updated 7 March 1999
Vol. 3 (1999February-June)
『禁断の惑星』(監督:ニコラス・ネイファク、主演:ウォルター・ピジョン、アン・"Honey West"・フランシス、レスリー・"The Naked Gun"・ニールセン&ロビー)
SFカルトの古典『禁断の惑星』がDVDになったので、借りてきた。
アン・フランシスの顎のほくろがかわいかった。
レスリー・ニールセンが「ふつうのお兄さん」に扮して、アン・フランシスとキスしたりする。なんだか不条理演劇を見せられているようで気持ちが悪くなった。
以上、感想おわり。
お話は『テンペスト』のSF版。プロスペローがピジョンで、娘ミランダがアン・フランシス、キャリバンがロビー。(ロビーはあんまり悪魔的なところがないのでつまんなかった。)
不思議なことに、これも「無意識が物質化」する話。
どうして、ハリウッド映画は「無意識が物質化する話」が好きなんだろう。
アメリカの人って、もしかするとフロイトの「無意識」とか「抑圧」とかいう概念がうまく理解できないのではないだろうか・・・
だから、「もう、めんどうだなあ。ええい、こうなったら『無意識』というのは自分の外部にあるモンスターだということにしちゃえ」というすごく乱暴なことをしているのではないのだろうか・・・『サイコ』とか『鳥』とかを、ふつうのアメリカ人はただの「モンスター・パニック」映画だとおもって見ているのではないだろうか?
こっちのほうが私は怖い。
『彼女について私が知っている二、三の事柄』(ジャン=リュック・ゴダール)
げ、つまらん。
1966年にリアルタイムでみなくてよかった。見たらきっと「この映画をみて『げ、つまらん』と思ってしまったぼくって、きっとバカなんだ。ああ、なんとか面白いところをみつけなくちゃ」と思って、一生懸命考えて、高校のともだちに「やっぱさゴダールは映画文法を完全に革命したってことは言えるよな」なんて言っているうちに、だんだん本人もその気になって、一年後くらいには、あの映画がけっこう傑作だと思えてきたりしたんだろうな。
ああ、大人になっててよかった。
では、もういちど。
げげ、つまらん。
『ラストマンスタンディング』(監督:ウォルター・ヒル、主演:ブルース・ウィリス&クリストファー・ウォーケン)(これはハードディスクの奥底にころがっていた古原稿。日付は1997年9月21日)
禁酒法時代のメキシコ国境近くのテキサスの不毛の街を舞台にした、ブルース・ウィリス主演のアクション映画である。期待のわりには、あまり面白くなかった。なぜ面白くもないB級アクション映画の話を蒸し返すかというと、これが凡庸な仕上がりとはうらはらに、なかなかに屈折した生い立ちをかかえた映画だからなのである。
『ラストマン・スタンディング』はクレジットに堂々とうたっているとおり、黒澤明の『用心棒』のリメイクである。『用心棒』は三船敏郎がその大陸的な天衣無縫の個性と、野獣のような肉体の躍動感をスクリーン全面に展開した黒沢アクションの最高傑作の一つである。この映画の三船敏郎は、その歩き方から殺陣から茶漬けの喰い方まで、観ていて胸がすくようにのびやかであった。
その三船敏郎の圧倒的なイメージのせいで損をしていることを割り引いても、ブルース・ウィリスの用心棒はさっぱり魅力的ではない。
やくざの親分に名前を聴かれて、宿の表を眺めながら「俺か、俺は、桑畑三十郎。もうすぐ四十郎だがな」と答える有名な台詞も、ブルース・ウィリスが言うと「俺か、俺はスミスだ。ジョン・スミス」。これでは面白くもなんともないぞ。
とはいえ、映画の出来の差を、主演俳優の力量だけに求めてはブルース・ウィリスが気の毒である。この話は設定自体に無理があるのである。
原作とリメイクの最大の違いは、三船の武器が「剣」であるのに対して、ブルース・ウィリスの方が「銃」だということである。
当たり前のことだが剣の場合は「間合い」が近いから、かなりそばに寄らないと戦闘状態にならない。逆に言えば、ある程度の距離をとっておけば、鼻をほじっていようが、背中を向けていようが、まるで安全である。だからこそ、三船三十郎は「斬られると痛えぞ」と恫喝しながらふいと間合いを詰めて2、3人斬り捨てると数十の白刃に背中を向けてぼりぼりと胸を掻きながら戻ることができるのである。
だが銃ではそうはいかない。銃と銃の対決なら、「一瞬のうちに」相手を「全員」戦闘不能にしなければならない。もし三十郎の相手のやくざたちがかりに銃で武装していれば、あわれ三十郎は開巻早々に蜂の巣となり映画は終わっていたであろう。(事実、銃を持った仲代達矢に脅かされると三十郎も簡単に捕虜になってぼこぼこに殴られてしまう。)
そもそも同じ宿場の両端に二つのやくざ組織が同居できるという設定は「よほど近くまでいかないと刀で人は斬れない」という前提があってはじめて可能なのである。だからこそ、『用心棒』では出入りの場面での「間合いが縮まる」ことに対する恐怖がちゃんとサスペンスとして機能しているのである。
メインストリートに家が10軒くらいしかない田舎町はその全域が銃の射程距離である。そんなところに数十人の完全武装のギャングが五分と同居できるわけがないではないか。
ともあれそのような理不尽を蹴散らして、ガンマン・ウィリスは圧倒的な火力の違いをものともせず「13秒7人撃ち」でばったばったと敵を撃ち倒すのである。
「嘘つき」と私は眼を濁らせてつぶやいた。これまで「圧倒的な火力の差を覆す銃撃戦」という不可能な状況を無理矢理納得させるために、多くの映画的想像力が駆使されてきた。超人的な運動能力や狡知、あっと驚くスーパー・ウエポン、かねて用意の爆弾・抜け穴・落とし穴などなど。
個人的には「弾が向こうからよけてゆくという強運の持ち主」という人をなめきった説明が私は気に入っている。(『荒野の七人』のユル・ブリンナーと『リーサル・ウエポン』のメル・ギブソンがそうであった。)しかし、ガンマン・ウィリスにはそういうものが何もない。何もないのにしぶとく生き延びて「生き残った最後の男」になるのである。これに私は納得できない。
さらに納得できないのは、黒澤明の『用心棒』の原作がそもそもアメリカン・ハードボイルドの傑作、ダシール・ハメットの『血の収穫』だという事実である。私立探偵コンティネンタル・オップが、銃ではなく、悪魔的な狡知を駆使して、対立する二つのギャングを噛み合わせて相討ちに導くドライでタフでクールなこの作品の世界をそのままブルース・ウィリスとクリストファー・ウォーケンで再現すれば、『ラストマン・スタンディング』の10倍面白い映画ができたと私は思うけど。
『LAコンフィデンシャル』(監督:知らない人、主演:よく知らない人、『セブン』で犯人だった人(今度は刑事)、キム・ベイジンガーに似た人(本人かもしれない)その他)
設定を1953年のロサンゼルスにしたところがすごくいい。テレビも映画も自動車も「郊外」も全部がまだぼんやりした夢のなかにあったような時代の、正義と悪、権力をもつものもともたないもの、法を執行するものと法を破るものの間にまだ境界線が定まっていない時代の「星雲状態」(フィリップ・マーロウやサム・スペードの世界だ)を実にみごとに映像化している。
これを見ると、アメリカという国は、西部劇のエートスとの「断絶」というものをついに経験していない国であったということが分かる。それはワイアット・アープとフィリップ・マーロウとハリー・キャラハンがほとんど同時代人であったということを意味している。
私たち日本人は西部劇/現代アクション映画を時代劇/現代アクション映画と同質の区分だと思っている。このスラッシュが意味するのは、日本の場合は「明治維新」である。
「明治維新」は政治体制の革命、「武士階級」と武士的エートスの消滅、前近代のアジア的停滞と欧化近代化の展開というきわだった「断絶」を意味している。だから、私たちは江戸時代の「サムライ」たちは私たちとは別の思考方法、別の価値観、別の美意識をもつ「別の人間」だというふうに考えることに慣れている。(あるいは、その「断絶」をいかなる戦略的意図によってか、ことさらに強調する人も多い。)
そして、私たちはその「断絶」をそのままアメリカ映画にもあてはめて、「西部劇」は「時代劇」だと思い込んでいる。19世紀の終わりのどこかで「保安官のエートス」や「カウボーイのエートス」にも「断弦のとき」があって、「刑事」という近代的な法執行官が登場することになった、と考えている。
『逃亡者』でトミー・リー・ジョーンズが「USマーシャルだ」と名乗ると私は頭がくらくらしてしまう。私の感覚では、これは刑事ドラマの中で柴田恭兵や藤田まことが「私、検非違使ですけど、ちょっとお話きかせてもらえますか?」といっているのと同じ語感である。
私たちはワイアット・アープやドク・ホリディやパット・ギャレットやビリー・ザ・キッドやワイルド・ビル・ヒコックやカラミティ・ジェーンといったひとびとを近藤勇や沖田総司や坂本龍馬や平手造酒や鼠小僧や国定忠治「みたいな人」だと思っている。
それが間違いなのだ。
子母澤寛を読んでびっくりしたのは、『天保水滸伝』の飯岡助五郎と笹川繁蔵の出入りのときにその場に参加していたやくざのあんちゃんやが昭和の聖代まで生きていて、子母澤のインタビューに答えて「平手造酒」という剣客がほんとうはどんな死に方をしたのか話したりしていたことである。あれは実は「ついこの間の事件」なのだ。それにもかかわらずわが国では、これは「時代劇」の世界、遠い昔の話に区分されてしまう。極端ないい方をすれば、平手造酒と武蔵坊弁慶は「時代劇の人」ということでは同一カテゴリーに入ってしまうのである。(二人の活動時期は800年違うのに)
あまり知られていないことだが、ワイアット・アープと清水次郎長とトマス・エジソンは同時代人である。次郎長は明治23年没。アープはもう少し長生きして、第一次世界大戦やロシア革命やジャズ・エイジや大恐慌を経験して、1929年に死んだ。エジソンの没年はその2年後。私たちの感覚では『次郎長三国志』の次郎長は(ちょんまげに長脇差だから)「昔の人」であり、『OK牧場の決闘』のアープは(保安官だから)「昔の人」であり、エジソンだけが現代人である。しかしそれこそ私たちの大いなる錯覚なのだ。
アメリカの観客にとっては、自動車に乗り、映画に興じたアープを、同じ時代に生きたアル・カポネやスコット・フィッツジェラルドと別枠に区分しなければならないどんな理由もない。
「西部劇」は「時代劇」ではない。あれは「ついこの間の事件」なのであり、彼らが経験した100年前の決闘と、父の世代が経験した50年前の戦争と刑事ドラマの銃撃戦は、彼らの中では、すべて地続きなのだ。
私たちの誤解は「保安官」は「サムライ」で、「刑事」は「サラリーマン」だ、という思いこみから発している。この区分は間違っている。それは日本に固有の時代区分法なのだ。
アメリカにおいて、「保安官」は武士であったことはなく、「刑事」はサラリーマンであったことがない。それは私たちが知っているどんな職業とも違う、特殊な仕事なのである。
ワイアット・アープは若い頃は賭博師で馬泥棒で、保安官になってからも役得を利用しての金儲けに熱心だった。(彼がこれほど有名になったのは『ワイアット・アープ-フロンティアの法執行官』という伝記の取材にきわめて協力的であったためである。)
ワイアット・アープやパット・ギャレットやワイルド・ビル・ヒコックなど西部開拓史上に名を残す保安官はみんな後ろ暗い過去を持っていた。彼らはときどき法を破りながら、ときどき法を執行していた。そのような「グレー」な保安官のエートスはおそらくそのまま現代のアメリカの刑事たちに引き継がれている。
正義と私利が、論理と感情が輪郭をはっきりさせないままに、ないまぜになった限りなくグレーな「法執行官」の姿を『LAコンフィデンシャル』は淡々と描いていた。
そして、彼らはみなとてもチャーミングだった。
『仮面の男』(主演:ディカプリオさま、ジェレミー・”ダメージ”・アイアンズ、ジェラール・ドパルデュー、ジョン・”ヴァルモン子爵”・マルコヴィッチ)
ああ。ディカプリオさまは美しい。
とため息をついていたら、よこにいた娘に「ほっぺたふくらみすぎだよ」と文句をつけられた。そうかね。かわいいじゃないか。
『ギルバート・グレイプ』のときは、「いやー、演技の上手な精薄児だあ」と感心してしまった。私は義妹が精薄者なので、(「スモール・フェイセズ・ファンクラブ」とは別人)精薄の子供というのはたくさん見てきているのだが、ディカプリオさまはどこから見てもほんものの精薄児にしか見えなかった。あのときにアカデミー賞をあげればよかったのに。
さて、『仮面の男』はたらたらしたプロットとはうらはらに、なかなか一筋縄では行かない映画であった。
だって「男たちの友情」と「父子の情愛」と「兄弟の相克」の話なんだよ。点景的に寵姫一名、皇太后一名が登場するけれど、全編「男と男の愛」だ。だいたいジェレミー・アイアンズにドパルデューにマルコヴィッチがトリオで(三銃士だからしかたないけど)出て来るんだもの。濃すぎるよ。ああ暑苦しい。
そればかりか、この映画はすべてが「息苦しい」。「狭いところにぎゅうぎゅうづめ」という主題が物語的にも、図像的にも、全編にわたって強迫的に反復される。
双子という設定を皮切りに、ごてごてしたロココの装置。クリスティーヌを閉じこめる「水の檻」。頭部を覆う鉄仮面。鉄仮面を閉じこめている牢獄。国王の秘密の通路。四銃士が密会する地下墓地。仮面舞踏会のボールルーム(いくらなんでもこんな狭い部屋で宮廷舞踏会はできんぞ)。クリスティーヌの自殺とポルトスの自殺未遂(いずれも「首吊り」)。礼拝堂での皇太后とダルタニアンの人目を忍ぶ逢い引き。ポルトスの尿道結石。バスティーユの牢獄内での「息詰まる」戦闘(すごく狭いので)・・・
特徴的なのは、「一人だけいるはずのところに二人いる」という背理的な状況が繰り返し現れるところである。
一つの王位に、同格の王位継承権をもつ二人の王子。
一人のクリスティーヌにルイとラウルの二人の求愛者。
一人の王妃に王とダルタニアンという二人の「夫」。
「元銃士」アラミスが受け取る「イエズス会の最高指導者」アラミスの暗殺指令。
二人なのに一人の修道士のふりをする鉄仮面脱出のトリック。
アトスの本当の息子(ラウル)と心の息子(フィリップ)。
どうしてこういうことになっているのか、私にはよく分からないが、この超大作から聞こえてくるのは、「一人分のスペースに二人詰め込まれて、狭いよ」という嘆きの声ばかりである。それが何のメタファーなのか、私には想像もつかない。
と書いてからしばらくして、「二人が一人」がラカンの双数関係(relation duelle)のことだということに思い至った。なんだ、何のメタファーだったか想像がついちゃったよ。
ラカンと言えば、ちょーみじかい小話をひとつ。
「ラカンって著作が500冊もあるんだってね」
『目撃』(監督、主演:クリント・イーストウッド、ジーン・ハックマン、エド・ハリス、スコット・グレン)
クリント・イーストウッドの映画はいつも実にスタイリッシュだ。
説明過剰でなく、かといって説明不足のフラストレーションも起こさない。腕の良い中華のコックさんがつくる野菜炒めみたいに火が通りすぎず、かといって生でない。クリント・イーストウッド監督の通俗娯楽映画はいつも「芸術」になるぎりぎりところまで禁欲している。
いいなあ、この感じ。
この映画に出てくるのは、全員「おじ(い)さん」。いわば「年の取り方」の洗練を競うようなキャスティングである。ここでは僅差でスコット・グレンの勝ち。(「アメリカの笠智衆」の称号を授与いたします。ぱちぱち。)
『ネゴシエーター』(エディ・マーフィー)
エディ・マーフィー老いたり。
エディ君は年の取り方をまだ真剣に考えていない。しかし彼もすでに危険な年齢である。たしかにアクションもまだまだいけるし、ラブシーンも違和感なくこなせるし、「つっぱり」ぶりもそれほど白けない。でも、そのすべてにかつてのはじけるような「輝き」はもう見られない。いまからモーガン・フリーマンやダニー・グローヴァーのあたりに「着地」するまで、エディ君の苦難の日々は続くのだ。がんばれエディ。
『悪魔を憐れむ歌』(デンゼル・ワシントン)
最後まで見て、「何が一番よかった?」と聞かれたら、「音楽」と答える他にない。
タイトルバックが Time is on my side でエンディングが Sympathy for the devil。開幕のワンフレーズを聞いただけで、すでにこの映画のすべてについて「何が起きても、私は許す」というきわめて友好的な気分になってしまった。
ストーンズはえらい。
『ディアボロス』(キアヌさま、アル・パチーノ)
原題はDevil's advocate 。フランス語だと Avocat du diable 。「悪魔の弁護人」。『ディアボロス』はラテン語の「悪魔」で、(なんでアメリカ映画の邦題にラテン語をつけるのか、私にはよく理解できない)いずれにせよ、これではツイストの利いた原題の意味が分からない。
「悪魔の弁護人」というのは、ヴァチカンにある制度で、キリスト教の宣布に功績のあった人を列聖するに際して、その人が「聖人にふさわしい」とされる理由のひとつひとつについて反論する役割を命じられた神学者のことである。現代の用法では、弁護しがたい事件をあえて弁護する「へそまがり」の屁理屈屋というような意味になってしまっているけれど、この原題のもつニュアンスは映画にはちゃんと生かされている。
主人公のキアヌさまは「被告があきらかに有罪である弁護しがたい刑事事件を弁護してしまう」辣腕弁護士。(狭義の「悪魔の弁護人」)そしてニューヨークの大弁護士事務所のオーナー、アル・パチーノはほんものの「悪魔」。彼が映画のクライマックスで「悪魔を弁護する」大演説をかますのである。
神と悪魔とどちらが人間にとって「フレンドリー」か?
これが大演説のテーマである。ここでの議論は17−18世紀にヨーロッパでさかんに行われたいわゆる「悪の存在理由に関する神学上の議論」(Theodiceeというのだよ)の論理構成をほぼ忠実になぞっている。(なぜ、私がそういうことを知っているかというと、あまり知られていないことだが、私がじつは仏文学者だからなのである)
そのかなり抽象的な神学上の問題をめぐって、アル・パチーノがあのかすれた声で、ときに怒号し、ときにささやき、笑い、叫び、恫喝し、慰め、弁論術の秘技を尽くしてキアヌさまを説得にかかるのである。これはすごい。見ている私がすっかり説得されてしまって、「悪魔の方が神よりも人間にとってフレンドリーである」という説にうっかり同意してしまったほどである。
このアル・パチーノの神がかり的(というか悪魔憑き的)演技には個人的にアカデミー賞をさしあげることにしたが、ついでに思いついたのだけれど、もしアルベール・カミュの『転落』を映画化するのであれば、主人公のジャン=バチスト・クラマンスはぜひアル・パチーノにやっていただきたい。アル・パチーノがカメラにむかって延々としゃべり続けるだけの3時間半というすさまじい映画になってしまうが、私はぜひ見たい。
そのかわり、画面を通りすぎるひとたちに豪華キャストを配するのである。バー『メキシコ・シティ』のバーテン「ゴリラ」はアーノルド・シュワルツェネッガー。セーヌに飛び込む女はキム・ベイジンガー。舗道をわたる盲目の老人はアンソニー・ホプキンス。クラマンスをはり倒すバイク野郎はブラッド・ピット。トリポリの収容所で水を盗む奴がブルース・ウィリス。そして、クラマンスの話相手で、さいごに「なんだお仲間なんじゃない」ということになる「私」はハリソン・フォード。ああ、見たい。作って。
『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン)
DVDを買ったので、鮮明な画面で映画史に残るモンタージュの傑作を見る。
すごいね。1925年。まだロシア革命から8年。「革命」が抽象的な理念ではなく、現実の「選択肢」として目の前に存在した時代がかつてあったのだ。そしてもうなくなった。たぶん永遠に。
『ポチョムキン』に出てくる人々のなかでは、個人の即自的な怒り(腹減った、げ肉が腐ってる、金持ちえばるな、差別すんなよ、ばかやろう)が、そのまま階級の連帯に、人民の理想の実現に、なんの屈託もなくリンクする。素敵だ。
20世紀はいろいろなものを破壊した。
でも、たぶんいちばん決定的に破壊されたのは、自分の個人的な感情がそのまま世界の救済にリンクするというあの「革命の幻想」だろう。
『バスケットボール・ダイヤリーズ』(レオナルド・ディカプリオ)
どうしてアメリカのひとたちはみんな離婚しちゃうんだろう。
離婚する→母子家庭になる→貧乏になる→母親不機嫌になる→子供ぐれる→みな不幸になる→しくしく(という映画でした)
やはりこれは
離婚する→父子家庭になる→(金遣いの荒い母親がいなくなったので)金持ちになる→父親(お小遣いがふえる&ガールフレンドたくさんできる)機嫌がよくなる→子供(親が遊びにいそがしいので、小遣いだけもらって放任される)ぐれる→父親、子供を追い出す→父親ますますお小遣いがふえる→わはは
というような展開では誰も喜んでくれないからだろうか。私はそれでもぜんぜん構わないのだが。
『アルマゲドン』(ブルース・ウィリス)
いまごろ「アルマゲドン」もないだろうって?でも仕方ないでしょ。忙しかったんだから。
さすがにもうがらがらでした。でも「アルマゲドン」ではなんとなく、なじみがないですね。やはり「ハルマゲドン」じゃないと。
「ハルマゲドン」というと、いつもしようのない駄洒落を思いつきます。「世界春巻き大会」というのがあってですね。あ、もう先やらなくてもいいですか・・・。すみません。
でも思い出しちゃったから、ついでにもう一つ。
「東京大学にはオートバイのクラブがあって盛んなんだってね」
「へえ、ツーリング・クラブ?それともロードレースでもやるの?」
「いやクロスカントリー。だってよく言うじゃない」
「なんて?」
「『東大モトクロス』」
失礼しました。
ついでに、もう一つ。
「ねえ、その鉄扇どこで買ったの?」
「デリカテッセン」
あ、ぶたないで。
『イワン雷帝』(セルゲイ・エイゼンシュテイン)
そういえば、うちのCDは、LDプレイヤーをも兼任していたことを思い出した。
さっそく『イワン雷帝』を見る。
ロラン・バルトの『映画論集』の冒頭が「第三の意味」というエイゼンシュテイン論で、そこに『イワン雷帝』のことがあれこれ書いてある。見てない映画について評論されると、何も言えないので、この機会に見ることにした。
おお、面白い。なんて、変な映画なんだ。
この映画はいろいろな意味で有名である。
ひとつは、これがエイゼンシュテインの「垂直のモンタージュ」理論の実例であること。(時間軸上にシーケンシャルに展開するふつうの「水平のモンタージュ」に対して、映像と音楽が非時間的な重層構造をなしているのである。)
もうひとつは、スターリン主義体制下で権力の暴力的な干渉にさらされながら、なお「映画的なもの」をフィルムに定着させようとしたロシア映画人の悪戦の記録であること。
もうひとつは、この映画が歌舞伎や京劇など、東洋の様式主義のつよい影響を受けていることである。
そういうことを知った上で見ても面白いけれど、何も知らなくて見ても、すごく面白い。
私が気に入ったのは、ロシア語という言葉の音声的な美しさだ。開巻最初の数分間だけでも、皇帝の戴冠式の大演説、大司教のつぶやくような祈りの言葉、即位を祝う朗々たる独唱、陰謀家たちのくぐもったささやきなど、あらゆる発声法によるあらゆる質の「声」が次々と流れ寄せる。
エイゼンシュテインが「声の出る映画」のテクノロジーを得て、いちばん試したかったのは、「垂直のモンタージュ」とかいう理論的なものというよりは、この「声の万華鏡」とでもいうべき音声的な豪奢ではなかったのだろうか。
バルトの映画論の結論は、要するに、面白い映画というのは「なんだかよく分からない映像の断片」-それをバルトは「フォトグラム」(光の文字)と呼ぶ-がそこらじゅうに散らばっている映画である、ということだったように思う。(ちがったかもしれない。)
その言い方を借りて言うと、『イワン雷帝』はバルト的な「光の文字」だけでなく、「音の文字」(phonogramme)も散乱している、とてもとても刺激的で贅沢な映画だった。
『多桑』(「とーさん」と読むのだよ)(制作:侯孝賢)
『非情城市』をみたとき、植民地であるということがどういうことであるのか、少し分かったような気がした。
ニーチェによれば、「奴隷」というのは、「主人」に暴力的に抑圧されているだけの存在ではない。「主人」の意を迎えることが快楽となり、「主人」に隷従することのうちに幸福を見いだすもののことである。
ニーチェはもちろんすごく悪い意味で「奴隷」という言葉をつかっているのだが、それはたぶんニーチェが植民地の経験をもっていないからだと今になって私は思う。
植民地というのは、かなりの数の人が精神的な「奴隷」である場所である。自分たちを暴力的に制圧した「主人」の文化がまぶしく、魅惑的に感じられてしまう場所である。
例えば、終戦直後の日本はアメリカの文化的植民地であり、日本人はアメリカの文化的「奴隷」だった。GHQの起草した憲法を「不磨の大典」と押し頂き、進駐軍を「解放軍」と呼んで歓呼の声で迎え、ジャズを聴き、ジルバを踊り、ジョニーウォーカーとラッキー・ストライクが宝物で、ジッポーとレイバンがおしゃれの極致で、キャデラックが夢の車であった時代があったでしょ。あれはまぎれもなく日本の「植民地時代」である。
ニーチェだったら、ぜったい戦後の日本人をアメリカの「奴隷」と呼ぶだろう。
私は「奴隷」であることが悪いとか恥ずかしいとか、そういう村上龍や石原慎太郎みたいなことを言っているわけではない。逆である。
「奴隷」って、なかなかいいじゃないか、と言っているのである。私は好きだよ、けっこう。
のちに「愛国の烈士」となった鶴田浩二は、『お茶漬けの味』のころは、にやけたリーゼントのアプレゲール「のんちゃん」であったことを私は知っている。『傷だらけの人生』や『男たちの旅路』の鶴田浩二よりも、女の子にふりまわされておたおたしている「のんちゃん」の方が私はだんぜん好きだ。
民族の誇りとか、かけがえのない伝統とか、愛国の至情とかはそれはそれで大事なことだけれど、そういうのをふっきってしまった「奴隷」もまたきわめて人間的なあり方のひとつだと私は思う
アメリカに占領されれば、アメリカ文化にのぼせ上がり、ソ連に占領されれば、ウオッカを飲んで、ボルシチをなめつつ、赤軍合唱団の「ワルシャワ労働歌」に唱和し、中国に占領されれば、老酒を飲んで、餃子をたべつつ、テレサ・テンを絶唱するというひとを私は責めようとは思わない。それで「しあわせ」という人には、「そう、よかったね」と言ってあげたいと思う。
「とーさん」は日本大好きの台湾のおじさんである。植民地時代に青春を送った「とーさん」にとって、NHKのラジオ放送をきくことは、いまの日本人がCNNを見るのと同じ、すごくおしゃれなふるまいなんだ。
だから「とーさん」たち日本文化大好き台湾おじさんご一行は当然、おしゃれな日本映画を見にゆく。何だと思います?
『君の名は』。
ざらざらっとした映像の肌理の台湾映画をみていたら、いきなり佐田啓二の「春樹さん」のどアップにでくわしてしまった。佐田啓二のあの無機的な声に、ねっとりした台湾語の弁士の声がかぶさるのである。ああ、わくわくする、このめちゃくちゃなミスマッチ。
なんとなく近所のヴィデオ屋にいって、スタイリッシュなアジア映画のつもりで借りてきて、夜中にウイスキーをのみながら見ているうちにいきなり「とーさん」のどアップにでくわした中井貴一の驚愕に想像を馳せて、私はしばらく動悸が止まらなかった。
『スピーシーズ2』(マイケル・マドセン)
エイリアン同士のセックスがなかなかよろしい。なにしろ絶滅してからずっと雌雄が出会うという経験がないわけで、マッド・サイエンティストのおじさんの説によると10億年ぶりなのである。
10億年ぶりのセックス。
そらまあ、それを邪魔されたら誰だって怒りますわな。もっと怒って都市のふたつみっつ破壊しても私は許す。だって10億年ぶりだぜ。
『サイコ』(監督:アルフレッド・ヒッチコック、主演:アンソニー・パーキンス)
大学院の「映像記号論」の授業の教材として『サイコ』を見る。ほんとうは『北北西に進路を取れ』がいいのだが、長すぎて授業時間におさまらない。(138分もあるのだ)
見に来た院生たちに「『サイコ』見た人いる?」と訊ねたら、一人もいなかった。
そうか、そうか。では先生から二つだけ注意事項を話しておこうね。
この映画で私がいちばん好きなのは不動産屋で金持ちのおじさんがジャネット・リーのまえに4万ドルの札束をちゃらちゃらさせて金の効用を説くシーンである。おじさん曰く。
「金で幸福は買えない。でも金で不幸は追い払える。(Money can pay off unhappiness.)」
そうか、そうなんだ。何となくそうじゃないかと思っていたんだ。諸君も心しておくように。
そして、もうひとつ。
この映画にはもとになった「実話」があります。
そして「実話」のほうが映画の30倍くらい怖いです。
人間の心の底に広がる測定不能のあなぼこについて知りたいひとはハロルド・シェクターの『オリジナル・サイコ』をお読み下さい。(ところで、ハロルド・シェクターってすごく変わった研究者である。私の二大愛読書『体内の蛇』と『オリジナル・サイコ』の著者。20世紀アメリカを代表するバカ学者なのかも。)
映画を見て気がついたこと。
アンソニー・パーキンスってハリソン・フォードに似てる。というか、ハリソン・フォードのいちばんチャーミングな「ちょっとはにかんだ微笑」って、アンソニー・パーキンスの「顔まね」だったんだ。
『ロスト・イン・スペース』(ゲーリー・オールドマン、ウィリアム・ハート)
ゲーリー・オールドマンはどうしてしまったのだろう。『レオン』や『トゥルー・ロマンス』のときはあんなに素敵にキチガイだったのに。
『フィフス・エレメント』でなんかよくないなあと思ったら、そのときのちょっとコミカルな悪役という芸風が定着してしまった。
原作は『宇宙家族ロビンソン』。このTVシリーズはときどき見ていたけれど、(あまりおもしろくなかった)たしか主人公のミスタ・ロビンソンは『怪傑ゾロ』だった人ではなかったかしら。名前忘れたけど。
その『宇宙家族ロビンソン』の原作は『スイスのロビンソン』。(これも子供の頃に読んであまりおもしろくなかった記憶がある。)
もとがつまらないものをいくら脚色してもだめなものはだめなのね。(ただし例外的にエンド・クレジットの音楽だけはよい。すごく、よい。)
『恋愛小説家』(ジャック・ニコルソン、ヘレン・ハント)
へなちょこ男としっかり姉さんという最近のハリウッド映画のお決まりパターン。これで主演の男女がオスカー。
どうして最近の映画って、全部『強迫神経症のだめ男』が『しっかりもののお姉さん』に癒されるというような話ばかりなんだろ。(『グッド・ウイル・ハンティング』もそうだった。)正直言って、私は飽きたぞ。
『強迫神経症の女流作家(独身、金持ち、性格悪し)』が『しっかりもののウェイター(バツイチ、こぶつき、貧乏、性格よし)』に出会って癒されるというはなしではなぜいけないのか。あるいはまた『強迫神経症のだめウェイトレス(バツイチ、こぶつき、貧乏、性格悪し)』が『しっかりものの流行作家(独身、金持ち、性格よし)』と出会って、癒されるというはなしではなぜいけないのか。責任者出てきたまえ。
『強迫神経症の女子学生(独身、貧乏、性格悪し)』が『おせっかいな大学教師(バツイチ、貧乏、性格悪し)』と出会って案の定すこしもいいことがなかったという話にはなんだか既視感を感じるけれど、あれは、なんて言う映画だったっけ?題名ど忘れしちゃった。
『グッド・ウィル・ハンティング』(マット・デイモン、ロビン・ウィリアムス)
性格の悪い数学の天才少年の話。残念ながらディカプリオ君には似合わない役どころだ。ハーヴァード現役大学生のマット君がオリジナル・シナリオを書いてアカデミー脚本賞。ロビン・ウィリアムスは「いつもの役」でオスカー。(ロビン・ウィリアムスがやってもリチャード・ドレイファスがやっても同じに見える役、といえばだいたい見当つくね。)
さて、あまり大きな声ではいえなのだが、私は少年期のごく短期間、天才少年だったことがある。正確には覚えていないが、おおよそ1965年の10月から、翌66年の4月までのことである。
私はそのあいだ(この映画のウィル・ハンティング君と同じ)「カメラ目小僧」であった。
「カメラ目」とは、目に入ったものをそのまま図像情報として記憶し、任意に取り出すことが出来る能力である。そんなこと子供なら誰でもできるって?いやいや、問題はこれがテクストについても可能だ、ということなのである。教科書の頁をひらいて「カシャ」、次の頁をひらいて「カシャ」で、全部図像記憶になって保存されてしまうのである。文章を読んで内容を理解する必要がないのである。これは便利。
中学三年のある日、私はこの能力が自分に備わっていることを発見し、驚喜した。おお、これで高校入試の受験勉強は終わったも同然。そのまま一気に大学受験まで遊んで暮らせるぞ。
私が定期試験の前に「カシャカシャ」やっていたら不審顔のお兄ちゃんが「なにやってんだ」と訊ねたので、「撮してんの」と説明したが理解してもらえない。では、というので30分ほど時間をもらって数十頁ある社会科の資料集に収録されていた数値をまる暗記してみせたことがある。
受験勉強というのはたいへんむなしいものであり、とりわけ綿花の貿易額や鉄鋼の生産量などの暗記などには何の意味もない。無意味なことをするのはたいへんにストレスフルであり、私はそのころ精神的にけっこう危ない状態であった。おそらく神は私を憐れんでひとときの休息をめぐんでくれたのであろう。
私はめでたく高校入試に合格し、「カメラ目」あればこわいものなしと毎日遊び呆けていた。そして迎えた中間試験。私は剛胆にもまったく試験勉強をせず、英語の試験の当日、朝の満員電車の中でおもむろに教科書を開き、「カシャカシャ」を始めた。ふふふこれで労せずして満点さ。ところが教場について試験問題を見て、あたまのなかの「再生」ボタンを押してみてびっくり。そこには何も映っていなかったのである。
こうして私のあまりにも短い天才少年時代は終わり、バカ不良高校生の悲しいほど脳天気な青春の日々が展開することになるのである。『アルジャーノンに花束を』みたいな話でしょ。
『四月物語』(監督:岩井俊二、主演:松たか子)
もし、ちょっとかわいい女の子に生まれたら世界はどんなふうに見えるのか、という違和感のある想像に侵されてしまった。かわいい女の子が生きている世界というのは私が生きてきた世界とはぜんぜん違う世界である。世界とかわいい女の子の関係はもっと脆くて、もっと刹那的で、もっと非言語的なのである。風の色とか雨の味とか石畳の触感とかぜんぜん違って、ずっとこまやかで移ろいやすいのである。世界は、かわいいものとはかないものと美しいものと、それをぶちこわしにする散文的で凡庸で物質的なものの熾烈な対立のうちに生きられているのである。
ああ、男に生まれてよかったぜと私はんぐぐとビールのグラスを傾けつつ、煙草のけむりを吐き出したのでありました。げふ。
『サムライ・フィクション』(監督:知らない人、主演:布袋寅泰、風間杜夫)
居合いを始めたばかりのころは時代劇の役者たちの剣の扱い方が気になってしかたがなかった。田村正和が拝一刀を演じた『子連れ狼』で柳生宗冬の役をやった沖田浩之君(合掌)が剣の達人という想定であるにもかかわらず、大刀の鞘を帯の間に通すのに四苦八苦するのをみて思わずもらい泣き。
同じ頃『旗本退屈男』を見た。市川右太衛門が両刀を抜いて諸羽流青眼崩しでちゃらちゃら刀を遣ったあと、両刀を納刀するのを見て仰天。基本的なことを確認しておきますが、鞘を握らないと刀は納められない。しかし両手は刀でふさがっている。手は三本ないから、どうやって鞘を握って剣を納めるのか・・・・な、なんと右太衛門は脇差しを口にくわえてあっというまに両刀を納めてしまった。これは「コロンブスの卵」だった。
『サムライ・フィクション』は布袋君にフミヤ君か。大丈夫だろうか・・・と気をもんだけれど・・・やや、オープニングのタイトルバック、シルエットで香取神道流の剣の型を遣っていいるではないか。ふーむ。やるのう。監督が「CM界の黒澤明」と呼ばれているのはゆえなきことではないな。
というのも、黒澤明の時代劇の武術顧問は知る人ぞ知る香取神道流の杉野先生だったからである。『七人の侍』や『用心棒』や『椿三十郎』の壮絶な殺陣はこの達人が考案したのである。こういうところにきちんと気配りをしているだけあって、楽しいちゃんばら映画でした。布袋君の抜きつけもよかったぞ。間違いなく、私よりうまい。
『ホワイトハウスの陰謀』(監督:バリー・レヴィンソン、主演:ウェズリー・スナイプス、ダイアン・レイン)
こ、これは・・・・おお、すべてがつながったぞ(以下、次号。じゃなくて、この続きは「戦争論その2」に続きます。)
『タイタニック』(ジェームス・キャメロン監督、ディカプリオさま)
映画館でみそこなったので、ヴィデオ屋でもなんとなく「ふん」という感じで「ご縁がなかった」『タイタニック』であるが、ようやく勘気も解けてヴィデオで見ることにした。
もし自分がタイタニックに乗り合わせたらどうするだろうと想像してみる。ボートは乗員乗客の半分しかない。半分死ぬのである。
果たして私は人を押しのけても生き延びようとするであろうか。「お先にどうぞ」とにこやかに言い切ることができるであろうか。
「お先にどうぞ」。これがレヴィナス老師の倫理の究極の言葉である。混んだ電車のドアの前でも、タイタニックの救命ボートでも人間はそう言わなければならない。その言葉が人間の人間性の核を構成するからだ。自余のことは、すべてそこから派生する、と老師は説かれた。
「お先にどうぞ。あなたには私より多くの権利があり、私にはあなたより多くの義務がある。」
そう言い切れるために何をすべきかレヴィナス先生は語っていないが、映画のなかでディカプリオ君はちゃんと語っていた。「いまのこの瞬間を感謝とともに生きること」である。
私はあなたより多くの幸福を味わってきた。だから、あなたに幸福になるチャンスを譲ってあげましょう。うう。おまえ、いい奴だな。
『マッド・シティ』(監督:コスタ・ガブラス(まだ生きていたのか)、主演:ダスティン・ホフマン、ジョン・トラボルタ)
コスタ・ガブラス監督ということは、当然正統「社会派」映画。だから、当然ダスティン・ホフマンはテレビ・メディアの腐敗を告発して、「彼を殺したのはわれわれだあ」と絶叫するのである。なんだか1950年代の映画をみているみたいだった。
『6デイズ7ナイツ』(ハリソン・フォード)
予告編はすごく面白そうだったけど、本編はまるでつまらなかった。よくあることだ。
海賊船のうった砲弾が頭上から落ちて来るところで、娘と失笑。「ふ」。鼻で笑ってしまったぜ。もう少しまじめに映画作れよ。
『恋に落ちたシェークスピア』(主演:すごく読みにくい名前の女優さん。グイネス・パルトロウ。アカデミー賞貰った。この人はシネマニア97によると『セブン』でブラッド・ピットの奥さんを演じて最後に首斬られた人らしい。よかったね、美しく蘇って。)
ひさしぶりに映画館で見た。客は10名。とてもよい映画だった。最後の『ロミオとジュリエット』の劇中劇では私ももらい泣き。
しかしお姫様の名前といい、男装といい、すべては最後の『十二夜』オチの伏線なのだが、これはシェークスピアを読んでないひとはには分からない。案の定、後ろの席の女の子たちが「ねえ、あの船ほんとうに沈んじゃったの?」と心配している。あのね、あれは「おはなし」なの。「おはなし」のなかに別の「おはなし」が仕掛けてあるの。
しかし、こうなると同じ女優さんで『十二夜』が見たくなってきた。(あの海岸の場面から始まるのだ。ああ、見たい。誰か作って。)
マキューシオ役のアフレック君もよかった。(彼は『グッドウィル・ハンティング』の共同脚本でオスカーもらった人。ライター兼役者という点でもなんとなく雰囲気がサム・シェパードに似ている。『アルマゲドン』はいまいちだったけれど、大ブレークしそうで楽しみだ。
『東京Eyes』(監督:Jean-Pierre Limosin, 主演:武田真治、吉川ひなの)
英文科のVreeland 先生が「ウチダセンセイ、『トウキョウアイズ』、ミマシタカ?ナニ、ミテナイ!ミナクテハナリマセン」と厳命されたので、そのままヴィデオ屋に行って借りてきた。(素直でしょ)
まだ途中までしか見てないので、感想はまた明日。いまのところ、なかなか面白い。
はい、見終わりました。なんとなくヌーヴェル・ヴァーグっぽいなあと思っていたら、やっぱり、監督はフランスのひとで、special thanks to Hasumi Shigehiko というクレジットつきの映画でした。
武田真治くんのふわふわした芝居がとてもよかった。とても。
ただ「アートしている」ので、録音がすごく悪い。照明が暗かったり、画面の肌理が荒かったりするのは「そういうテイストね」ということで受け入れられるけれど、何を言っているのか聞き取れないというのはけっこうストレス。(特に杉本哲太とたけしのせりふがききとりにくかった)
たけしがでてきたとき、あ、これ、なんかのはずみで「ドン」だな、と思っていたら、その通りになってしまった。こういうアート・フィルムにおける「お約束」に、作っている本人が気がついていないのだとしたら、ちょっと問題です。
『踊る大捜査線 The Movie』(織田裕二、柳葉敏郎、いかりや長介、深津絵理、小泉今日子)
今年の春に邦画では異例の大ヒット。ふーん、そうか、日本の観客はこれを求めていたのか。(「これ」っていったい何だろう?)
小泉今日子が「ハンニバル・レクター博士」という設定はなかなか意外でおいしかった。北村総一郎の署長と小野武彦の課長のバカコンビも絶好調。
それに、誰もほめないけれど、私は織田裕二というのはなかなかよい役者だと思います。この人のTVドラマはだいたい見てるし、主演映画も見てる。つい見たくなってしまうのだ。誰もほめないけれど、織田裕二が主演した馬場康夫監督のホイチョイ・シリーズ『波の数だけ抱きしめて』も『彼女が水着に着替えたら』も私は好きだし、それらの映画での織田裕二はとてもチャーミングだったと思う。
どこが、といわれると困るけど、たぶんこの人も「内面」のない役者の一人なのだ。だからときどき、ぞっとするような「何も考えていない顔」を見せてくれる。彼が「平成の佐田啓二」になるチャンスはあると私は思う。がんばれ織田裕二。
『ゴーストバスターズ』(アイバン・ライトマン監督、ビル・マーレー、ダン・エイクロイド、シガニー・ウィーヴァー、ハロルド・ライミス、リック・モラニス)
今月は「アメリカの無意識」を大学院の演習のテーマにしている。
無意識というのは一種の機能であって実体はない。その機能はラカンの定義によれば「それが意味するものの取り消しを求める」ということにつきる。
アメリカ社会はフロイト理論を輸入したときに「無意識」という概念をどうあつかってよいか分からなかった。「白か黒かはっきりしろい」というのがこの国の真骨頂であるから、無意識のようなとらえどころのない、へなへなしたものは扱いに困るのである。そこでアメリカのひとたちは「無意識は『よく見えないし、うまくつかまえられないけれど、とにかくそこにあるもの』ということにしよう」と衆議一決。「よく見えないし、正体不明であるが、いろいろと悪さをするなにか」ということになるとこれはもう「ゴースト」以外の何ものでもない。
こうして、アメリカの人たちは欲望も知も、不安も恐怖も、反復強迫も転移も、いっさいがっさい「ホラー」の物語類型のうちに流し込んでしまったのである。そして、有史以来人間をとらえてきたすべての存在論的不安を「モンスターと戦う」というただ一つの話形のうちに回収してしまったのである。なんという野放図で破天荒なジャンル設定であろう。素晴らしきアメリカン・ホラー。
さて、その豊かな伝統に涵養されて開花したホラー・コメディの傑作『ゴーストバスターズ』は無意識を映像的・物語的にどう処理するかという難問に対するアメリカ的解答のひとつの成功した試みであると私は考える。
ゴーストは「ゴーストバスターズ」の出現によって出現する。ゴーストバスターズたちがTVCMで「私たちはどんな話しでも信じます!」という卓抜なキャッチコピーを撒き散らしたことによって、それまで私的領域に押しこめられていた「ゴースト」経験が掘り起こされてしまう。つまりゴーストは「はじめからそこにいる」のではなく、ゴーストバスターズによって呼び寄せられ、発見されるのである。
「ゴースト」にはある種の「幼児性」を刻印されている。(貪欲、いたずら好き、好色、無知、邪悪)このゴーストの性格特性はそのまま三人のゴーストバスターズにも共有されている。彼らは大学を放逐された超常現象「おたく」で、帰属すべき場所もないし、お金もないし、もてないし、社会に対するルサンチマンだけためこんだ「悪ガキ」たちである。彼らはその貪欲といたずら好きの血の騒ぎと性的欲望とみたすためにのみこの仕事に熱を入れいている。
ゴーストバストというのは不思議な仕事だ。
ゴーストバスターズはおのれが破壊し、消滅させるべきゴーストが出現し、跳梁するかぎり存在理由を持っている。ゴーストがいなければゴーストバスターズに存在理由はない。しかるにゴーストバスターズの仕事は、ゴーストが出現すると同時にそれを消滅させることなのである。
そもそもゴーストを呼び出したのは彼らなのだし、究極の無意識の怪物「マシュマロマン」を作り出したのはスタンツ博士の幼児的想像力である。彼らは右手で作り出したものを左手で破壊している。あるいは左手で壊すためにのみ、右手は何かを作り出しているのである。
これは何かに似ている。そう、『盗まれた手紙』だね。
盗まれた手紙に何が書いてあるのかは誰もしらない。そこに何が書いてあるかが明らかになった瞬間に、その手紙はその魔術的な効力を失ってしまうからだ。手紙は「それが意味するものの取り消しをもとめる。」そしてこれこそが無意識の効果(noli me tangere)なのだ。
「ゴースト」と「ゴーストバスター」を「モンスター」対「ヒーロー」というふうに対立的にとらえてはならない。彼らはあわせて一組のものであり、その目的は両者の共同作業によって、「そこにあったが、いまはもうないもの」を欠性的に指示することにある。
姿のないものが消される。すると、「消された」ことではじめて「すがたのないもの」がそこにあったということを人々は信じるようになる。
これはラカンが a/A という図式で意味しようとしていたことだ。
「消すことによって、何かがあったことにする」というのが、この(/)barrer の効果である。barrer とは要するに「記号作用」のことなのだ。
アメリカ社会がどうやってもうまく概念化することのできなかった「無意識」のシニフィエ(A)は「ゴーストバスターズ」が斜線(/)を引いて否定したことによって「ゴースト」という対象(a)というシニフィアンで記号的に表象される。
さらに、こうやって記号的に他者(A)を構成する作業全体がゴーストとゴーストバスターズによる共犯的な詐欺行為なのだ、ということも映画はきちんと教えている。(だから環境庁の役人が「こいつらは幻覚ガスをつかってゴーストを自分で作り出して商売にしているんです」と告発するのは実は事実を語っていたのである。)
ともあれ、ハリウッドのバカ映画はこうして「無意識」という歴史的な難問をみごとに物語的・映像的に処理することに成功したのである。(ぱちぱち)おめでとう。
『不夜城』(金城武、山本未来)
台詞の6割くらいが中国語なので、字幕つき。監督もあちらの人。金城君は『恋する惑星』でバーのカウンターのとなりの女の子を広東語、北京官話、台湾語、日本語、英語でナンパするという(タモリもはだしで逃げ出す、五カ国語ナンパ術)の秘技を繰り出して鮮烈デビュー。チョウユンファを継ぐ東亜影帝は金城君だ。
この人ひとりのおかげで、日本人にとって台湾という国はほんとうに一気に身近なものになったと思う。金城君がにこっと笑って「台湾、いいとこだよ」というと、ほんとにそうだろうなあという気になる。これはにじみでる「人徳」のせいであろう。
木村拓哉君のハリウッドデビュー計画があるようだが、惜しいかな、木村君には金城君の笑顔のもつあの暖かみがない。
クラーク・ゲイブルは「笑うハリウッドスター」の元祖であるけれど、人の心をつかむ笑顔は造型的に偽装してできるものではない。『奇妙な果実』というビリー・ホリデイの自伝によると、ある日、ロサンゼルス郊外で、彼女と友人の女性と二人が乗った車がパンクして路肩で止まってしまった。すると、しゃれたスポーツカーに乗って通りかかった兄ちゃんが止まって、ほいほいとパンクをなおして、「んじゃね」と走り去った。黒人女性に対して白人男性が「ポライト」な態度を示すということ自体が例外的だったその時代の、その親切な兄ちゃんのとろけるような笑顔にビリー・ホリデイとそのともだちは目がハートになってしまった。だって、その兄ちゃんはクラーク・ゲイブルご本人だったんだ。
『軽蔑』(ジャン=リュック・ゴダール監督、ブリジット・バルドー、ミシェル・ピッコリ、ジャック・パランス、フリッツ・ラング)
ゴダールの自己言及が全開。ひたすら「映画について語る映画」であった。
映画を撮影する場面から始まって、映画を撮影している場面で終わる。登場人物たちは(バルドー以外)全員映画関係者。舞台は夫婦の私室以外は、チネチッタ撮影所、試写室、プロデューサー邸、オーディション会場、撮影現場。
映画はホメロスの『オデュッセイア』。監督はフリッツ・ラングご自身がフリッツ・ラングを演じる。帽子をかぶって葉巻を吸って白いバスタオルを身体にまいて歩き回るミシェル・ピッコリは『8 1/2』のマストロヤンニそのまま。プロデューサーのジャック・パランスは「決めのせりふ」を書いた小さなメモをいつも持ち歩いているし、フリッツ・ラングはヘルダーリンからダンテまで引用によってしか話さない。秘書のジョルジア・モルはみんなが話す英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語をひたすら通訳し続ける。
ここにはオリジナルなものが何一つ存在しない。「内面」もないし「メッセージ」もない。ここには「引用」と「言い換え」しかない。固有の、たしかなリアリティをもつものは、ひとつも出てこない。
そもそもバルドーはなぜ夫を「軽蔑」することになったのか。その理由が誰にも分からない。(本人は分かっているのだろうか。)軽蔑という事実だけがあり、その「背後」や「裏面」はどこにも示されない。
「そういうものなのだよ」とゴダールは言いたいのだろうか。「すべては引用とコラージュであり、世界の向こう側には何もないのだ。」
「知ってるよ」と私は答える。「そういうのにいい加減飽きてるんだよ。」
退屈な映画だった。