おとぼけ映画批評

Vol. 6 (2000October-)

『スリー・キングス』(Three Kings by David O.Russell: George Clooney, Mark Wahlberg, Ice Cube, Spike Jonze)

おや、『マルコビッチの穴』のスパイク君がこんどは「ボンクラ二等兵」役で出ている。器用な人だ。クエンティン・タランティーノもそうだけれど、すぐれた監督は「ボンクラ役」に異彩を発揮するようである。

湾岸戦争停戦後にフセインがクエートから盗み出した金塊をさらに強奪しようという悪いアメリカ兵たちの話。

「誰と戦争しているのかよく分からない」「誰が正義で誰が悪なのかよく分からない」「どうしたらいいかよく分からない」というアメリカ軍兵士の「本音」をそのまま描いて、「湾岸戦争」がどういう戦争だったのか「いまでもよく分からない」でいるアメリカの「ふつうのひと」の「とほほ」な感じが伝わってくるたいへん「困った映画」であった。

アメリカの戦争映画は、「アメリカ正しい」か「アメリカ悪い」か、どちらかの視点からしか描かれてこなかった。それは「政治的立場を決然と表明することが倫理的・知的卓越性の指標である」というアメリカ的なエートスにフィルムメーカーたちもまた領されていたからである。

けれどもこの映画には「アメリカが正しいことをしているんだか悪いことをしているんだか、おいらにはわかんないよ」という素朴な「本音」が語られている。

「すみません、よくわかりません」という無能の告白のは、アメリカ社会においては「倫理的・知的劣等性」のしるしである。それをあえて表明するというのは「ボケナスとよばれようと、ボンクラとよばれようと、おいらはおいらだい。」と言う「ボンクラ主義派」(ジョン・ウォーターズ先生を教祖、ポール・トーマス・アンダーソンを若頭とするフィルムメーカーのみなさん)が社会的に一定の支持層を獲得しつつあるということであると私は見る。

『スリー・キングス』のなかでいちばん重要な場面は、イラク兵の捕虜になったマーク・”ダーク・ディグラー”・ウオルバーグくんが拷問されながら「湾岸戦争の意義」について問われるシーンである。

「えーと、なんで戦争してるかってゆーとだなー・・・・きみたちがワルモノだからだよ・・じゃないかなあ。だと思うけど・・ちがってたらごめんね」

そして解放されたあとに救出した少佐(ジョージ・クルーニー)から渡された銃で、拷問者を撃とうとして撃てないで呆然として立ちつくすマーク君の当惑ぶり。

彼は「すべてを水に流してアメリカもイラクもみんな仲良くしようよ」というような非暴力主義者にいきなり改心したわけではない。

彼を拷問したイラク兵が憎い。でもその憎しみの起源にはアメリカ軍の暴力がある。どこかで誰かが「憎しみ」を停止させないと、この暴力の応酬には終わりがない。でも、どうして最後に「ババ」をひくのが「おれ」なわけ?なんで?なんで撃っちゃいけないの?ああ、わかんねーよ。でも撃てねーよ。しくしく。

それでいいのだよマーク君。

もし暴力をどこかで停止させることができるものがあるとしたら、それはみごとに整合的な非暴力の思想ではなく、暴力をふるうことをロジカルに求められる現場で、なんだかわからないけど「立ちつくしてしまう」君の柔弱さ以外にはないのだ。それはすこしも恥ずかしいことではないと私は思うよ。



『ロミオ・マスト・ダイ』(Romeo must die by Andrjev Bartkowiak: Jet Li, Aaliyah, Russell Wong)

監督はポーランド出身のカメラマン(これが初監督作品)。主演は中国人、舞台はアメリカ、敵役は黒人。

すばらしい。ウチダ的には五つ星。今年いままで見た映画のベスト1。

ストーリー単純。キャスティング絶妙。アクションてんこもり。下心不可視。まさに批評家の想像力に挑戦するような映画である。この映画の面白さをどう伝えることができるか。うー、むずかしい。

『リーサル・ウェポン4』で撮影監督をしたバートコヴィアック(て読むのかな、わかんないや)はおそらくそのときに魅せられたリー・リンチェイの身体の動きのすばらしさとその童顔からにじむ人間的魅力を最大限に映像化するためにこの映画をつくったのだろうと思う。つまり映画そのものがdedicated to Jet Li というような映画である。

中国人と黒人だけしか出てこないアメリカ映画。

その俳優たちが全員、じつにひとりひとり魅力的である。

とくに黒人ギャング役のデルロイ・リンド(アイザック)、イザイヤ・ワシントン(マック)、アンソニー・アンダーソン(モーリス)。中国人ギャング、カイ役のラッセル・ウォン(『ザ・ハッカー』では日本人になっていたけど)がとてもよかった。

オススメです。

お、次回作 Exit wounds はスティーヴン・セガール主演か。今回の黒人ギャングのみなさんがぞろぞろご出演のようである。
楽しみ。



『丸子びっちの穴』(Being John Malkovich, by Spike Jonze: John Malkovich, John Cusack, Cameron Diaz, Catherine Keener)

松下くんご推奨の『丸子びっちの穴』、ようやく拝見。

なんだかジョン・キューザックに似てるけど(もっとバカそう)な男優と、なんだかキャメンロン・ディアスに似てるけど(もっとブス)な女優が出てきてだらけた芝居をしているので、「なんか、ギャラの安そうな映画だなあ」と思っていたら、ご本人たちでした。(最近これ多いけど、最後のエンド・ロールを見るまでほんとに気がつかなかった。)

考えて見れば、これはなかなか高度な「裏技」である。

ギャラが高くて、自己主張の強そうな俳優たちを、「そのへんの安い大部屋役者のように」安手に使うというのは、ある意味でたいへんな「贅沢」であり、ある意味ではずいぶんと意地の悪い態度である。

この映画では「チャリ坊」も本人役で登場。

「チャリ坊はほんまあほや」というハリウッド人たち哄笑が聞こえてくるようであった。

「『マルコビッチの穴』でのお、チャリ坊、カトチャンヅラつけとったで。あっほやで、ほんまに」

悪女役のキャサリン・キーナーはすべてのベッドシーンで「乳首を見せない」でかつはげしく性交しているふうを装うという点にきわだった演技力を発揮していた。(それが気になって、ストーリーに集中できなかった。)

とにかくあらゆる意味で「変な映画」であった。

ウチダ的には、「7階半」というアイディアが大好き。

メインになっている「他人の無意識に入り込む」というアイディアそのものは、高橋留美子の『うる星やつら』(面堂君の無意識はしょっちゅう友引高校のクラスメートによって蹂躙されていた)や桑田乃梨子の『恐ろしくて言えない』ですでにおなじみなので、「それ、少女漫画では定番だよ」という感じがしなくもなかった。

スパイク・ジョンズという監督の映画は他に見たことがないけれど(『マルコビッチ』の前作はおやおやなんとビョークのミュージック・クリップ)次回作にも期待。



『シャンハイヌーン』(Shanghai Noon, by Tom Dey: Jackie Chen, Owen Wilson, Lucy Liu, 宇崎竜童)

伝統的に西部劇映画には「黒人のカウボーイ」と「中国人の町の人」が出てこないが、これは史実に反している、ということが最近いろいろなところで指摘されている。実際には、アメリカの牛追いの相当数は黒人であったし、西部の町には中国からの移民のみなさんがわんさか暮らしていた。

フロンティアを開拓したのは「ワスプ」である、という「物語」は、20世紀に入ってからハリウッドが作り出した「嘘」の一つである。

黒人のカウボーイという役を前景化したのはクリント・イーストウッドの『許されざる者』がたぶん最初だろう。イーストウッド君は、いつもスマートだ。

当然にも、そればかりじゃないよ、中国人だってアメリカの西部開拓の主人公のひとりなんだからね、ということが当然「ポリティカリー・コレクトネス」の文脈で語られ始めることになる。

その先鞭をつけたのがリー・リンチェイの Once upon a time in China and America (1997)。黄飛鴻(ウォン・フェイ・フォン)がアメリカ西部に渡って、西部の街で劣悪な労働条件で酷使される同胞のために「よいインディアン」たちとともに「アメリカ人」と戦う、というたいへんに反植民地主義的でコレクトな映画であった。(サルーンで中国人の洗濯屋が激しい人種差別を受ける場面がなまなましく印象的だったが、ツイ・"トニー谷"・ハークにもいろいろとアメリカに対するルサンチマンがあるのであろう。)

というわけで香港映画の次なる文化的標的はアメリカである。

「中国人はアメリカ人に屈服しないぞ」

というメッセージはおそらくアジア・マーケットには強くアピールすることであろう。商売人のジャッキー・チェンがこのアイディアを逃すはずはない。

だが、単なる二匹目の泥鰌で「武道の達人が西部で大活躍」というだけでは曲がない。

そこでジャッキーが考えたのが、伝統的西部劇というジャンルそのものの「嘘」を笑い飛ばす「大パロディ大会」。

ネタもとは二つ。一つは「武道の達人(三船敏郎)が気のいいアウトロー(チャールズ・ブロンソン)とコンビで大活躍」という『レッドサン』。ストーリーをまるごと頂いた他、キャラクター設定や、「並んでお風呂に入る場面」などそこらじゅうからパクリ。

もう一つは『明日に向かって撃て』。

これはオーウェン・ウィルソンという「若い頃のロバート・レッドフォードと芸風がそっくり」の俳優をみつけてきた時点で、成功は約束された。

「ちょっと三枚目のはいったサンダンス・キッド」という美味しい役をオーソン君が快演。主役のジャッキーをしっかり喰ってしまった。

ラストシーンの「ワン・ツー・スリー」を「どっちが言うか」というあたりや、逆光の中をメキシコ風の中庭に飛び出して行く場面とかは、『明日に向かって撃て』へのちょっとじーんとくる「お笑いオマージュ」となっている。

たしかにコレクトな「中国人のための西部劇」というものを作ろうとしたら、これではまずいだろうと思う。でも、その種の映画ならそのうちウォン・カーウァイかジョン・ウーがチョウ・ユン・ファ主演で作ってくれるだろうから、それに任せておけばよい。

ジャッキーの仕事は、「中国人のつくったお笑い西部劇」という「搦め手」からの攻めだ。それはそれでよい仕事だぞ、と私は思う。

がんばれジャッキー。次は「中国人の武道の達人が南北戦争で大活躍」などというのはどうかね。



『X−men』(by Brian Singer: Patrick Stewart, Hugh Jackson)

何も言うことはない。見るだけ時間の無駄。語るだけ時間の無駄。



『TAXI−2』(by Gerard Krawczyk: Samy Naceri, Frederic Diefenthal, Emma Sjoberg)

快作『TAXI』の続編。主人公のマルセイユ男ダニエルを快演するサミ・ナスリ君はフランス映画ではこれまでぜったい主役を張ることができなかった「低学歴、低所得、アフリカ系、反権力的」なフランス版「レッドネック」タイプ。

左のこめかみから頭頂部にかけて走る「刀傷」ハゲも「ジダン」のネーム入りサッカー・シャツも白塗りのプジョーのバカ仕様も実に「頭悪そう」でチャーミングだ。

今回笑いものにされるのは「日本の防衛庁長官」と「忍者テロリスト」。

そういえばちょうどこの映画を撮っていたときって、「フランスにおける日本年」だったんだよね。(「日本におけるフランス年」というのもあったけど、みんな知らなかったでしょ。)

しかし、これを「反日映画」というふうに見てはいけない。

なにしろ、この映画の中では、「車を速く走らせること」以外のすべては「無意味」なんだから。(いちばん嘲弄されているのは、フランスの警察と軍隊。)

「頭悪いことは素晴らしい」というのがこの映画が力強く発信するメッセージだ。

その意味ではこれは「フランス発」、「フランス初」のボンクラ映画である。

がんばれサミー。『TAXI3』でまた会おうね。



『ホワイトアウト』(監督:知らない人、出演:織田裕二、松嶋菜々子、佐藤浩市)

織田裕二が深雪の中をラッセルしながら松嶋菜々子をしんどそうにかかえて歩いていたけれど、あれが椎間板ヘルニアの遠因であったと私は思う。



『パトリオット』the Patriot, by Roland Emmerich, Mel Gibson, Heath Ledger, Joely Richardson, Jason Isaacs)

「メル・ギブソンにはずれなし」。

私は三回も泣いてしまった。

エメリッヒの映画は『スターゲイト』、『ユニバーサル・ソルジャー』、『インディペンデンス・デイ』、『ゴジラ』と全部「スカ」であったが、今回は主演がメル・ギブソンだからよい映画になった。

もしも主演がカート・ラッセルやビル・プルマンであったら典型的「ゴミ映画」になっており、私は途中で眠ってしまったであろう。だから、私の感動はぜんぜん監督の手柄ではない、ということをエメリッヒ君はよく肝に銘じておくように。

それにしても、室内シーンは『バリー・リンドン』、戦闘シーンは『プライベート・ライアン』、並木道を馬が走ってくるところは『風と共に去りぬ』とまあエメリッヒもほんとに「ぱくり」がお上手。



『マグノリア』(Magnolia, by Paul Thomas Anderson: Tom Cruise, John C.Reilly, Julienne Moore, Philip Seymour Hoffman, William H.Macy, Jason Robards)

『ブギー・ナイツ』のポール・トーマス・アンダーソン監督(まだ30歳!)の次回作。というわけで、『ブギー・ナイツ』のボケナスたちがぞろぞろと再登場。

キャスティングの趣味が実にいい。

ジョン・C・ライリーのお巡りさん、フィリップ・シーモア・ホフマンの看護人、ウィリアム・メイシー(『ファーゴ』のバカ男)の「元クイズ少年」、トム・クルーズの「セックス教祖」(英語ではmtoivational speaker というらしいね。彼の『誘惑しておし倒せ』の原題は "Seduce and Destroy")そして、瀕死の病人にジェイソン・"ハメット"・ロバーズ。(なんかジェイソン・ロバーズに似てる人だなあ、でももうジェイソン・ロバーズなんてとっくに死んでるだろうしなあ、と思っていたらご本人でした。失礼しました。「ジェイソン・ロバーズとベン・ジョンソン」て、「最後のカウボーイ」なんですよ。ウチダ的には)

お話はグリーンベリーヒルで起きた強盗殺人でつかまった三人の死刑囚の名前が「グリーン」と「ベリー」と「ヒル」だった。こんなことって信じられます?という問いかけからはじまる。

元ネタはロバート・リプリーの『Believe It or Not』。

「うそのような本当の話」を集大成したもので、アメリカではケーブルTVでRipley's Believe It or Not という番組がいま大人気だそうである。(by ウェイン町山『アメリカ横断TVガイド』)

とにかくまったく関係のなさそうないくつもの話題をコラージュして3時間、果てしなく拡散する物語を、どうやってまとめるんだ?という観客の不安を、最後に「***の*」(ひえー!)で締めくくるポール・トーマス・アンダーソンの「底の抜け方」に脱帽。

アメリカ映画の明日は君のものだ、ポール。



『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

松下君がぼろくそに批判し、投稿のMさんが最大限の賛辞を贈る、評価まっぷたつの『ダンサー』。ウチダとしても、一応何かコメントせずばなるまいとて、膝が痛くてお稽古を休んだのをいいことに、その足で三宮の映画館へ。

あと二日で終わりなので、映画館はがらがら。(数えたら7人)

私は「ロードショー打ち切り寸前のがらがらの映画館」で映画を見るのが大好きである。

封切り初日でがらがらの映画館はさらに好きである。

というのは、私は「列を作る」ことが死ぬほど嫌いだからである。

これはもう病気に近い。

東京ディズニーランドというところには一生行かないはずであったが、私の決意を聞いた友人が「それではるんちゃんがかわいそう」と言って、タダ券を二枚くれたことがある。娘のためにやむなく、雨の降る週日を狙って行ったが、それでも「二度と行くまい」と決意を新たにしただけに終わった。

大阪にUSJなるものができたようだが、「10万円あげるから行って下さい」とオッファーされても私にはきっぱり断る自信がある。(50万円までつりあげられたら多少心が動くかも知れないが、それ以下ではきっぱり「ノー」である。)

というわけで、私は「がらがらの映画館」で見た映画については、すでにその段階できわめて好意的になる傾向にある。(いままでロードショーで見て観客数がいちばん少なかったのは『私をシャグしたスパイ』(6人)、第二位は『マーズ・アタックス』(8人)。『ダンサー』は栄えある第二位に入れ替え。前二作品に対する私の固着は人も知るところである。)

というわけで、私はかなり友好的な態度でスクリーンを前にした。

それに加えて「松下正己の酷評」というものがある。

「期待は失望の母」というが、「酷評は『思いがけない発見』の母」でもある。

この映画の「ダメなところ」についてはすでに情報がゆきわたっており、あとはその「ダメさ加減」を確認する作業と、「思いがけない発見」を探すだけでよい。

知的負荷がきわめて少ない。

というわけで、私はきわめて「お気楽」な姿勢で開演のブザーを待ったのである。

まず手持ちカメラで「船酔い」するというのをわくわくして待っていたら、ほんとうに酔ってしまって、まず一票。

その次にデヴィッド・モースが出ているので、また一票。(私は「根は悪い人なんだけど善良に見える」役に異彩を発揮する俳優が大好き。ゲイリー・ビジーとデヴィッド・モースはその双璧。)

その次にカトリーヌ・ドヌーヴの「そっくりさん」が出ているので、すかさず一票。

「いやー。世の中には似た人がいるもんだね。なんていう女優さんだろう。要チェック」とすっかり「お気に入り」のブックマークをつけてエンドロールを見たら、なんとご本人!

「ええええ。だってドヌーブって58歳だぜ。」

どうみても33くらいにしか見えない。

『シェルブールの雨傘』から37年経って、まだ「美女」役でミュージカルに出るなんて、偉すぎる。

とりあえず、映画の途中で(まだドヌーヴであることを知らない段階で)モース君とドヌーヴ(そっくりさん)にアカデミー助演賞を個人的に授与。

主演のビョークさんは、ちょっと「憑き物」がつきすぎで、ウチダ的にはパス。(でも、「憑き物がつきすぎ」の役なんだから、キャスティングとしては最高だろう。)

作品的にはどうか、というと、「ワーキングクラスの不条理な日常(ぜったい井原西鶴の『諸国噺』にこれと同じ話があると私は思う)を描いたドキュメンタリー」を「ミュージカル処理」したという発想の大胆さに一票。

繰り返し書いているように、私は「これまで誰もやったことがないこと」を映画にする無謀さにはつねに好意的である。

音楽的には「趣味が違うの。ごめんね」

ダンス的には「ダメ」。(このコレオグラフィーには才能が感じられない。ミュージカルシーンがもっと「ぐわー」と盛り上がれば、物語の不条理性なんかみんな忘れて楽しめたと思う。問題はカメラワークよりもダンスする身体に「輝き」がないこと、踊るスペースがあまりに狭苦しいこと。『ウェストサイド』だって物語的には暗いけれど、ダンスする身体の輝きがすべてを忘れさせてくれる。もし監督が本気で「ミュージカル」を作りたかったのなら、ダンスの素晴らしさについてもっと意識的になるべきだ。)

物語的には「好き」。(「ドキュメンタリー・タッチの嘘」というのは私のもっとも好む「嘘」の形態の一つである。)

あとは、セルマの「失明」が進行するとともに少しずつ(観客に悟られない程度に)映像の鮮度が落ちていって、「空想」になったとたんに「クリアーカットな映像」になる、という「わざ」(これはアイディアとしては大好き)をもう少し効果的に使ってほしかった、ということくらいかな。

「映画とは何か?」という問いの意識の鮮明さははっきり伝わってきたし、企図した冒険もかなり成功していると私は思う。

映画のあと、エレベーターでいっしょになったカップルの女の子は

「これさ、落ち込んでいるときには絶対見ない方がいいね」

とつぶやいていた。

だから、映画を見て「ハイ・スピリッツ」になりたい人にはお薦めできない。

それからビデオで見るのもお薦めできない。(もしビデオで見ていたら、私もたぶん途中で止めていただろう。)「その世界」に身体ごと入り込むことではじめて映画に同調できる仕掛けの映画なんだから。(「あらすじ」だけ読んだら、普通の人はぜったい見たがらないと私は思う。)



えびちゃんの「おとぼけ・助っ人・映画批評」

本家ウチダが「映画見ても何も感じない症候群」に罹患しておりますので、しばらく各界の助っ人のみなさまにご寄稿をお願いします。

まずはえびちゃんによる「回路」「ブラザー」「アンブレイカブル」「リトル・ダンサー」

それにしてもひどい題名だね、「リトル・ダンサー」だと。原題はまさか違うでしょ・・・ええとMDB で調べると・・・Billy Elliot じゃない。なんだんだよ、この無意味な英語題名は。Unbreakable もちょっと意味不明だな。列車事故で生き残った人の話だというから、「ダイ・ハード」ってことかな? あ、そうか、ブルース・ウィリスだからね。あれも『死なない刑事』でよかったのにね。

あ、そうだ突発的に提案です。

「わけのわかんない題名の映画に正しい題名をつける」プロジェクトをただいま発足させました。「『正しい』題名をみただけで、その映画がどの映画だかぴたりと当たる」ようなレイザー・シャープなご提言をお待ちします。

では、まず不肖ウチダが率先してひとつ

『バカ男女、バンコク沖で、はっぱらりらり』

『ドイツ語未修者全員溺死』

『シャルウイダンス vs トラック野郎』

お分かりですね。上から『ザ・ビーチ』、『U−571』、『どら平太』。

投稿を待つ!

ではえびちゃんどーぞ。



『回路』(http://www.kairo-movie.net/)(監督:黒沢清 出演:加藤晴彦、麻生久美子、小雪、武田真治、松尾政寿(まつおまさとし)、有坂来瞳(ありさかくるめ)、役所広司 他)

死んだ人の魂が増えすぎた結果、インターネットを通じて「こちらの世界」に溢れ出て、生きている人間に取憑いて幽霊にしてしまう(?)、という不思議なお話。

これだけ書いただけで、すでにだいぶ無理な話であることがわかる。

が、実際には結構コワかった。

なんだかストーリーもよくわからないのに、「追いかけられ」たり、「知らない人にじっと見られ」たり、「ぐちゃっ」とか「ふうううっ」などという音がすると、それはそれでコワかったりする。

今回、最もコワかったシーンは、冒頭、留守だと思って友人宅に勝手に上がりこみフロッピーを探している主人公の女性の後ろで、ビニール・カーテン越しに、影がふぅっと「立ちあがる」ところ。(なぜ部屋の中に半透明のビニール・カーテンなんか引くのだ!)、アレはコワかった。「ぷうううん」という効果音も大変「効果的」で。

後から冷静になって思い返せば、ストーリーライン上、それほど重要なシーンではなかったのだが、「これからコワイ映画が始まるゾ」という私の期待と、「何が起こるかわからないゾ」という未確定な状態と、「ぷうううん」という不安定な音が絶妙にマッチした瞬間であったのだろう。非常にヤな感じだった。

また、加藤晴彦くんを襲う幽霊は、『リング』の貞子と同じ撮り方でスクリーンに近づいてきた。そのせいで、私は『リング』を思い出して、パニックに陥ってしまった。ザザッと画面をぶらせながら、その度に着実に「コチラ」に近づいてくる、アレである。2度目でもやっぱりコワかった。

こんな風に不必要なまでにコワガリの私ではあるが、ところが今回、初めてホラーで笑ってしまった。

それは、物語のラストに近いシーンで、加藤晴彦くんが文字通り幽霊と「接触」する、上記『リング』シーンの直後なのだが、その時の加藤くんの顔を見てのことであった。それがどんな顔だったかは、皆さん、劇場にてご確認ください。

いずれにしても、ホラーで笑えるなんて、わたくし史上初の快挙である。

加藤くん、いいゾー!

来瞳ちゃんも好演。



『BROTHER』(http://www.office-kitano.co.jp/brother/)(監督・脚本:北野 武 出演:ビートたけし、オマー・エプス、真木 蔵人、加藤 雅也、大杉 漣、寺島 進、石橋 凌、渡 哲也)

北野監督の映画を見るのは、これが初めて。

想像通り、非常に「真面目な」映画だった。

「真面目な映画」は、それを鑑賞する側にも、ある種の緊張が強いられる。

冒頭のシーンで、斜めに設定したカメラアングルに、ビートたけしが映っている。それを見て「お、たけしだ。アハハ、アイツ何やってんねん、くそ真面目な顔して」と笑ってはいけない深刻さがある。私達一般テレビッ子が、彼を見た途端に作動させてしまう自動笑顔装置を作動させないように、カメラはしばし視線を斜に構え、その後、ゆっくりと角度を変えて、通常の視点へと回復する。

一体、私達は何に対して粛然たる気分でいるのか?

私はこの映画を見ながら、「アニキであり続けることの難しさ」を改めて感じていた。

この話を見てもわかるように、「アニキ」は、いわば偶発的に現れるもの、である。

(この映画の中で、アニキは弟との血のつながりすら怪しい。)あるいは、そのように自然発生した人物に対して、親しみ込めて呼ぶのが「アニキ」であり、それ以外の偶発的でない理由によって現れた者を、私達はしばしば「独裁者」「成りあがり」ひいては「父」などと呼ぶのである。

「アニキ」は自然発生する。しかし、皮肉なことに「アニキであり続けること」は、「アニキになること」とは同義ではない。

『BROTHER』の中のアニキは鞄一つからはじめたのだった。そして、少しずつ「大切なもの」「守りたいもの」を増やしていった。それらの数がまだほんの数えるほどであった頃、その状態は「幸せ」であった、と言っても良いのだろう。しかしまた、(不幸なことに)「幸せ」とは、世間から孤立してあるものではないらしいのだ。

例えばこう言ったら良いだろうか。

僕はA子ちゃんが好きだ。A子ちゃんが死んでいなくなったら寂しいから彼女のことを守りたい。それにA子ちゃんが悲しまないようにもしてあげたい。ところでA子ちゃんはお母さんのことが好きだ。お母さんが死んだらA子ちゃんは悲しむだろう。だから僕はA子ちゃんのお母さんのことも守りたい。

こうして、「幸せ領域」の境界線が押し広げられていく。

最初は少しずつ。そして唐突に劇的に。

そしてそれは結果として、他人の「領域」を侵犯することになるのだ。弟をカモにしていた麻薬売人をアニキが殴った瞬間から、「領域拡大」のトリガーは既に引かれていた。その後の顛末は、衆人が予想した通りである。

短絡的に、「だから私達は鞄一つくらいで生きていくべきなのだ」と言う教訓を得ることもできるだろう。または、「私達が守れるものは、所詮鞄一つくらいのものだ」と、遠慮勝ちに言ってみることも可能だ。そしてきっとそれはある程度正しい。

ただ、そんなことは実は始めからみんなわかっていたのではないか? 組織からはじき出されて、単身アメリカへ渡って弟を頼った兄を、偶発的に「アニキ」になった彼が「アニキ」でい続けようとしたことを、誰が責めることができるだろうか?

『BROTHER』には、奇をてらった演出も、不自然な展開も、どんでん返しも何もない。

売人を殴ったときから、もうアニキが死ぬことは大方予感できているのだ。

不可抗力的に死ぬとわかっている人をただただ見守るというのは、なにか、末期の患者を看取るように切ないものがある。あるいは、葬式の後、死んでしまった故人の人生を反芻するときの遣り切れなさにも似ている。私達が粛々としてしまうのは、ソレに対して「誰にもどうしようもできない」ということを暗黙のうちに理解してしまっているからなのだろう。そしてまた、その現実を、他でもない、自分達自身が(鞄を手渡されたデニーのように)生きていかなければならないということを教えられるからなのだろう。

そろそろバカでハッピーでラッキーな映画を観たくなってきましたよ。



『UNBREAKABLE』(http://www.movies.co.jp/unbreakable/)(監督:M.ナイト・シャマラン 出演:ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン)

「バカでハッピーでラッキーな映画」が見たかったのだけれど、これは...、うーん、「(地味だけど)知的」な映画。

『シックス・センス』(っていうか、『The Sixth Sense』。)で一躍有名になったM.ナイト・シャマラン監督の第2弾。

いかにも2作目という感じで、『シックス・センス』のウリであった、「意外なオチ」路線はそのままに、ストーリーをもうちょっと地味に、芸を細かくしたような感じ。

推理小説の新しい形、とでも言ったらいいのか、今までになかった映画の楽しみ方を提示してくれたという点では、高く評価されていいと思うのだけれど、なんかもうちょっと派手に演出してくれてもよかったよ? と思ったり。だって、あんまりにも地味な「ヒーロー誕生物語」なんだもの。何でもかんでも実直にやればいいってもんじゃないわ。



『リトル・ダンサー』(http://www.herald.co.jp/movies/little-dancer/)(監督:スティーヴン・ダルドリー 脚本:リー・ホール 出演:ジェイミー・ベル(ビリー)、ジュリー・ウォルターズ(バレエの先生)、ゲアリー・ルイス(パパ)、ジーン・ヘイウッド(お兄ちゃん)、ステュアート・ウェルズ(マイケル))

う、、うわーーーん。

号泣しちゃいました。

上映後、慌ててトイレに駆込んで、同じように目を真っ赤にしたお姉ちゃんと目が合うのは、なんだかとても照れくさいものです。

11歳のビリー・エリオットが、ある日ふとしたことでクラシック・バレエに目覚め、そのまま引きずり込まれるようにバレーに夢中になっていく。しかし、炭坑閉鎖の危機に直面している貧乏田舎町の暗澹たる空気の中、周りがそれを理解してくれるハズもなく...。

ビリーの屈託のない笑顔、泣きそうな顔、恍惚で半開きになる口、おばあちゃんの夢見るようなステップ、怯えた毎日、サヨナラの抱擁、お父さんの朴訥で垢抜けない言葉使い、怒鳴り声、笑い声、涙で真っ赤になった目、お兄ちゃんの偏見、モノを投げつけるときの殺気、苛立ち、女装するマイケルの、びっくりするくらい可愛らしくて真剣な瞳、ふるえる頬、棒のようにただただ長いだけの足、先生のたばこの煙、煩悶、精一杯大人ぶってみせる娘の、考えうる限りの誘惑、嫉妬......、

登場人物一人一人が、精一杯自分の「役割」を生きていて、それでもやっぱりビリーのことが好きで、という彼らのコモゴモの表情が、それはもう健気で。(あ、また泣いてしまう...。)

とても良い映画でした。



投稿者の多い「おとぼけ映画批評」今回は、松下くんの酷評に反論しての『ダンサー・イン・ザ・ダーク』擁護論の登場です。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(番外編)

内田先生はじめまして。いつもHPを楽しく拝見させていただいている者です。

名前は伏せさせてください。申し訳ありません。

今回初めてメールを送ろうと思ったのは、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の弁護をしたいと思ったからです。

勝手な推測ながら「せおじ」さんも同じ思いでいたのではないかと思います。ただそのように直に主張することは松下さんの立場をなくしてしまうものだとの配慮があったのではないかと思いました。

ラース・フォントリアー監督は、噂を聞く限りでは「ツインピークス」や「セブン」を一足飛びで飛び越えていそうなスーパーサイコドラマ「キングダム」や(本国デンマークでは視聴率50%を超えたそうです)、「白昼素っ裸で白痴を演じ、一般市民を揶揄、翻弄することを目的としたヒッピーのようなパフォーマー集団”イディオッツ”、ある日メンバーの一人が脱退し、それを知ったリーダーは団員達にある試練を課す・・・」などという挿入部の解説を読んだだけでもけっこう毛だらけ猫はいだらけの飛んでモンペな内容であろうと想起させられる映画「イディオッツ」を製作している監督ですので、いろいろ白い目で見られることも多いだろうし、今回の映画が本当のところ何を言及しているのかわからないですし、本当はバカにされているだけなのかもしれないのですが、(彼はインタビューで、美女と野獣のような甘いラブストーリーの話のたねにあげ、「まったく素晴らしいよ!」というような感想を述べていました。)

僕自身はこの映画に悪意はないのではないかと思いました。

むしろ社会不適応な人間に花を持たせてくれた心優しい人なのではないかとさえ思いました。

HPの批評内では

「他の選択肢が幾つもあったはずなのに、セルマはあえて死刑の道を選んだ」

とありますが、僕はあの状況下では手を尽くしても死刑は免れなかっただろうし、お金とビルの名誉を守りきれたのは奇跡に近いと思いました。

特に裁判のシーンで、彼女が憧れる往年のミュージカルスターの証言によって窮地に立たされた際の空想シーンで

「ちっとも構わなかったよ君が夢に酔いしれていても私のミュージカルでいつでも君を受けとめてあげたね」

と歌い踊るシーンでは涙がにじみました。

内田先生にも機会があればぜひこの映画を観てほしいと思います。

監督はインタビュー等で

「殉教者なら死なねばならない」

「生きることは虚しいと日に10回は考えるよ。だがセルマのように信念を貫けたなら、この世になにか意味を残せたなら」

「ビョークはいつも『神聖なる力』とは言わず『神秘的な力』について語っていたが、もしそれがあるとするならこの映画で私と彼女がともに仕事をしたことがそうであろうと思う。この映画の脚本を書いたとき、私は彼女を知らなかった。だが出来あがった映画の中で、彼女はセルマであり、セルマは彼女であった。素晴らしい輝きだったと思う。」

「この映画を見た人は結末をけして明かさないでください。この映画を愛するあなたにこそ、よろしくお願いします。」

といっていました。

またビョークは

「今回の映画が出来てから9ヶ月私は一切プロモーションをしなかったけど、それはこの映画を製作した際のクリエイティブなプロセスを大切にしたかったからなの。それはラースも同じだと思うわ。でも配給の人達が騒ぎだしたの。とても予算を費やしたから。スタッフから拾い集めた話から脚色したゴシップをばら撒いて、プロモーション代わりにしたの。だからインタビューに応じることにしたの。」

「映画を作っているときはセルマを愛しいと思う気持ち、彼女を守りたいという気持ちだったわ」

「最初脚本を読んだときは大泣きしたわ。彼女を母親のように包んであげたい気持ちだった」

「ラースの実家で二人で歌詞を考えたわ。」

「彼(ラース)は孤高の人よ」

「彼をもちろん愛しているわ(親愛の意味で)。それはもう彼にも何度も言っているわ」

と語っていました。

著作権等の問題があるかと思われたのですが、個人的なメールなので構わないだろうと思い、ミュージカルの歌詞と脚本の冒頭にあった監督が書いたと思われる文章「THE SELMA MANIFESTO セルマ宣言」を送ります。

あと映画の感想としてとある掲示板に書いたものも添付します。

言いまわしが奇妙なのは誰かに向けて話すには恨みがましいもので恥ずかしかったからです。

書いた後、掲示板に書きこむにはあまりにもネタばれであったことに気づきあせりました。

ちなみに歌詞にあるCvalda とはチェコ語で「とっても幸せ」という意味だそうです。

映画の話ばかりせずに、HPの内容についてなども語るべきなのですが、もういうことなどないほどに満ち足りています。

「監督へのインタビュー」

(掲示板への書き込み分は、ちょっと文脈がわかりにくかったので、割愛させていただきました。すみませんね)



次々と論客参入の「おとぼけ映画批評」。今日ご登場はウチダの旧友「せをじ君」です。

『ジャンヌ・ダルク』The Messenger: the Story of Joan of Arc by Luc Besson, Milla Jovovich, Dustin Hoffman, Faye Dunaway, John Malkovich)

1999年の作品である。

女優ミラの演ずるジャンヌは、美しく、そして、哀しい。

男優ダスティン・ホフマンの演ずる僧侶は、厳しく、そして、最後には、優しい。

この二人の演ずる「幻想」は、その他の者の演ずる「現実」に押しつぶされる。ジャンヌは、その「幻想」に殉じた。

人は、「ジャンヌ・ダルク」と聞いて、何を求めるのか。

フランスをイギリスの占領から解放した英雄的女性、オルレアンでの奇跡的な勝利そしてパリ等での敗北、悲劇的結末、そして、何と言っても「奇跡」だ。

「ジャンヌ・ダルク」は、映画監督にとって、好個の素材である。誰でも知っている悲劇的英雄、そして、大スペクタクルならではの戦闘シーン、劇的なストーリー展開。映画監督にとって、こんなに便利な素材はない。自らが何も考えることなく、歴史そのものに、そして、多くの人があらかじめ抱いているイメージそのものに従って、制作すればいい。そして、観客は、「奇跡」を追い求め、映画監督は、映像の持つリアリティによって、観客に「奇跡」を与えることができる。興行成績は、間違いなしだ。

映画は、「奇跡」を容易に作り出せる。『ベンハー』だけではない。『スーパーマン』も『バットマン』も、『フィフス・エレメント』も、皆、観客の求める「奇跡」に迎合する。観客が映画に求めるひかえめな欲求が、「非日常」であるとすれば、その最大の欲求は、「奇跡」である。

だが、監督ベッソンは、この映画で、何よりも、「奇跡」を否定した。

ベッソンがこの映画を制作するにあたって自ら課した条件は、現実主義である。あくまでも、歴史の中で、現実にあった事実を前提として、イギリスとフランスとの戦争を、フランス国王を、ジャンヌを、それを取り巻く貴族、僧侶、軍人、兵士、庶民を、そして、その思惑、情念、計略、陰謀を描くことであり、「奇跡」を起こさないことである。

ベッソンは、ジャンヌがオレルアンでの奇跡的な勝利を得る過程を、人々の思惑や感情、そしてそれが、ある偶然の重なり合いから集合したときに生まれる予期しない大きなエネルギーによって説明し、描き切ろうとする。ベッソンは、それゆえに、フランス国王、将軍、僧侶等の登場人物を、実際には神や迷信を当然に信じていたであろう15世紀の人々のようにではなく、それらのものを全く信じていない現代人のように描く。

しかし、ベッソンが描きたかったことは、現実主義では、もちろんない。ベッソンは、現実主義の視点から、「奇跡」を否定し、奇跡的な勝利を合理的に説明し、登場人物を現代人のように合理主義者に描くことによって、ジャンヌの「幻想」を際だたせたかったのである。

ジャンヌが公衆の面前で最後の異端審問にかけられ、ビショップから、「これに署名すれば、君は自由になれる。」といわれ、ジャンヌが署名したとき、ダスティン・ホフマンの演ずる幻想の中の僧侶が現れる。そして、その僧侶は、ジャンヌに言う。

「お前は、今、His existence(神の存在)を否定する紙に署名したんだぞ。お前にとっては、所詮、He(神)は、嘘であり、幻想なんだな。お前は、さっき、神よ私を見捨てたのですかと言ったな。だが、結局、Him(神)を見捨てたのは、お前だ。」と決め付ける。それは、挑発だ。ジャンヌは、興奮して、ビショップに「私は字が読めない。署名した紙を戻せ。」と叫ぶ。

ジャンヌは、火刑に付される直前の牢屋の中で、ダスティン・ホフマンの演ずる幻想の中の僧侶と対話する。そして、その対話の中で、自分が、神のために戦ったのではなく、復讐心と絶望から戦ったことを、自分が、自己中心的で、頑迷で、狂っていたことを素直に認める。幻想の中の僧侶は、それを聞いて、「心の準備はできたんだな。いいだろう。」と言う。そして、ジャンヌの頭に手をかざして、祝福する。翌日、ジャンヌは、火刑に処せられる。

ダスティン・ホフマンの演ずる僧侶、それは、もちろん、神である。悪魔だと解釈する人もいた。しかし、私は、神と解釈する。

神は、「奇跡」を行わない。神は、現実に何らの証拠を残さない。しかし、神の徴を見、神の言葉を信じ、奇跡を行おうとする者に、現実の力を与える。ただし、その者が、他の者に対し、その者が神の徴を見たことを証明することを許さない。それゆえに、その者が、他の者から、神の徴を見たことを否定されたときであっても、神は、その者を救おうとはしない。にもかかわらず、その者が、神を信ずるとき、神は、その者を祝福する。

観客が求める映画は、神の「奇跡」を映像で示す。ベッソンは、これを厳しく拒絶した。神は「奇跡」を行わない。神は「幻想」の中にしか存在しない。しかし、神は、証明不可能な「幻想」の中に厳然と存在する。ベッソンが、とりあえず描きたかったことは、これである。

このような切り口の「神の存在証明」は、このままでは、ありきたりのキリスト教至上主義であり、西欧中心主義思想であり、陳腐な手品と、さして変わらない。それは、「奇跡」を、全くの恥じらいもなく映像に示す多くの映画と五十歩百歩である。

しかし、ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」は、さわやかであり、後味が悪くない。

その理由は、ジャンヌの見たものは、姉を惨殺し、陵辱し、権力を握り、人を支配し、殺すことまで正当化する「現実」に耐え難く、許せなくなったジャンヌの心が見た「幻想」であり、その「幻想」は、「神」ではなく、「本当の優しさ」であっても差し支えがないからである。

The man whom Gods loved.

私は、この映画を見て、かつて読んだこういう表題の本を思い出した。それは、1811年に生まれ、わずか21歳で生を終えたフランスの天才数学者ガロアの伝記であった。



『アメリカン・ビューティ』American Beauty by Sam Mendes : Kevin Spacy, Annette Bening, Thora Birch, Wes Bentley, Mena Suvari )

ものに動じないフジイ君がめずらしくレビューで絶賛していた。(「『アメリカン・ビューティ』をビデオで観た。とてもよかった。近頃は心が寛くなって、何でも面白く観るのだが(…少し嘘)、『ガメラ3』より『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』より『ファイトクラブ』よりよい映画と思う。次の日まで、世界の空気を身近に覚え、彼や彼女を愛し愛されるのがこの世の我が身と隔絶されていることが切ない感じなんて久しぶりだ。」)

比較されている映画がどういう基準で選ばれているのかよく分からないが(なにしろ「不詳の弟子」だからね)、フジイくんが「面白い」というなら、そうとう「変な」映画であることは間違いない。さっそくビデオ屋へ。

いやー。これは面白い。

実に「後味のよい」映画である。

「アメリカの郊外の中産階級家庭の崩壊ドラマ」というのには、もうまったく食傷していたのだけれど、『アメリカン・ビューティ』は、その裏を掻いた「裏の方のかゆいところに」手が届く、実にウェルメイドな映画であった。

出てくる人たちが全員(松下正己風にいうと)「感情移入できない」最低のキャラクター設定なのだが、物語が進行するにつれて、その「全員」に対していつのまにか控え目な好意がだんだんわき上がってくるというつくりが、とてもよい。

いちばん素敵なのは、主人公のレスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)。

この「いいとこなしの最低の中年男」が、「わしもーどーでもえーけんね」と居直ると同時にいきなり輝き出す世界の逆転のしかたが素晴らしい。

もちろん、バカ娘も、バカ娘の恋人の変態少年も、その父親の変態オヤジも、バカ娘の親友のウルトラバカ娘も、みんな最後には「なんだ、けっこういいやつなんじゃん」というふうに心を温めてくれるのであるが、(例外はバカ妻だけ。アメリカのフィルムメーカーたちの「アメリカン・ウーマン」に対する憎しみは海溝のように深い)やはりレスターおやじの「切れ方」の鮮やかさが圧巻である。

出てくる人たちはみんな「郊外の中産階級において範例的な生き方」に対してそれぞれの仕方で抵抗を試みる。

USマリーンの大佐の息子はドラッグの売人になることで、サラリーマンの娘は両親を軽蔑することで、その友人はセックスマシーンとなることで、欲求不満妻は浮気をして「戦う女」になることで、マリーンの大佐はゲイをカムアウトすることで・・・

しかし、それらの「逸脱」はじつはすべてあらかじめ定型化されている。

彼らはそれぞれの仕方で定型から脱しようとして、実は「カタログ」で通販するように「逸脱」のできあいのモデルを選んでいるにすぎない。

その中で、レスターおやじの逸脱だけが、かろうじて「定型」をまぬかれている。

それは、他の全員が与えられた選択肢の中から「未来」をを選ぶのに対して、彼だけは「私はほんとうは何を欲望していたのか」という起源への問いにむかって時間を遡行しはじめるからである。

少年のころ、生まれて始めて自分が灼けつくような欲望を感じたのは何だったろう?

その欲望の原点にまで立ち戻り、そのとき生成状態にあった欲望の輪郭をとらえなおすところから、もう一度生きなおすこと。

これはずいぶんまっとうな考え方だ。

だから、彼はハンバーガーショップで働き、70年型のファイヤーバードを買い、マリワナを吸い、70年代のロックを聴き、自分の肉体が生命で躍動していたときの感覚を取り戻そうとする。

でもそれは単なる「若返り」願望ではない。

なぜなら、その過去への退行によって、彼は幼児化するのではなく、逆に、おのれの「老いと死」を受け容れることができるまでに「成熟」を果たすからである。

この映画の中で、彼だけが「老いと死」を受け容れる段階に達することができる。

彼だけが死を受け容れることができる。

ほとんど笑顔で。

あとの人々は誰も「いま」死ぬことができない。

「やり残したこと」が多すぎるからだ。

この映画のテーマは『市民ケーン』と同じだ。

それは、人は死ぬためには、自分の欲望の原点にまでいちど戻らなければならない、ということである。

ケーンにとっての「Rose bud(ばらのつぼみ)」は、レスター・バーナムにとって「70年型ファイヤーバード」であり、16歳の美少女である。(だから、彼は映画の中で、そのどちらにも「乗る」ことがない。なぜなら、それは何の実体もない、「欲望の純粋記号」だからだ。)

人は死ぬとき、自分の欲望の原点に立ち戻る。

そして、自分の欲望の純粋な起源に出会って、「生と死の秘密」を知る。

彼の決して満たされることのなかった欲望の追求のプロセスそのものが、欲望充足の無限の延期こそが、彼の欲望の真正なあり方だったのだ、ということを。

欲望の不充足に苦しみ、もがき続けた人生のすべての時間こそが、もっとも深い充足のときだったということを。

ありがとうぼくの人生、ありがとうぼくの人生を彩ったすべてのアメリカの美しきものたち。

ぼくはすごくハッピーだった。

だから、微笑みながら死ねる。

「アメリカの美」とは、アメリカ人が死ぬ瞬間に思い出すもののことである。

なんて、いい映画なんだ。



『男たちの挽歌』英雄本色、監督:ジョン・ウー、出演:チョウ・ユン・ファ、ティ・ロン、レスリー・チャン、1986)

チョウ・ユン・ファが公開当時の『シティロード』誌のインタビューで、映画の中で爪楊枝をくわえる癖は日活映画の小林旭へのオマージュだと語っていたのを思い出した。

DVDにも最近のチョウ・ユン・ファのインタビューのおまけがついている。

あいかわらずにこやかな「亜州影帝」は日本映画が1970年に入って活気を失ってしまったことを残念がっていた。

意外だったのは、いっしょに仕事をしてみたい日本人映画人としてまっさきに挙げたのが「もう物故者ですけど」と断りつつ「トラサン」だったこと。

渥美清とチョウ・ユン・ファか・・・見たかったなあ。

ほかに彼が名前を挙げたのは「クロサワ」と「タカクラケン」でした。

チョウ・ユン・ファを見て感じるのは、この人がほんとうに「暖かいエネルギーを放射できる人」だということ。

映画の中で凶暴な「マーク」君を演じているときも、彼の香港の街に対する、やくざな渡世に対する、友人たちに対する切ないような「愛」が全身から発信されている。

その愛の温度ゆえに、映画の中に点景される「どうでもいいようなもの」に彼が触れるたびに、それが「生命」を持って震え始める。煙草も、ブランデーグラスも、サングラスも、コートも、バラの花も、屋台の安スナックも、もちろん銃も。

ほんとうに優れた俳優は、くだらないメロドラマを感動巨編にできるだけではない。

彼らは無生物に生命を吹き込むことだってできるのだ。



『クッキー・フォーチュン』(Cookie's fortune, by Robert Altman,: Glenn Close, Julianne Moore, Liv Tyler, Chirs O'donnell, Charles S.Dutton)

ロバート・アルトマンて何考えて映画撮ってるのか、よく分からない。

何度か出てくる「なまずのシチュウ」というのがすごく気になった。美味しいのかなあ。



『鉄男』(監督:塚本晋也、出演:田口トモロヲ、藤原京、叶岡伸、六平直政、石橋蓮司、1989)

鉄になった男の話。痛そう。



『蘇る金狼』(監督:村川透、出演:松田優作、成田三樹夫、風吹ジュン、佐藤慶、千葉真一、岸田森、1979)

松田優作の芝居がどれほど木村拓哉に深い影響を与えたか分かった。

松田優作死してもその「風儀」は残ったということである。がんばれキムタク。



『自由の幻想』(Le fantome de la liberte, by Luis Bnuel; Adriana Asti, Julien Bertheau, Jean-Claude Brialy, Monica Vitti, Michel Piccoli)

DVDでまとめて5枚ブニュエルが来た。『自由の幻想』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『銀河』、『小間使いの日記』、『欲望のあいまいな対象』である。『小間使い』のみ未見。毎晩ブニュエル漬けとなる。

何も考えないでけらけら笑ってみてると、ほんとに楽しいブニュエル映画。

私が好きなのは、警視総監のところに死んだ妹から電話がかかってくる話。

「やまなし・おちなし・いみなし」。

ブニュエル先生こそ「やおいの帝王」だ。



『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(Le charme discret de la bourgeoisie, by Luis Bunuel: Fernando Rey, Paul Frankeur, Dephine Seyrig, Bulle Ogier, Jean-Pierre Cassel)

さあ食べようと思うと、なかなかご飯が食べられない、さあやろうと思うとそのたびに邪魔がはいって、なかなかセックスができない、という「悪夢」の構造が繰り返される。たしか筒井康隆にも同じ趣向の短編があったけど、これ好き。

フェルナンド・レイ演じるミランダ国大使の徹底したワルぶりが実に爽快。



特別寄稿・松下正己 

評判の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観てきました。

(以下の文章でこの映画のラストに言及しています。まだ観ていない人は、是非映画を御覧の上お読みください)

最近は、そのシステマティックなところが気に入って、ワーナーマイカル系のシネマコンプレックスによく足を運ぶのですが、この日も大混雑の「ワーナーマイカル新百合が丘」にやってきました。席がちょっと心配だったのですが、無事中央やや前寄りというなかなかのポジションの席を確保することができました。(この映画館では、混雑しそうな映画は、全席指定となってしまうのです) 満員の劇場内を見回して驚いたのは、若い観客に混じって中年あるいは老年の観客が、かなり多数いたことです。われわれも中年のカップルですから人のことは言えないのでありますが、映画の性質から考えてかなり異様な感じを受けてしまいました。

さて映画ですが、実は私はラース・フォン・トリアーの作品を一本も観ていないのです。この映画を観て、私はもうこの監督の映画は二度と観ることはないであろうと確信しました。

一観客として、私はこの映画が大嫌いです。

映画の感想は以上でおしまいです。しかし映画の自己言及性について考える上で、この映画は非常に重要な意味を持っていると思われるのです。

東欧からの移民であるセルマは工場で働きながら一人息子を育てています。遺伝による疾患で、既に盲目になりかけているセルマは、同様の疾患でやがては盲目になるであろう息子の手術代のために金をためています。しかし親切にしてくれている隣家の主人に金を奪われ、結果としてその男を殺してしまいます。

ひたすら不幸のどん底の落ちて行くセルマを描いたこの映画は、しかしひとことで言って「メタ・ミュージカル」であります。

「アイスランドの歌姫」ビョークが演じる主人公のセルマは、地方の劇団で『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア役として稽古を繰り返し、勤務先の工場の同僚と古いミュージカル映画を観に行き、セルマに心を寄せる男とミュージカルについて語りあいます(彼の意見では役者が突然踊り出すミュージカルなんて不自然きわまりないということになります)。

そして、辛い自分の境遇をつかの間忘れるために、セルマはミュージカルを夢想し、それがそのまま画面上でのミュージカルシーンとなって展開するのです。

だから従来のミュージカル映画とは異なり、セルマが精神的に追い詰められたとき、それまでのクロースアップ主体の不安定な手持ちカメラの映像は、突然複雑なショット構成のミュージカルとなってしまいます。ミスをした工場で、苦悩する線路脇で、窮地に立たされた法廷で、唐突にミュージカルシーンは始まります。自分が殺した男も生き返ってセルマと踊ります。こうしたミュージカルのシーンが観客にとって楽しい訳がない。

フレッド・アステアもジュディ・ガーランドもジーン・ケリーもデビー・レイノルズも、皆、楽しくて、その気持ちが歌や踊りとなるのです。ミュージカルシーンは、いずれもその映画内世界の感情が昇華したものです(『シェルブールの雨傘』も例外ではない)。しかしこの映画に於けるミュージカルシーンはそうではありません。歌い踊るセルマは、映画の中のセルマとはかけ離れた存在です。セルマの人生に楽しいことなど何一つないのだから。

それを証明するかのように、デジタルビデオカメラ100台を同時に回したというこの映画のミュージカルシーンは、かつて観たこともない異様なものでした。カメラを意識せずに動き回るダンサーたちの動きを無数のショットに分解した、支離滅裂な映像は、かろうじてビョークの音楽によってつなぎとめられているかのようで、観ていて少しも楽しくないのです。

つまりこの映画は、ミュージカルという不自然な映画表現の形式を批判的に踏襲し、そうすることによって映画と音楽との新しい融合のスタイルを呈示したといえるのではないでしょうか。そしてその試みは、それ自体としては成功しているように思えます。

セルマは殺人の罪で死刑を宣告されます。他の選択肢が幾つもあったはずなのに、セルマはあえて死刑の道を選んだのです。既に困難であった投射=同一化がここで決定的に不可能になります。

映画の終盤、恐怖のあまり独房から絞首台への道を踏み出すことのできないセルマを励まして、女看守が足でリズムをとります。セルマはそのステップに合わせて踊り始め、刑務所内の通路はミュージカルシーンへと変貌します。何というおぞましさでありましょう。

映画館では多くの観客がすすり泣いているようです。一観客である私にはそれが理解できませんでした。ディズニーの『美女と野獣』のラストではあふれる涙を止めることができなかったけれど、この映画のラストでは私はただひたすらこの作劇のあざとさを感じるだけしかできませんでした。

首にロープを巻かれ処刑の準備が整ったところで、セルマは必死に、張り裂けるような声で歌を歌います。床の落とし戸が開き、唐突に歌が途切れ、絞首刑が執行されます。私は、かつてこれほどまでに対象を突き放したラストシーンを知りません。

セルマは、エリナー・リグビーよりも救われない存在です。だがそれは、そうなるべくしてそうなったのです。ロープでぶらさがるセルマの死体に、われわれが与えられることばは、何もありません。

うーむ。なんだか見たくない映画ですねえ。あまりにつまらなかったので思わず映画評のペンをとってしまったという松下君の怒りがふつふつと伝わってくるレビューでした。

次は海老ちゃんです。これもけっこう辛辣。



『バトル・ロワイアル』(http://www.battle-royale.com/)(監督:深作欣二 原作:高見広春 出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、安藤政信、山本太郎、柴咲コウ、栗山千明 他

どうも「おやじくさい」というか「説教くさい」映画だと思ったら、監督の深作欣二は現在なんと70歳なのだそうだ。

70歳にして、安藤政信を、栗山千明を、前田亜季を起用しようと思うなんて、それだけでもスゴイ!と感心したりもするけれど、だからと言って70歳の男性が撮る映画はおしなべて「説教くさい」というわけでもないだろう。

では、どこが「くさい」のか。

まず、「若々しさ」「美しいもの」に対する過剰な肩入れがある。

『バトル・ロワイアル』では、42人の中学生のクラスメイト達が、お互いを殺し合わなければ生き残れないという、非常に特殊な状況に身を置かれ、それぞれが否応なく自分の生き方(というよりは「死にざま」か)について考えさせられることとなる。

生徒たちは、あるものは自殺し、あるものは頭脳を働かせ、あるものは団結して、自分の「最期」を選び取っていくのだが、あの映画を見ていると、やはり圧倒的に「派手」で「クール」なのは、殺しまくる桐山和雄(キッズリターン安藤政信)と相馬光子(ポンズダブルホワイト柴咲コウ)なのである。

カップルがしんみり首を吊ったり、飛び降りたりする様子は、中学生のクセにまるで老人のように「枯れて」見えるし、団結して灯台に閉じこもっている女生徒達は、逆にとても子供じみていて、下手な文化祭の演劇でも見せられているようにテンポがぎこちない。そんなチンタラしたワキの甘い生徒達を一蹴する桐山や相馬は、圧倒的に美しくて力強くてかっこいい。

ただ、私自身は「強いものが勝つ」「美しいものが勝つ」という定式を、今更あんな風に分かりやすく示されてしまっても、正直、ちょっとシラケてしまう。そして最後に「愛が勝つ」というのもどうかと思う。ギャグだとしても笑えない。期待のビートたけしにしても、最初の危険なオーラはうやむやとどこかへ行ってしまい、最後は「絵なんて描いてんじゃないぞ」と言いたくなるくらい、「いい人」になってしまった。こんな半端な先生に、相馬がビビって逃げ出すなんて、全然わからない。

台詞を画面に書いて出すのも、あの場合失敗だろう。『エヴァンゲリオン』のように、ストップ&ゴーを繰り返すのが趣向の映画ならオッケーなのだが、BRのように、3日間を駆抜けるような印象を与えたいであろう映像の場合、半端なストップをかけると、本当に話が止まってしまう。しかも提示されるメッセージはどれも、今時誰も言わないような「青春きらめきワード」ばかりだから尚更である。(ただし、過多にストレスをかけられた人間が、舞台での台詞のようにぎこちなく、ある意味流暢に、言い古された言葉を語ってしまう、ということは実際にあるだろう。機械的に身体を制御する(古典的なルールに則って会話を促すとか)ことにより、ストレスは軽減できることは確かにある。だから、その意味では、灯台に篭もっていた女子生徒たちの非常に「ドラマチック」な演技が、実は、今回の出演者の中では結構ハマッていたのではないかと思う。)

あの映画を冷静に考えると、深作さんという監督は、若者の未来に期待する、すごく「いい人」なんだろうと思う。けれど、あまりにも美しく、理想的な中学生を撮ってしまったために、私などは「おしつけがましさ」を感じるのだろう。

中学生というのは、文字通り青春の時代である。

青くて、春で、相当かっこ悪くて、頭の方も中途半端で完成していない(「頭が悪い」と言っているわけでは、もちろんない)。その上、個々人の能力差が最も顕著な時代でもある。そこでは「愛」も「力」も「美」も、まだ規定的な力を持たない。そこが中学生時代のスゴイところで、グロテスクで、パワフルで、へんてこで、甘美なところだ。大人がもし本当に恐れるものがあるとすれば、それは、その安定しないエネルギーこそが対象となるのだろう。

だから、私が『バトル・ロワイアル』を観て最も緊張したのは、冒頭のテレビ中継シーンからの数十分ほど、眠らされた生徒達が起き出して、ゲームの内容を知る辺りまでであった。そこではまだまだ中学生の可能性がグルグルしていた。

しかしその後、ドラマは「青春映画」のように爽やかに進んでいってしまい、監督は若者にエールを送りつづける。ただ、「若者の可能性」というものが、「愛」や「力」や「美」ではないところにあると思う私には、それが見当違いのエールに思えるのだ。

もちろん疑いがないわけではない。実は70歳まで生きると、私のようなやっかみにも似た感情は霧消して、「若者よ、君たちはすばらしい。どんな逆境にも負けず夢と希望を持って生きるのだ」という温かいまなざしが持てるようになるのかもしれない。まだまだということか。



『狗神』

四国の憑き物(狗神)スジの家に産まれた女性の物語。

紙を漉く工房、母屋の造りや家具が美しい。ロケーションも良いのだが、これは四国ではなく、どうやら岐阜や栃木の借景らしかった。

深い山間、長い廊下、障子に当たるほの暗い電灯を見ているうちに、昔、「暗闇」や「隅っこ」に怯えていたときの感覚を思い出した。子供の頃、「何か」がとても恐くて、布団にちぢこまって寝ていた。手や足を出していると、そこから「何か」に食いつかれそうで、ひきずり落とされそうで、それを思うと恐くて仕方がなかったのだ。明け方までまんじりしなかったこともあった。

もちろんその「何か」は今でも恐いのだが、昔より感性が鈍磨したのであろう、あの頃のような痺れるような感覚を、日常的に感じることは少なくなった。残念ながら、今は人間の方がもっと恐い。

ただ、想像力をかきたてる「恐さ」というのは、たいした演出をしなくても実はそこいらにあるものだと思う。下手に小細工をしなくても、電灯が不意に消える、暗闇に何か蠢くような予感がする、扉が少し開いている、部屋の向こうから微かに声のようなものが聞こえる...。それだけで、私達の心臓は「何か」を期待し、鼓動を速める。

『狗神』のセットでは、その「何か」を感じさせる暗度と空間がうまく出来ていた。

だから、無理にパソコンのディスプレイから蛆虫を出してみたり、老婆を真っ黒なミイラのようにして死なせ、お化け屋敷のようなトリックを使う必要はなかったのだ。

もう1歩のところで、あざとさの方が勝ってしまった。残念。



『弟切草』

ゲーム→小説→映画 と、メディアを変えて売れた(?)お話。

小説同様、何も言いたくないくらいヒドイ代物でした。

 

次は『アタックナンバーハーフ』(タイのオカマ映画らしいです)を観ますよ!

それでは。

はい、海老ちゃんありがとうございました。次回も期待しております。



『ブラザー』(監督:北野武、出演:ビートたけし、真木蔵人、Omar Epps、加藤雅也、大杉漣、寺島進、石橋凌、渡哲也)

北野武の映画はストーリーラインについての徹底的な「省略」と、あるキャラクターを「掘り下げる」ためのあきらかにストーリーラインと無関係な長回しが混じり合っている。

ストーリーをたらたら説明すると登場人物はただの「将棋の駒」になってしまう。

人物を丁寧に描き込むとストーリーは停滞する。

そのバランスをとることに多くの映画監督は工夫をこらしたけれど、北野の「省略」の徹底性には誰も達していない。

どうして、こんなに説明を省略できるかというと、それは北野の映画がいつも同じストーリーしか語らないからである。

ストーリーは簡単。それは「暴力は最終的に制御不能である。暴力が一時的に停止した状態はけっこう気持ちがいい。でもすぐにそれも終わり、一人を残してみんな死ぬ」ということである。

「人間と暴力」というストーリーの骨格が決まっているのだから、ディテールなんか、観客が適当に想像すればいいのである。

観客が想像的に物語を補わないと話についていけないという仕方で北野は観客を物語のうちに共犯的に巻き込んで行くのである。

「長回し」は観客が「物語を補作する」ために与えられた時間である。

もちろん、そこでも説明は何もされない。(ダイスをする場面、寺島進がバスケットをやる場面、唐突に渡哲也が説教する場面)

その断片的映像をつなぎあわせて、観客は一人一人「ブラザー」の世界を構築する。

ほんとに、頭のいい人だ。



学生さんからの寄稿です。たまにはこういう「直球」もいいよね。

『バトルロワイヤル』(監督:深作欣二 原作:高見広春 出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、安藤政信、山本太郎、柴咲コウ、栗山千明 他

先生、こんばんは。

“バトルロワイヤル”は、血とか怖かったですけど、いい映画でした。

中学生が殺しあっている画をさんざん見といて、いい映画と言うのも変な感じがしますが、最後の辺は、結構さわやかでした。

子どもが、やたらと犯罪を犯すようになって、世の中がダメになって、大人が子どもを恐れるようになった結果、「バトルロワイヤル」という法律ができたみたいなんですけど、権力で押さえつけるとなると、大人は強いですね。

と言うか、ここでは、大人は権力でしか子どもに勝てなかった。

それじゃ、何も良くならないのに。

大人を怒らせると怖いぞ!みたいな感じなんでしょうか。

でも、登場人物の中の大人は、精神的にすごく弱かったです。

その代表だった、ビートたけしさんは、大切な人を守ろうとして、途中までは守れてたんですけど、最後にその人を守ったのは生徒でした。

生徒を、男女に分けて見ると、男の子は結構協力してがんばってましたけど、女の子はすぐヒステリックになって仲間割れしてました。

だめですねぇ、女の子って。怖いなぁ。でも、実際、そういうところがあるような気がするので、当たってるなぁと思いました。

この映画に、どんなメッセージが含まれているのか、よくわからないのですが、見終った瞬間は、人を信じることは大切だなぁと思いました。

信じられないから、友だちを殺してしまったりしたのだと思うのです。なんか、友情があまりにもはかなかったので、寂しくなりました。

あぁ、でも、これが現実じゃなくて良かったです。

あんな怖い目に遭いたくないですし。たぶん、私だったら殺されるのも、殺すのも嫌だし、気持ち悪くなって、海に飛び込むかなぁと思います。

ところで、私は、平日の2時40分から上演のものを>見に行ったのですが、高校生が結構見に来ていました。

あれ、学校は・・・?という感じでしたが、あの人たちは、どういう気持ちで見に来て、何を感じて帰ったのかなぁと思いました。高校生と、大学生だったら、感じることが違ってそうなので、聞けたらおもしろいだろうなと思ったのですが、聞く勇気はなく、聞きませんでしたけど。

ということでした。

増本 紗知子

はい、増本さん、ありがとうございました。いいですね、映画を見て教訓が「人を信じることは大切だ」というのが。こういう言葉がさらりと出るというのはほんとうにいいですね。先生にはなかなか言えません。



『彼岸花』(監督:小津安二郎、出演:佐分利信、田中絹代、山本富士子、有馬稲子、浪花千栄子、久我美子、桑野みゆき、佐田啓二、高橋貞二、中村伸郎、北竜二、笠智衆、ほか小津組のみなさん)

贅沢な映画。この豪華な女優たち。山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野みゆき。画面がかわるごとに次々と当代の美女たちが登場する。

この映画では山本富士子と浪花千栄子演じる京都の佐々木親子の関西弁がすばらしく魅力的だ。そして、高橋貞二の東京の軽やかな不良学生言葉、中村伸郎や菅原通済の歯切れ良い東京弁、笠智衆のくぐもった声、佐田啓二の無機的な声、そして「地獄の底から響いてくる」と形容された佐分利信の粘つく声。それらの音声が輻輳して、交響楽のようなソノリテを織り上げている。

小津映画というと人々は必ず笠智衆と原節子をあげて、佐分利信についてはあまり論じる人がいない。でも、私は大好きである。『戸田家の兄妹』、『お茶漬けの味』、『秋日和』そして『彼岸花』。どれでも佐分利信は「日本の古典的家父長の成熟と幼児性」をみごとに演じていた。

いま、このような重厚で威圧的な家父長は私たちの社会からはほぼ絶滅した。かれらを告発し、追撃し、ついに絶滅に追い込んだのはまぎれもなく私たちの世代である。もう私たちの社会には家父長などというものは存在しない。

そして、アメリカ野牛やモアを絶滅したあとになって人々が後悔したように、私たちもまた何かを二度と蘇ることのできないほど徹底的に破壊してしまったことを悔やみ始めている。少なくとも私は悔やみ始めている。



『若き勇者たち』(1984)(Red Dawn, by John Miliu: Patrick Swayze,C.Thomas Howell, Chrlie Sheen, Lea Thompson, Ben Johnson, Harry Dean Stanton)

ジョン・ミリアスの右翼反動SF映画。

SF映画はほおっておくと簡単に右翼反動プロパガンダになってしまう(『スター・ウォーズ』とか『スター・シップ・トゥルーパーズ』とか)

たぶん、それ以外の設定があまりに非現実的なので、共同体組織への忠誠心とか、家族愛とか、男女の分業みたいなものまで非現実的なものにしてしまうと、登場人物に感情移入することがむずかしくなってしまうので、とりあえず「コア」になる感情生活については過剰に定型的あるいは現状肯定的に描くことになるからだろう。

逆に言えば、どれほどコンサバティヴなモラルを掲げていようとも、SFという免罪符さえ用意しておけば、文句のつけようがない、ということでもある。

ま、それはいずれの機会に論じるとして。

私はかつて次のように書いたことがある。

「アメリカは他国の軍隊に踏み込まれた経験がほとんどない。独立戦争のときはまだアメリカがなかった。南北戦争は「内戦」である。19世紀にはメキシコ、スペインと戦争して植民地を拡大したが、いずれも戦闘は国境外で行われた。アメリカの正規軍が「他国」の軍隊に自国国境内で戦闘に負けた経験は(私たちが知る限り)二回しかない。一度はシッティング・ブル率いるスー族に、一度は真珠湾で日本軍に。ただし、インディアンは帰順すべき「準」アメリカ国民として観念されていたし、真珠湾は暴力的に併合して「準」州になったばかりの遠いハワイ島での出来事であった。

自国の領土を他国の軍隊が闊歩するのを見るという経験をしたことがないこの国の人々は、軍事介入という論件をアメリカを「主語」にして考えることにあまりにも慣れているせいで、アメリカを「目的語」にした軍事介入状況というものをうまく想像することができない。これはおそらくアメリカに固有の「想像力の欠落」のかたちである。」(『戦争論の構造』)

この偉そうな断言は撤回しなくてはならない。

アメリカ人にもちゃんとそういう想像をする人はいたのである。

ジョン・ミリアスの『若き勇者たち』は、ソ連とキューバとニカラグアの兵士たちがアメリカに侵入してきて、中西部を占領したときワイオミングあたりで暴虐の限りを尽くす占領軍と戦って死んでいった若きゲリラ兵たちの物語である。

1984年というのがどういう時代だったか、私にはもうあまりはっきりした記憶がないが、(育児にいそがしかったんだよ)おそらくアメリカのホワイト・トラッシュ(貧乏バカ白人)のあいだに蓄積した(ベトナム戦争敗戦後の)ある種のフラストレーションが右翼的なかたちで噴出した時代だったような気がする。(たぶんレーガン政権時代だ)

「反戦平和ってあんたらいうけどさ、そりゃいいよ、平和がいちばん。でもさ徴兵でひっぱられて戦争行く身になってよ。殺さないと生きて帰れないんだぜ。『ピース』なんて言ってらんねんだから」という、それまであまり表だっては口にされなかったリアルな言葉がベトナム帰還兵たちから語られ始めたころのことではなかっただろうか。

『ランボー2』とか『ハートブレーク・リッジ』とか『プラトーン』とかは彼ら帰還兵たちのルサンチマンを癒すための映画という側面もあった。

『若き勇者たち』もまた、ホワイトトラッシュ・レッドネック低所得層白人のベトナム戦争後のフラストレーションに対する一種の「癒し」の映画である。

この映画にしつこくでてくるもの:

きたない野球帽をかぶったおやじ、銃、フットボールをやるボンクラ少年、銃、知能指数測定不能の金髪ガール、銃、アウトドアグッズ、銃、ジャンク・フード、戦車、ピックアップトラック、銃、馬、煙草、銃。

このアメリカ映画にまったく出てこないもの:

都市、セダン、スカートをはいた知的な女の子、メガネをかけた男の子、ロック・ミュージック、コンピュータ、書物、黒人。

「しつこく出てくるもの」より、「画面から排除されたもの」のリストを作る方がこの映画の狙いを的確に示せる。

つまりこの映画は巷間言われるような反ソ・プロパガンダ映画ではなく、アメリカ国内における「都会的なもの・知的なもの・非白人的なもの」つまりホワイト・トラッシュ的感受性から見て「非アメリカ的なもの」(映画的に言えば「ルーカス=スピルバーグ的なもの」「ウディ・アレン的なもの」「スパイク・リー的なもの」)一般に対する憎しみを映像化した(より正確には「映像化しないことによって表象した」映画なのである。

8人の若者が主人公であるこの青春映画には「キスシーン」と「音楽演奏ないし聴取シーン」が一度も出てこない。

私は映画をみながら、この青年ゲリラたち生き延びてアメリカを彼ら風に再建しても私はちっともうれしくないなあ、と思った。

アメリカはディープだ。



『ブキー・ナイツ』(Buggie Nights by Paul Thomas Anderson; Mark Wahlberg, Bart Reynolds, その他、ボンクラのみなさん)

『映画秘宝』イチオシの『ブギー・ナイツ』。

いやー。おもしろかった。

この映画をどのようなジャンルにカテゴライズするべきかというのはなかなか難問である。

私としては、ずばり「ボンクラ映画」と名づけたい。

「ボンクラ映画」は「バカ映画」とは違う。

「バカ映画」では作り手には何のメッセージもない。(だからこそ無数の無意識的表象が画面いっぱいに散乱しているのだ。)

一方、「ボンクラ映画」は明確なメッセージをもっており、フィルム・メーカーは画面のあらゆる細部にまでゆきとどいた視線を注いでいる。

「ボンクラ映画」のメッセージとは、かのマルクスの『共産党宣言』にも比すべき壮大なものである。

それは「万国のボンクラのみなさん。お元気ですか!」である。

「ボンクラ映画」とは世界中のボンクラに連帯の挨拶を送る映画である。

いいなあ。

どのような分野の作品でも、メッセージの「宛先」がはっきりしているものが私は好きだ。

「ボンクラ」というのは、上昇志向はあるが向上心がなく、金は欲しいが稼ぐ努力は惜しく、世間をなめきっているがそれ以上に世間に軽んじられている人たち(そう、私たち)のことである。

私自身、そのような人々に対して熱い連帯の思いを抱いている。

それゆえ私があらゆるメディアを通じて発信しているメッセージは「ボンクラにだってハッピーに生きる権利はあるぞバカヤロ」に尽きると言って過言ではない。

ボンクラは人が持っているもの(プール付きの家とか、コルベットとか、自分がリードヴォーカル担当のロックバンドとか、空手のブラックベルトとか)はすごく欲しがるくせに、そのために世間並みの努力をすることは決然と拒否するのである。

めんどくさいからね。

それゆえにボンクラたちはなかなか幸せになれないのである。

そこがボンクラのボンクラたるゆえんである。

でも「プール付きの家等々」を手に入れるために、できあいの方法(一流企業への就職とか金融商品の研究とか血の滲むようなレッスンとか)をとる人間たちよりも、なんとか「それ以外の、もっと楽な方法で」欲しいものを手に入れようとする人間たちの方に私は好感を抱く。

人間社会というのは、結局、そういうボンクラたちのおかげで、少しずつ住み良くなっているのではないかと思うからである。

だって、そうでしょ?

電気洗濯機とか電卓とか飛行機とか思いついた人たちって、要するに「今よりもっと楽に・・・をしたい」という横着な気分に動機づけられていたのではないだろうか。

みんながみんな勤勉に、その時点で「正しい」とされている欲望充足方法に精励していたら、おそらく人類は原始時代から一歩も進歩してこなかったのではないだろうか。

石を投げてマンモスを狩猟しているときには、人々は「すぐれた猟師になるためには、投擲用の上腕二頭筋を鍛えることが正しい生き方である」というふうに考えていたであろう。そのときに「あー、めんどくせーな、筋トレなんて。なんか楽してマンモス殺す方法ないかなあ」と考えたボンクラが、槍とか弓矢とか落とし穴とかを考え出したのではないだろうか。

歩くのが面倒な人が馬車や自動車や飛行機を発明し、計算するのが面倒な人が算盤をつくり、電卓をつくり、コンピュータをつくったのではないだろうか。

ボンクラは、えてしてそういう「楽して・・・できる」ものをつくったりすることにはついては異常に勤勉なのである。

うちのお兄ちゃんや平川君はスーパーリッチな会社経営者であるが、彼らが成功したのはひとえに「うるせー上司とかめんどくせー業界の約束事とか抜きで好き勝手に金儲けしたい」一心からであった、と私はにらんでいる。

彼らが「上司や取引先にゴマをすらずに出世する方法」の考案に熱中するときの集中力は、「上司や取引先にゴマをすって出世する」人たちがセコく立ち回るときの集中力よりあきらかに高い。

私はそのような人々を称して「ボンクラ」と敬愛し、彼らこそが人類の進歩を担ってきたのである、と考えている。

『ペッカー』といい『ブギー・ナイツ』といい、ボンクラ映画の秀作を連発するアメリカ社会の底力はやはりあなどりがたいものがある。

日本には植木等の「無責任シリーズ」という「ボンクラ映画」の大傑作が存在するのであるが、それに続くものが見当たらない。(マンガでは本宮ひろしの『男一匹ガキ大将』が代表作。小説では矢作俊彦『マイク・ハマーに伝言』、椎名誠『哀愁の街に霧が降るのだ』、村上龍『テニスボーイの憂鬱』なんかがあるね)

そうなると、やはり一介の「ボンクラ思想家」として私もがんばらねば、と決意を新たにしたのであります。

『ブギー・ナイツ』はそのように万国のボンクラたちに生きる勇気を与えるよい映画です。みんな見てね。(たぶん本学のAVセンターでは「貸し出し禁止」のXレイテッドだろうけど。)



『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(Buena Vista Social Clube by Wim Wenders; Ry Cooder, Ibrahim Ferre, Ruben Gonzalez, Compay Segundo, ほか、キューバのキュートなおじさん、おばさんたち)

別にあらたまって告白するほどのことでもないが、私はライ・クーダーに「はまった」ことがある。1989年の夏から冬にかけてのことである。

その年の春、私は離婚し、非常にワイルドでコンニャロな精神状態であった。

いまの私からは想像もしがたいことであるが、私は授業中に私語をする学生の額にチョークを投げつけ、自由が丘駅頭で酔漢を殴り倒し、その他悪いことをいろいろしたのである。

そのとき、すさみきった私の心にぴしぴしとしみたの音楽はライ・クーダーと薬師丸ひろ子であった。(なんという取り合わせであろうか)

ライ・クーダーの『チキン・スキン・ミュージック』(「鳥肌音楽」なんだね、よく考えたら)のAlways Lift Him Up の間奏のギターと薬師丸ひろ子の『元気を出して』の出だしの「涙なーどー見せない強気なあなたを、そんなにー悲しませたひとはだれなの」を聴くと反射的に涙が出てくる、というきわめてブルージーかつ竹内まりあ的な精神状態に私はいたのである。(想像するのがいささか困難であろうが)

そこで私は当時出ている限りのライ・クーダーのアルバムを買い揃え、毎晩深酒をしながら聴いていた。

というわけで、ライ・クーダーは私にとってはいつ聴いても「胸キュン」の音なのである。

そのライ・クーダーがプロデュースの映画ということになると、やはり「買い」である。

案の定、ライ・クーダーの好きな音楽は私の心にもしみる音楽であった。

最初の曲「チャン・チャン」が映画そのものの主題歌というやくどころなのだが、これがまさにライ・クーダーがいかにも好きそうな曲想であった。つまり、もしいま私が離婚直後でワイルドでグルーミーな精神状態であったら、骨までどっぷりとはまりそうな音楽だ、ということである。(さいわい私はいまはマイルドな精神状態なので、るんちゃんを相手に「うーん、なかなかキューバの音楽はリズムが複雑でいいね」などと村上龍みたいな批評を口にしてすませていられるのである。)

でも、いま人生が非常に辛いあなたはこの映画を見て熱い涙を流すことでしょう。

とてもよい映画である。

ヴィム・ヴェンダースが「アートっぽい」小技を使わなければもっといい映画になったであろうが、贅沢は言うまい。



『時をかける少女』(監督:大林宣彦 出演:原田知世、高柳良一、尾美としのり)

この映画は1983年に封切初日に見た。当時、私は薬師丸ひろ子のファンであったので、彼女の映画はちゃんと映画館まで見に行ったのである。だから、おめあては松田優作と共演の『探偵物語』であり、大林の映画は私にとっては「併映作品」だった。

しかし、満員の映画館で、最後に原田知世のアップ(この世のものとは思えぬほどかわいかった)とともにフェイドアウトしたとき、映画館には割れんばかりの拍手が鳴り響いたのである。(『探偵物語』には誰も拍手しなかった。)

映画館で自然発生的な拍手がわきあがるのを聞いたのは、60年代末の東映やくざ映画黄金期の高倉健以来である。

それほどによい映画である。

大林の新旧「尾道三部作」の中では『転校生』と『時をかける少女』が群を抜いて素晴らしい。

DVDには「ふろく」で大林監督のインタビューもついていた。その中で、監督はわずか28日間しかなかったこの映画の撮影期間中に、スタッフ全員が原田知世という少女が大好きになって、「この少女のいちばん美しい瞬間をフィルムに収めよう」という情熱を共有したことが映画の成功の原因だろうと語っていた。

映画は主演の少女女優が中学を卒業して、高校に入学するまでの1月たらずの休暇のあいだに撮影された。

忘れられやすいことだが、映画もまた演劇と同じく「一回的な出会い」の記録である。

「もう子どもではなく、まだ大人ではない少女のほんの一瞬のきらめき」はいまフィルムに定着しなければ永遠に失われるだろうというある種の切迫感が、俳優たちにもスタッフたちにも共有されていた。その切迫感が「いまの一瞬は、最初で最後の一瞬である」という「時の移ろい」という映画の主題そのものとみごとな重奏をなしとげたのである。

原田知世はこの初主演映画で女優として頂点をきわめ、それ以後二度とスクリーンの上でこのようなオーラを示すことがなかった。高柳良一は大学を出たあと俳優をやめて角川書店に入社し、いしかわ・じゅんの担当編集者になった。

私が映画館で感じたあの身を捩るような「切なさ」は、この少年少女たちの輝きがつかのまのものであることを観客たちは直観していたからだということが17年経ってから分かった。



『グリーンマイル』(Green Mile by Frank Darabont; Tom Hanks, David Morse, Micheal Clarke Dunkan as Joe Coffey)

これもまた「時の流れ」を主題にした映画である。

老人となった主人公がまず画面に現れ、過去を回想し、ふたたび老人の現在に戻って物語が終わる、という構成は定型的なものだが、私はこの種の定型に弱い。

トム・ハンクスは年とともにだんだん不機嫌なおじさんになってきて、いつも痔疾か尿道炎を患っているようなたてじわを眉間に寄せているが、その「さえない中年のおっさんのぱっとしない公務員生活」もまた、その65年後から回想すると、輝く、かけがえのない時間であったことがわかる。優しい妻がおり、頼もしい友人がおり、人情の機微に通じた上司がおり、心優しい死刑囚たちがいた彼のあの時間は、もう帰ってこない。

ジョン・コーフィは粛然と死を選ぶ。

「私を死なせることで、ボスは私に親切な行いをしてるんです」と無実の死刑囚であり、神の使いであるコーフィは告げる。

「私はもうこの世界の残酷さに耐えられないんです。」

私たちは凡人だから、死ぬことは不幸で、生き残ることが幸福だと考える。

しかし、必ずしもそうではないのだ。

移ろい消え去ったひとを回想して生きるほかないものにとって、「思い出」は酸のように心を蝕み続ける。

そして、不思議なことに「思い出によって心を蝕まれる経験」ほど甘美な哀しみもまたないのである。

だから、私たちはそのような物語を繰り返し飽くことなく語り続けるのである。



『ワイルド・ワイルド・ウェスト』(Wild Wild West, by Barry Sonnenfeld, Will Smith, Kevin Kline, Kenneth Branagh, Salma Hyek)

「ね、面白いでしょ(笑)。このジョーク、大笑いでしょ?(爆)」

というような「自分で自分のギャグをおかしがる」精神傾向を私は「(笑)的メンタリティ」と名付けている。これがある種のサービス精神の発露であることは分かるのだけれど、私は(笑)という字をみるたびに、なんだか気分が萎える。

悪口を言う気力さえ湧かない映画であった。



『ペッカー』(Pecker by John Waters: Edward Furlong, Christina Ricci)

ジョン・ウオーターズ師匠の98年度作品。『クライ・ベイビー』に続くボルチモア賛歌シリーズ。今度のヒーローは『T2』でジョン・コナー少年だった子役スター、エドワード・ファーロング君。エディはまだ23歳なんだけれど、14歳でハリウッドスターに仲間入りし、すでに人生の辛酸と栄光を同時に味わい尽くしているかのように深い「くま」が目を彩っている。

その「すでに人生に疲れた少年」エディと「不機嫌な天使」クリスチーナを得てウオーターズ師匠が描き出す「天才」と「家族愛」と「地域社会」の物語。

いいなあ。ウオーターズ先生のつくるお話は。

なんの努力もしないボケナス天才カメラ小僧ペッカー君が、理解ある家族に深く愛され、「地域社会」の人気者となり、かつニューヨーク・アート界の期待の新人として賞讃されるのである。

ここには彼の才能に嫉妬する人間も、才能を認めない人間も、有名人になった友人を利用しようとする人間も、誰一人出てこない。

ボルチモアの人は、みんないい人なのである。

それだけの話なのに、どうしてこんなに面白いんだろう。

ジョン・ウオーターズ先生は、おそらくほんとうに深く傷ついたことのある人なのだろうと思う。だからこそ、どのようにして人が癒されるのかを熟知しているのである。

それは「バカでもハッピー」という一語に尽くされる。

彼はその拡大家族・ドリームランダースの輪を世界に広げ、「バカでもゴミでもオケラでも」みんなハッピーに生きる権利があるんだよ、という福音を今日も伝え続けている。

先生、おれ、ついていきますよ。

レヴィナス先生亡きあと、私がついていくべき導師は師匠しかいないっす。



『エグジヅテンス』(eXistenZ, by David Cronenberg; Jennifer Jason-Leigh, Jude Law, Willem Dafoe)

『クラッシュ』で「おお、都会派ちょっとエッチ系不条理映画作家に転身か?」と思わせたクローネンバーグ。やはりもどってきました古巣の「内蔵感覚」に。

ほんとに好きなんだね。人間のお腹に穴を開けて、そこに何か変なものを差し込むのが。

とにかく全編にわたって「身体に穴をあける」「そこに何かをねじこむ/何かをえぐり出す」「内臓を切り開く/飛び散る」という場面が繰り返される。

「バイオ・ポート」というアイディア、ほんとはおれがいちばん先にやりたかったんだよ、とクローネンバーグは思っていたのだろう。でも頭にジャックを突き刺して、脊髄からダイレクトにサイバー・ワールドへ、というアイディアはウィリアム・ギブソン(『ニューロマンサー』)がたぶん元祖で、映画では『JM』、『マトリックス』が(そういえばどちらもキアヌさまが)脊髄やらこめかみやらに穴をあける話は先取りしてしまった。

バイオ・ポートはもちろん「疑似ワギナ」である。

変な機械で脊髄に穴を開けて、そこに「夢の世界」に接続するファリックな「棒」が突っ込まれて羽化登仙するのである。

最初にアレグラを撃つ「動物の骨でできた銃の歯の弾丸」。銃はもちろんファロスの、「抜けた歯」は去勢の象徴である。テッドは中華料理屋で「自分の歯を抜いて、銃を装填する」。つまり、自分を去勢して、機械をファロス化するのである。その「骨でできた銃」は、彼の脊髄にウィレム・デフォーが穴を開けるときに使う「棒状の器具」、最後にポートに突っ込まれる爆弾と同じ機能を果たしている。

つまり、この映画の中で男性はくりかえし去勢され、くりかえしワギナを開口し、くりかえし犯されるのである。

うーむ。デヴィッド。君の欲望のおぼろげな輪郭がようやく私にも分かったてきたよ。

要するに、身体に「疑似ワギナ」を開けて、そこに異物を挿入して、変な気分になって、最後に「どかん」と破裂して内臓を撒き散らしながら死にたいんだね。

まあ、よろしい。好きにしなさい。



『ドニー・イェン:COOL』(殺殺人、跳跳舞 By Donnie Yen)

たしか『映画秘宝』で誰かがブルース・リー、ジャッキー・チェン、リー・リンチェイにつづく香港クンフー映画最後のヒーローはドニー・イェンだ、と書いていた。どんなアクションをするひとだろうと想像をたくましくしつつもお目にかかる機会がなかったが、ついにDVDをゲット。さっそく見る。

おおおっと。ドニー・イェンて段田安則顔。「くるり」の岸田君にも少し似ている。どこかでみたなとおもっていたら、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナII:天地大乱』でめちゃくちゃつよい宦官役をしていた人であった。

うーん、悪くないんだけどね。華がないね、ちょっと。ごめんね。好感のもてる俳優さんではあるんだけれど。

『パーフェクト・ストーム』the Perfect Storm, by Wolfgang Petersen; George Clooney, Mark Wahlberg)

暴風雨で欲をかいた漁船が沈むお話。

教訓:「いのちあってのものだね。」

   「後悔先に立たず。」

以上。



『ボーンコレクター』Bone Collecter by Phillipe Noyce; Denzel Washington, Angelina Jolie)

全身麻痺の犯罪学者が、いわくありげな女性警官を「手足」に使って、シリアル・キラーを退治する話。犯人と捜査の邪魔をする警官がワスプで、あと「よいひと」は全員マイノリティという映画。

「ワスプ=極悪人または激バカ」「レッドネック系=バカ悪人」「イタリア系=小悪ないしバカ善人」「ブラザー=スマート&タフ」「マイノリティ系女性=インテリ&セクシー」

というようなエスニック・グループによる役割分布が進行しているようであります。(こら分かりやすくてえーわ)

それにしてもデンゼル・ワシントンの売れ方のすごいこと。同時期に『マーシャル・ロー』と『ハリケーン』とこれと三本同時公開。

これはつまり「スマート&タフ」役ができるブラザー系男優が彼くらいしかいない(もう少し老けててもいいのであればモーガン・フリーマン)という需給の事情がありそうだ。ウィル・スミスやロレンス・フィッシュバーンにはちょっと「学者」の役はできないからね。



『イル・ポスティーノ』 (Il Postino, by Micheal Radford; Philippe Noiret, Massiomo Troisi)

ハリウッド映画ばかりみていると、ときどきそれ以外の「言語音」が聴きたくなる。

というわけで「ロシア映画」と「イタリア映画」のLDを借りてきた。

イタリア語はよい言葉である。むかしエックス・アン・プロヴァンスの夏期講習に行ったとき(私が行ったわけではなく、ジロー君が行ったのに、私は用もなくついていって、ごろごろ本を読んだり映画を見たりしていたのであるが)講習生のなかにイタリア娘たちがいた。

天使のように美しい少女たちであったが、人々は「イタリア娘は15歳くらいがいちばんきれいで、20歳ではもう貫禄の大年増で、30すぎると、もう樽みたいになるんだよね」と不吉な予言を繰り返していた。ま、それはさておき。

私は彼女たちが呼び交わすイタリア語の音色にほとんど身体的な快感を感じたものである。南仏の夏の夕暮れの涼風の中で一人の少女が叫んだ「オ・カピート」の響きは25年経ったいまでも私の記憶に残っている。

もし当時の大学にイタリア語が第二外国語で選択できれば、きっと私はイタリア語を履修して、イタリア文学科に進学し、「イタリア語のよくできる学生」として愉快な学生生活をおくり、その後「イタリア語のよくできる大学の先生」として胸を張って誇らしげに人生を送れたような気がする。

「オルボワール・マドマゼル・・・うんたらかんたらシルブプレ」より「チャオチャオ・バンビーノ!ぺんらぺらぺらペル・ファヴォーレ!!」の方がぜったい私には向いていたと思う。

惜しいことをした。

というわけで、失われたイタリア語との出会いを惜しみつつ、『イル・ポスティーノ』を見る。

よい映画である。

ここに込められた教訓のすべてに私は同意する。

(1)恋をすると男は身の程知らずになり、それが彼を成長させる。

(2)詩人(にかぎらず文学を志すもの)は女性にたいへん人気がある。

(3)なにごとによらず師匠というのはありがたいものである。

(4)政治にかかわるとあまりいいことがない。

(5)美しいもの、かけがえのないものはかならず失われる。

主演のマッシーモ君は、病をおしてこの映画に出演し、クランクアップ後に心臓病で死んだ。だからこの映画のすべては「失われてゆく美しい時間」への彼のすがりつくような視線のうちに凝縮されている。

死にゆくものが、世界に贈るメッセージは、どんなときにも美しい。



『セレブリティ』(監督・ウディ・アレン、出演・ケネス・ブラナー、ジュディ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー、レオナルド・ディカプリオさま他)

アレン君はいったい何が言いたいのであろうか。

いや、これは愚問であった。

主題やメッセージを問うのはまことに詮無いことである。

ケネス・ブラナー君はデビューのころは才気走っていて、私はけっこう期待していたのだけれど、『相続人』といい本作といい、ほんとに「だめ中年」役者になってしまった。ぜんぜん魅力がない。もちろん魅力のない中年男の役なんだから、それでいいのかも知れないけれど、オーラがまったくなくて、画面に彼が出てくると、どっと緊張感がなくなる、というのが寂しい。

その点、やはりディカプリオさまはすごい。

こういう恥ずかしい「セルフ・パロディ」をばしばしやって、それがとってもチャーミングというのが「時分の花」の手柄というものであろう。

『クイック&デッド』のときも「わーいバカ映画だあ」とひとり遊びまくっていたけれど、こんどもウディ・アレンの世界をひとりで喰い散らかしていた。素敵だ。

しかし、それでも私はあえてウディ・アレン君に問いたい。

「君さ、セックス以外になにか興味あることってないの?」

ね、もう止めない。この手のはなし。

こんなのより、ひたすら仕事だけをするひとのはなしとか、人間的向上に邁進するひとのはなしとか、武道に精進するひとのはなしとかのほうが私は見たい。



『ザ・ハッカー』(Takedown, by Joe Chapelle: Skeet Ulrich, Russel Wong, Tom Berenger)

伝説的ハッカー、ケヴィン・ミトニックと彼をあぶり出したハッカー対策のプロ、下村努のあいだの死闘の映画化。

『ザ・インターネット』とか『エネミー・オブ・アメリカ』とかいうサイバー・クライム・フィクションより実話のほうがずっとリアルである。(あたりまえか)

フィクションだとちゃんと「世界支配の陰謀」とか「巨万の富」とかそういう理解しやすい動機がハッキングの必然性を説明してくれるのだが、実話なので、ケヴィンがなぜ取り憑かれたように、身を滅ぼしてまでハッキングをするのか、ということについて、少しも納得のゆく説明がなされていない。

あらゆる機関に侵入し、好きなように公共サービスをコントロールできるようになっても、彼はそれを利用してひたすら「ただ電話」をかけるだけである。(「ただ電話をかける」というのは、キャプテン・クランチ以来、アメリカのハッカーの「お家芸」みたいなものである。)けれども他人の銀行口座から金を盗んだりはしない。

たしかに「ハッカー・コミュニズム」とか「知る権利」とかいう「ゴタク」をケヴィンは途中で何度か口にするのであるが、どうもケヴィン本人もそのような言葉を信じているようには思われない。

ハッキングのためのハッキング。キーボードを叩き、電話回線をたどり、誰かが何かの秘密を「隠そう」とするみぶりそのものを通じて秘密を察知する、という行為それ自体にケヴィンは強烈な快楽を感じる。

「セックスか盗聴か」という二者択一を迫られたとき、ケヴィンはためらわず「盗聴」を選ぶ。

おそらく盗聴のほうが彼に大きな快楽を保証するからである。

「権力とは見られずに見ることである」というのはフーコーの卓見であるが、その意味でハッキングや盗聴は「純粋な権力意志」の発現ということができるだろう。そこで「盗まれるもの」が、隠している本人にとっては意味があるけれど、ハッカーが知っても何の役にも立たない情報であればあるほど、そのハッキングは純粋であり、権力の絶対性に近づく。

だからケヴィンとシモムラの戦いは犯罪者と捜査官のあいだのではなく、どちらが相手を支配するかという「主人と奴隷」の相克-純然たるゼロサム的な権力闘争なのである。

若い人たちが因習的なプロセスとしての「政治」を離れ、サイバー・スペースにのめりこむのは、そこにこそより純粋な「政治性」が息づいているからではないのだろうか。



『丸子びっち(@ATOK9)の穴』(松下正己君の寄稿です)

最初にスクリーンの中のジョン・マルコビッチを認識したのがいつのことだったのかは、よく覚えていない。しかしいつのまにかマルコビッチは、私の中で注目すべき俳優のカテゴリーにリストアップされてしまっていた。どの映画でも強烈な印象を残すくせに、決して自分だけ突出することがない、という点でも、特異な役者である。(最近では『ラウンダース』のロシア人ギャンブラー役が出色の出来)

この映画は、誰でも15分だけマルコビッチ本人になれるという穴をめぐる物語であり、(原題は『Being John Malkovich』)その意味では私の大好きな、映画の自己言及性の過度に露出した種類の映画ではないかと、期待に胸ふくらませて映画館へと向かったのである。

しかしその期待は、あえなく裏切られることになった。

主人公が売れない人形つかいとペットショップに勤めるその妻という設定は実に面白い(長髪無精髭のジョン・キューザックとダサい髪と身なりのキャメロン・ディアスが絶妙の演技を見せる)。彼のあやつる人形の動きは見事で、思わずダイレクトに投射=同一化してしまいそうになる。(マリオネットのペトルーシュカになぞらえて映画の驚異を説いたエドガール・モランがこのシーンを観たら何と言っただろう)夫婦間のお定まりのやりとりの末に就職することとなった人形つかいは、勤め先のオフィスの書類棚のうしろに不思議な穴を発見することになるのだが、まずこのオフィスが凄い。高層ビルの7階と8階の間にあるフロアは、背中をかがめなければならない程天井が低い。受付の女性はひたすら聞いた言葉をとり違え、社長は自分の言葉が誰にも理解されないと信じている。この会社で、主人公はひょんなことから、壁の小さな扉と、その奥に続く穴を発見する。その穴に入ると15分だけジョン・マルコビッチの視点から世界を眺め、彼になることができ、その後何故か高速道路脇の空き地に落下するのである。

主人公は勤め先と同じフロアの会社に勤める女性に一目惚れし、その彼女と手を組んで(天井が低いから常にかがんだ姿勢のままで)密かに商売を始める。夜、マルコビッチ体験を人に売るのである。商売は繁盛し始める。しかしその一方、当のマルコビッチ本人は、誰かが自分の中にいて自分を操っているのではないかという、奇妙な違和感に悩まされることになる。

結局穴の存在はマルコビッチの知るところとなる。彼は自分でその穴に入っていく。自分の頭に出来た池に身投げをする男の顛末を語った落語の傑作があるが、実際に自分の頭の中に入ったとしたら、それはウロボロスの蛇同様、無限後退のパラドックスに陥る他はない。ここまで映画は快調であり、私の期待はふくらみ続けた。自分の頭の中に入ったマルコビッチは一体どうなるのか。

息もつかせぬ勢いでドライヴしてきた映画は、ここで突然失速する。穴の中でマルコビッチが見たのは、誰もがマルコビッチの顔を持ち、「マルコビッチ」としか言わない世界だった。だが、そんなことがあるだろうか。確かに誰かの頭の中につながっている穴などというものは、存在しないだろう。しかし一旦その存在を前提としてしまえば、(平行線が交わるという前提から矛盾なく導き出される非ユークリッド幾何学のように)その前提による世界の構築は十分可能である。それまでこの映画は、そうやって進んできた。とするなら論理的必然として、自分の頭の中に入れば、自分が見ている世界そのものが自分となるが、その世界は現在の自分の見ているものだから、自分は結局何も体験することはできず、無限後退のパラドックスに引き裂かれてしまうだろう。その過程は、絶対に映像化できないだろう。

それまで一貫した世界観を基礎とし、技巧をこらしてシャープに進んできた映画は、ここで一挙にファンタジーに変貌する。以後この映画は、変身願望、性同一性障害、不老不死、精神性外傷、生まれ変わりといった様々な要素を取り入れつつ、ファンタスティックに展開していく。確かに深読みを可能にするのもファンタジーの特色ではあるが、ここに統一した世界観はない。

何よりも問題なのは、ジョン・マルコビッチ本人の演じるジョン・マルコビッチが、(当然といえば当然なのだが)とても本人そのものには見えない、ということなのである(本人もインタビューでそう言っている)。主人公に操られて映画冒頭の人形と同じアクションを演じるマルコビッチ、自分が誰かに操られていると訴えるマルコビッチ。しかし本物のマルコビッチを知らない観客にとって説得力はない(だからマルコビッチが役者をやめて人形つかいになるという後半の展開にも、全くリアリティがない)。マルコビッチを誰か別の役者にやらせればすむ、という問題でもない。つまり、ファンタジーになってしまった瞬間、ジョン・マルコビッチという、われわれと地続きの世界に存在する映画俳優という設定が意味を失ってしまったのだ。

ジョン・マルコビッチがわれわれと同じ世界に生きているという前提があるからこそ、彼の頭の中に通じている穴という設定が面白いのであって、われわれの世界と関係のないファンタジーの世界であれば、穴ではなくて胃袋でもいいし、マルコビッチの内側と外側がひっくり返っていてもいい。それこそ何でもありなのである。

15分だけマルコビッチになれるという設定は、実は、映画そのものの本質の暗喩である。観客がスクリーン上の(例えば)マルコビッチに同一化するように、人々は穴に入っていく。この素晴らしいアイディアが、その他の幾つものアイディアと共にドライヴしていく全くユニークな感覚にあふれていただけに、後半の変節が惜しまれる作品となってしまった。(それでも十分に観る価値はあるし、たぶん人によって感想は様々に分かれるだろう)

何はともあれ、エンドクレジットに流れるビョークの曲は素晴らしい。

(はい、ありがとうございました。松下君、「丸子びっちの穴」ぜひ、見に行きます)



『海の上のピアニスト』(監督:ジュゼッペ・Nuovo Cinema Paradiso・トルナトーレ、主演:ティム・ロス)

よい映画でした。つい泣いてしまいました。

「1900年のヨーロッパ移民の目から見たアメリカ」がこの映画の話型上の、また図像学的なひとつの焦点になっている。

映画の冒頭で霧の中から現れるマンハッタンの偉容。

これは『ゴッドファーザー・パート2』で幼いヴィトー・コルレオーネが見た光景でもある。東欧から、あるいはまずしい南イタリアからの移民たちが、どれほどのあこがれと期待をこめて「自由の女神」をみつめたのか、それを繰り返し思い出させることをアメリカ映画は、ひとつの「責務」と考えている。

100年前のあのアメリカン・ドリームがまだういういしかった時間にもう一度帰らないか?

映像はそう訴えているかのようだ。

海の上のピアニスト「1900」(ティム・ロス)は、いわばその「夢の活け作り」である。彼は「移民たちの夢」が凝縮され、人格化された存在だ。

移民たちを載せた船がマンハッタンに近づくときの、彼らが抱く、うねるような、ほとんど個体の厚みと重さをもった、その多くはおそらく数年のうちに大都会の汚水路に流されてしまうだろう「夢」が、まだ現実に出会う前の純粋状態にあるとき、それを「音」で表現したのが、1900のピアノである。

だから、アメリカが夢みる人々を引きつける土地であることを止めたときに、1900のピアノもそのふたを閉じることになるのである。

あつぼったいほどの音楽と色彩の豊かさ。

滅びて行く豪奢に対する哀惜と諦念。

これぞイタリア映画の極致。



『ストレート・ストーリー』(監督・デヴィッド・リンチ、出演:シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン)

デヴィッド・リンチはどうしてしまったのだろう。

って、別に文句をいっているのではないのだよ。

この完全に肩の力の抜けた、水墨画のような淡彩の映画があの挑発的な『ロスト・ハイウェイ』の次の映画だということがうまく信じられない。

私にわかったのは、アメリカがついに「老人映画」というジャンルをマーケットの要請にこたえて主力商品として創り始めたということと、そのときに範とすべきものを小津安二郎以外にもたない世界のフィルムメーカーにとって、このジャンルは「草創期」の高揚感をもたらすものとなった、ということである。そして、何であれ、「草創期」のものはそれ独自の輝きをもっているのである。



『シュリ』(監督・名前が読めない人、出演・「小田和正と島田紳助を足して二で割ったひと」「関川夏央を若くした人」「丸顔で色っぽい女の子」など)

小田紳助と若関川がKCIAのひとで、紳助の彼女が北朝鮮の秘密工作員のスナイパー。

こういう映画を日本でつくっても絶対にリアリティがないけれど、さすが祖国統一悲願の朝鮮半島映画である。ゼミのH本君が「感動して泣いてしまいました」と言っていたが、私も涙なしには見終えることができなかった。

よい映画である。

考えてみたら、私はこれが生まれたはじめて見る「韓国映画」であった。(まったく、よくこれだけ無知で映画批評の本を出したものである。)

韓国映画を見てびっくりしたのは、字が読めないこと。

香港映画だと「電影公司」とか「導演」とか、おのずの意は通じる。しかし、ハングルはもうみごとなくらい分からない。映画の中で何度もウインドウズの画面が出てくるのであるが、これがハングルであるので何が書いてあるのか分からない。当たり前なのだが、驚いた。

もう一つ感動したのは音のきれいなこと。ちょっとくぐもったような発声なんだけれど、深みのある響きのよい音である。だから、「おれはおまえを信じているぜ」とか「あなたと過ごしたときの私が素顔の私だったのよ」とか「祖国統一万歳」とかいうエモーショナルな言葉があまり「浮かない」。これを日本語でやられたら、私は全身の肌に粟を生じたであろう。

しかし一衣帯水の隣国にこのような社会派+アクション+純愛+サスペンスの大娯楽映画を作るだけの映画的インフラが完備しているとは寡聞(ほんとに寡聞だなあ)にして知らなかった。相当に年季のはいった映画屋的クラフトマンシップとシャープな批評精神がないとこういう映画は作りたくても作れない。

世界はあまりに広く、私の知見はあまりに狭いということを思い知らされた。

というわけで発作的に来年のゼミ旅行は韓国に決定。韓国に行ったらとりあえず映画館に行くことにしよう。


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