updated 5 Feb 2003
Vol. 8
『カンダハール』(Kandahar by Mohsen Makhmalbaf: Niloufar Pazira, Hassan Tantai, Sadou Teymouri, Hoyatala Hakimi )
タリバーン政権下のアフガニスタンで自殺予告をした妹に会うためにカンダハールに密入国を企てるナダ在住のアフガン女性の悪夢のような旅。
私には政治的なメッセージはよく分からない。
でも、分かることもある。
それは「アフガニスタンの人は話がくどい」ということである。
同じことばを際限なく繰り返すうちに、それがある種の呪術性を帯びてくることがある。
この映画の中で、私がいちばん感じたのは、「同一の動作、同一のことばの反復」がもたらす存在論的な不快である。
「合わない義足」についての終わりのない抗議。「死者から盗んだ指輪」についての終わりのないセールストーク。
これは「怖い」。
ものすごく怖い。
人間の暴力性とは「同語反復」であり、人間の知性とは「前言撤回」のうちに存するということを、これほど執拗に主張した映画を私はかつて見たことがない。
『バルカン超特急』(The Lady Vanishes, by Alfred Hitchcock)
鈴木晶先生と共訳の「ラカン/ヒッチコック」の中にいろいろとヒッチコック映画が引用される。ミシェル・シオンくんが論じている『バルカン超特急』を未見であったので、この機会にビデオを拝見する。
実に面白い映画でありました。
「全員が犯人」という点ではアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』とよくにたアイディアであるが、それより1930年代のヨーロッパの国際政治の緊張感がよく現れている。
アメリカ・イギリス同盟vsドイツ・イタリア連合というかたちでドラマは展開し、「謎解き」合戦から最終的には銃撃戦にまで戦いはエスカレートする。
『カイエ・ドュ・シネマ』の論客、パスカル・ボニツェル、ミシェル・シヨンのお二人は、ともに、この図式を「新興の全体主義国家」と「退廃的なブルジョワ・デモクラシー」の対立の下に透けてみる、「近代ヨーロッパそのものの発する腐臭」を指摘しているが、私はそれだけではすこし単純じゃないかなという気がした。
主要な登場人物はイギリスの音楽学者ギルバート、アメリカの富豪の娘アイリス、イギリスの女性スパイ:ミス・フロイ(「失踪するレイディ」)、ドイツ人の医師、イタリア人の奇術師、ドイツの宣伝相夫人、イギリス人のドイツ側スパイ、不倫旅行中のイギリス人弁護士と有閑マダム、二人のクリケット選手。
この中で非常に重要な「狂言回し」を演じるのは実は英国紳士然とした二人のクリケット選手である。
彼らは冒頭のチロルのホテルの場面では雪崩による列車の停止によって、「イギリスの情勢」についての情報が途絶していることにいらいらしている。その緊張した面もちから私は、彼らが「クリケット選手に化けたイギリスの秘密情報員」ではないか、と一瞬疑う。
そして、別の客にかかってきた「ロンドンからの電話」に彼らは飛びつく。
そして、見知らぬ電話口の相手に向かって「いったい、そっちはどうなっているのだ」とせき込んで訊ねる。
「何の話だって?クリケットだよ!マンチェスターの試合結果はどうなったんだ。何知らない?ばかもん、それでもイギリス人か!」
ドイツによるズテーテン地方の併合と英仏の宥和政策の破綻。世界大戦が目前に予感されているときに、なんと、彼らの関心事はクリケットにしかない。
この「変な英国紳士」が実は物語のキーパーソンなのである。
彼らはやがてミス・フロイの失踪事件に巻き込まれる。
ミス・フロイなどという英国人女性はもともと列車に乗っていなかったと証言する人々の中にあって、彼らはたしかにミス・フロイを覚えていた。しかし、彼女を探し回るアイリスが、「見つからなければ、列車を止めて捜索してもらいます」というのを聞き咎めて、「これ以上列車が遅れたら、イギリスでの決勝戦に間に合わないぞ。困ったことになったな」と渋い顔をしている。
そこに来合わせたアイリスが「人が一人いなくなったのよ!クリケットみたいなこと (things like cricket)、どうだっていいじゃない」と放言するのに「かちーん」と来て、「では何もご協力できません」とつっぱねてしまうのである。
彼らにとっては、国際紛争も英国人女性の失踪事件も、クリケットの前には無価値なのである。
やがて事件はギルバートとアイリスの大活躍によってクライマックスを迎える。そのとき、二人の英国紳士は、生命の危機に際会しても、あいかわらず減らず口を叩き、ぶつくさいいながら、その沈着冷静で勇猛な戦いぶりによって、いきなり「男をあげる」。
ギルバートとアイリスは献身的な働きで、国際的陰謀を未然に防ぐ。
ミス・フロイは一身を犠牲にしても、人々を救おうとする。
二人の英国紳士は土壇場でのジョンブルのしぶとさをみせつける。
彼らと対照的にへろへろしているのは、「スキャンダルが法曹としての命取りになりそうなので、不倫相手のマダムとの別れ話をひそかに画策しているイギリス人弁護士」である。
彼は戦いのさなかに「銃ではなく、理性によって事態は収束するのである。話せば分かる」と宣言して、白旗をかかげて銃撃の中に出て行き、一発で撃ち殺されてしまう。
ここにはいろいろな「モチベーション」が示される。
愛国心あるいは使命感が政治的危機において人間に勇敢果断な行動をとらせる強い動機づけになること、これはミス・フロイとドイツ軍のスパイたちによって示される。(ただし、その行動が適切なものであったかどうかはとりあえず判定できない)
隣人への気遣い(アイリス)、惚れた女性への献身(ギルバート)が命がけの冒険のカタパルトになること、つまり「愛情」が人間の爆発的なエネルギー源になることは、この若い二人が示してくれる。
利己的動機に基づく理性的行動(弁護士)と金への執着(奇術師)は生き延びる上でほとんど何の役にも立たない。
そして最も不思議なのが、「クリケットのようなどうでもいいこと」に夢中になる人間が、危機的状況において、「クリケット以外のすべてのことに対する、ほとんど脱俗的な無執着」ゆえに、適切な判断と果断な行動を誤らない、という物語の設定である。
愛国心、愛、利己心、欲望、「クリケットへの執着」・・・さまざまな動機が交錯する中で、ほかのすべてがいわば「戦争機械」を前に進める「エンジン」として動くのに対し、それまでさまざまな現実の場面で彼らに「とんちんかん」な行動をとらせてきた「クリケット第一主義」が「戦争機械」の「コントロール」において効果的に機能する。
だって、彼らにとって「クリケット以外のこと」は女性の失踪であろうと、銃撃戦であろうと、スパイ騒ぎであろうと「どーでもいいこと」なのだからだ。
「どーでもいいこと」だからこそ、彼らは何に対しても「むきにならない」。
クライマックスの銃撃戦において、彼らの完全にリラックスした戦いぶりは印象的である。
ヒッチコックはこの「わしどーでもえーけんね紳士」を愛情を込めて描いている。
人間の中にはさまざまな水準の「エネルギーの水脈」がある。
どの深さにいちばん大量のエネルギーを埋蔵する水脈が眠っているか、それはひとりひとり違う。
それにピンポイントして、エネルギーを「リリース」すること、それがとても大切なことだ。
私はそれが「政治」ということの本質だと思う。
ヒッチコックはそのような意味ですぐれて政治的なフィルムメーカーである。
「何をきっかけにして、主人公はいきなり激しく果敢な行動にシフトしたか?」
そのような問いをもってヒッチコック映画を全部もう一度見なおしてみると、私たちは、ヒッチコックの「政治性」というものの輪郭に触れることが出来るのではないか。
というようなことを思わせた逸品でありました。
ひさしぶりにサッポロの「せをじ」くんからの投稿です。
論じるは『アメリ』と『千と千尋』。ではどーぞ。
『アメリ』(Amery by Jean-Pierre Jeunet)
アメリを見る。
インターネットの公式ページのコメントには,次のようなものがあった。
「幸福,独創性,優しさと詩情に満ちた2時間。魔法の魅力をもつ驚くべき作品」-Studio Magazine
「さわやかで,わかりやすく,晴れやかで,夢と詩情にあふれた美しいストーリー」-パリ市助役
「ほろりとさせながら,おかしくて,しかも驚きを誘う映画。日々の生活の忘れていた豊かさをしみじみと想い出させてくれる一本」-カルロス・ゴーン
映像の作りが面白い。
のっけから登場するモンマルトルの銀蝿は,高速に羽を動かして静止した画面中を飛び回り,道路に止まり,その瞬間,通り過ぎる自動車のタイヤの下で,紅い塊に変わる。
クジラという愛称の金魚は,飼い主家族に嫌気がさして,空中に身投げをし,小川に放たれても,落ち葉の流れゆく水中で停止し,雨粒の作り出す水面の波の広がりを通しながら,じっと飼い主を見上げる。この映像は,絶品である。
その映像は,CGをはじめとする映像の技術を,スペクタクルという大げさなものではなく,また,ギャグという笑いを誘うものでもなく,エスプリに仕立てあげた。
例えば,アメリとその恋人ニノがアメリの部屋のドア越しにたがいに相手の様子を窺うシーンがある。カメラは,部屋の内側のドアに耳を寄せるアメリに焦点を合わせながら,「壁をすり抜けて」90度移動し,部屋の外側のドアに耳を寄せるニノを映し出す。何ということもないシーンであるが,こんな所にも,ふたりの様子を自然に描き出す小さな魔法が使われている。
音楽が,さりげなく,甘酸っぱい。
全編を流れるアコーディオンの響きは,物憂げでありながら,それを現実として承認して生きていくパリの人々の息づかいを感じさせる。浅草にチンドンヤの物悲しいクラリネットの音色が合うように,パリにはアコーディオンがよく似合う。
ストーリーは,あってなきがごとし。オムニバス調である。
されど,一応は,恋愛物である。アメリの恋が実っていく過程が,オムニバスと同時並行して,語られていく。
アメリは,人を幸せにする方法,人に復讐する方法を知っている。それがオムニバスになっている。
最初の復讐は,嘘を言ってアメリの心を傷付けた隣人に対して,サッカーのテレビ中継のいいところを見るのを妨害するものである。
最初の人を幸せにすることは,アメリの住んでいた下宿の40年前の住人に,その住人が隠し持っていた宝物を届けることである。
丁稚をいじめる八百屋の主人に対する復讐の際には,アメリは,怪傑ゾロの心境になって,嫌がらせのあらゆる手段を講じる。
下宿の女主人のために,30年前の夫の手紙を偽造する。
持病の多い同僚には,過って膝にコーヒーをかけるという仕組まれた失態によって,恋のきっかけを作り出す。
妻を亡くした父の新しい旅立ちのために,アメリは,父のお気に入りの小人の置物を盗み,スチュワーデスの友人に頼んで,ニューヨーク,カンボジアなどでその小人の記念写真を撮ってもらい,その写真を父に送る。
アメリは,類いまれな想像力によって,これらの復讐をそして幸せを,人に送る。しかし,アメリは,自分の幸せをつかむことは,苦手だ。
この作品には,心の優しい人が多く登場する。
下宿の女主人,下宿の絵描きさん,八百屋の丁稚のリュシアン,そして,勤め先のカフェの女主人,カフェに通う売れない小説家,同じくスチュワーデス,アメリの下宿に40年前に住んでいた人,そしてニノ,みんな心の優しい人である。
心の優しい人を浮き彫りにする敵役は,八百屋の主人,それにカフェに通って女給ジーナと売り子ジョルジェットを見張っているジョゼフくらいであろうか。
さて,私も,キャッチ・コピーを作ろう。
「エスプリと魔法に満ちた人間賛歌。アメリの恋は,きっと,あなたにも幸せを運んでくれる。」
そうそう,それでいい。公式のキャッチ・コピーは,それでいい。しかし・・・。
アメリの日常生活を借りて,アメリの恋物語を借りて,監督ジャン・ピエール・ジュネは,次のようなメッセージを述べている。
心の優しい人は,多かれ少なかれ,他の人の断定を,それが事実ではないとの疑いを抱いていたとしても,事実として受け入れてしまうことがある。それは,自然な心の働きであり,生きるための知恵でもある。なぜらば,その人にとって,その断定を事実として承認することはできないが,さりとて,その断定が事実ではないという証明を,あるいは,説得をすることは容易ではないからである。そして,その断定を否定すれば,その人との間で心理的な葛藤が発生する。その葛藤を避けるには,その断定に従って振る舞うしかない。
アメリが物心ついて最初に出会った重大な断定は,退役軍医である父の「この子は,心臓が悪い。」という断定であった。アメリは,それが,単に父の前での診察において,動悸がしただけなのにと感じながら,その断定に従った振る舞いをすることになる。そして,アメリは,学校に行かず,他人との関係を結ぶことが苦手な少女になっていった。
心の優しい人は,しばしば,傷つきやすく,他人との関係を結ぶことが苦手であり,失敗,失意,そして,失恋に親しい。パスカルも,ニーチェも,そして,寅さんも,そうであった。
この作品の中で,ジャン・ピエール・ジュネ監督は,人生に失敗した心優しい二人の先輩を描き出す。
一人は,下宿の絵描きさんである。
他人との関係を結ぶことをおそれ,20年間も外出をしたことがない絵描きは,自分の骨がガラス細工のようにこわれやすくなってしまったと言う。そして,アメリに向かって言う。
チャンスがきたら飛び込まなければいけない。今すぐ,ニノを追いかけて,つかまえなさい。そうしないと,私のようになってしまう。
もう一人は,カフェに通う売れない小説家イポリットである。
イポリットは言う。
小説も失敗,人生も失敗。失敗につぐ失敗,書いては消し,書いては消し,人生は果てしなく書き直す未完の小説だ。
アメリは,心の優しさから,他人との関係を結ぶことが苦手になり,しかし,心優しい絵描きの助け(トリック)を借りて,ニノと結ばれる。
それは,心優しき人の人間賛歌である。
しかし・・・,アメリは,40年前の私の記憶のゴミ箱を開いてしまった。
心優しき人の別のストーリーを。
それは,太宰治の描いた「葉ちゃん」である。
「人間失格」の本文(はしがきの次に来る「第一の手記」)は,次のような文章から始まる。
「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」
そして,続く。
「そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。」
そして,あとがきは,次の言葉で終わる。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
アメリと葉ちゃん。ストーリーは,全く異なる。結末も違う。しかし,アメリは,私に葉ちゃんを思い出させてしまった。
アメリ・・・それは,葉ちゃんとは随分違うが,葉ちゃんと同様に,心優しき人への贈り物である。
『千と千尋の神隠し』(by 宮崎駿)
「千と千尋の神隠し」をDVDで見る。
美しい映像である。
不思議の世界である。
そして,何よりも,暖かい。
この作品の提示する現実的なテーマあるいは切り口は,「人は,契約の世界に生きる。」ということである。それは,この作品の多くの箇所に具体的に明示されている。この作品の序章が,引越しで転校することになったごく普通の女の子であり,どちらかといえば,ちょっとわがままな千尋が遭遇する不条理であるとすれば,この作品の第1章,実質的な物語は,千尋が湯婆の提示する契約書に署名することから始まる。
人が契約の世界で生きるということは,働くということであり,他のために自分を捧げるということである。
人が自分を捧げる相手方は,通常は「人」である。そして,人類は,長い歴史を経て,人が自分を捧げる相手方を「神」とする宗教システム,「国」とする国家システム,「会社」とする企業システムなどを作りあげてきた。
人が自分を捧げる相手方が,「恋人」であれば恋愛物,「友人」であれば友情物,「家族」であれば家族愛物,「会社」であれば企業戦士物のストーリーに仕立てあがる。
しかし,宮崎駿は,この作品において,自分を捧げる相手方として,「人」でもなく,「神」でもなく,「自然」でもない「妖怪」「八百万の神」を提示した。それは,宮崎駿の才能である。
実を表現するのに,虚をもってし,虚を表現するのに,実(リアル)に迫る。この作品はアートの基本に忠実であり,その表現は,いつもながら精緻である。
他との関係で,自分を誠実に捧げ,規律すること,それが,契約である。そして,それは,人が大人になるということを意味する。
しかし,契約の世界は,「生もの」である人を,「機能」である人にしようとする。「生もの」である「千尋」は,契約の世界で,「機能」である「千」になり,誠実であればあるほど,「千尋」を喪失していく。湯婆が,魔法によって,そして,契約によって,「千尋」を「千」にすることの意味は,ここにある。
人が子供であるとき,大人の契約の世界が見えない。しかし,いずれ,子供は大人になり,契約の世界に入る。そして,人が大人になるとき,契約の世界で,「生もの」である自分を喪失していく。
しかし,「千尋」は,「千」になりきることはない。「千尋」は,魔法をかけられて豚になったお父さん・お母さんを人に戻してもらいたいという必死な願いから,湯婆との契約に基づいて「千」になる。「千」が「千尋」を忘れそうになるとき,「ハク」がそれを思い起こさせる。そして,契約の象徴である湯婆は,「千」が「千尋」を取り戻そうとすることを妨げながら,それでも,「千」が「千尋」を取り戻そうとするとき,それを暖かく是認する。
人類は,秩序・契約という魔法によって,その全体の生存を維持してきた。しかし,人が,自然で飾らない必死の願いから,秩序・契約を破ろうとするとき,秩序・契約は,その人の切実な思いに自分を譲り,そして,人類は,新しい世界を形成してきた。
人は,契約を守らなければならない。しかし,契約の相手方は,人である。人は,秩序を守らなければならない。しかし,秩序は,人のためにある。
千と千尋。それは,これから契約の世界に入ろうとする人には,その心構えを,デジャヴーとして提示する。そして,契約の世界に入りきってしまった人には,契約の世界に入る前の自分を思い起こさせる。
宮崎作品の主人公の女の子の原型は,ルパン三世・カリオストロの城に登場するクラリスである。風の谷のナウシカのナウシカ,天空の城ラピュタのシータ,となりのトトロのさつき,魔女の宅急便のキキ,もののけ姫のサン・・・みな,賢くて,可憐なかわいさがあり,優しく,努力家であり,危機にあっては並はずれた勇気を示す。それは,男の子が求める理想の女の子である。
しかし,千尋は,賢くもなく,かわいくもなく,ちょっとわがままで,面倒なことは嫌がり,楽をしたがり,怖がりやの,ごく普通の女の子である。敢えて似た子を探すとすれば,トトロに出てきたメイちゃんであろうか。そして,この作品には,その千尋がぴったりの女の子である。この作品の主人公をクラリス・タイプにすることは,可能である。宮崎駿ファンには,その脚本を,そのイメージを,ほとんど瞬時に描きあげることができる。しかし・・・それは・・・美しすぎる。この作品は,その序章と終章の舞台が,まぎれもなく,この鬱陶しく,閉塞感すらある現代の日本であるだけに,その主人公は,やはり,千尋でなければならない。千尋であるからこそ,この作品の序章と終章が,物語にとどまらない現実味を帯び,引き締まったものとなる。
千と千尋。それは,いずれも否定できないものである。
ラストシーンの千尋には,千尋を失わずに千になることを引き受けようとする目の輝きがあった。
という「せをじ」くんのほんわか映画批評でした。
みなさまからの映画レビューもお待ちしてます。どんどん寄稿して下さいね。
『私を野球に連れてって』(Take me out to the ball game by Busby Berkeley: Frank Sinatra, Esther Williams, Gene Kelly, Betty Garrett)
日本未公開のMGMミュージカル。
そうか、日本未公開だったんだ。
だから私たちはメジャー・リーグの球場で歌われる『私を野球に連れてって』という曲を知らないんだね。
どうして輸入しなかったんだろう。(同じシナトラ&ケリーコンビの『錨を上げて』も『踊る大紐育』も公開されているのに)
誰か知っていたら教えて下さいね。
これは、その後の「男性ばかりのスポーツチームに女性オーナーがやってきて、大騒ぎ」という『メジャー・リーグ』以下無数のエピゴーネン作品群の「先達」である。(そのさらに先達もあるのかもしれない)
アメリカ映画は、この「男ばかりの集団に、untouchable なポジションにある女性が一人やってくる」という話型が好きだ。
たぶん、西部開拓の時期(フロンティアでは、圧倒的に女性が少なかった)に東部から来た女性を数十倍の倍率で男たちが競い合い、牽制し合い、譲り合い、抜け駆けし合い、騙し合った経験を通じてアメリカ男性が受けたトラウマがこの種の説話の原型になっているのだろう。(だって、女性に選ばれた幸運な男以外、あとは全部「あぶれた」んだから、性的承認を受けることができなかった男たちのトラウマは深いはずだ)
トラウマを癒すためには、いろいろなやり方がある。
その一つは、「女が選ぶのはしょせんカス男だ」という「負け犬の遠吠え」
もう一つは、「あんな女は、どうせろくなもんじゃない」という「酸っぱい葡萄」。
この映画はちゃんとこの二つの定型的な治療法を採用している。
『私を野球に連れてって』では、男たちの中で「もっとも粗野で、もっとも無学で、もっとも強欲で、もっともスケベな男」が最後に「女をものにする」という話型が採用されている。
その場合は、「あぶれた男たち」は、「まあ、あいつなら仕方がないか」というかたちで自己説得することができる。そういう彼らもみんな「粗野で、無学で、強欲で、スケベ」なんだけれど、「あの男」ほどには徹底してなかった、ということなんだから。(自分たちはもう少し紳士的で、教養があって、淡泊なのである。)
もちろん、そういうマッチョでワイルドで男は「ものにした女」をそのうちゴミのように棄てて、また次の女に走るであろうことは火を見るより明らかである。
つまり、ワイルドなバカ男成功譚は、裏返しに言えば「男たちからちやほやされた女は絶対カスをつかんで不幸になる」失敗譚にもなっている。
「男たちをさんざん弄んだ女はいずれ罰を受けるであろう」というのは、女性嫌悪(ミソジニー)の定型的な説話構成である。
「女なんかろくなもんじゃない。大切なのは、男同士の友情さ」という「ホモソーシャル」的細部の映画の随所に横溢している。
フランク・シナトラとジーン・ケリーは映画の中で、執拗に「スキンシップ」を繰り返す。
誰が見ても、この二人は「ゲイのカップル」である。
でも、二人にまつわる定型的なヘテロセクシュアル話型の反復によって、彼らがゲイであることは前景化しない。
新しいオーナー、K・C・ヒギンス(エスター・ウィリアムス)は、「ウルヴス」というホモソーシャルな集団に間違って紛れ込んだために、ふさわしい「罰」を受けなければならない。
もちろん、それは「レイプ」されることである。
1949年の映画なので、いきなり性交する場面はない。
しかし、プールでの裸身や、ベランダへの侵入や、ダンスパーティやホテルの中庭でのめちゃくちゃディープで無法なキスシーンを見る限り、エスター・ウィリアムスにはその性的供物を効果的に保守する権能は与えられていない。
彼女がとりあえず貞操をキープしているのは、男たちが「自分の都合で(恋敵への遠慮やペナントレース終盤の緊張感から)ちょっとだけ我慢している」からだけなのである。
その気になったらあっという間にレイプされてしまうだろう、という女性の無防備さが映画では繰り返し暗示される。
何にしてもずいぶんな映画だなあ、とウチダは思った。
アメリカの男たちはアメリカの女性を深く憎悪している。
その憎しみは「圧倒的に女が少なかったせいで、生涯に一度もステディをもつことができなかった哀しいフロンティアの男たち」の集団的トラウマを癒すために「女なんて、なにさ」説話群が長期にわたって大量に流布したことが起源にあったのである。
そうか、そうだったのか。
この深い恨みに培養されたアメリカのミソジニーの伝統は一朝一夕では癒されないような気がする。
『ソードフィッシュ』(Sword fish by Dominic Sena: John Travolta, Halle Berry, Hugh Jackman, Don Sheald, Sam Shepard)
9.11テロでアメリカでは公開が中止になった映画がいくつかあるが、その一つ。
テロリストを退治するための資金を非合法的に入手するアメリカの秘密軍事組織の話なんだから、ストーリー上は「愛国主義的」でまったく問題はないはずなのだが、ヘリコプターからぶるさがったバスが高層ビルに衝突してガラスが砕け散るあたりの絵柄がアメリカ人のトラウマに触れたのかもしれない。
アメリカの「陰謀もの」の悪役は、久しくCIAが独占していたが、その後大統領が一手に引き受けるようになり、さらにDEAやその他の政府機関が順番に担当していたが、今回は、フーバー長官が創設した「裏FBI」が担当している。
この「裏FBI」というアイディアは悪くない。
政府情報をぜんぶ把握し、抜群の資金力と組織力を持ち、非合法活動なんでもありの「秘密軍事組織」があったら、アメリカの世界支配はどんなに便利になるだろう、というアメリカ国民の「邪悪な欲望」をそのまま映画にしてみました、という作品である。
私はこういう大衆の「邪悪な欲望」を恥ずかしげもなく剥き出しにする、という点においてハリウッド映画を高く評価するものである。
ひるがえって我が国の映画の中に、「大衆の邪悪な欲望」を恥ずかしげもなく、ためらいもなく、ストレートに映像化したものがあるだろうか?
日本のフィルムメーカーが映像化するのは、彼らの個人的な「邪悪な欲望」か、せいぜい都会のビンボーな若者の鬱屈や屈託した性欲くらいである。
日本国民の大多数の「口に出すことのできない邪悪な欲望」を奇想天外な物語をつうじて映像化する度胸があるフィルムメーカーは本当にレアである。(たぶん北野武と宮崎駿くらいではないのか)
ウチダとしては、『暴れん坊将軍』か『水戸黄門』の劇場版なんか、どうかなと思う。
これってどっちも「政府中枢に通じていて、恐るべき情報力と底なしの資金力と鉄壁の組織力をもつ秘密軍事組織が、気に入らないやつをかたっぱしからテロにかける」という話であるという点において『ソードフィッシュ』とまったく同じなんだよね。
あ、そうだ、いっそ『暴れん坊将軍vs水戸黄門』にしたら。
高倉健の水戸黄門、小林旭の暴れん坊将軍が、最後にそれぞれの秘密軍事組織の存亡を賭けて死闘を繰り広げる、というのはどうかね。
『AI』(Artificial Intelligence: AI, by Steven Spielberg: Haley Joel Osment, Jude Law, Frances O'connor, William Hurt)
ネタもとは『ピノキオ』じゃなくて、やっぱり『鉄腕アトム』でしょう。
スピルバーグはアニメ版の『鉄腕アトム』(アメリカでの放映タイトルはAstro Boy)を見て育っているはずだし。マンガだって読んでいる可能性はある。
アトムは天馬博士に「代理息子」として作り出されるが、「完全な子ども」であるがゆえに、「成長する」ことができず棄てられ、やがてサーカスの芸人にまで身を落とす。この説話パターンは『AI』でもそのまま踏襲されている。
「母探し」のエピソードも『アトム』のストーリーラインの一つではあったが、これほどまでにべたべたしたものではなかった。というのは、アトムには「身を棄てて世界を救う」という強烈な使命感があり、それがそのほかのすべての個人的情動を抑制しているからである。
「世界」とか「人類」とかいうのは幻想であり、象徴的なネットワーク内部においてしか意味をもたない。つまり、アトムは、ふつうの人間以上に「人間的幻想」に深く領されていたのである。
AIのデヴィッドくんには、もちろんそのような幻想には冒されていない。
だって、彼には抽象的思考ができないからだ。
彼に賦与された「人工知能」は「想像界」に固定されている。
だから彼にできることは二つしかない。
一つは母との全面的な合一。もう一つは鏡像破壊である。
デイヴィッドがホビー教授の研究所で「もう一人のデイヴィッド」に出会う場面は、私たちに非常につよい違和感をもたらす。(デイヴィッドは自分の「鏡像」を暴力的に叩きつぶす。)それは「どちらがほんものか」を決定するために覇権を競う鏡像たちの宿命だ。
たがいに鏡像関係にある想像界の人間たちのあいだの関係はこのようにきわめて不安定である。
エロスと攻撃性、それが想像界の本質だからである。
では、この物語でどのようにして「父」が介入してきて、デイヴィッドを「去勢」し、彼を象徴界へと導き、成熟のプロセスを完了させることになるのだろう。
代理父であるヘンリーも、生みの親であるホビー教授も、旅の友であるセックス・ロボットのジョーも、誰一人デイヴィッドに「父の名」と「父の否」を教えることができない。
最終的に、デイヴィッドと母との癒合を断ち切るために登場するのはなんと「エイリアン」なのである。
Alien すなわち「絶対的他者」が登場して、母親を「象徴的に」殺して、はじめてデイヴィッドは想像界から象徴界へのテイクオフを成し遂げることになる。
象徴界、それは実体としての「人間」がかき消えて、「人間の意味」だけが残存した「氷の世界」なのである。
というわけで、ハリウッド映画のつねとして、この作品もまた、哀しいほど簡単にラカン理論で説明できちゃうのでありました。
『ドラキュリア』(Dracula 2000 by Patrick Lussier: Johnny Lee Miller, Justine Waddell, Gerard Butler, Christopher Plummer)
ドラキュラはユダであったという新解釈。
十字架と銀がきらいなのは、たしかにそれで説明がつくけれど、「ニンニク」は? 「太陽」は?
『ヤマカシ』(Yamakasi by Ariel Zeitoun: 元気な移民たち)
パリのバンリューのHLM (Habitation a loyer modere, つまり「セメント長屋」)に住む、頭は悪いけど、元気いっぱいの移民の若者たちが「忍者ごっこ」に興じるお話。いかにもリュック・ベッソン好み。(『タクシー2』でも忍者を出してたしね)
でもヤマカシってどういう意味なんだろう。(副題は Les samourais du temps moderne つまり「現代のサムライ」)
若者たちは「日本には『七人の侍』が、アメリカには『荒野の七人』がいる。われわれは『フランスの七人のサムライ』だといばっていた。
リュック・ベッソンはそのつもりかもしれないけれど、黒澤明もジョン・スタージェスも「同列に論じていただきたくない」ときっぱりご遠慮されるのではないか。
『キス・オブ・ザ・ドラゴン』(Kiss of the dragon by Chirs Nahon: Jet Li, Bridget Fonda, Tcheky Karyo)
カンフー映画はついに30年目にして『燃えよドラゴン』に拮抗する作品を生み出した。
ブルース・リーのあと、『燃えよドラゴン』に匹敵する映画はもうできないのか思っていたが、リー・リンチェイ+リュック・ベッソン(シナリオ&プロデュース)が実現してくれた。
全編、ブルース・リーへのオマージュで満たされている。
単身警察署に乗り込むリーが道場で柔道着をつけた数十人の警官たちを叩き伏せる場面は『怒りの鉄拳』の道場殴り込みや『燃えよドラゴン』の地下工場での乱闘シーンを思わせずにはいない。
ファイティングポーズをとったあと、指で挑発的に「おいで、おいで」をする場面が何度も出てくるが、これもブルース・リーの特徴的な動きのひとつだった。
二本の箸で喉を突き刺すの元ネタは『ドラゴンへの道』で披露された割り箸手裏剣。
面白いのは「鍼」で人を眠らせたり殺したりする技。
アメリカの批評家は「意味がわからん」と書いていたが、これはもちろん仕掛人梅安。
リュック・ベッソンは「必殺仕掛人」まで見てたのである。(タランティーノといい、この世代のフィルムメーカーの日本のTVと映画に対する知識は恐ろしくディープだ)
しかし、リー・リンチェイのアクションが、これほどパリの街にマッチするとは思わなかった。すばらしい。
ウチダ絶賛の『ロミオ・マスト・ダイ』は興行的には失敗だったらしいけど、いい映画だった。
しかし、『キス・オブ・ザ・ドラゴン』はもっとよいぞ。
とりあえずのところ2002年度のウチダ的ベスト1。
すべてのボンクラ映画ファンは必見だ。
『ドリヴン』(Driven by Lenny Harlin: Sylvester Stallone, Burt Reynolds, Kip Pardue, Stacy Edwards, Til Schweiger, Estella Warren )
レニー・ハーリンは『ダイ・ハード2』と『クリフハンガー』のときは「おお、期待の新人出現か」と思ったが、そのあと『カットスロート・アイランド』でがっくり、『ロングキス・グッドナイト』でちょっとリカバーしたかと思ったが、『ディープ・ブルー・シー』がやっぱりひどい出来で、『ドリヴン』において、ついに才能が完全に枯渇したことがあきらかとなった。
気の毒だが、この時期にシルヴェスター・スタローン(最悪)主演でカーレース(退屈)の映画を作るという企画に乗ること自体、「焼きが回った」証拠である。
しかし若い俳優たちはそれぞれがんばっていた。
ティル・シュワイガーは『ノッキング・オン・ヘヴンズ・ドア』で実に印象的な役を演じていたドイツの俳優。やはりハリウッドはちゃんとこういう人に目を付ける。
キプ・パルデューもなかなかよい。(とくにバカ眼鏡をかけているときがかわいい)
エステラ・ウォーレンは『猿の惑星』の出てきた新人女優である。演技は学芸会レヴェルだが、驚異的に「顔がでかい」。
エステラ・ウォーレンがスターになれるということは小顔ブームも終わったらしい。(なにしろ、ほっぺたが目鼻口のある部分のちょうど倍ある。それだけでも一見の価値あり)
造作はジーナ・デイヴィスにたいへんよく似ているから、あるいはレニー・ハーリンはこの手の顔が好きなのかもしれない。
この映画の唯一のとりえは(「強いて言えば」ですけど)ベッドシーンのダレ場がないことである。
しかし、あるいはこれも、エステラ・ウォーレンに岡惚れしたレニー・ハーリンが彼女の裸を観客に見せたくなかっただけかも知れない。そういえば、『ロングキス・グッドナイト』では執拗なまでにジーナ・デイヴィスに厚着させていたし。
最近「地獄みみ」を見ていないので知らないけれど、もしかするとレニー・ハーリンはジーナ・デイヴィスと別れて、エステラ・ウォーレンとくっついたのかもしれない。
うん、これは大いにありそうだ。
とすると、すべてのつじつまがあう。
つまり『ドリヴン』は「ホーム・ムーヴィー」だということなんですけど。
『ペパーミント・キャンディー』(監督:リ・チャンドン、出演:ソム・キュング)
哀しい映画だ。韓国映画は(三本しか見てないけど)、なぜかすべて「哀しい」映画ばかりである。
この三本の映画の登場人物に「愉快な人」「諧謔を弄する人」「内心を語らない人」は一人として存在しない。
感情の高揚は「怒る」か「泣く」かのいずれかである。
人間の深さは「怒りの深さ」と「哀しみの深さ」だけで定量される。
泣かず、怒らず、それでも厚みのある人格を描くのは韓国映画の風儀に合わないのかも知れない。
『昭和残侠伝・唐獅子牡丹』(監督:佐伯清 出演:高倉健、池部良、三田佳子、津川雅彦、水島道太郎、菅原謙二、芦田伸介)
『昭和残侠伝・血染めの唐獅子』(監督:マキノ雅弘、出演:高倉健、池部良、藤純子、津川雅彦、牧紀子、水島道太郎、金子信雄、河津清三郎)
『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』(監督:山下耕作、出演:高倉健、池部良、片岡千恵蔵、小山明子、長谷川明男、寺島達夫、葉山良二、沼田曜一、須賀不二男、大木実)
『ホタル』を見たら、急に『昭和残侠伝』が見たくなった。
でも手もとにあるのは、TV放映したのをダビングしたやつだけ。画像も悪いしTV用にぶつ切れされている。完全版で見るべく、インターネットで『昭和残侠伝』全作品をDVDで入手しようとしたら、なんとDVDが出てない。VHSで三作品のみ。
おいおい、これはどういうことなの。
高倉健さんといったら、日本映画を代表する俳優でしょうが。
『昭和残侠伝』といったら、それぬきには1960年代を語ることができないといういうくらいに近代日本人のエートスに決定的な「刷り込み」を果たした作品群ではないか。(冗談ぬきで明治40年代の夏目漱石の作品群に匹敵すると私は思う。)
それがVHS三作品しか見ることができないとは。
東映はなにを考えているのか。
VHSの在庫がはけるまでDVDは出さないというセコイ算盤をはじいているのであろうが、そういうのはすごくよくないぞ。
とりあえず手に入る限りのものを購入して、三夜連続の『昭和残侠伝』大会。
劇場公開時にも見ているし、TV放映でも見ているはずだが、それでもほんとうによい映画である。
三作とも傑作だが、作品の完成度では、『人斬り唐獅子』が最高。
片岡千恵蔵の「剣の親分」の貫禄もため息が出るほどすばらしいが、剣一家の「寡黙な代貸」沼田曜一、皆川一家の「人情味ある代貸」葉山良二、東雲一家の「苦悩する代貸」池部良の、「三代貸」の内的葛藤が醸し出すほとんどシェークスピア的なドラマの深み。
禁欲的で、優しくて、荒れ狂うヒーロー花田秀次郎は高倉健の生涯最高の当たり役だ。
今回は私費での購入であったが、これを研究費で購入して、AVライブラリーに配架するとおそらく「ウチダ先生! 公費でヤクザ映画を買うなんて、何考えてるんですか。見識を疑います」というようなことを言う教職員がいるかもしれない。
何にも分かっちゃいない。
『昭和残侠伝』は日本が世界に誇ることのできる数少ない映画の一つなのに。
『仁義なき戦い・広島死闘篇』(監督:深作欣二 出演:菅原文太、千葉真一、北大路欣也、山城新伍、名和広、成田三樹夫、小林旭、金子信雄、遠藤辰雄、小池朝男)
『仁義なき戦い・代理戦争』(監督:深作欣二 出演:菅原文太、小林旭、梅宮辰夫、成田三樹夫、山城新伍、渡瀬恒彦、川谷拓三、内田朝雄、田中邦衛)
『仁義なき戦い』全作品がDVDで出た。
とりあえずウチダのフェバリットである『広島死闘篇』と『代理戦争』を購入。
『広島死闘篇』は何と言っても千葉ちゃん演じるキチガイヤクザ大友勝利が最高。主人公である北大路欣也も菅原文太も千葉ちゃんの前では影が薄い。
無期懲役を食らったはずの大友の晩年はのちの作品では宍戸錠が演じているが、根が都会派の「エースのジョー」では残念ながら、若き日の千葉ちゃんの狂いぶりには遠く及ばない。
『代理戦争』は『仁義なき戦い』シリーズでウチダがいちばん買う一編である。
この作品はほとんど暴力シーンがない。ひたすら「ヤクザ外交」の壮絶なネゴシエーションと裏切りと内通とブラフだけが描かれる。成田三樹夫、小林旭、菅原文太、山城新伍、田中邦衛の五人の「山守組幹部」の腹の探り合いが骨格をなしている。舞台劇といってもいいほど圧倒的な量の台詞だけでドラマは展開する。
小林旭のベストパフォーマンスは『仁義なき戦い』だというとアキラファンは不満かもしれないけれど、ウチダは日活時代の脳天気な『渡り鳥シリーズ』や『銀座警察』シリーズよりは、『代理戦争』と『頂上作戦』の小林旭をはるかに買う。
とくに『頂上作戦』のラストシーン、雪の吹き込む裁判所の廊下で、裸足に雪駄、スーツにバーバリーのコートといういでたちの小林旭が菅原文太に「昌三、こんなん何年打たれたん」と語りかけるシーンは、わずか5年の(1969年から1974年のあいだに)『昭和残侠伝』の高倉健と池辺良の「幸福な道行き」の可能性が私たちの社会から決定的に失われたことを告げる感動的な映像であるとウチダは思う。(チョウ・ユン・ファが惚れ込んだのもうなずける。)
不思議なことだが、東映映画の「最後の輝き」である『仁義なき戦い』シリーズは「もっとも東映スターらしくない」都会派・菅原文太と「日活スター」小林旭と「大映の(ウチダの最愛の)バイプレイヤー」成田三樹夫によって担われたのである。
ウチダはいかなる抵抗に遭おうとも、高倉健全作品と『仁義なき戦い』全作品をAVライブラリーに入れる決意である。
学生諸君は刮目して見るべし。
これこそ20世紀末における「日本のおじさん的エートス」の原点なのだ。
『ジュラシックパーク3』(Jurassic Park III by Joe Johnston: Sam Neill, William H. Macy, Tea Leoni)
『ハムナプトラ2』(The Mummy Returns by Stephen Sommers: Brendan Fraser, Rachel Weisz, Arnold Vosloo, John Hannah)
『ジュラシックパーク』のような映画を撮りたかった、『インディ・ジョーンズ』のような映画を撮りたかったという気持はよく分かる。でも、誰もがスティーヴン・スピルバーグのような映画を撮れるわけではない。
「スピルバーグのような映画」を撮ろうと望んだ瞬間に、フィルムメーカーたちは「新しい興奮、新しい恐怖、新しい物語、新しい人間」を創り出すことを忘れてしまう。
同じ予算、同じ機材、同じスタッフ、同じ技術を駆使しながら、なぜ「スピルバーグになれない」のか、キミたちはよく反省するように。
『勇気あるもの』(Renaissance Man by Penny Marshall: Danny DeVito, Gregory Hines, Mark Wahlberg)
ウチダは「先生もの」に弱い。
別にウチダが先生とよばれる商売をしているので「先生もの」に弱いのではなく、むかしから弱いのである。
「先生!」と叫びながら子どもたちが先生めざして駆け寄ってくる場面をみると反射的にぼろぼろ泣いてしまうような子どもであったがゆえに、おそらく教師の道を選んだのであろう。
教えるものはそのまま学ぶものであり、教師自身が成長することなしには生徒を成長させることができない、という永遠の真理をまっすぐに描いている。
その意味ではよい映画である。
同時に、「文学はUSArmy にどんな貢献ができるか」というラディカルな主題を扱った「危険な映画」でもある。
この映画の結論は、文学は「よき兵士」を作り出す、というものである。
簡単には呑み込むことのできない結論だ。
しかし、考えさせられる知見でもある。
ウチダは「戦争は大嫌い」であるが、「軍隊はけっこう好き」の人である。
人を殺すことも殺されることも嫌いだが、殺す技術の訓練は好きである。大好きといってもよい。
それは「人を殺し殺される」という局面をつねに想定して生きるということが人間にとってとてもたいせつだな想像力の訓練だと思うからだ。
人間は壊れる、簡単に壊れる。私も簡単に壊れる。キミも簡単に壊れる。
私は人を殺すことができる。簡単にキミの命を奪い、キミの身体を引き裂くことができる。
そのようにとりかえしがつかないほどに脆弱でありかつ暴力的である存在として私たちはいる、ということを「殺す訓練」はつねに思い知らせてくれる。
逆説的なことだが「殺す訓練」は「生きる意味」についての省察に私たちは繰り返し差し向ける経験でもある。
だから軍隊に入ったバカ頭の若者たちが短期間にある種の「覚醒」を経験して「一人前」になる、というのは理にかなったことである。
それは人間は殺せる、恐ろしいほど簡単に殺せる、ということを身に染みて味わうからだ。自分が「壊れ物」であり、他者もまた「壊れ物」であるということを知るからだ。
いま吸っているこの空気が生涯最後の一息かもしれないし、いま味わっているビールが生涯最後のビールかもしれないという切迫の中で、人間ははじめて世界がどれほど愛おしいものであるかを知る。
その意味でウチダは軍隊の教育的効果というものを高く評価するものである。
もし「決して戦争をしない軍隊」というものがあったとすれば、私はそれを人類の最高の発明だと思うだろう。
あ、自衛隊がそうか。
『ハート・オブ・ウーマン』(What women want by Nancy Meyers: Mel Gibson, Helen Hunt)
メル・ギブソンにはずれなし。
よい映画である。
フロイトが生涯かけて探求したのは「女は何を求めているか?」という問いであり、ついに答えを得ることないままに死んだという話が映画のなかに出てくるが、これはほんとうである。
ショシャーナ・フェルマンを引くまでもなく、女性は自分が何を求めているのかを、自分を主語にして語る言語を持っていない。だから、女性がほんとうに求めているものはそのつどすでに「トラウマ」としてしか語られず、ひとはそれに迂回的にしか接近することしかできないのである。
ところがなんとメル・ギブソンくんは、あのフロイト大先生すら知り得なかったことを知ってしまうのである。(ヘアドライヤーに感電して)
「女がほんとうに求めていること」(What women want) とは何か?
それは「女性がほんとうに求めているものに他者は迂回的にしか接近しえない」という事実を知っている他者と出会うことである」。
よい映画である。(でも邦題をなんとかしてね)
『ホタル』(降旗康男監督、高倉健、田中裕子、井川久佐志、奈良岡朋子、夏八木勲、小林稔侍)
高倉健にはずれなし。(ほんとだね)
例によって、高倉健の主人公は自分の内心を語る台詞をほとんど一つとして口にしない。言葉を発する前の、(あるいは発しようと思ったが止めるときの)、身体の中に流れ来たり去る無数の「思い」を、じっと立ったまま、うつむいたまま、あるいは遠景に目を逸らしたまま、黙したままで、「語る」。
口で語るのではないし、身体で語るというのでもない。
高倉健のオーラが映画全体を領しているのである。
言葉をもちいずに、これほど深く遠くへ届く言葉を語ることができる俳優の存在はほとんど奇跡である。
『ホタル』が終わったので、確認のために『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』を見る。
やっぱり、むかしから健さんは健さんだ。
「ハナダ、ヒデジロウです。」
おおおお。
高倉健全作品という全集が出たら、ウチダは買うぞ。
『天使のくれた時間』(The Family Man by Brett Ratner: Nicolas Cage, Tea Leoni)
ニコラス・ケイジにはずれなし。
邦題はひどいが(ひどすぎる)よい映画である。
監督はジャッキー・チェンとクリス・タッカーのバカ映画『ラッシュ・アワー』シリーズの天才ブレット・ラトナー(まだ31歳!)
『ラッシュアワー』の軽快さでぐいぐいひっぱる、胸が熱くなるようなSFラブ・ロマンスである。(もりだくさんだなー)
多次元宇宙に入り込んで、「私がいまのようになっていなかったときの私」に出会って、生き方を考え直し、よい人になって現世に戻ってくる、というのはディケンズの『クリスマス・キャロル』以来、クリスマス物語の定番である。
日本では暮れになると『忠臣蔵』を映画化するが、アメリカでは暮れになると『クリスマス・キャロル』を映画化したくなる気分が国民的に蔓延するのであろう。(『恋はデジャブ』も多次元宇宙をさまよったあとに、やはりクリスマスの雪の中で、「ほんとうの私」を見出すという話であった。ほかにもきっとたくさんあるはずだ。誰か勘定してみて下さい。)
しかし、この手の映画はわかっちゃいるけどやめられない。
こうなるだろうと分かっていながら、みすみすその手にのせられて、ついにはうるうる泣き出してしまうのである。
うるうる。
何か言おうとして、言えなくて、口を半開きにして、呆然としているときのニコラス・ケイジの表情(この映画では20回くらい見ることが出来る)は、ほんとうにチャーミングだ。
よい映画である。(でも邦題を何とかしてね。まあ原題も「家庭人」だからね。これでは客は入らんわな)