンショットワンシークェンスの映像とその色彩はより穏やかになっていきます。

アレックスがふと、「未来はもう決まっている」というような台詞を口にします。しかし彼女自身は、(既に観客がいやという程見せられた)自分を待ち受けているおぞましい運命を知る由もないのです。

映画の最後、公園の鮮やかな緑の芝生の上に寝そべって本を読む美しいアレックスの姿が、天地逆に映し出されます。ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が始まります。カメラはそのまま上昇し、アレックスの周囲で走り回る子どもたちをフレームインさせながら、ぐるぐると回転します。回転する画面はやがて空に向き、真っ白になった画面がフリッカーを始めます。

脳神経に悪影響があるのでは、と本気で危惧し始めたころ、ようやくフリッカーがおさまり、「時はすべてを破壊する」という字幕が出て、映画は終わります。

(エンドクレジットは冒頭で表示済み)

出来事が逆に語られることによって、時間を遡るに従い、私たち観客の「未来の記憶」は重畳し、主人公たちへの投射=同一化はどんどん困難になっていきます。確かに「時はすべてを破壊する」のです。

映画の最後に至って、穏やかな表情で公園に寝そべるアレックスに同一化しようとする私たち観客に、あまりにも悲惨な彼女の運命が重くのしかかってきます。

映画の原題は『IRREVERSIBLE』。事態は確かに「不可逆的」であります。けれども、その悲惨な運命に抗って、「今」を生きるスクリーン上のアレックスは、圧倒的な輝きを放っているのです。

私たち観客の内に生じる耐えがたい二律背反、様々な極端な情動の励起の果てのこの感情的な混乱は、強烈な印象となって、いつまでも脳髄の片隅に残るに違いありません。

映画を愛する全ての人々に観ていただきたい、傑作です。



踊る大捜査線 The Movie 2 (本広克行監督:織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、いかりや長介、ユースケ・サンタマリア)

「哀しみの平成無責任男」

 TVシリーズで織田裕二君が演じた青島俊作君は、湾岸署の小市民的な同僚たち(今回も相変わらず快調)と、本庁のエリートたちとの出口のないコミュニケーション不全に爽やかな風穴をあける「へらへら刑事」であった。この青島刑事がかつて「無責任シリーズ」で植木等が演じた、何ものにも束縛されない「お気楽サラリーマン」の直系の後継者なのだということに、今回映画を見てはじめて気がついた。

 『ニッポン無責任時代』の植木等には、帰る故郷も、骨を埋める会社も、養うべき家族も、ご機嫌を伺う恋人も、兄弟仁義で結ばれた友人も、なんにもない。だからいかなる権力も誘惑も彼をコントロールすることができない。彼が求めるものはただ一つ。自由である。無責任男は高らかに笑い、振り向きもせずに歩き去る。

 TVシリーズの青島君にはそんな「平成の植木等」の面影が濃密に残っていた。(「都知事と同じ青島です」と名乗っていたのだから、その暗示に気づいておくべきだった)。

 青島刑事の自由は、無責任男と同じく、あらゆるしがらみと欲望からの解放に担保されていた。彼はいつも緑のコートに白いボタンダウンのシャツに赤いネクタイで歩いて出勤してくる。でも、彼が帰る先がどこなのか、私たちは知らない。家族がいるのかどうかも知らない。彼のラブ・ライフがどうなっているのかも知らない。(「チャンスがあれば・・・」というそぶりは見受けられるけれど、チャンスを作り出す気はまったくないみたいだ)。口にするのは煙草と缶コーヒーとカップラーメンだけ。

 この「私生活の完全な消去」を代償にして青島刑事はかろうじてその行動の自由を確保していたのである。年金やローンや家族のしがらみに呪縛された同僚たちに比べると、彼には失うものがなかった(少なくとも、彼が「失うかも知れないもの」は私たちには知らされていなかった)。

 でも、そんな「謎の自由人」青島君にも、いつのまにか「生活の澱」がこびりついてしまったようだ。それもしかたがない。室井管理官(柳葉敏郎)との確執も、恩田刑事(深津絵理)との進展のない恋ももう七年越しなんだから。

 青島君はもうかつてほど「謎」めいてはいない。彼の行動パターンがもう熟知されているからだ。彼がどんな破天荒な行動をしても、それは「いかにも青島君ならやりそうなこと」としてにこやかに受け流されてしまう。彼はもう「謎を蔵した自由人」ではなく、みんなが期待する通りのふるまいをする「あの青島君」なのだ。

 エンディングでの彼の笑顔は少し哀しげだ。それはおそらく彼があのチープで不毛な「お台場」に宿命的に釘付けにされ、そこから笑いながら立ち去ることを許されていないからである。(『キネマ旬報』9月下旬号)



『レッドドラゴン』(Red Dragon by Brett Ratner: Anthony Hopkins, Edward Norton, Ralph Feinnes, Harvey Keitel)

先般めでたく「映画史上最も怖いキャラクター」第一位に選ばれたアンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクター博士にくらべると、肝心の殺人鬼ラルフ・フィアンズ君の異常さがかすんでしまう。

幼児期の虐待による解離性人格障害者がシリアル・キラーとなる、いう想定に、悪いけれど、ウチダはもう飽きた。

こういう映画を幼児期から浴びるように見続けているうちに、幼児期の虐待経験は猟奇殺人で解消するのが「政治的に正しいのだ」と思いこむような単純頭の犯罪者が大量発生してくるのではないだろうか?(すでに、そうなっているんじゃないの?)

アメリカの現実の方がアメリカの映画よりずっとコワイ。



『独立愚連隊』(1959年東宝・岡本喜八監督:佐藤允、雪村いずみ、中谷一郎、鶴田浩二、三船敏郎、南道郎)

芦屋のTSUTAYAがどういう基準で作品を並べているのかウチダには理解の外であるが、しぶめの選択も見受けられる。

まさか『独立愚連隊』がこんなところに隠れているとは思わなかった。

というわけで40年ぶりに再見。

佐藤允の涼しい三白眼と、きゅっとつり上がった口元がとってもチャーミング。

佐藤允はこのときの大久保軍曹役があるいは生涯ベストパフォーマンスかもしれない。

しかし、ひさしぶりに見ると、「戦争」とそれに付随する現象に対するタブーがこの40年間で非常に抑圧的になったことが実感される。いま、『独立愚連隊』をリメイクしたとすると、いくつかのシーンはカットされなければならないだろう。

(1)江原達怡たち独立愚連隊の古参兵たちの、ひじょうにふざけた服務態度(日本遺族会、隊友会、自民党国防族からのクレーム必至)

(2)中丸忠雄、南道郎ら中隊幹部の背任横領戦線逃亡(上に同じ)

(3)三船敏郎の発狂シーン(障害者人権団体からクレーム必至)

(4)中北千枝子の朝鮮人従軍慰安婦の「にほんのへいたいぱかあるよ」以下の民族差別的キャラ設定(韓国政府、北朝鮮政府、総連、民団、朝日新聞以下全メディアからの怒濤のクレーム必至)

(5)愚連隊兵士諸君によるたいへん痛快な八路軍500人の『ワイルドバンチ』的大虐殺(中国政府および各種人権団体、反戦団体からのクレーム必至)

というわけで、現在リメイクする場合には、独立愚連隊の登場シーンを全面カット(だって、出てくる全シーンでふざけちらしているんだから)、従軍慰安婦登場場面をすべてカット、中隊司令部の場面をカット、三船敏郎の登場シーンをカット、八路軍との戦闘場面をカット・・・ということで、中国娘と従軍「看護婦」とのあいだの恋のさやあてでおろおろする佐藤允が鶴田浩二の「兄弟仁義」によって、中国民衆のために強権にあらがう馬賊へ参加する、という物語に改作するほかないであろう。

しかし、こうやって改竄された『「政治的に正しい」独立愚連隊』はじつにハリウッド的なストーリーラインになるのにびっくり。

日本の戦後映画の抑圧は、まさしく「人権」と「政治的正しさ」にかかわる「アメリカン・スタンダード」の内面化として進行したのであったのである。



ヒラカワくんから初投稿。「シンクロ兄弟仁義」で結ばれたヒラカワくんとウチダくんは、こんなふうにいつでもおんなじようなことを考えているのだ。

『つきせぬ想い』

平川です。

いま、93年度の香港電影金像奬では最優秀作品・監督・主演女優・助演男優・助演女優・脚本の主要6部門を独占したという低予算香港映画「つきせぬ想い」を見たところです。

よい映画でした。

 

先日うちだくんも「猟奇的彼女」を誉めていましたが実はぼくも「猟奇的」を見て以来

韓国映画、中国映画、香港映画にはまっています。

ひとの笑顔やしぐさ、恋愛感情が生まれてくるまでの微妙な距離感、躊躇、息づかいや気持ちの揺れといった微細な感情や身体の動きが良く見えるのです。

それはディテールの作りこみとかストーリーの緻密さといった技術的なものとは別の水位の問題で何かが荷担しないと現れてこないようなものです。

 

ずっと、考えていたのだけれど、少し前の日本映画にあった何かがこれらの映画には残っていて、それが僕らを動かすのだと思っています。

「猟奇的彼女」

チャン・イーモウの「初恋のきたみち」でとっとことっとこ走るチャン・ツィイー、ホ・ジノの「八月のクリスマス」での井上揚水似の男優の静かな微笑み

じゃあ、その何かとは何なのか。

「貧しさ」だと思います。

85年のバブルを境にして日本映画から「貧しさ」というテーマが完全に消えました。

もちろん、ハリウッドはもっと前からそれを失っていました。

かっての「我が谷は緑なりき」なんてのを見るとまだ「貧しさ」がテーマになっていましたね。

もっといえば

貧しくても矜持をもって生きる

貧しくても楽しくやれる

貧しくても素敵な恋ができる

貧しくても人間を信じてゆける

これはその後のアメリカ映画や日本映画を見るにつけ、貧しくないと人間を駆り立てる差異は恐怖とバイオレンス、セックスといった刺激の量の多寡でしかなくなってくるのかと考えてしまいます。

貧しいっていいもんですね。

そんな意味でも橋本治さんの「貧乏は正しい」という洞察はまったく正しいですね。

是非見てください。



『猟奇的な彼女』 My Sassy Girl, 2001 by Quak Cho Yong: Chon Ji Hyong, Cha Te Hyong

鈴木晶先生も光安さんもヒラカワくんも、みんな一押しの『猟奇的な彼女』を見る。

これぞ、純愛映画の「王道」。

どきどき、わくわく、にこにこ、しくしくさせながら、何のケレンもなく、「予定調和のためのすれ違い」という永遠のワンパターンをみごとに踏襲している。

ウチダは、「永遠のワンパターン」には原則的にどんなものでも好意的であるが、これほどスマートな「ワンパターン」は珍しい。

女の子は『ティファニーで朝食を』でヘプバーンが演じたホリー・ゴライトリーのキャラに近く、こういう「少女版ファム・ファタル」は少しでも俗な感じがすると一瞬で興醒めなんだけれど、チョン・ジヒョンは俗っぽさと透明さのバランスが絶妙。

ふりまわされておろおろするチャ・テヒョン君も実にかわいい。

韓国映画はレベル高いなあ。必見。

と、テキトーな感想を書いてすませていたら、鈴木先生から「あれは死者を正しく鎮めることができなかったせいで、少女に呪いがかかる話ですよね」というご指摘を頂いた。

考えてみたら、その通り。

彼女があんなに「ヘンテコ」なのは、彼女が正しく弔うことのできなかったかつての恋人である死者に取り憑かれていて、新しい恋を禁じられていたからなのである。

結局、二年後の約束のときにも、彼は彼女に出会えないし、地下鉄の駅でもすれ違ってしまう。

死者の祟りだ。

では、なぜかくも執拗なる「祟り」が解けてハッピーエンディングを迎えることができたのか?

それを考えて、ウチダは不意に、あらゆるハッピーエンディング純愛映画に共通する「必殺のパターン」を発見したのである。

それは「セレンディピティ」あるいは「シンクロニシティ」と呼ばれるものである。

思いもかけない偶然の一致。それが「呪い」を解く鍵なのだ。

フロイトは『不気味なもの』の中で、偶然の一致のうちに私たちは私たちの自己決定を越える「運命の力」を見るという機制について語っていた。

たとえば、劇場のクロークでもらった札の番号と、たまたま乗った列車の座席番号とが一致していたりすると、私たちは「ぞっとする」。

そこに「不気味なものの回帰」を感じるからだ。

私は昔「不気味な」経験をしたことがある。

ある日予備校をさぼって映画を見に行った。『ローズマリーの赤ちゃん』というポランスキーの傑作ホラーである。

映画を見て、悪魔の子供である「赤ちゃん」の誕生日が、誰かの誕生日と同じであることを思い出した。

そのころ私が好きだった彼女の誕生日だった。

彼女は「魔女」とあだ名されていた。

ぞくぞくしてきて、映画館を出て昼間の光の中に歩み出したら、その日がほかならぬお二人の誕生日であることに気づいた。

気分が悪くなったので、家に帰って寝てしまった。

別にそれだけのことだが、同じ数字が三回続けて出ると、すごく「不気味」なのだ。

「呪い」や「祟り」は本質的に「回帰性のもの」である。

自動車にはねられかけたあとに、上から看板が落ちてきて、地下鉄のホームから転げ落ちそうになったあとに、ドライヤーで感電する・・・というふうに、「死にそうな経験」が回帰するから「呪い」なのである。

自動車にはねられかけたあとに、昇進の通知があり、地下鉄のホームから転げ落ちかけたあとに、祖母から遺産が転がり込んだというような場合は誰も「不気味」だとは言わない。「人生、苦あれば楽あり」と『水戸黄門』みたいな納得の仕方ができる。

であるから、「回帰性呪い」を解くためには、別種のものの「回帰」が解毒剤となるのはことの条理というものではあるまいか。

この「不条理なカップル」は最後に結ばれる。

それは彼が「死んだ彼」と「そっくり」(と映画の最初で母親が言っていたね)だからだ。

「同一人物が回帰する」。この「カウンター呪い」あるいは「メタ呪い」によって、死者の祟りは消え去るのである。

あらゆる純愛ドラマの出発点は「同一人物の回帰」から始まる。(電車の中で足を踏まれた女の子が、登校してみたら、転校生で、「おい、ヤマダの隣、あいてるだろ、君、そこにすわんなさい」というふうに展開・・・というのは学園ラブコメの常套手段だ)

短いインターバルをおいて、まったく別の状況で同一人物に「二度会う」ときに、私たちは運命がその人を私を結びつけているという確信を否定することができないように心理的に構造化されている。

私が『猟奇的な彼女』を見て「永遠のワンパターン」と思ったのは、この「回帰するものがふるう魔力」という人類学的におそらくもっともふるい信憑の上に恋のドラマが基礎づけられていたからである。

というわけで、文化人類学者もフロイディアンも必見の『猟奇的な彼女』でした。



ウッキーが大学院のレポート『映像記号論』で「スパイダーマン」について書いてくれたので、転載。

ウチダのバカ映画解釈学がどのように院生たちの思考回路を毒しているか、これで一目瞭然。(2003年5月)

『スパイダーマン』“SPIDER−MAN”(2002) 古橋右希

STAFF  監督…サム・ライミ

製作…イアン・ブライス、ローラ・ジスキン

CAST ピーター・パーカー/スパイダーマン…トビー・マグワイア

ノーマン・オズボーン/グリーン・ゴブリン…ウィレム・デフォー

メリー・ジェーン・ワトソン…キルスティン・ダンスト

ハリー・オズボーン…ジェームズ・フランコ

 

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

 

ハリー       「クモって環境に合わせて色を変えられるんだ」

メリー・ジェーン 「ほんと?」

ハリー       「ああ 自己防衛本能だ」

――――コロンビア大学自然科学部を見学していたピーターの友人ハリーとメリー・ジェーンの会話

 

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

0.

クモとはクモ網クモ目の節足動物の総称である。英語では、スパイダー(spider)と

なる。

この映画は、スパイダーとそれになる男(man)の話であり、画面には、主人公ピー

ターを中心とした世界(画像的レヴェル)と、画像には見えない世界(総括的レヴェ

ル)の二段階で展開される無意識が表出されている。前者は、男の子の無意識の兆候

として次々に現れる表だった象徴であり、後者は前者の分析とはまったく違った視点

からの何かだ。

今回は、メガネ、カメラ、クモの巣、ピーターの場所、父の存在、色をキーワード

に、この作品がマンガを題材にした娯楽映画でありながらも、裏には、別の発見があ

ることを見ていきたいと思う。

 

 

1.

 科学に関する強い興味があることとカメラのほかには、何の特技もないピーター

は、ある日、学校から見学に行った先の大学で、スーパースパイダーと呼ばれるクモ

に刺される。そのときから、彼はスパイダーマンに変身する。

ピーターは近眼のため、メガネをかけていて、それが外れる場面が二箇所ある。ひと

つは、スクールバスのなかで、生徒に足を引っ掛けられて転んだときだ。

ドジな彼は、まんまとその足に引っかかって転び、メガネが外れる。このとき、ピー

ターの目の前は、突如、ぼんやりしたものとなる。この「ぼんやり」感は、生活をよ

り良く進めるための道具としてあるものが意図せず外れたことで、それまで以上に何

もできない人間であることを表していることになる。また、ある種、男性的な能力の

不完全の現われを意味する。なぜなら、外部からの手助けがない限り、自らの力で

は、男性的な象徴 を制御できないからである。だから、ピーターは、転んだ後、す

ぐにメガネをかける。

もうひとつは、クモに刺された翌日、ピーターの視力、体力、反射神経、その他に向

上がみられたことで、メガネが必要なくなったときである。体力の向上に伴い、メガ

ネなしでも世界が見えるようになった彼は、このときから自らの力でメガネを外し、

その後は、一度もかけることがない。

趣味であるカメラを扱う場面も二つある。ひとつは、見学に行った先の大学の自然科

学部で、クモの入ったガラスケースを撮るふりをして、(幼い頃から淡い恋心を抱

く)メリー・ジェーンを撮影するときである 。このときの彼は、カメラがないとメ

リー・ジェーンに近づくこともできない。この事実は、メガネ同様、何かの力を借り

なければ、外部の世界と接触できないことを意味している。

もうひとつは、新聞社にスパイダーマンの写真を売りに行くときである。フォトグラ

ファーとわかるように、彼は首からカメラを提げ、写真のギャラを受け取る秘書(女

性)に対してもレンズをまっすぐに向けている。写真こそ撮らないが、その矛先(レ

ンズ)が女性に向いている様子から、ピーターは、外の女性と関わるときはいつもカ

メラが必要だということになる。また、単純な画像の段階から、ピーターの背中の位

置に観客の視点が来るように設定されているため、カメラのレンズが腰の辺りから

まっすぐに伸びて見える。それゆえ、これもまた、男根の象徴であるというふうに理

解できる。

 

 

2.

 物語のあらゆるところにクモの巣が仕掛けられている。スパイダーマンであるピー

ターが投げるクモの巣は当然のことながら、それ以外のところにも、クモの巣が散り

ばめられている。いや、実際には、ピーターが手から紡ぎだすクモの糸からできる巣

とはまた別のクモの巣であり、ピーター自身が導く仕掛けでもある。

 

@ フェンス

隣人メリー・ジェーンと、庭先で、ほぼ初めてくらいに落ち着いて会話ができたの

は、互いの家のフェンス越しのことである。隣家なので、柵があるのも当然だが、こ

れは明らかにピーターのメリー・ジェーンへの心理的距離の表れである。それも、斜

めにクロスされた鉄条の柵であるため、無味乾燥な印象を与える。

 

A プロレスのリングの柵

賞金3000ドル欲しさにピーターが出場したプロレスでは、リングの周りに鋼鉄の柵が

自動シャッターで下ろされる。これもまたクモの巣である。というのは、鉄の棒は、

等間隔で縦棒と横棒があり、リングの縄も横に張られていること、そして、縦に並ん

だ鋼鉄の柵とクロスした網に見えるからである。このような網(巣)のなかにピー

ター自身もいることは、自らが挑んだ挑戦とはいえ、力任せに闘う相手から逃げられ

ない事実とその実感から生まれ出た恐怖の表れである。

 

B 廃墟

 育ての親である伯父を殴り殺した車泥棒を追いかけるうち、ピーターは、鉄鋼だけ

が残る荒れ果てた建物の中に彼を追い込む。ここは、縦横にさまざまな方向から鉄の

棒が重なり合っている。この組み合わせもピーターが仕掛けたクモの巣であるかのよ

うだ。 

追い詰めた犯人は、結局壊れた水道管のパイプにけつまずき、高いビルの窓からよろ

めき落ちるが、その窓というのがまた、縦横に窓枠のしっかり入ったガラス張りであ

る。これもまた、ピーターのクモの巣である。引っかかった犯人はあえなく最期を迎

えるのは、クモの巣に引っかかったからである。

 

C ビルの屋上

ヒーローよりも悪の仲間となることをけしかけたゴブリンの一方的な話は、ビルの屋

上で行われている。気を失っていたスパイダーマンが目を覚ましてとき、もたれか

かっていたのは、ビルにある何らかの装置をカバーするための網目の上である。これ

は、おそらく鉄製である。ちょうどスパイダーマンの頭身だけが網目のところにあ

り、あとの身体は、網目のないところにもたれかかるようにして座っている。ゴブリ

ンは、誘惑しながら、その網目の上に乗り、スパイダーマンに忠告する。その姿は、

事実、上からものを言っているように見えるが、網目もまたクモの巣だとすれば、既

に彼は、スパイダーマンの術中で話をしていることになる。そのため、ゴブリンの話

は功を奏さない。

 

D レンガ造りの家と窓

夜道を歩くメリー・ジェーンを襲う暴漢は、スパイダーマンによって退治されるが、

何人かの暴漢のうち二人は、近くにあった建物(レンガ造り)の窓に頭をぶつけられ

る。この窓は、縦横に鉄の枠の入ったガラス窓である。また、レンガ造りの建物は、

コンクリートが流し込まれた部分は黒く見える。それはまるでクモの巣のようだ。こ

こに追い詰めた時点で、暴漢もまたスパーダーマンの領域に入ってしまっている 。

そのため、あえなく片付けられてしまうのである。

 

E 火事

火事のなかから女性の悲鳴が聞こえるため、現場に向かったスパイダーマンは、それ

がゴブリンの罠だと知ったとき、既に燃え盛るビルの最上階は火の海であった。柱や

縦横にバラバラに家のなった家具や置物の残骸のなかで、スパイダーマンはゴブリン

と戦うが、燃え残った柵や柱、隙間から見える赤い炎が渦巻く様子もまた、クモの巣

と見て取れる。呼び寄せたゴブリンは、自由な動きが取れず、結局ここでも決着がつ

かずにいることから、それもスパイダーマンのクモの巣であったと言えるだろう。

 

F 橋の上での対決

愛するメリー・ジェーンを助けるため、グリーン・ゴブリンに戦いに挑んだスパイ

ダーマンが向かった場所は、大きな橋の袂である。橋の中心部である道路の下には、

網目になった鉄の板や柵が幾重にも重ねられている。

グリーン・ゴブリンがメリー・ジェーンを連れさった場所が偶然にも橋だったのだ

、この柵をはじめとする編み目の鉄のせいで、これは、物語のなかではもっとも大

きなクモの巣に見える。だからこそ、この網にかかってしまったゴブリンは、スパイ

ダーマンを慕う地域住民の助けで、あと一歩のところで悔しがりながらも退くのであ

る。その意味で、地域住民までをも巻き込むくらい大きなクモの巣だったということ

になる。

 

G ツタ、レンガ、木々、材木

逃げ惑うゴブリンとの決着のシーンでは、これらのものが画面のあちこちに散らば

る、おそらく廃墟とみられる場所だ。ツタは、まっすぐには伸びず螺旋状で伸び、レ

ンガに巻きついている。木々は生い茂っているが、さほど大きなものはなく、画面の

近いものと遠いものからすれば、重なり合っているように見える。材木は、縦横に置

かれたままの状態であり、何かの資材でもあったのかと考えられる。これらもまたす

べて、クモの巣の発展系だ。加えて、スパイダーマン自らが紡ぎだすクモの巣の中に

飛び込んでしまったゴブリンは、最期を遂げるのである。

 以上の八つの項目である。ピーターを中心とした解釈では、これらのものを「コン

トロールできる精液」と見ることができないだろうか。これは、スパイダーマンとし

て作り出すクモの巣を撒き散らす様子を、「コントロールできない精液」とした場合

に対してである。

クモの巣を撒き散らすことが、男根を手に入れた男の子の喜びに似ていると解釈すれ

ば、喜び勇んで使うことは、まだうまくコントロールが追いつかないような状態であ

る。しかし、フェンスやリング、橋の柵、レンガなど、クモの巣に変わる物体が画面

上に大きくあるときは、コントロール統御も段々とされ、いかにして使うかを考える

大人になっていくのだというふうにみることができないだろうか。

 

 

3.

 ピーターが誰かと会ったり、自分自身の時間を過ごしたりするのに、いろいろな場

所が出てくる。ここでのポイントは、彼が会う人物の性別に関係している。男と会う

場合は密室であり、女と会う場合はそうではない部屋や場所が提供されている。これ

は、どういうわけだろうか。

まず、ピーターが男と会う場所は、伯父と伯母のいるダイニングルーム、ピーターの

部屋、伯父の車のなか、賞金をもらう部屋、NYの部屋(ピーターの部屋)、新聞社の

編集長室である。これらにはすべて、きちんとドアがあり、おそらく鍵も閉められる

部屋ばかりだ。そこだけの空間で単独で位置し、女性の立ち入りはほとんど見られな

い。例外的にダイニングルームは、女性であるはずの伯母がいる。しかし、ここは、

外の世界とつながる玄関の扉があり、隣のキッチンともつながっているといった、実

に開放的な仕組みになっているため、単独ではない場所であることが理由になる。

それでも特別な場合だけは、女性もこの場所に立ち入ることができる。画面上では、

ピーターの卒業式の日と感謝祭の日である。その日だけが、伯母やメリー・ジェーン

が男の領域に踏み入ることができる仕掛けになっている。それでも、ドアは開けられ

たままか、テーブルを囲む以外は、二人の女性は常に玄関に近いところにいるといっ

た具合だ。

一方、ピーターが女と会う場所というのは、空間を割り切るためのかっちりしたドア

のないところばかりである。メリー・ジェーンと話をしたのは、庭、道路、学校であ

り 、偶然の再会を果たしたのも外である 。夜道で出会うときも、暴漢から解放する

とき も外である。伯母についても、卒業の喜びを称えるのは式典会場であり、伯父

の死を悼むのは玄関先である。

ピーターの伯母の見舞いに来たメリー・ジェーンとドアのある病室で話をすることが

できるのは、ここが彼の場所ではないためだけのことである。そこは、入院している

患者、つまり、伯母の場所であるため、メリー・ジェーンは入ることができたのであ

る。

 以上、ピーターの場所は、性別が男であるものと会うときは単独の空間、女である

ものと会うときはそうでないところである。このような場所の限定については、男性

の母体回帰本能だろうか 。

 

 

4.

 ピーターにとって、父は不在である。第一の父は幼い頃に亡くした実父、第二の父

は車泥棒に襲われて死んでしまう伯父、第三の父は高校時代の友人ハリー・オズボー

ンの父のノーマン・オズボーンすなわちグリーン・ゴブリン である。いずれも結果

的に死んでしまうものばかりである。それはなぜなのだろうか。

また、伯父が死の直前にピーターに残したことば は、ピーターのその後の人生を左

右するほど、強烈な印象を与えている。決断のひとつに、彼はスパイダーマンとなる

ことを決めたことが挙げられる。それは、メリー・ジェーンから愛の告白を受けたと

きですら揺るがぬものとなっていたくらいだ。これもまた、なぜなのだろうか。車の

中で意見のすれ違ったままに生き別れた伯父のことばを、ピーターはその後もずっ

と、心に止めることになったのだろうか。考えようによっては、ニューヨーク滞在中

にも、友人の親として面倒を見てくれたノーマンの方が、現実的な意味では感謝して

もよさそうなものである。

これらの答えは、映画の中の色に関係する。

 

 

5.

 スパイダーマンのスーツは、赤と青と白と黒を使ったものである。グリーン・ゴブ

リンには、緑と黄色、メリー・ジェーンの髪は赤毛である。また、伯母の編んでいる

毛糸はグリーン系 のものである。

 これらの意味するものは、ずばり、アメリカの象徴である。いや、この映画自体が

実は、アメリカ合衆国という国自体のあり方(歴史)と大きく重なっていたのであ

る。

 

さて、ここからが総括的レヴェルの分析である。

これまでピーターを中心とした解釈で列挙してきたものはすべて、分析の視点を変え

ると、アメリカの象徴になる。

「メガネ」は植民時代の、「カメラ」はその時代の他国との交渉手段としての貿易や

植民地を手に入れた頃のアメリカである。星条旗の頃のアメリカである。

スパイダーマンの投げる「クモの巣」は、アメリカ自身が合衆国となり、自らの手で

世界へとつながりを広げる文明や経済を持ちえた頃のアメリカである。

「フェンス」や「窓ガラス」、「橋」、「レンガ」などは、それをさらに発展させ、

世界と入念な計算によって関わっていく頃の戦後のアメリカ合衆国である。

ピーターが誰かに会う場合、性別によって場所が違うことを、「男」が合衆国移民者

の祖先たちであり、「女」は合衆国が買い入れた奴隷と見ればどうだろう。単独の個

室では、移民者の本国と交渉し、うまく折り合いをつけることで、自らの地位を固め

ていく。どこかとつながりのある個室でないところ、多くはアフリカ大陸から奴隷を

買ってくることにはならないだろうか。

「父」は、イングランドやアイルランドなど、アメリカ合衆国に住む者たちや祖先が

移民してきた本国のことである。基本的にはそれらを守りながらも、「不在」は、そ

れらを亡き者として、自らが父となるための行為だ。そうして、「大いなる力は大い

なる責任を伴う」ということばを見出すとき、アメリカ合衆国は世界のリーダーとし

てあることを世界中に知らしめ、その任務を遂行するための立場にあるといった自負

があるとも解釈できる。ときにこれは、大きな誤解を招くようなことがあるにもかか

わらず。このような象徴は、映画の全編にわたり表出されている。

映画の最後の場面で、スパイダーマンがアメリカ合衆国国旗の横で市内を一望してい

る姿がある。これこそが、すべての証拠である。スパイダーマンこそがアメリカ合衆

国であり、そのほかの緑、黄色、赤を使ったものたちはみな、この色を国旗のなかに

使っている世界の国々のことを意味するのである。

だからこそ、一望しているのは、ニューヨーク市内ではなく、実は世界だと読み取れ

る。それゆえ、スパイダーマンのすべての行為は、アメリカの行為なのである。

 

 

6.

40年も前に連載開始されたコミックが、いまになってようやく映画化された。未だに

その人気が衰えずにいるのは、おもしろいことである。これは純粋に、アメリカ合衆

国という国に、40年間ずっと『スパイダーマン』があり続け、人気が失せていないこ

との証明でもあり、驚くべきことであり、すばらしいことである。しかし、そのこと

は、この作品以外のヒット作に恵まれなかったということでもある。

何も描けるマンガ家がいなかったということばかりが理由ではないだろう。現実的

で、具体的なことよりも、何か本質的な部分で、合衆国という国が、いまでも国がで

きた頃とあまり変わっていないのではないかと、想像してしまう。時代は流れても、

「環境に合わせて色を変える」ことはできても、その本質はどこも変わらないまま、

アメリカ合衆国は同じ考え方に固執しているのではなかろうか。

考えすぎだろうか。



『ロスト・ハイウェイ』(Lost Highway by David Lynch: Bill Pullman, Patricia Arquette, Balthazar Getty, Rbert Blake, Natasha Gregson Wagner, Gary Busey, Robert Loggia)

最初に見たのはもう3、4年前になる。

「おおおおお」と叫んだまま、ふやけた解釈を許さないその圧倒的な映画的リアリティの前に絶句する他なかった。

今回リンチの新作『マルホランド・ドライブ』を見て、二つ合わせると、何となく腑に落ちるところがあったので、それを書きとめておく。

 

ある「巨大な物語」の一部分しか私たちに与えられていないとき、その断片から「見えない世界」の深みと拡がりを想像して戦慄する、というのは私たちが物語を享受するときのひとつの定型である。

それは「神の視点」から一望俯瞰的に物語世界を一覧する場合の物語の享受のしかたとは別の意味で、やはり「ひとつの定型」と言ってよいだろう。

一般的には、凡庸なフィルムメーカーは「一望俯瞰的」な物語に固執し、怜悧なフィルムメーカーは「断片から全体を想像する」物語にこだわりを示す。

これは当然といえば当然で、「与えられた断片から、観客が『見えない世界』を想像する」という享受のしかたをする場合、その「見えない世界」は、観客ひとりひとりがおのれの「悪夢」のストックに手を突っ込んで、自前で創り上げるものだからだ。

ひとは「他人から聞かされた話」はなかなか信用しないが、「自分で作った話」はどれほどでたらめでも頭から信じ込んでしまう。映画の場合でも同じだ。

他人の「悪夢」は自分の「悪夢」ほどには怖くない。

いちばん怖い状況は、それが「怖い」ということが他者には共感されない種類の恐怖に取り憑かれることである(人々が「ホラー映画」を「みんなで」見るのはそのせいである。「共有された恐怖」は、単独で経験される「伝達不能の恐怖」に比べたら冗談のようなものだ)。

だからクレヴァーなフィルムメーカーは、あえて説明を省き、時間の流れを意図的に混乱させ、観客が自分で物語を作るように仕向ける(タランティーノや北野武がそうだ)。

 

デヴィッド・リンチもまた観客がもっとも恐怖しするのは「物語全体を整序するような情報の不足」であることを熟知している(あらゆるパニックは、「情報が不足」しているときに、人々がつねに「最悪の場合」を想像してしまうことから始まる)。

リンチは観客をパニックに誘い入れるために、まず最初に映画の登場人物たちをパニックに誘い入れる。

推理小説がそうであるように、観客は(同じく「情報の不足」に苦しんでいる)「探偵」役の登場人物に焦点化し、彼の「情報への渇望」を導きの糸として、物語の中を同じ足取りで進んでゆく。

『ロスト・ハイウェイ』でも、『マルホランド・ドライブ』でも、ある中心的人物の「アイデンティフィケーション」が物語の縦糸であることは変わらない。そして、その「身元調べ」のクライマックスにおいて、「探偵役」の登場人物その人が「失踪」してしまうというサスペンスの構造も酷似している。

私はリンチのTVシリーズの『ツイン・ピークス』は未見なのだが、もしこの説話構造にリンチにかなり以前からこだわりがあるとしたら、当然『ツイン・ピークス』ではFBI捜査官のカイル・マクラクランが犯人探しの決定的瞬間に「失踪」するという話型が採用されていることだろう。(あ、ちょっと愉しみになってきた。今晩TSUTAYAに行って借りて来よう)

観客をある人物に同調して映画的物語の中に踏み込ませたあと、その人物を「消して」、物語の中をあてどなく浮遊させること。リンチが採用しているサスペンスの法則はおそらくそういうものだ。

このサスペンスはたぶん「小説」では不可能だ。

「語り手」が「消える」ということは小説には許されないからだ。(「語り手」が順番に別人になる、ということは『藪の中』や『ろまん灯籠』などいくらも前例があるけれど)。

しかし、映画では物語を先に進めるために、「語り手」は必ずしも必要ではない。

「誰が見ているのか分からない視線」にたえず「ずれて」ゆきながら、映画は「語り手そのもの」、物語の秩序を支える最後のよりどころを「消す」という大業を使うことができる。

アイディアとしてはそれほどむずかしいものではない。

しかし、これを「娯楽映画」として実現するのはほとんど絶望的に困難である。

デヴィッド・リンチはそれを平然とやってのけた。

すごい。



『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Dr. by David Lynch : Naomi Watts, Laura Elena Harring, Justin Theroux)

『ロスト・ハイウェイ』を「いつかきっちり解釈する」と予告しておきながら便々と数年が閲し、そうこうしているうちに『マルホランド・ドライブ』である。

この映画もまた『ロスト・ハイウェイ』とおなじく、初めから終わりまで一瞬も息が継げぬほどに緊張感があって、物語性が豊かで、娯楽作品として完成されていて、そして、いっさいの解釈をきっぱり拒絶している。

このまま映画が終わって欲しくない、一秒でも長く映画が続いて欲しいと念じながら、「どんな映画だったの?」と問われたら、喉がひからびて、ことばが出ない。

どのような無内容な映画からも「教訓」を引き出し、あらゆる不条理を条理のうちに回収することが私の知的「宿痾」であるが、そのウチダの病的解釈癖をもってしても、デヴィッド・リンチには歯が立たない。

すごい。

それでも、ただひとつだけ言えることがある。(しぶとい)

それはこれが「映画についての映画」であるということだ。

人間の宿命についての映画とか欲望についての映画とか愛についての映画とか革命についての映画とか戦争についての映画とか・・・そういう「・・・についての映画」であれば、私は解釈できる。

しかし、「映画についての映画」にはなかなか歯が立たない。

映画はその起源から、「メタ映画」への回路を持っていた。

野心的なフィルムメーカーたちはだから「映画についての映画」を撮るという誘惑に抗しきれない。

ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』、フェデエリコ・フェリーニの『8 1/2』、『インテルビスタ』、ジャン=リュック・ゴダールの『気違いピエロ』、ブライアン・デ・パルマの『ボディ・ダブル』、ポール=トーマス・アンダーソンの『ブギー・ナイツ』、クエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ジョン・ウォーターズの『セシル・B・デメンテッド』・・・いずれ北野武やマチュー・カソヴィッツやガイ・リッチーやブレット・ラトナーが「映画についての映画」を撮ることになるだろう。

映画は19世紀の終わりという「誕生日」を持っている。

それははじめ「現実についての映画」であった。

リュミエール兄弟の映画はホーム・ムーヴィーから始まった。それらは「すでに確固として現実的に存在するもの」(リュミエール工場、ルイ・リュミエール一家、ラ・シオタ駅を歩むマダム・リュミエール・・・そして技師たちが撮った世界の光景)についての証言であり記録であった。

ところが、100年経つと、映画そのものが「確固として現実に存在するもの」になってしまった。映画はもうどのような現実的レフェランスにも支えられなくても自立できる記号となったのである。

いかなるリアリティにも支えられなくてもリアルであるようなもの。

それが「映画についての映画」が映し出すものである。

それにいちばん近いものは「夢」だ。

映画は夢だ、と人々は言う。ハリウッドは「夢工場」だと人々は言う。

けれども、「夢」というのは英語でもフランス語でも日本語でもダブル・ミーニングのことばだ。

それは私たちが眠っているときには「現実だ」と思っているもののことであり、私たちが覚醒しているときには「非現実だ」と思っているもののことである。

これまで映画について「夢」ということばをつかうとき、私たちはおもに第二の語義でそれを用いていた。

しかし、「映画についての映画」を撮るフィルムメーカーたちは、その語の第一の語義を奪還しようとしているように私には思われる。

『マルホランド・ドライブ』は「悪夢のような映画」である。

映画の中である事件が起きる。そして、それが「現実の」出来事なのかどうかが「映画の中で」疑わしくなる。

私たちは「映画の中」が非現実であることを「知っている」。

ところが、その「非現実であるはずの映画」の中で「現実性を否定されたもの」については、それを収納するカテゴリーを私たちは持たないのである。

だって、そうでしょ?

「非現実である世界」において「その現実性を否定されたもの」は、私たちが「現実/非現実」という二分法になじんでいる限り、「現実」以外に存在する場所を持たない。

デヴィッド・リンチがやろうとしていることはまさにそれである。

デヴィッド・リンチはまず映画の中で、たっぷりと写実的に〈現実〉を描く。

その描写があまりにリアルなので、私たちは映画鑑賞者のつねとして、「これは〈現実〉だということにしよう。そのほうが映画を楽しめるからね」という手慣れた約束ごとにすぐなじんでしまう。

ところがリンチは、そのあとその「映画内的〈現実〉」がゆっくりと「映画内的に」条理を失い、輪郭が崩れ、しだいにその〈現実〉性を失うプロセスを私たちに経験させる。執拗に、いやになるほど執拗に。

すると、どういうことになるだろう。

「映画内的に〈現実〉であったこと」、それが「非現実」であるということを私たちは熟知している。だが、それが「非現実」であるということになったら、「それ」はどこに行けばよいのだろう?

「映画の中で『非現実』と断罪されたもの」は私たちの〈現実〉世界に「不法存在」する他ない。

なんという狡知。

「映画の中」はどんな荒唐無稽も許される「アナーキーな世界」であるはずだ。

だからこそ、私たちはそのような世界を愉悦し、享受してきたのだ。

ところが、その「アナーキーな世界」から、「何か」が「夢の世界での市民権」を剥奪されて「追放される」と、そのような「夢の難民」を受け容れることのできる「当事者」は立場上、鑑賞者である私たちしかいないのである。

映画は唐突に終わる。

映画の中から「何か」が追放されたのだ。

そうやって「映画内的世界」はその固有の秩序を回復したようである。

でも、その「何か」はどこにいったのだろう・・・。

デヴィッド・リンチは悪夢の構造を熟知している。

『ロスト・ハイウェイ』と『マルホランド・ドライブ』は必見。


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