updated 10 Oct 2000
Vol. 5 (2000September)
『Deep Blue Sea』(監督:レニー・ハーリン、出演・トマス・ジェイン、サフロン・バロウズ、サミュエル・L・ジャクソン、LL Cool J 、大きい鮫三匹)
こわい鮫の話。
この分野には『ジョーズ』という映画史に残る傑作が存在する。あえてそのジャンルに挑戦するというところにレニー・ハーリンのガッツを私は見た。先行作品に挑戦するガッツがあるというのと「二匹目の泥鰌を狙う」というのは似て非なるものである。
『ジョーズ』との差別化をはかるために、『ディープ・ブルー』ではいろいろと工夫がなされている。
『ジョーズ』と同じなのは、「出るかな」と思っていると「出ない」、「この人が食べられるのかな」と思っていると違う人が先に食べられる、という「期待のずれ」によるショッカー効果である。
サミュエル・L・ジャクソンがすばらしいスピーチをしている最中に「ぱくり」と食べられるのと、美人の博士が最後の最後であっけなく「ぱくり」と食べられてしまうのが、意外でたいへんよろしい。(まだ見てないひと、ばらしてごめんね)
さて、この映画の妙味は「どういう順番で人が食べられるか」があきらかに現代アメリカ社会における社会的な感受性をきっちり反映している、という点にある。以下にそのリストを掲げよう。
最初に死ぬ奴・中年白人男性「でぶ」「喫煙家」(煙草を持っている右手を食べられる)「高学歴・理論系」「父権制的」(基地のいちばん高いところでペニスを出しておしっこをする)
次に死ぬ奴・中年白人女性「でぶ」「ぶす」「バカ音楽好き」「宴会好き」「低学歴」
三番目・老年黒人男性「資本家」「冒険家」「支配的・権力的」「説教好き」
四番目・青年白人女性「ちょっと美人」「低学歴科学者・技術系」「最初に死ぬ奴と恋仲」
五番目・青年白人男性「ちょっとハンサム」「低学歴科学者・技術系」「セクハラ的発言あり」
六番目(生き残り)・中年黒人男性「はげ」「信仰心あり」「動物愛護精神あり」「離婚歴あり・子供あり」「私のごはん美味しいあるよ」「禁酒中」→食べられかけるが生き返る
七番目・青年白人女性「美人」「高学歴・理論系」「親孝行」「男嫌い」「上昇志向強し」「ウエットスーツを脱ぐサービスカットあり」
八番目(生き残り)・青年白人男性「ハンサム」「決断力あり」「勇敢」「女性・黒人に対してディセント」「低学歴・肉体労働系」「犯罪歴あり」
これを見ると、アメリカ社会における「いなくてもいいタイプ」と「できればいてほしいタイプ」の表ができる。
20世紀末アメリカにおいて特に価値が上昇しているのは、「信仰心」と「非利己的な行動」「女性・マイノリティに対するディセンシー」である。逆に、ほとんど犯罪視されつつあるのが「ヤッピー的高学歴」「ヤッピー的批判的知性」「飲酒喫煙習慣」「でぶ」「性差別・人種差別主義」である。
面白いのは「中年の信仰心暑い黒人と若くて美人の白人女性とどっちを救う?」という究極の選択では、黒いおじさんの方が選ばれる点である。
彼女はなぜ選ばれなかったのか?
もちろんセクシズムよりもレイシズムの方がよりフィジカルに悪質である、ということが第一にある。(アメリカ史上で「女だから」というだけの理由で縛り首になった人はいないからね)
しかし、それだけではない。美人博士にはふたつの「ネガティヴな要素」がある。
一つは権力志向であり、一つはセクシュアリティの誇示である。地位や文化的リソースや美貌を「武器」にして他者を支配しようとしたことがおそらくは彼女の罪なのである。
もちろん最後に生き残るのは「白人男性」であることに変わりはないのだが、「タフでジェントル」な白人男性が「非権力的」であり、「非性的」であることがとりわけ強調されていたことが私には興味深かった。
こういう映画を見ていると、アメリカ大統領選挙でゴア、ブッシュの両候補がどういう「イメージ」を売ろうとしているのか何となく分かってくる。
『ザ・ホーンティング』(監督・ヤン・デ・ヴォン、出演:リーアム・ニーセン他)
お化け屋敷の話。(ヤンさん、あんたもう映画つくるの止めなさい)
『ザ・マミー』(監督・知らないひと、出演・知らない人たち)
ミイラの話。(君も映画つくるの止めなさい)
『ローニン』(監督・ジョン・シュレジンガー、出演:ロバート・デ・ニーロ、ジャン・レノ)
赤穂浪士の話。
『ゴースト・ドッグ』といい、『ローニン』といい、ハリウッドはなんだか「武士道的エートス』が好きみたいだ。「信義」というものがおそらく彼の地では絶滅しつつあるのであろう。いまさら映画つくってもね、もう遅いと思うけど。
『39』(監督・森田芳光、出演・堤真一、鈴木京香、杉浦直樹、江守徹)
堤君が気弱な俳優「シバタ」君、その交替人格である邪悪な「カモメ」君、その本体であるクールな「クドウ」君の三役を表情と声だけで鮮やかに演じ分ける。堤君はこのあいだTVの『ナニワ金融道5』でもむずかしい役を陰翳豊かに演じていた。堤君の今後に期待したい。
『雨上がる』(監督・忘れた 題字と脚本:黒澤明 出演・寺尾聡、宮崎美子、三船史郎、吉岡秀隆、井川比佐志ほか)
黒澤映画の『どん底』のバカ囃子を狙った宴会シーンがあるが、こういうところで黒澤明の偉大さが逆に分かってしまう。かなりしつこく撮っているのだが、それでも黒澤のしつこさと音のでかさと俳優のでたらめぶりには遠く及ばない。あそこまでやらせるためには、どこかで俳優たちやスタッフたちが「もーどーでもえーけん」という感じで切れないといけないのだろう。『七人の侍』の最後の土屋嘉男の太鼓叩いての「よっほいこーりゃ」は映画史に残る演技(そして土屋自身のベスト・パフォーマンス)だが、こういうどうでもいい場面に法外なテンションをかけるところに黒澤の凄さがあることをあらためて感じた。
寺尾君の居合はなかなかのものだった。今回の殺陣は香取神道流の大竹利典先生(私の合気道の大先輩である山田博信七段のお師匠さま)。香取神道流の達人に殺陣をお任せするというのも黒澤流。
ウェルメイドな佳作でした。薄味で、なかなか淡泊な仕上がりで、私は好きです、こういうの。
『スクリーム3』(監督・ウェス・クレイブン、出演:ネーヴ・"シドニー"・キャンベル、デヴィッド・"ドゥイー"・アークエット、カートニイ・"ゲイル"・コックス、ほかいつものみなさん)
『スクリーム2』を評したとき、私は『2』は失敗作だが、『3』は大化けして傑作になる、と予言してウェス・クレイブンにエールを送ったのであるが、申し訳ない。『3』もスカでした。ごめんね。
映画が自己言及の装置である、ということは私や松下正己やゴダールがうるさく言い募っていることであるが(すごい列挙の仕方)、おのれの起源や成立のプロセスそのものを身をよじるようにして暴露してゆくそのみぶりのうちに、私たちはある種の「解放感」を感じ取ってきた。
でも、よく考えてみたら、それは映画の専売特許ではない。「作品が成立してゆくプロセスそのものの記述がそのまま作品になる」という点については、近代小説の祖である『ドン・キホーテ』から『失われた時を求めて』まで、基本的に同一の自己言及の力学にドライブされている。
まあ、そういう文学史的知ったかぶりはどうでもよろしい。
映画であれ、小説であれ、TVのバラエティ番組であれ、その成り立ち方について反省的に語るものを私たちはときどき欲しくなる。あるいは、作り手の中に定期的にそういう欲求が生まれるのかも知れない。
『スクリーム』のアイディアは、ホラー映画の「ルール」という私たちが気づいていながら、何となく言語化してこなかったものをランディ君(ジェイミー・ケネディ君、今回は「遺書ビデオ」での出番のみ。だって『2』で死んじゃったからね)があえて前景化してくれたホラーの「お約束」:
お酒や麻薬をやっている子は死ぬ、
セックスをする子は死ぬ
部屋を出ていくときに「すぐ戻るよ」(I'll be back)という子は死ぬなどなど、
そして、その「ルール」読みながら犯人探しが展開するところに妙味があった。つまり、『スクリーム』はホラー映画というジャンル全体についての自己言及映画だったわけだ。
『スクリーム2』は『スクリーム』の事件を再現しようとする模倣殺人犯の話である。ここでテンションががくんと落ちてしまった。だって、シリアル・キラーが本質的に模倣的であるということは犯罪学的な「事実」なんだから。
『スクリーム』では、犯人たちが個人的動機が乏しく、単に「ホラー映画ごっこ」をしたかっただけ、という設定が逆にすごくスリリングだったのであり、『2』では、個人的な動機(エディプスだと)とか模倣的連続殺人のような「ありがち」な設定にすることで映画の物語性はかえって希薄になってしまった。
『スクリーム3』は同じ事件に取材した『スタブ3』という映画の撮影現場での連続殺人事件である。アイディア自体は悪くない。
『スクリーム』という映画の中で起きた事件が実話であるという想定で作られている『スタブ』という映画の「映画の役名」を役名とする俳優たちが台本通りの順番で死んで行く。(ああ、ややこしい)
映画そのものが現実を浸食していって、つくりものであるシナリオに基づいて現実が構成されてしまい、現実が物語の起源なのか、物語が現実の起源なのか、分からなくなる、という話かなと思っていたら(それなら『スクリーム』の本道だ。『マトリックス』とも『クラッシュ』とも『ファーゴ』とも同一構造だな)そうではなかった。それが残念。
『シックス・センス』(監督:M・ナイト・シャマラン、出演:ブルース・ウィリス、ハーレイ・ショエル・オスメント、トン・コレット)(題名は「Sixth Sense」なんだから、ほんとは「シックスス・センス」でしょ?)
おお、これは。面白い。
実はノヴェライゼーションを去年の秋に読んでいたので、「そういう映画」だろうと思って、本編はヴィデオでいいや、と思っていたのである。私が間違っていた。ノヴェライゼーションとはまるで違う話であった。映画の方がずっと面白い。
新聞広告に「この映画には秘密があります」と銘打ってあるのを、ずいぶん大仰な宣言だなあと思っていたが、たしかにこの「秘密」はばらすわけにはゆかない。(いまからばらすから、映画見てない人は、ここでやめてね。)
『ファイト・クラブ』といいこの映画といい、最後になって、「なるほど、そうであったのか」と膝を打って、「そのつもりで」はじめからもう一度見たくなる仕掛けになっている。私はもう一度見直してしまった。
たしかにそう言われて見ると、ブルース・ウィリスのマルコム医師は映画の中で、コール少年以外の誰とも「会話」してないのである。特に秀逸なのはレストランで結婚記念日を祝うシーン。給仕が持ってきた勘定書を妻がすっと手元に引き寄せてサインして、目線を中空に浮かせたまま、目を合わさずに「Happy anniversary」とつぶやくところ。これは誰が見ても「倦怠期の会話のない夫婦」の日常的な風景である。
そうなのか、「倦怠期の会話のない夫婦」において、配偶者は事実上「もう死んでいる」わけね。
『ファイト・クラブ』(監督:デヴィッド・フィンチャー、出演:ブラピ、エドワード・ノートン、ヘレン・ボナム・カーター)
不眠症のサラリーマンが、実は半覚半睡状態では野獣のごとき「別人」になっていて、日常生活で抑圧された欲望を実現して・・・というアイディアはすごくよい。途中まで、ぜんぜんその仕掛けに気がつかなかった。オフィスで「一人殴られ芝居」をやるところが、その伏線とは分からなかった。
ひよわなサラリーマンの「夢」が筋肉、暴力、破壊、軍隊的組織、同志愛、弱肉強食原理への帰還・・・というのは村上龍の『愛と幻想のファシズム』とまったく同じだ。
密林となったマンハッタンの摩天楼によじのぼると眼下に自動車一台もない高速道路に「鹿の生皮」が一面に干されている光景を、夢見心地で語るブラピの台詞には、アメリカの抑圧された夢がはしなくも語られているようであった。
21世紀に私たちは確実に「退歩」の時代に入るであろう。なぜなら、私たち自身がそれを激しく欲望しているからである。
『MI2』(監督:ジョン・ウー、主演:トム・クルーズ!!)
この夏最大の期待作『ミッション・インポシブル2』見てきましたよ。
期待に違わぬ大傑作。映画の楽しさを満喫しました。
ラロ・シフリンの「じゃん じゃん じゃんじゃん」というテーマ音楽がかかると身体がぞくぞくしてきます。
ウーさんの「これでもか」のサービス精神とトム・クルーズの捨て身のアクションにはただ拍手あるのみです。『マトリックス』のアクションの美味しいところも全部いただき。ウーさんの好みで全編カンフー・アクションですが、キアヌ君よりトム君の方があきらかに身体能力が高いことがうかがえます。(岩登りでは『クリフハンガー』のスタローンにも挑戦。バイクもがんがんいきます。)
さて、この映画で私はついに「ジョン・ウーの秘密」を発見しました。
『男たちの挽歌』シリーズ、『フェイス/オフ』、『ブロークン・アロー』、そして『ミッション・インポシブル2』とラインナップを眺めたとき、何か気がつきませんか?
そうです。「入れ替わり」なんですよ。
『男たちの挽歌』では弟の刑事(レスリー・チャン)がギャング組織に潜入工作員として潜り込む話と兄のやくざが同じく身を偽って組織に潜り込み、いつ正体がばれるかどきどき。一作目で死んだマーク(チョウ・ユン・ファ)の双子の弟ケンが出てきて、これもどちらがどちらかよく分からない。
『フェイス/オフ』はFBI捜査官(ジョン・トラヴォルタ)と凶悪犯(ニコラス・ケイジ)の顔が入れ替わる話。顔が代わってしまうので、どちらが悪人だかよく分からない。
『ブロークンアロー』はエリート空軍士官(ジョン・トラヴォルタ)が実は極悪組織のボスで核兵器を盗む話。
そして『MI2』では、変装の名人であるトム・クルーズの「スタント」をしている「変装の名人の変装をする名人」(ダクレー・スコット)が悪役なんです。
だからトム・クルーズが出てきても、それはときどき悪人の変装なんですね。いちおうお客さんのために、「いまのは変装でした」というときはばりばりと顔のマスクを剥がすのですが、これがないと何が何だかぜんぜん分からない。
これらのプロットに一貫しているのは、「私の前にいる、あなたはほんとうは誰なんだ?」という不安が醸すサスペンスでしょう。
この種のサスペンスが大好きだったのはヒッチコックですが、『ミッション・インポシブル』のリメイク第一作を撮ったのがハリウッド一のヒッチコック・ファン、ブライアン・デ・パルマであったことを考え合わせると、ジョン・ウーは実は「隠れヒッチコキアン」であったということが分かります。ジョン・ウーの原点は『断崖』だったんです。(知らなかったでしょ、私もいま知りました。)
『シリアル・ママ』(監督:ジョン・ウォーターズ、主演:キャサリン・ターナー、ほかジョン・ウォーターズ映画ご常連さま)
『クライ・ベイビー』でジョン・ウォーターズ先生の才能に出会った遅咲きのファンとしては、その昔寝そべって見てしまった『シリアル・ママ』をきっちり見直しておかねば、ということでヴィデオ屋で借りてきました。
おや、これもボルチモアが舞台だ。(ジョン・ウォーターズ先生はボルチモア生まれのボルチモア育ち)
ジョン・ウォーターズ先生は裁判傍聴マニアだそうですが、おそらくそのときに見聞きした事件をベースにされたものでありましょう。(実話なんですと)
おお、パトリシア・ハースト、リッキー・レイク、トレイシー・ローズの三人娘がここにもお出になっているではありませんか。しかしハーストさん、裁判所の廊下で殴り殺される陪審員の役というが凄いですね。しつこいようですが、そうでもしないと、トラウマからは抜け出せないのでしょうか。
この映画で息子役をやっているマシュー・ライヤード君はその後ウェス・クレイブンの『スクリーム』でホラー映画マニアの殺人鬼という美味しい役をやっていますが、その元ネタはこの映画だったということも分かりました。ヴィデオ屋の場面、高校生たちがバカホラーをみながらきゃあきゃあ言う場面、きちんと「本歌取り」されておりましたね。(私の知らない映画もいくつかありました。ジョン・クロフォードとおぼしき女性が斧でベッドに寝ている男女を切り刻む場面、怖いですね。何の映画なんでしょう。)
こうなると『ピンク・フランミンゴ』とか『ヘアスプレー』とか題名のみ知る映画も
見たいです。DVDリリースされないでしょうか。
『クライ・ベイビー』(監督:ジョン・ウォーターズ、出演:ジョニー・デップ、アミー・”西田ひかる”・ロケイン、トレイシー・ローズ、ウィレム・"レイブン"・デフォー、イギー・ポップ)
恥ずかしながらジョン・ウォーターズの映画というのを見るのはこれが始めて。映画史に名高い『ピンク・フラミンゴ』を私は見ていないのである。(ごめんね)
1954年のボルチモア、高校を二分する山の手のおぼっちゃまたち(その名もスクエアズ)と、ウェイド・"クライベイビー"率いる不良グループのあいだの抗争と愛をノンストップ50年代ロックで綴る。
エディ・コクランみたいな不健康そうな皮ジャンのお兄ちゃんとドリス・デイみたいなまるまる太ったお姉ちゃんたちがぞろぞろ出てくる、なんだか分からない予防注射のシーンのバックにロックンロール流れた瞬間に、「これは傑作」という予感がびんびんしてくる。期待にたがわぬ一瞬として「ダレ場」のない、完璧な「物語」世界。
個人的には「スクエアズ」の「シーブーム」と、ブラスバンドを従えて「ジェンカ」みたいなバカ踊りをするシーンに頭がくらくらしてしまった。もう、最高。この二つのシーンだけをエンドレスにして一日中かけておきたいくらいにおバカなヴィジュアルとグルービーなサウンド。
ジョン・ウォーターズ天才。
まだ見てない人、必見よ。これ。
PS・この映画のバックステージ情報が『映画秘宝』の「ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光」に詳細がでておりまして、読んでびっくり。
なんと「あのパトリシア・ハースト」がトレイシー・ローズの母親役で出ていたんですね。
パトリシア・ハースト知らない?「現代アメリカでもっとも数奇な運命をたどったひと」と言って過言ではないでしょう。
新聞王ランドルフ・ハースト(オーソン・ウェルズの『市民ケーン』のモデルになった人)の孫娘のスーパーリッチなお嬢様。1974年に都市ゲリラ、シンバイオニーズ革命軍(SLA)に誘拐される。そこでレイプ漬けになって「転向」、自己批判してみずから革命軍のメンバーに加わり、銀行襲撃などに参加。数ヶ月後にSLAはアジトをFBIに急襲されてメンバーは銃撃戦で全滅。パトリシアだけは脱出してさらに1年間逃亡。75年に逮捕された。裁判では有罪となるが、2年で出獄、その後、ジョン・ウォーターズ映画の常連となった、という人。
こういう人の「トラウマ」というのはたぶん、「ジョン・ウォーターズのバカ映画に出る」というような仕方でしか癒されないんだろうなあ。
それと同じ場面に出てくるのがトロイ・ドナヒュー。
トロイ・ドナヒュー知らない?
1960年ころ、『サーフサイド6』というアメリカのTVシリーズの看板だった金髪美少年。もう一つの人気番組『サンセット77』のクーキー(エド・バーンズ、こっちは黒髪美少年)と人気を二分した。
『ゴッドファーザー・パート2』にかなり容貌が衰えて登場(タリア・シャイアの愛人役)したときには「ああ、まだ映画に出てるんだ」と思ったけれど、『クライベイビー』では、ハゲオヤジとなっていて、もう若き日の面影はみじんもなかった。(エンド・クレジットで名前を発見して、もう一度見直して、泣いた)
トレイシー・ローズは15歳からポルノ女優として大活躍したひと。(出演作150本)その後、年齢詐称で仕事をしていたのがばれて、逮捕され、出演作はすべて発売禁止になったという女優としては不幸なキャリアのひとだが、彼女もまたジョン・ウォーターズの映画のうちに癒しを見出し、ドリームランダーズ(ジョン・ウォーターズ映画の常連俳優やスタッフたちの総称、一種の「拡大家族」を形成している)に迎えられ、そこでいまでは幸せな人生を送っているそうである。
ジョニー・"クライベイビー"・デップの妹役リッキー・レイクはジョン・ウォーターズ映画でデブ女優としてデビューを飾ったが、ハリウッド・デビューに失敗、借金がかさんで、ホームレスとなり、悲惨な人生を送るが、ホームレスのときに激ヤセして、その経験を書いたダイエット本が大ベストセラーとなり、TVにカムバック。今や人気トークショー「リッキー・レイク・ショー」の司会者。
と言うふうに、ジョン・ウォーターズ映画には、「栄光と悲惨のジェット・コースター」でぼろぼろになった人たちが集まっている。
ジョン・ウォーターズの映画にはある種の強烈な「ヒーラー」効果がまちがいなくある。それはたぶんアメリカ社会が奉じている「弱肉強食」のロジックにきっぱり「ノー」を告知している。
「バカにも、ゴミにも、オケラにも生きる権利と、楽しむ権利があるぞ」というジョン・ウォーターズのスタンスを私は断固支持する。ほんとうの過激さというのはこういうウォーム・ハーテッドなかたちをとるものだと私は思う。
『メッセージ・イン・ア・ボトル』(監督:ルイス・マンドキ、出演:ケヴィン・コスナー、ロビン・ライト=ペン、ポール・ニューマン)
ケヴィン・コスナーはどうしてしまったのだろう。『狼と踊る』でその才能を使い果たしてしまったのだろうか。『ワイアット・アープ』『ティン・カップ』『ウォーターワールド』『ポストマン』とどんどんテンションが下がっていって、ついに『メッセージ・イン・ア・ボトル』にまでたどりついた。これが底であればいいのだが、まだ下があるのかも知れない。
ロビン・ライト=ペンは『シーゾ・ソー・ラブリー』で史上最低の夫婦愛を演じてくれたが、出てくるだけでそれとわかるほどに性格が悪そうである。
この二人が主人公では、いくらポール・ニューマン(すてき)ががんばっても支えきれるものではない。途中で主人公が死んでくれて、私はほっとした。(とりあえずハッピーエンドで終わるという悪夢だけは避けられた。)
ただし撮影は素晴らしい。
空しい努力みたいな気もするけれど、スタッフたちはいい仕事をしている。
『裏ノッティングヒル』
ハリウッド一の大スター、タッカー君(ヒュー・グラント)はお忍び旅行先のロンドンはノッティング・ヒルで、地元の売れない本屋のアナちゃん(ジュリア・ロバーツ)に街角でぶつかってオレンジ・ジュースを浴びせかけられる。
Tシャツを交換にアナちゃんの家に立ち寄ることになった大スターを必死で歓待しようとするアナちゃんの心映えにちょっと感じてしまったタッカー君は別れ際に強引にキスしてしまう。
電話したら案の定アナちゃんはリッツ・ホテルまで花束片手におずおずやってくる。その夜、アナちゃんの家庭的側面に触れて、その気になったタッカー君はリッツの部屋に誘う。しかし、部屋にはタッカー君の愛人が・・・
アナちゃんのことを「これただのメイドの子だよ」といってごまして、二人はアナちゃんの目の前で濃厚なラブシーンをみせつける。アナちゃん行き場がないまま汚れ物とゴミをもって退散。
傷ついたアナちゃんのもとに数ヶ月後再びスキャンダルでぼろぼろになったタッカー君が登場する。ひどい別れ方をしたにもかかわらず優しい笑顔をみせてくれるアナちゃんにほろりとなったタッカー君は一夜を共にしてしまう。
しかし、翌日マスコミがわいわい集まってくると、タッカー君は一宿一飯の恩義も忘れ、「おまえのせいだバカ野郎。『ハリウッドスターと寝た女』の宣伝効果で本屋の売り上げ倍増だろうよ、けっ」とどなりつけてとっとと逃げてしまう。
それからさらに数ヶ月、タッカー君は晴れのオスカー受賞後、撮影で三度イギリスへやってくる。ふっきったつもりがふっきれず現場を訪れたアナちゃんに、タッカー君は「仕事が終わったら会おうか」と言っておきながら、仕事仲間には「うるせー昔の女がきやがってよ。たまんねーぜ」とこぼす。たまたまそれを聞いてしまったアナちゃんは、三度傷ついてとぼとぼと帰路につく。
その翌日、タッカー君はアナちゃんの本屋に来て、「おれとつきあってくれ」と頼み込むけれど、もちろんアナちゃんの答は「ノー」だ。
しかし、アナちゃんの友人たちは「せっかくだからつきあったら?だって、君ぜんぜんもてないんだから」と慰めにもならないアドヴァイスをしてくれる。それで急に気が変わったアナちゃんは記者会見場に乗り込んで、「やっぱりあなたとつきあうわ」と宣言すると、タッカー君も喜んだ。
おわり。
ひどいの映画だと思いません?
殴られても蹴られても、実のない男を許し続ける、「聖母のような女」。その女に甘え続けられるのをいいことに一ミリも人間的成長のあとをみせない「バカ男」のピュアな愛。
そのような関係こそが、理想の男女関係であるという「物語」を生産し続ける父権制社会をあなた許せます?
これを「セクシスト的映画」と言わずして、どう呼べばいいのでしょうか?
私は許さん。
『ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア』(監督:この映画を取る前までタクシーの運転手だった兄ちゃん:出演:元気なドイツの若者たち)
『バンディッツ』、『ラン・ローラ・ラン』、『ノッキング・・・』と続けて3本「ニュー・ジャーマン・シネマ」を拝見。
よく知らなかったのだけれど、ドイツはすでに「多民族国家」なのである。
『バンディッツ』の主演の女の子はイラン生まれ。
『ノッキング・・・』でも「移民ギャグ」がかなりしつこく出てくる。『ラン・ローラ・ラン』でローラの恋人役だった男の子が、この映画にもアラブ移民のちんぴら役で登場しているが、ちゃんとしたドイツ語を話せない、いかれた若者。「オリエンタリズム」的に言うとめちゃくちゃ差別的なキャラクターである。主人公たちが立てこもる「トルコ・レストラン」のお兄ちゃんや客たちも、ドイツの官憲に対してぜんぜん協力的ではない。
映画全体を通して、「中近東からの移民のみなさんはドイツ社会にあまりインテグレートされてないみたい」という感じがかなりリアルに伝わってきた。
しかし、その「ドイツ社会にインテグレートされてない」ひとたちにある種の「可能性」を感じているドイツのフィルムメーカーと観客の期待感もまた同時に映画からは伝わってきた。
アーリア民族幻想に19世紀から憑きまとわれてきたドイツという国もこの数十年でずいぶん様変わりしてしまったようだ。(ま、はっきり言うと「アメリカナイズ」ということなんだけど)
映画というのは、異国の社会で起きている微妙な社会的感受性の変化を知る上ではとても有効な手段である。
もちろん、物語にはさまざまな欲望や願望や挑発が含まれているから、映画をただちに「現実」の反映みたいにみなすことはできない。けれども、そういう「物語への欲望」がドイツ社会にいま存在しているということは紛れもない事実だし、その欲望のむかっている方向は私の見るところではかなり「健全」だと思う。
ドイツの若いフィルムメーカーたちにはぜひがんばってほしい。(ちょっとタランティーノにかぶれすぎみたいだけど)
『御法度』(監督:大島渚 出演:ビートたけし、松田龍平、浅野忠信、武田真治、トミーズ雅、坂上二郎、寺島進)
大島渚というひとは「そのときいちばん輝いていた男」をみつけるのがすごくうまい。
『青春残酷物語』の川津祐介とか、『日本春歌考』の荒木一郎とか、『戦場のメリークリスマス』の坂本龍一とかは、大島の映画のときがいちばん美しくて、それで「最後」だった。
この映画で「そのときいちばん輝いていた」ことになるのは誰だろうという興味をもって見た。
役者としては、武田真治君がいちばんきらきらしていた。
沖田総司というのはむずかしい役である。TV版の『新撰組血風録』の島田順司が中性的な沖田総司「キャラクター」を完成させてしまったからである。島田の沖田総司と別の造型をすることはとてもむずかしい(だろうと思う。)
「武田」総司は「島田」総司の線をきっちり踏襲し、武田君本来の「妖しさ」を敢えて抑えたクレヴァーな造型だったと思う。(「妖しさ」は松田君の担当なので、二人がそれを競うとたぶんちょっと「濃すぎる」ことになっただろう。)そのへんの配分に抑制が利いていて好感がもてた。
よかったのは、トミーズ雅。もしかするとこの人の「生涯ベスト・パフォーマンス」かもしれない。
坂上二郎もよかった。(もう少し剣の遣い方がうまければ、文句なし。)
的場浩司も(残りの全員が「現代顔」であるなかで)たった一人「明治時代以前の男の顔」で出てきて、すごくリアルだった。
浅野君は「いつもの芝居」。その違和感がうまく「浮いて」こなかった分ミスキャストかな。
松田龍平君については、「着こなし」に着眼してしまった。
剣道の胴をあれほど見苦しく着付けるということは、大島の演出上の狙いとしか考えられない。
ワダエミの「かちかち」系の衣装の中で、松田君だけが「だらだら」系で一貫している。図像学的に「ひとりだけだらだらしている若者」を際立たせようとしていたのだろう。そのせいで始めから「あ、こいつがきちんとしているものを台無しにするやつなんだな」ということが分かった。
台詞のなかった藤原喜明と、変な「スネークマン」芝居をしていた伊武雅刀がかわいそうだった。
崔洋一は芝居がまるで岸部一徳。なんども「あれ、岸部一徳の声がする。どこだろう」と思って探してしまった。(だったらはじめから岸部でやればよかったような気もするが)
ビートたけしについてはコメントなし。栗塚旭の圧勝。(っていっても知らないか)
というふうに俳優のキャスティングを目一杯楽しめる映画でした。(ほんとに楽しかった。)
それだけ楽しませてくれたのが大島渚の力ということでしょう。(だから『新撰組血風録』をみてないカンヌの観客には楽しみどころが分からなかったかもしれないね。)
『The Well』(監督:オーストラリアの女性監督、出演:オーストラリアの女優さんたち)
何年か前にカンヌで激賞され、監督は『ピアノ・レッスン』以来の鬼才ともてはやされたそうである。カンヌでは惜しくも『うなぎ』に敗れてパルム・ドールはとれなかった。
ということは、『ピアノ・レッスン』と同じくらいで、『うなぎ』よりはちょっとつまらない映画ということであろうか。
あらら、そうとわかっていたら借りるのではなかった。
しかし、借りたものはしかたがない。最後まで見よう。
なかなか教訓に富んだ映画であった。
教訓その1:資産の運用は専門家にまかせたほうがいい。
教訓その2:自動車でひとをはねたときは、すぐに病院につれてゆくほうがいい。
教訓その3:性格の悪そうな若い娘にはあまり心を許さないほうがいい。
べつに映画をみてまで学習するほどの教訓ではなかったような気もする。
『ラン・ローラ・ラン』(監督:ドイツの人、出演:ドイツの若者たち)
これはよい映画でした。
こういうドライブ感は、若いフィルムメーカーでないと絶対に出せない。
同じ時間の中をいったりきたりするというアイディアは筒井康隆の『しゃっくり』や『リプレイ』(作者忘れた)などいろいろあるけれど、ほんのわずかな時間の「ずれ」で、そのあとの人々の運命が激変することもあるし、その一方で、どう「ずれても」必ず同じ宿命に出会うひともいる(ベンツをぶつけるおじさん)というこの映画のアイディアには深く共感。
『トゥルー・クライム』(監督主演:クリント・イーストウッド)
70歳になろうというクリント・イーストウッドが女房の尻に敷かれているくせにやたら女に手の早いやくざな中年ジャーナリストを演じるのだが、このキャスティングが苦しい。
どうみてもクリント・イーストウッドに3歳くらいの子供がいるというのは設定に無理がある。
孫ならわかるけど。
『目撃』や『許されざる者』では老境に至ったタフガイの悲喜劇をじつにみごとに演じていたクリント・イーストウッドがどうしたのであろう。
私たちが見たいのは、70歳になってもそのスマートな推理力と恐れを知らぬ精神力で、鮮やかに事件を解決してゆくハリー・キャラハン刑事なんですけど。
松下君からメールがきましたので、ご紹介。
『ジャージーデビル・プロジェクト』
こんにちは、松下正己です。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の映画評を拝見しました。
それで思い出したのが、『ジャージーデビル・プロジェクト』という作品です。
『ブレア』との類似がアメリカで大問題になったという、いわくつきの作品で、謎に満ちた事件の真相を探るドキュメンタリーの体裁をとり、アメリカではテレビ放映されました。
地方のケーブルテレビで、様々な超常現象やカルトや超能力者を紹介するいかがわしいドキュメンタリーの番組を製作していた二人組が、「何故ジャージーデビルを探さないのか」といった内容の番組宛のメールに触発されて、森の奥深くに潜むといわれる伝説の怪物ジャージーデビルの存在を調査することになります。
二人は超自然的な感覚を持つ超能力者の青年と、サウンドエンジニアの4人で、森に入っていきます。二人それぞれがビデオカメラを持ち、最初のミーティングから途中経過まで調査行の全体がビデオに収録されていきます。しかし、野営した最初の夜、事件が発生。翌朝、森から脱出してきた超能力者の青年が、警察署に駆け込みます。警察が森を調べると、一人の惨殺死体と大量の血痕が発見されます。残りの二人は行方不明。青年はただちに殺人の容疑で逮捕されてしまいます。青年の衣服の血痕や、押収されたビデオテープの映像が、青年の犯行であること示唆しているのです。ビデオには、森に入ってから次第に凶暴な性格をあらわにしていく青年の様子が捉えられていました。しかし、肝心の犯行は何も撮影されていません。裁判の結果刑務所に収監された青年は、その後まもなく、刑務所内で不審な死をとげてしまいます。
これが、事件の一般的に知られている全体像です。青年は本当に犯人だったのか、それとも伝説のジャージーデビルの仕業なのか。疑問に思った一人のドキュメンタリー映画作家がつくったテレビドキュメンタリー、それが本作『ジャージーデビル・プロジェクト』(原題は "Final Broadcast" )という訳です。映画作家のナレーションと共に、ケーブルテレビのスタッフ、青年を逮捕した警察官、心理学者等々へのインタビュー、残されたビデオテープの映像、青年の衣服の検証、犯行現場とグループの位置の検証と続くのですが、このドキュメンタリーの製作中に作家の自宅に段ボールの箱が届けられたことが知らされます。中に入っていたのは、ケースから引き出されてくしゃくしゃに丸められた大量のビデオテープでした。作家はただちにこのテープの画像修復を、専門家に依頼します。損傷の激しいテープの映像がすこしづつ明らかになっていきます。グループが野営した夜の映像、ひとりがロケハンと称して外へ出ていくのですが、帰ってこないので二人が探しに行くと、大量の血痕が発見されます。しかしそこでビデオカメラの映像は突然激しく揺れ動き、ついにはカメラは撮影モードのまま地面に放り出されてしまいます。なにものかが、彼等を襲ったのです。損傷のひどいビデオのコマを丹念に分析修復する専門家の女性は、もうすこしの工程で、そのなにかが明らかになるだろうと語ります。
番組が終わりに近づき、作家は自らビデオカメラを回しながら、グループの足跡を辿ります。森の中で、作家が自分で自分に向けたカメラに語りかけます。そしてわれわれ視聴者は、今日、あのビデオの映像の修復が完了する予定であることを告げられるのです。
作家の手持ちカメラの映像が、修復家の女性の家に近付きます。ドアのノブを回す作家の手袋をした手。開いたドアから屋内に入っていく主観ショット。
そして、驚くべきことが起こります。
突然、家庭用ビデオの荒い映像は、上下がトリミングされた肌理の細かいワイド画面35ミリの「映画」に変貌します。姿を現わした作家は修復家の女性に襲い掛かり、ビニールをかぶせて窒息させ、女性を殺害します。その様子がきちんとカット割りされて描写されます。その背後、作業テーブルの上のコンピュータディスプレイには、カメラに向かって飛びかかろうとしている作家の顔が、静止したままゆらめいています。
作家は死体をシーツにくるみ、車に乗せます。再び森にやってきた作家は、死体を足元に置いたまま、ビデオカメラに向かって語り始めるのです。しかし画面はどんどん後退して、何を喋っているのかは、わかりません。
こうして、"Final Broadcast" は終ります。
さて、これは一体何だったのか?
ドキュメンタリーのつもりで観ていると、最後に至ってそれが純然たるドラマであることが判明するのですが、それでは、その全体はひとつの世界たり得ているのか、といえば、そうではない訳です。ドキュメンタリーを作っていた作家が「真犯人」だったという「アクロイドおち」を狙ったとしても、あまりにも唐突で、ラストの段階でまだ撮影を続ける作家がつくろうとする映画内世界と作家の棲みついている世界はあきらかに階梯が異なるのに、そこをきちんと整理していないために、曖昧な印象しか残らないのです。
嘘でも何でもいいから、伝説の怪物ジャージーデビルをひと目観たかったのに、呈示されたのは、混乱した世界観の上に構築された「フーダニット」だったということです。
しかし、観客と映画内世界との関係とか映画の自己言及性について、否応無しに考えることを要求するという点で、この作品は必見である、と考えるのであります。
なるほどー。見てないですけど、面白そうですね。
『アイズ・ワイド・シャット』(監督:スタンリー・キューブリック、出演・トム・クルーズ、ニコル・キッドマン)
ウッキーが研究室にやってきて、「先生、『アイズ・ワイド・シャット』見ましたか?」と訊ねた。
「見てないよ、なんで?」
「いや、映画館で見たんですけど、何が面白いのか全然分かんなくて、途中で帰ろうと思ったんですけど・・・一体、あの映画何が言いたかったのか、先生に教えてもらおうと思って・・・」
ふむふむ。その映画が「何が言いたいのか」を私に訊ねに来るとは、なかなか着眼点が鋭い。
『映画は死んだ』にしつこく書いたように、私は「映画は何が言いたいのか」という問いの立て方をして映画を見ないことにしている。
別にそれが「正しい」からではない。
「主題」や「メッセージ」に焦点化して映画を見るのは、一つの正当な鑑賞法であり、そうやって見るとけっこう面白い映画もまれに存在する。
しかし、おおかたの映画の「主題」は詮索してもあまり面白い結論は出てこない。
とはいえ、せっかくのご下問である。お答えしよう。
『アイズ・ワイド・シャット』の主題は人類普遍のテーマである。
「夫婦生活は地獄だ」というのがそれである。
おしまい。
え、簡単すぎた?
じゃ、少し説明するね。
結婚という制度は本来矛盾する二つのモメントを含んでいる。
それは「非日常的な経験への憧れ」と、「日常的な制度の必要性」である。
ふつうはまず「異物を侵犯し/異物に侵犯される」という境界経験のもたらす秩序壊乱への激しい欲望が男女の出会いを用意する。
うまくすると、その経験は強烈な快感を双方にもたらす。
そして、その快感があまりに深い場合、彼らはその快感を継続的に供給し続けたいという(不可能なんだけどさ)欲望を抱くようになる。
しかし、「欲しいときには、いつでも手に入る」ような欲望の対象は(当然ながら)すでにして「異物」ではない。
「欲しいときにいつでも手に入るもの」については欲望の喚起力が激しく減退する。
これは困った。
では、どうするか。
しかがないので、パートナーたちは、「私は君が欲しがるときにいつでもただで手に入るような制度内的なものではなく、理解を超えた怪しげな異物性をひきずっているのだよ」ということを相手に対して定期的にショー・オフしなくてはならない。
パートナーのうちに「底知れぬ暗闇」のようなものを感じると、私たちはどきどきして「おお、私の傍らにいるのは紛れもなく異物だわ」ということになって欲望が昂進するのである。
というわけで、夫婦のそれぞれは、相手に「あなたって、そんな人だったの・・・・」とパートナーを絶句させるような事件を用意する義務を負うことになる。これはいわば結婚生活の「お約束」の一部なのである。
結婚九年目に倦怠期を迎えたクルーズ&キッドマンのまじめなご夫婦はそれぞれに相手が面食らうような「暗闇」を用意しようとする。
ただ、哀しいかなもともと想像力が致命的に欠如している凡庸な人たちなので、その「暗闇」はTVドラマ的な物語の枠を超えることができない。
必死にパートナーを仰天させる「暗闇」を想像したあげく、キッドマンさんは「かっこいい海軍士官との浮気」、クルーズ君は「『ソドムの市』のアメリカ郊外ヴァージョン」を思いつく(というか、それくらいしか思いつけない)。
それぞれに貧相な「暗闇」をみせっこしたあげくに、「やっぱりぼくらはバカさの程度が似合いの夫婦だね」と「割れ鍋に綴じ蓋」夫婦が無事にもとのさやに収まるというのがこの映画の主題である。(ね、つまんないでしょ。「主題」で見ても)
この夫婦がお互いに相手を惹きつける魅力を失ってしまった、という危機的状況は冒頭のシーンにたいへん分かり易く描かれている。
夫の最初の台詞は「ぼくの財布どこ?」であり、妻の最初のみぶりはトイレでお尻をふいて、ティッシュをトイレに流すことである。
クルーズ君が妻に対して注意を喚起しているのは彼の「お金」であり、キッドマンさんは彼女の「股間」をぬぐった「紙」が流れて行くさまを夫に誇示する。
ここでトイレの排水溝に吸い込まれて行く「ティッシュペーパー」は彼が彼女の性器へのアクセス権として支払ってきた「紙幣」の記号である。
彼女はそれをトイレに流す。
そして、彼は自分の提供できるものが、妻にとってはもう神話的な魅力を失ったことを知る。だからこそ彼は映画の中で、ヒステリックに、まるで「子供銀行」のおもちゃ紙幣のようにお金をまき散らすことになる。
夫婦のそれぞれがこれまで相手を魅了してきた魔術的な道具(彼にとっての「紙幣」、彼女にとっての「性器」)はもう有効性を失ってしまった。
手持ちの「道具」はもう使いものにならない。
しかたがないので「暗闇」の出番である。
こうして「物語」が始まる。
そんなことはあまりしないほうがいいように私は思う。
それでも「したい」と本人たちが言うのなら仕方がない。
「結婚は地獄だ」というのはそういうことである。
「とどまるも地獄、進むも地獄」なのである。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(監督・ダニエル・マイリック&デドゥアルド・サンチェス 出演・ヘザー・ドナヒュー、マイケル・C・ウィリアムス、ジョシュア・レナード)
これはびっくり。
特典映像(がなんと1時間40分もついているのだ)の両監督の来日インタビューで、ふたりの若者が自作について語ってくれていた。
「賢い」若者たちである。
わずか2万2000ドルの製作費、8人のスタッフで作った「ホーム・ホラー・ムービー」がサンダンス映画祭で絶賛されて、世界のマーケットでマス・セールスを記録したのである。まさにアメリカン・ドリーム。
こういう可能性のある若者たち輩出するところがアメリカというシステムの強みなのでしょう。
この映画はアイディアがすべて。
お金がない。だから役者が使えない、フィルムも使えない、スタッフも雇えない。
では、どうするか。
町行くひとに演技してもらう。フィルム代がただ同然のヴィデオ映像を多用(どころじゃないね、全編の8割だよ)。カメラを俳優自身に回してもらう。
特に、カメラの使い方を一日だけ講習して、撮影はぜんぶ俳優自身にやらせた、というアイディアが卓抜である。(これはさすがに映画史上に前例を見ない試みであろう。)
どのようなアイディアであれ、それが映画史上初めてのものである限り、私はそれを断固支持する。
実は、完全にオリジナルなアイディアはこれだけである。
あとは、すべて「まねっこ」である。
「ドキュメンタリー仕立てのフィクション」というアイディアは『コリン・マッケンジー物語』がすでに先鞭をつけている。「ドキュメンタリー仕立て」は素人を役者に使えるし、粗いヴィデオ映像がかえってリアリティを高めるなど、ロウ・バジェット映画にはおいしい設定である。
「発見されたフィルム(日記、手紙など)には意外な映像(できごと)が記されていた」という話型は、アメリカン・ゴシック・ホラーの定石であり、ポウやラブクラフトがもっとも得意としたパターンである。「発見されたフィルム」はたいてい長期にわたって土中、水中、洞窟中、鯨の腹中などにあったという想定なので、画像がピンぼけでも編集がぼろぼろであってもノープロブレム。
「映画を撮っているスタッフ自身が恐ろしい事件に巻き込まれて・・・最後にカメラが倒れて画像が歪んで終わる」というメタ映画構造は『食人族』がモンド映画史上に残るバカ映画(しかしアイディアは凄い)の輝かしい足跡を残している。
おそらくこの二人の若者は、『食人族』のアイディアを頂いたのであろう。
「あのさ、恐怖の伝説がある密林に映画クルーが入るわけよ。すっと、そこに怪しげな食人族がいてさ、スタッフが一人また一人とさらわれて、食べられちゃうの。でね、生き残ったカメラマンがその食人場面をものかげから撮影していると、みつかって、ぶつん、とフィルムが切れておしまい。どう?」
「いいけどさ、予算考えてよ。アマゾンの密林行ったり、現地のおじさんたちにメークさせてエキストラやってもらうような金ないぜ。」
「うちの実家の裏に雑木林があるからさ、あそこを密林ということにしない?」
「人食い人種はどうすんのさ」
「魔女でどう?」
「魔女ったってCG使ったり、ワイヤーワークで空飛ばしたりする予算ないぜ」
「だから見えない魔女。音だけ魔女。どう?」
こうやって予算を思い切り切り縮めたプロジェクトでスタッフ一同はメリーランドの雑木林に行く。
当然、いざ撮影が始まると、「いったい、こんな状況でいったいどうやって映画撮るんだよ」とだんだんとげとげしい雰囲気になる。
だが、彼らの悪魔のごとき知恵ところは、この現場のとげとげしい雰囲気そのものを映画にしてしまったことである。
メリーランドの雑木林の中で、映画が撮れなくなって、途方に暮れているうちにだんだんとげとげしい雰囲気になってゆく映画学科の学生たちの苛立ちと不信感と憎悪は連発される「fuck」や、「寒いよ、腹減ったよ、疲れたよ」という嘆きや、なげやりなカメラワークや、「いい加減にカメラを止めろよ!」という怒りの叫びを通してリアルに伝わってくる
このアイディアは天才的である。
これまでも映画を撮影しつつある場面を映画に撮影する、という「メタ映画」「自己言及映画」は無数にあった。というより、松下正己が分析してくれたように、映画とは発生的に自己言及のための装置なのだ。
だから、「映画を撮る人たちを撮った映画」というのはいくらでもある。
つねに独創的なフェリーニは『8 1/2』で「映画が撮れなくなった人の映画」を(映画外の視座)から撮った。
マイリック&サンチェスはフェリーニからもう一歩進んで、「映画が撮れなくなった人たちの映画」を(映画内の視座から)撮った。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』という映画装置の中枢にあるのは「映画を撮ることの不可能性」である。
「文学であることの不可能性」そのものである文学作品ということになると、アンチ・ロマンとかヌーヴォー・ロマンとかいうげろが出そうなあざとい抽象物になってしまうのだが、なぜか「映画を撮ることの不可能」そのものであるような映画作品は「カメラマンが魔女に拉致されてしまう」という徹底的に娯楽的な展開のうちに成就するのである。
ちょうど、ドーナツの穴がドーナツの「穴以外」の部分を食べ終わった瞬間に消滅するように、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』撮影プロジェクトの「主体」は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』という作品の完成と同時に消滅する。
二人の若者の自分たちの商業的成功に対する控え目で、自信なげなコメントを効いていると、彼らは自分たちが映画を撮影した主体の「消滅」の「効果」にすぎず、自分たちにはこの映画の「作者」を僣称する権利がない、ということをよくわきまえていることが知れた。
賢い若者たちだ、と書いたのはそのことである。
がんばれ、マイリック&サンチェス。次回作はきっと失敗すると思うけど、くじけるなよ。私は応援するぞ。
『ペイバック』(監督・ブライアン・ヘルゲランド、出演・メル・ギブソン、デボラ・アンガー、クリス・クリストファーソン、ジェームス・コバーン、グレッグ・ヘンリー)
わー面白い。見終わったあと、もう一度始めから見たくなってしまう映画というのはひさしぶりだ。
悪役たちがじつによい。ちんぴらから大ボスまでヒエラルヒーがあがるにつれて、だんだん暴力性が稀薄になってきて、クールなビジネスマン風に変わっていく。それを委細かまわずメル・ギブソンがどんどん殺して行く。一人倒すごとにだんだん大物が出てきて、それをパワーアップした主人公がかたっぱしから退治するというのは、ほとんどRPGのノリであるが、このテンポがまことに軽快。(ところで、中国人のギャングのひとりはどう見ても趙方豪。彼はたしか先年夭逝したはずだが、『ガキ帝国』のときのまんまの趙君が画面に出てくる。うう、なつかしい)
喧嘩するときはつねに相手の「虚をつく」という主人公ポーターのスタイルはたいへんに正しいように思われる。
権力をもつ人間はしばしば自分に対する相手のがわの敬意や恐怖心を過大評価するようになる。そしてその分だけガードが甘くなる。それが権力者の致命的な隙である。ポーターはただそこだけを狙い撃ちする。
彼はいつも「そこからは敵はこないはず」のサイドから登場する。
車の後ろから(2回)、車の下から、車のソファから、ま正面から(4回)、電話から(というのが傑作だね。ここがいちばん意外で、思わず拍手)
とくに感激したのは「真正面から」の登場である。
小ボス、カーターのところに登場するときはボディガードのチェックを受けて銃がないことを確認させてから、銃をもつ二人のボディガードをいきなりごんごん殴り倒す。トリックもなにもない。ただふつうに向き直っていきなり殴る。ギャングのボスのオフィスに丸腰でやってきた男が銃をもつ巨漢に立ち向かうはずがない、という彼らの固定観念の虚をついて、ポーターはあっけなく主導権をにぎる。
これは変な「隠し武器」みたいなものを取り出すより、ずっと説得力がある。
そういうものなのである。
ポーターはボディガードに時間でもたずねるような感じで、あるいはちょっと肩についているほこりをはらってあげるような感じで、まったく害意をみせないまま近付いて、いきなりゴンとなぐる。
これは武道的に言うと「起こりのない動き」といわれるものである。
動きに切れ目がないので、動きそのものは緩慢であっても、咎める「きっかけ」がつかめない、ぬるぬるした運動のことである。
ポーターはそれを単に身体運用のみならず、全場面で活用する。
「きっかけ」を与えないで、ゴン。いつでも、これ。
これが実によいのだなあ。
「ため」とか「居着き」とか「凝り」というものがぜんぜんない。
メル・ギブソンはおそらく気質的に「するする、ゴン」的なアクションやストーリーラインが大好きなのだろう。メジャーデビューの『マッドマックス』も大ヒットシリーズ『リーサル・ウエポン』も、まさにそういうスピード感が全編にみなぎっていたし、アカデミー賞を荒稼ぎした初監督作品『ブレイブハート』でも、「え、いきなりですか?」という「観客の期待よりちょっとだけはやめにストーリーが展開する」というリズムをキープしていた。
メル・ギブソンの「演技」についてあれこれ論評するひとはいない。どうしてあんなちんちくりんでおっさんぽい容貌のひとが大スターになったのだろうと訝しむひとさえいる。
でも私は分かる。
メル・ギブソンには天性のリズム感がある。それはオン・タイムの小気味よい「拍子にあったリズム」ではなく、武道で言う「拍子の合わない」ラグ・リズムがもたらす意外性の快楽なのである。
メル・ギブソンは天才である。
『阿片戦争』(監督・謝晋、役者・全員知らない中国人+ギャラの安そうな白人)
阿片戦争というのがどういうものであったのか、はじめて歴史的事実を知った。
阿片を輸出するやつもあくどいし、阿片を喫するやつもあほである。清朝を収奪するイギリスもひどい国だが、清朝もまるでダメな国である、ということを教えてもらった。おまけにヴィクトリア朝イギリスの議会ではけっこう「ポスト・コロニアル」なことを演説する人が出てきたりして、「イギリスにだって、ちゃんとした政治家はいたんだ」ということになると、もう全員「灰色高官」状態である。
で、ようするにどういうことなのだろう。
歴史的事件には明確な善悪の代表者がいるわけではなく、すべてはそれ自体は些細な無数のファクターの複合効果である、ということなのであろうか。「バタフライ効果としての阿片戦争」か?
それはたしかに一つの歴史観ではあるだろう。
帝国主義国家みなわるい、第三世界はみな正しいというような60年代的な物語が破綻してしまった現在においては、いまさら「イギリスの暴虐に抗う愛国の民族解放闘士」みたいな図式的な映画をつくっても誰にも相手にされない。
しかし、だからといって「結局、イギリスが中国を近代化させたわけだし、阿片戦争はいわば清朝の世界市場への参入のための生みの苦しみだったんだじゃないの」というようお先走りなことを言い出すとなんだか「新しい歴史教科書をつくる会」みたいである。
それにそういう視点からの歴史映画はハリウッドがもう腐るほど作っているし。
結局、歴史は個人のひとりひとりの善意や意志とは無関係にすべてのひとを巻き込んで滔々と流れて行くのだ、ということになるのだろうか。(だったらまたヘーゲルに逆戻りか)
いずれにせよ、歴史についてのイデオロギー批判がこうも栄えてしまうと、「面白い」歴史劇というものを作るのが非常に困難になったということだけは確かである。
私としてはやはりハリウッド的な勧善懲悪型の歴史映画が娯楽映画のあるべき道だと思う。あとは素材の目新しさだけだ。こんな歴史映画ならぜひみたい。
(1)英米の視点からの日本開国物語。(長州砲台の四カ国艦隊による占拠とか、薩英戦争とかがスリリングなスペクタクルシーン。狂言まわしはアーネスト・サトウ。かっこいいアメリカ人士官の二丁拳銃の前に日本のサムライが西部劇のインディアンみたいにばたばた死ぬ。)
(2)第二次大戦末期、ロシア軍と国防軍の東部戦線での死闘をドイツ軍の側から描く。(ヒトラー暗殺を企てつつ、ロシア最前線の囚人部隊の壮絶な虐殺と破壊に敢然とたちむかうドイツ国防軍の青年士官の愛と苦悩の大冒険)
(3)ロシア機動部隊からみたノモンハン事件(蒙古の反乱分子に苦しめられ、満州国軍の国境侵犯に悩まされ、スターリンの暴政に絶望しつつ、関東軍の挑発にじっと耐え、ついに堪忍しきれずたちあがるロシア青年将校が内蒙古の原野狭しと戦車を長躯して関東軍を壊滅させる)
とにかく、「いいもの」と「わるもの」がはっきりした映画が見たい。その映画がある党派的立場からするプロパガンダであることがあまりにはっきりしているために、そのプロパガンダが冗談にしかならないくらいプロパガンダ的な映画をけらけら笑いながら楽しみたい。
『グロリア』(シャロン・ストーン)
シャロン・ストーンのためのシャロン・ストーンによるシャロン・ストーンの映画。
このあいだジョン・カサベテスのおくら入りシナリオを復刻した『She's so pretty』(ひどい映画だった)に(カサベテス一家総出演なので)元祖グロリアのジーナ・ローランズがカメオ出演していた。1980年のカサベテスの『グロリア』はとてもよい映画だった。
『グロリア』のおいしいところを頂いたのがリュック・ベッソンの『レオン』。それに比べてもこのリメイク版にはみるべきところがひとつもない。まるっきりのクズ映画である。
どうみてもシャロン・ストーンがたまたま出会った小さな男の子のためにマフィア組織と戦うような女に見えない(そこらで死んでいてもそのまま歩き去りそうにしか見えない)というところがドラマを損なう致命傷である。
こういうのはほんとに申し訳ないけれど、その俳優のもつ「器」の問題である。
シャロン・ストーンやデミ・ムーアがキム・ベイジンガーがいくら力んでも、こういう役に説得力をもたせることはできない。だって、全身から「エゴイストのオーラ」がばりばり発散されているんだから、君たちって。むりよ。
しかし、それにしてもシャロン・ストーンというのはどうして『氷の微笑』からあとゴミ映画に「魅入られた」ように出演し続けるのであろうか。もしかするとアメリカ女性のある理想型を自分が映画をつうじて代表しなければならないというような誤った使命感をもってしまったのではないだろうか。やめたほうがいいと思うけどなあ。
『生きものの記録』(1955年、監督:黒澤明、出演:三船敏郎、千秋実、志村喬、清水将夫)
うーむ。
こういう映画を東宝で撮って、普通の映画館で有料公開したということ自体が過激である。だって、これって明らかに政治的プロパガンダ映画なんだもの。
この映画が「プロパガンダ」だと思わないで作った映画人と、「なかなか考えさせられる映画だね」くらいの感想で見た観客たちがマジョリティであったということは、1955年の日本社会で政治的なトピックがどれくらい日常的なものだったか想像できる。
志村喬の歯医者さんは、晩御飯の話題に「おまえ、水爆ってどう思う」と息子に訊ねる。
そんなこと言われたらいまのひとは答に窮して笑い出してしまうかもしれないけれど、その頃は真剣な話題だった。
だって、ストロンチウム90は現に私たちの頭の上にどかどか降っていたのだから。
私はそのころ5歳だったので、原水爆の「死の灰」の恐怖についての1955年のリアルタイムでの社会的感受性についての微かな記憶がある。
雨に濡れると雨滴にまじった放射能が体内に浸潤して被曝する、というふうに新聞は書いていた。
小学校では頭に雨滴が着くと髪の毛が抜けるという噂が広まった。
だから私も雨の日には傘の下で肩をすくめて怯えながら登下校した覚えがある。意地悪な級友たちに傘を奪い取られて、雨の中に放り出された子どもは、ランドセルで必死に頭をかばって「傘、返しておくれよお」とべそをかいていたし、翌日には「禿げたかな?」と真顔で級友たちは彼の頭髪をチェックしていた。
そういう時代があったことを私たちはすぐに忘れてしまう。
『生きものの記録』を見ながら、人類はあれから半世紀、愚行に愚行を重ね、地球を汚染しまくって環境を破壊しまくっておきながら、まだ増殖していることに感慨を覚えた。
ほんとにタフな生きものだ、人間て。
『死刑執行人もまた死す』(1943年、監督:フリッツ・ラング、出演:ブライアン・ドンレヴィ、アンナ・リー)
共同脚本がフリッツ・ラングとベルトルト・ブレヒト。
ナチに逐われてドイツから逃げ出した亡命者たちによる反ナチ・プロパガンダ映画の古典である。
すごくスリリングである。
1945年以降に作られた戦争映画では、映画の中でいくらナチが暴虐をふるっても、フィルムメーカーは戦争の結果を知っている。そのわずかな「安心感」が画面にかすかな「たるみ」をもたらす。
1943年というのはノルマンディ上陸作戦の1年前、まだ第三帝国がヨーロッパ全土に君臨していた時である。第三帝国がイギリスをも攻め落として、最終的に勝利し、ヨーロッパのすべての抵抗運動は壊滅する、という可能性がリアルなものであった時代に作られた「抵抗映画」は、「私たちは負けるかもしれない」という暗鬱な不安に領されている。
映画は確かに勇敢な抵抗運動家たちや、それを支える市民や、昂然と銃殺される知的指導者たちを美しく描いている。しかし、それらのヒーロー像はあまりにつくりものめいており、あまりにバーチャルである。
それに対して、チェコの抵抗運動の弾圧者「ハングマン」の暴力性、治安警察の警部の狡知、抵抗運動に潜入するゲシュタポ工作員の欺瞞は強烈にリアルに描かれている。
抵抗運動の基盤はあまりに脆く、ナチの恐怖政治は高度に効率的で圧倒的な物量に支えられている。
どうみても勝ち目はない。
事実、映画は政治的配慮からゲシュタポが抵抗運動への追求を一時的に緩めたおかげで抵抗運動が一息ついたところで終わっている。
Not the end という字幕が示すように、たぶんそのときプラハではまだ何も終わってはいなかったのだ。
『生きものの記録』と『死刑執行人もまた死す』を続けて見ることになったけれど、両方を見て感じたことは、ある時代を領していた社会的感受性は、「まだ未来が見えない」その時代の不安をいっしょに呼吸することでしか追体験できない、ということであった。
黒澤明は「地球が燃え尽きる日」をリアルに感じていた。フリッツ・ラングは「第三帝国が世界を支配する日」をリアルに感じていた。その恐怖は西暦2000年の今のナチュラルな感覚をもっては絶対に追体験できない。そして、その恐怖を「生きる」ことができなければ映画に触れたことにはならない。
映画に触れるために必要なものは「想像力」だ。
自分にとって自然で自明な経験の枠組みを揺るがし、そこから逃れ出る力だ。
映画を見ることと哲学することはほとんど同じ知的みぶりを要求している。
『悪い奴ほどよく眠る』(監督:黒澤明、出演:三船敏郎、森雅之、三橋達也、香川京子、加藤武、志村喬、西村晃、藤原釜足)
これは失敗作だと思う。
まずミスキャスト。三船敏郎はどうみても「青年実業家」には見えない。結婚式のシーンで私はしばらく三船敏郎は新婦(香川京子)の父親だと思っていた。
なんで仲人の挨拶のときに父親が新婦のよこに立っているんだろう?
ん?
公団汚職にかんするややこしいストーリー展開はほとんど検事同士のやりとりと、新聞記者たちのやりとりで説明される。
三船君の複雑怪奇な生い立ちは加藤武がぺらぺらと話してくれる。
聞く方は必死だ。
さらにややこしい話は、なんと「新聞記事」のアップで説明しちゃうのである。(これはけっこう分かり易かった。)
うーむ。
前に「あらすじ」を全部字幕で説明して終わり、という映画はないものかと書いたことがあるけれど、黒澤明はかなりそれに近いことをしている。
たしかに大胆である。
その点については認めざるを得ない。
素晴らしいのは森雅之の悪徳政商と三井弘次のすれっからし新聞記者。
あの爺さんが天下の二枚目森雅之のメークだということに私は最後まで気がつかなかった。
終わってから「うまい役者がいるもんだなあ」とLDのクレジットをみてびっくりしたのである。
『天国と地獄』(監督:黒澤明、出演:三船敏郎、仲代達矢、山崎努、香川京子、木村功、藤田進、志村喬)
こ、これは面白い。
この映画はリアルタイムで見た。でも、三船敏郎がばりばり靴を壊す場面と、洗面所の窓から身代金を投げる場面しか覚えていなかった。
たぶんそのふたつの場面における三船の全身から発する「怒りのオーラ」が小学生だった私の記憶に焼き付いたのであろう。
仲代達矢の刑事がとてもよい。
前に『椿三十郎』のときだけ仲代は例外的によくて、あとの黒澤映画ではだめだと書いたことがあるけれど、あれは訂正しなくてはならない。
『天国と地獄』の仲代達矢は『椿三十郎』のときよりずっとよい。
例外が二回あるということは、もしかすると仲代達矢というひとは才能のある役者だったのかもしれない。
この映画での仲代は「仕事のきちんとできる、ふつうの刑事」である。
わけのわからないトラウマとか、屈折した権力志向とか、そういうものと無縁の、「自分の仕事に満足している優秀なサラリーマン刑事」を演じている。
だから『乱』で私を苦しめた、あの「ため」がない。
早口で台詞をばんばん読み進んでゆく。
口跡がきれいなので、それがたいへんに快適である。
仲代が「芝居」をしないので、話がどんどん進んで行く。
まるで、彼が「すべての物語の進行を司っている」かのような錯覚にだんだん観客はとらわれてゆく。
このひとについていけば大丈夫だ。きっと何とかしてくれる。
そういう信頼感がだんだん増幅してゆき、仲代が画面に出てくると安堵感を覚えるようになる。
映画においては、(おそらく実生活でもそうだろうけれど)「内面」を見せない人間がいちばん「深い内面」をもっているかのように映るというこの平明な真理を仲代はそのあと忘れてしまったらしい。
きっと新劇の批評家かなんかが
「『天国と地獄』の仲代君ね、ちょっと芝居が薄味だったね。もっといろいろあるわけでしょ。権藤(三船)に対する嫉妬とか、捜査がすすまないことへの焦りとか、功名心とか、そういうものがぜんぜん出てないじゃない」
とかよけいなことを言ったのであろう。
そういえば「権藤さん」という台詞を山崎努は何度も繰り返し口にしていた。
この音どこかで聞いたことがあると思っていたら、『マルサの女』で山崎努自身が演じていた悪徳脱税常習者の姓だった。きっと伊丹十三は主演男優のデビュー作へのささやかなオマージュとしてこの名をつけたのだろう。
『妹の恋人 (Benny and Joon)』(監督:忘れた、主演:ジョニー・デップ)
なんか、いい映画だった。ほのぼのしちゃったよ。
ジョニー・デップはこの頃(『ギルバート・グレイプ』、『デッドマン』、『エド・ウッド』)がいちばんよいね。ほっぺがちょっとふっくらしていて。上目使いで、口をちょっと開いて、ぽわっとしているときはほんとにかわいい。
「デリカシーの受難」というのは、『ライ麦畑』以来のアメリカ青春小説の定型である。
「ほんとは鈍感な少年が自分はデリケートだと思い込んでいろいろトラブルをおこすのだけれど、それらの悲劇がデリカシーのせいではなく、鈍感さのせいだということに最後まで気がつかない物語」と要約すると、みもふたもないけど。
ジョニー・デップはそれにぴったりだ。
ジョニー・デップが17歳くらいのときに『ライ麦畑』のホールデンを演じたら、歴史に残る名演となったであろう。
『小早川家の秋』(1961年・東宝・監督:小津安二郎、出演:原節子、司葉子、新珠三千代、中村鴈治郎、小林桂樹、浪速千栄子、森繁久弥、加東大介、宝田明、藤木悠、山茶花究、団令子、杉村春子、笠智衆、望月優子)
『小早川家の秋』を京橋のフィルムセンターで見たのはもう20年くらい前のことである。それからももう一度見たい見たいと思っていたが、小津作品の中でこれだけ東宝製作のため、なかなかLDもVHSも商品化されなかった。(新東宝製作の『宗方姉妹』もそうだ)ようやく去年の末にLDが出て、念願かなって20年ぶりのご対面となった。
何もいうべき言葉がない。ただ至福の103分間であった。
面白かったのは、20年ぶりに見直してみると、ストーリーライン上では重要な場面なのだが、まったく記憶に残っていないシーンと、強烈に記憶に刻み込まれているシーンなのだが、実際にはストーリーにほとんど関係のない断片的な映像でしかないものがあったということである。
森繁久弥の出てくる場面は私の記憶からは全部脱落していた。
すごくうまいし、印象的な人物を演じているのに、私にとっての「小津的世界」に森繁はおそらくなじまなかったのだろう。
逆に強く印象に残っているのは、宝田明。わずか2シーンの登場なのだが、駅で彼が司葉子にむかって語る「ああ、今日は愉快やった。あの連中といるといきとなくなるわ。あんたも、都合ついたら札幌来て下さいよ。ほんまですよ。ぼくもときどき手紙出すけど、あんたも手紙下さいよ。ほんまですよ。ああ今日は愉快やった。いきとないなあ」における「ああ今日は愉快やった」と「ほんまですよ」のリフレインは20年間私の脳裏に響き続けていた。
どうしてか理由は分からない。
この映画は中村鴈治郎がすべてである。
笑い、怒り、ふてくされ、はしゃぎ、居直り、とぼける、その表情のすべてが素晴らしい。
そして、島津雅彦の孫とかくれんぼうしながら、新珠三千代の次女の眼をのがれて妾宅へ出かける身支度をするときの、浴衣を脱ぐ、脱いだ浴衣を足で蹴飛ばす、歩きながらきゅっと帯を締める、扇をばっと開くという一連の動作のほれぼれするような動きの美しさと諧謔性。
彼が妾宅で急死したというニュースが伝わると、私も小早川家のひとびとと同じように、深い虚脱感にとらわれる。そのあとの葬儀の場面は、遺族にとってそうであるように、私にとってもどこか非現実的である。
「頼りないお父ちゃんや思てたけど、小早川の家が今日までもってたのは、やっぱりお父ちゃんのおかげやったんや」
新珠三千代のこの台詞はそのまま観客全員の気持を代弁している。
登場人物の死があまりに深い欠落感をもたらしてしまうため、残りの場面に集中できなくなってしまう例を私は他には『ウェストサイド物語』のベルナルドの死しか知らない。
『死霊のはらわた2(Evil Dead II: Dead by dawn)』(1987年、監督:サム・ライミ、主演:ブルース・キャンベル)
このシリーズは、『死霊のはらわ』がげろ吐きホラーで、『死霊のはらわたIII:キャプテン・スーパーマーケット』が大笑いコメディという不思議な構成になっている。その二つの中間にある『II』だけ未見であった。
げろ吐きホラーとコメディの「中を取り持つ巡航船」であるところの『死霊のはらわたII』とはいかなる怪作であろうかと期待して見たけれど、期待にたがわぬ「コメディ・ホラー」の快作であった。
ストーリーなどないも同然で、この映画の快感はカメラワークのスピード感と、主人公ブルース・キャンベルの「お化けなんかこわくないぞ」のから元気によってもたらされる。
とくに開巻十分間のカメラワークの疾走感は圧倒的。
『死霊のはらわた』のラストシーンで山の上から走り降りて、山小屋を突っ切り、自動車に乗ろうとしているブルース・キャンベルに襲いかかる映画史上に残る死霊の「カメラ目線」大移動が『II』の冒頭でも再現されるのだが、『I』では恐怖のオープン・エンドをもたらしたこの「走る死霊」が「どすん」と突き当たると、ブルース・キャンベルが黄色い水のどぶにはまるだけというのが、めちゃおかしい。思わず家中大笑い。
KCMMFCは『死霊のはらわたII』を「必見バカ映画」に指定させていただくことにいたしました。会員諸君(といっても三杉先生と海老ちゃんしかいないけど)はぜひご覧下さい。
『ニッポン無責任時代』(監督・古沢憲吾、出演:植木等、ハナ肇、谷啓、犬塚弘、石橋エータロー、桜井センリ、安田伸、由利徹、団令子)
♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。二日酔いでも寝ぼけていても、タイムレコーダ、がちゃんと押せば、なんとかかっこはつくものさ、あ、ちょっくらちょとパーにはなりゃしねえ。あそれ、ドントいこうよドントね。どんがらがっかどんとどんと行きましょう。
おいおい、これだよ。おいら『ドント節』の一番の歌詞を全部覚えていたよ。
1961年、フジテレビの『大人の漫画』でクレージーキャッツと出会った私はTV画面にむさぼるように見入り、続いて『シャボン玉ホリデー』のヘヴィー・ウオッチャーとして中学時代をすごしたのだった。
『ニッポン無責任時代』はスーダラ節の大ブレークで一躍全国区のスターとなったクレージーを寝かさずに撮った「売れてるうちに、いっぱつ当てたろか」的ないい加減さが全編にみなぎるバカ映画の輝く金字塔。この映画の植木等はいままさに最盛期を迎えつつある天才に固有のオーラを全身から発している。
植木等の無責任サラリーマンはいまからみると、ほとんど「古武士的」なまでに禁欲的なエートスに律されている。地位も金も女性の誘い権力者の恫喝も、どんな欲望や圧力も植木等をつなぎとめておくことができない。彼が望むのはただひとつ、自由である。
彼には帰るところがない。故郷も、母校も、骨を埋める会社も、家族も、妻も、恋人も、親友も、師匠も、弟子も、なんにもいない。彼は高らかに笑い、そして去って行く。なんの未練もなしに。
素敵だ。
『続・青い山脈』(監督・今井正、出演:原節子、池部良、杉葉子、龍崎一郎)
ようやく念願かなって『青い山脈』の続編をみることができました。AVライブラリーのみなさんどうもありがとうございます。
映画をみて感じたこと。
(1)1946年の伊豆の海は美しい。
白い砂、幾重にもかさなる松林、海岸にせまる深い山、道路わきの麦畑。
敗戦直後の伊豆の海は、コートダジュールより、カリフォルニアより、バリ島より美しい。
この海のたたずまいは、私が1959年から60年にかけて伊豆で半年過ごしたときには、まだそこここに残っていた。いまはない。私たちは念入りにこの美しい風景を破壊したのである。
(2)この映画のなかで、ひとびとは不思議なイントネーションで語る。すこしうわずったような、せき込むような口調で原節子も竜崎一郎も池部良も台詞を読む。「民主主義」という言葉が、すべてをハッピーエンドに雪崩込ませるキーワードであることへの身体的なためらいがこのわずかな口調のあせりににじんでいたのだろうか。
(3)その中にあって、たった一人、異常にリアルな台詞を語っている役者がいる。
高堂国典(こうどう・こくてん)である。
高堂国典といっても知らない人も、『七人の侍』で「さむれえをやとうだよ」と語る村の長老といえばすぐに思い出すだろう。同じ黒澤の『我が青春に悔いなし』でも、小津安二郎の『麦秋』でも、このひとは圧倒的な存在感をたたえてそこにいた。
あまりに個性的であるために、その映画を含む「時代」から突出してしまう俳優がいる。
笠智衆、浜村淳、菅原通済、天本英世・・・
IMDBで検索したら、高堂国典の映画デビューは『姿三四郎』(1943)で池につかっている三四郎を笑う和尚さんの役。代表作は1954年の『ゴジラ』の村の長老ギサク。そして『七人の侍』のギサク。フィルモグラフィーは1955年の『獣人雪男』の村長役(この役名もギサクだったりして)で終わっていた。『青い山脈』と『麦秋』はフィルモグラフィーから抜けている。
生年も1887年1月29日とあるだけで没年は記されていない。生きていれば113歳だけど、たぶんもう亡くなっているだろう。
日本映画史上いちばん「不思議な」俳優を選ばせてもらえれば、私はためらわず高堂国典の名をあげる。
合掌。
『スリーピーホロウ』(監督・ティム・バートン、主演・ジョニー・デップ)
合気道部の諸君ごめんよ、私も抜け駆けで見に行ってしまったのだ。(我慢できなかったんだよ)だって、ティム・バートン+ジョニー・デップなんだもん。
いやーティム・バートンの世界を堪能しちゃいましたよ。『シザーハンズ』ではヴィンセント・プライス、『エド・ウッド』ではベラ・ルゴシ、そして『スリーピー・ホロウ』ではクリストファー・リーへのオマージュに心が暖まりました。ティムってほんとにハマー・フィルムが好きなのね。
この「童心からみた恐怖」がティム・バートンの原点であるように私には思えました。
こどものときみたハマーのホラー映画の特徴は
(1)暗い
(2)怖い
(3)理不尽
(4)主人公が頼りない
でした。その伝統が忠実に踏襲されております。
このところ久しくホラーは「結局、人間がいちばん怖い」という賢しらなエンディングに落とすパターンが多かったのですが、「人間の皮をかぶった悪魔より、悪魔の皮をかぶった悪魔の方が怖い」というホラーの王道が『スリーピーホロー』ではきっちり歩まれたのでした。
首なし騎士の「首つき」ヴァージョンを心から楽しそうに演じていたクリストファー・”ディア・ハンター”・ウォーケンに拍手。これはもうこの人以外に考えられないです。最近、B級ホラー映画にちらほら出ているようですが、ティムさんには、ぜひクリトファー・ウォーケン主演で『ドラキュラ』を撮ってほしいものです。
『ライフ・イズ・ビューティフル』(監督主演:ロベルト・ベニーニ)
うう、また泣かされてしまった。
泣いたらいかん、泣いたらいかん、それでは敵の思うつぼではないかと思いつつ、泣かされてしまった。
私はユダヤ人の迫害を扱ったドラマにふれると、映画でも小説でも、被害者に対する同情よりは、加害者に対する怒りと憎しみで身体がきしむような感じになってしまう。
この映画で、ファシストやSS隊員たちは決して悪魔のようには描かれていない。
グイドと帽子のとりっこをする椅子屋の主人(二人の息子を「ベニート」と「アドルフ」と名づけている。「ベニート」はムソリーニのファーストネーム)、恋敵の市役所の役人、「なぞなぞ」に夢中のレッシング博士。
彼らが投票した政権が、彼らが支持したイデオロギーが、隣人たちを強制収容所へと連れ去ることになる。もちろん彼ら自身が手を下したわけではないけれど、彼らはジェノサイドの協力者である。
この市民たちひとりひとりは決して有害な人物ではない。個人的にはあるいは愛すべき多くの美質をもっているだろう。
しかし、彼らには何かが決定的に欠けている。
それは想像力だ。
自分のひとつひとつの行為が、他者たちにどのような影響を及ぼすことになるのか、それを考察する共感の回路が、この人たちには構造的に欠落している。だから彼らはまるでちょっと不機嫌にルーティンワークをこなすような仕方で、大量虐殺に加担することができる。
その一方、グイドには権力も金も社会的プレスティージもないけれど、想像力だけは豊かにある。
彼の世界で、彼は「王子」であり、素敵な彼女は「王女さま」である。
「ユダヤ人と犬はお断り」という看板をいぶかしむ幼い息子ジョズエにグイドはこう説明する。
「あの人はユダヤ人と犬が嫌いなんだよ。あっちの金物屋にはスペイン人と馬が入れないし、あの店は中国人とカンガルーが立ち入り禁止。」だから彼らの小さな書店は「西ゴート族と蜘蛛は立入禁止」。
強制収容所に向かう列車は「パパとの行き先秘密の旅行」だし、強制収容所そのものが「1000点ためると戦車がもらえるサバイバル・ゲーム」として面白おかしく息子に説明される。
たしかにグイドの想像力は、世界を美しく愉快な物語で彩ることはできるけれど、世界を変えることも、苦しむ人々を救うこともできない。その意味では、これもまた「閉じられた想像力」にすぎない。
想像力のない人間は世界を滅ぼすだろう。けれど想像力があっても世界は救えない。
微笑みながら滅びるだけだ。もちろん、それだって不機嫌な顔をして滅びるよりはずっと素敵なことだけれど。
『アミスタッド』(監督:スティーヴン・スピルバーグ、主演:アンソニー・ホプキンス、モーガン・フリーマン)
ホルバート検事は奴隷売買船アミスタッド号の乗組員を殺害してアフリカ帰還を求めたシンケに対して、こう詰め寄る。
「あなたの部族にも奴隷はいるでしょ。それはどうやってあなたの所有物になったのですか?」
「戦争の捕虜や、借金のカタに」
「おやおやそれって、私たちの世界の奴隷と同じじゃないですか。つまりあなたも奴隷制度そのものは認めておられるわけだ。自分の国では奴隷の労働を利用しているあなたが、アメリカに来て自分が奴隷に売られたとたんに奴隷制度はけしからんというのは、いかがなものか」
これはなかなかきつい突っ込みだ。
たしかに自分の国では当たり前のように奴隷から収奪している人間が、もののはずみで自分自身が奴隷として売られると、奴隷制度は非人間的な制度であって許せないと言うのは、首尾一貫してない。
現に、シンケを誘拐して、奴隷商人に売り渡したのは、近隣の部族の連中であった。
つまり彼の奴隷化は、「アフリカ人によるアフリカ人の奴隷狩り」から始まるのである。スペイン人やアメリカ人が絡んでくるのは、彼が仲間のアフリカ人によって、奴隷市場に「納品」されたのちである。
アフリカ人たちが近隣の部族でふつうに暮らしている市民をいきなり拐かして奴隷に売ってしまうのは、「人間を奴隷にすること」が彼らの間では、特に反社会的な行為として観念されていないからであろう。
私たちは19世紀半ばにアメリカで廃止された奴隷制度という非人間的な制度は白人の奴隷商人やプランテーション経営者によって一方的に構築されたものと考えていた。(世界史の教科書にはだいたいそういうふうに書いてあった。)
しかし、アフリカ人が奴隷として大量に市場に供給されたのは、アフリカ人たち自身が「奴隷制度」を持ち、彼らのあいだでは人間が奴隷となるという事実そのものについての倫理的抵抗感が育っていなかったからだということ、その事実がアメリカの奴隷制度支持者たちの「奴隷解放反対論」の論拠とされていたことを私はこの映画で知った。
『アミスタッド』を「奴隷制度を告発する映画」だと思って見たひとや批評したひとはたくさんいるだろうけれど、これはどうやらそういう話ではない。
この映画は「人を奴隷化する悪い白人 vs 自由を求めるよい黒人」あるいは「暴力的で反自然的な近代西洋文明 vs 自然と共生する素晴らしいアフリカ文明」という定型的な話型をとっていない。
ひとを奴隷化する悪いアフリカ人が一方におり、自由を求めるよい白人が他方にはいる。「独立宣言」の精神という徹底的に人工的な幻想を信奉する元大統領アダムスは勝利を収め、「楽園」シェラ・レオーネの人々はお互いに殺し合い、奴隷化し合って物語は終わる。
スピルバーグは差別についてこういうふうに考えている。
「自然な感情」を基礎にする限り、差別はなくならない、暴力はなくならない、迫害はなくならない、虐殺はなくならない。なぜなら人間は生来邪悪なものだからである。
差別の構造、収奪の構造、排除の構造を覆すのは「自然な感情」ではない。思いやりや共感や慈悲によっては社会はよくならない。社会を少しでもまともなものにするのは、「人間の邪悪さを制御する擬制」である。
アミスタッド号事件を解決に導くのは、クールな法律実務家ボールドウィンと算盤高い政治家アダムスとイギリス海軍の将校である。彼らに共通しているのは、「人間は邪悪な存在だ」という経験的な知見である。だから、彼らは法律と、政治と、軍事を通じて、人間たちの邪悪さが制御範囲を超えないように全力を傾注する。
逆に、無力さの証として繰り返し登場するのはクリスチャンとしての使命感から奴隷解放にかかわるタパンと、囚人たちのために祈り以外のことをなしえない敬虔なキリスト教徒たちの姿である。
彼らは純粋に善意のひとであり、そして無力である。
彼らが無力なのは、おのれが無力であることを少しも恥じていないからである。(自分が善良であることで本人は十分に満足しているのである。)
スピルバーグがいちばん憎んでいるのは、おそらく奴隷商人よりも、この「善意で無力な人々」だろう。
同じ考え方は『シンドラーのリスト』でも披瀝されていた。
アウシュヴィッツのユダヤ人たちの命を現場で救ったのは、人間の邪悪さを熟知しているシンドラーというクールで計算高いビジネスマンであった。
この逆説は『アミスタッド』でもほとんどそのままに繰り返される。
人間を悲惨から救い出すために必要なのは自然な慈愛の情や、人間の善性についての信頼や、思いやりなどではない。必要なのは、整合的な法解釈学であり、合理的に整備された行政制度であり、指揮系統の明快な軍隊である。(ラストシーンで執拗に続く奴隷砦の砲撃の場面から私たちが受け取るメッセージは、「奴隷制度を解体させるのは善意ではなく砲弾である」というスピルバーグの確信である。)
『アミスタッド』はほかのスピルバーグの映画のすべてがそうであるように、自然的なものを退け、人間がその知性をもって創り出したもののうちにのみ希望を見出す彼のユダヤ的エートスを濃厚に映し出していたように私には思われた。
『トゥームストーン』(監督:ジョージ・コスマトス 主演:カート・ラッセル、ヴァル・キルマー)
1993年にこの『トゥームストーン』。翌94年にはロレンス・カスダン監督、ケヴィン・コスナー主演の『ワイアット・アープ』が相次いで映画化された。
映画的には明らかに『トゥームストーン』の方が上出来で、ヴァル・キルマーはこのときのドク・ホリディ役でオスカーにノミネートされた。(受賞は逸したけれど、ヴァル・キルマーのベスト・パフォーマンスであったことは誰もが認めるだろう。)
カート・ラッセルのワイアット・アープはなんとなく「切れたら怖い」感じとか「無学」で「金に汚い」感じがにじんでいてリアルな「おっさん」であった。(それに対して、ケヴィン・コスナーは何を演じても「ケヴィン・コスナー」になってしまう。)
ストーリーは『ワイアット・アープ』の方が史実に忠実で、『トゥームストーン』はフィクションである。(OK牧場の決闘の相手はクラントン一家ではなく、「カウボーイズ」という組織犯罪集団である。)
だが、どちらにせよ、「アメリカの都市伝説」について考える上とき、「ワイアット・アープの物語」はなかなかに興味が深い。
なぜ一介の保安官がこれほど「伝説化」したのか。
ほかのところに書いたように、それはとりわけアープが「メディア」を活用することに長けていたからである。彼は自分自身の神話化にたいへん協力的であった。(この「メディアを利用して自己神話化するガンマン」の戯画は『許されざる者』でリチャード・ハリスがいやみたっぷりに演じている。)
『トゥームストーン』には、アープが『わが友、ドク・ホリディ』という冊子の執筆者であるというエピソードと、1929年の彼の葬式にハリウッドの西部劇スターたちが競って参列したというエピソードが紹介されている。
映画の冒頭は西部の街を映し出す古いニュース・フィルムにセピア色に褪色させたアープやドクの肖像がはさみこまれている。
これらのディテールが語っているのは、「西部劇」という物語ジャンルは、「事実」と「報道」と「伝説」の錯綜によって成立し、その「メディア・ミックス戦略」にワイアット・アープがほぼ確信犯的にかかわっていたという事実である。
それはおそらく発生的には「政治的」なものだったはずである。
当たり前のことだが、銃を抜いて撃ち合えば、必ず死傷者が出る。法と秩序の執行がつねに血腥い暴力を随伴するというのではいわば本末転倒である。
となると、ガンファイトにおいて「いかに銃を抜かずに相手を威圧するか」という「ブラフ」、「はったり勝負」についての技術が長足の進歩をこの時期遂げたのはいささかも怪しむに足りない。
とりわけ法執行官には求められたのは、銃の操作の巧みさというようなプラクティカルなレヴェルの能力よりむしろ、相手が多数であろうと、武装していようと、平気でずかずか出ていって、一発で相手を「呑む」ことができるというような「政治力」だったはずである。
ワイアット・アープはこの「はったり」の名人であったと私は思う。
『ワイアット・アープ』ではラストで「伝説化」したアープのエピソードとして、武装した群衆に囲まれたアープが構わず銃口の前に身をさらし、気迫で相手を威圧する逸話が紹介されている。
『トゥームストーン』では、銃を持った賭博師に「銃を抜いてみろ」と挑発しながら、素手ではり倒すエピソードや、カウボーイズに取り囲まれたときに、ひとりの額に銃を擬して、「こいつははったりじゃねえ。ほんとに撃つ気だ」と叫ばせるエピソードがある。
OK牧場の決闘の前では、自分は一度した人を撃ったことがないし、それは非常にいやな気分のものだったので、これからも人を撃ちたくないと気弱につぶやかせている。
これらの断片が教えるのは、ワイアット・アープが必要最小限しか暴力を行使せず、「はったり」で相手を威圧して勝負を決めることにとりわけ腐心した保安官だったということである。
「はったり」勝負でカンサス・シティを制したワイアット・アープはトゥームストーンでも、その口コミによる伝説的名声を「メディア」の力を利用してさらに効果的に利用した。
ワイアット・アープが自分の神話化に熱心だったのは、自己宣伝癖のせいだからだと私には思れない。むしろ彼は法秩序の維持というごく散文的な目的のために、非常にシニカルに「物語の力」を「政治的」に利用しようと思ったのではないだろうか。
「何十回ものガンファイトを経験して、ただの一度も銃弾に当たったことのないガンマン」というエピソードはアープに聖杯伝説的なオーラを与えた。「誰の撃つ銃弾もアープには当たらない」という都市伝説を「刷り込まれた」犯罪者たちが、実際にアープに対して銃を擬したときに、(武道でいう「居着き」によって)その照準能力が平準値以下にさがってしまったということはありそうなことだ。
それに加えて、この都市伝説は、悪魔的な賭博師ドク・ホリディとの不思議な友情やアープ兄弟の熱い兄弟愛の物語によってさらに奥行きを増している。「友情、努力、勝利」。おお、これでは『少年ジャンプ』ではないか。
物語の力によって現実を動かした男。それがワイアット・アープであると私は思う。
だとすれば、20世紀最大の物語装置である映画が、ワイアット・アープのうちに「映画そのものの理想」を見たのは少しも不思議ではない。
『ジョー・ブラックによろしく』(監督:マーティン・ブレスト&アラン・スミシー 主演:ブラピ、アンソニー・ホプキンス、クレール・フォルラニ)
なかなかよい映画でした。
しかし監督は「アラン・スミシー」とIMDb(Internet Movie Database) には出ています。DVDのジャケットにはちゃんと「マーティン・ブレスト」となってるのに・・・どうしたのでしょ。
アラン・スミシーについては、前にほかのところで書いたけれど、知らないひとがいるといけないから、但し書きをしておきますね。
「Alan Smithee」というのは、監督が映画製作から遠ざけられたり、その意図から大幅に逸脱したカットをされたために、「これは私の作品とは言えない」としてクレジットに名前が出ることを拒否したばあいに使う偽名です。これは、全米監督ギルド(The Directors Guild) が公式に定めているものです。
その場合に監督はギルドに申し出て、アピールが受理されると監督名は「アラン・スミシー」に置き換えられます。「それ以外の偽名」の使用は認められていません。
したがって「アラン・スミシー監督」というクレジットの作品は、「監督が意図した作品ではなく」、通常は「駄作」であります。(しかし、たまに面白いものもある)
IMDbにはちゃんとアラン・スミシーの「略伝」も出ています。
生年は1967年、その年にさっそく第一作「拳銃使いの死(Death of aGunfighter)」を監督しております。しかも、この映画が批評家に絶賛というはなやかなデビューを飾ったのでありました。
その後もあらゆるジャンルにわたって映画を撮り続けております。
Alan Smithee は一説によると The Alias Men (偽名の男たち)のアナグラムだとも言われている。(わ、ほんとだ)
さて、アラン・スミシーの近作リストを見ると・・・
おお、あった『ジョー・ブラックによろしく』が。ただし「エアライン・ヴァージョン」でした。なーんだ。
おや、マーティン・ブレストはその前も『Scent of a woman』でもエアライン・ヴァージョンでスミシーしてるぞ。
どうやらTV放映ヴァージョンと「エアライン・ヴァージョン」がアラン・スミシーを呼び出す秘訣のようですね。よく飛行機の中で新作映画を見てられて「くっだらねえ」と怒っている人がいますが(私もそうですが)、それは「アラン・スミシー版」の可能性がありますから、映画館でちゃんと見直した方がいいかもしれません。
で、『ジョー・ブラック』ですけど・・・ま、いいか。
『ゴジラ』(監督:ローランド・エメリッヒ、主演:ジャン・レノ、マシュー・ブロデリック)
二度見るとさすがに「つまらない映画だ」ということが身にしみる映画であった。
しかし、東宝のゴジラ映画シリーズが見失ってしまった怪獣パニック映画文法上の「留意点」については、きちん配慮をしていたように思われる。
それは:
-怪獣によって不条理に破壊される都市生活を、生活者の観点から撮すこと。
-「怪獣対策本部」みたいな「現場以外」のところではなく、カオスのただなかにあってなんとか筋道をみつけようと苦闘している「現場」に焦点を合わせること
この二点である。
しかし、なんか様子が違う。
ゴジラは中枢的に統御されたシステムに乱入する異物だから、中枢的なシステムによってはコントロールできない。
しかるに、『ゴジラ』対策本部長はまるで無能な佐官級の軍人であり、加えてニューヨーク州知事や市長はその仕事を邪魔するばかり。現場の指揮官は決断力のぜんぜんない下士官である。そのせいで、中枢的なコントロール・システムが適切に作動しないわけだが、そのシステムの作動不良は、この映画の場合、「サスペンス」としては機能せず、むしろ単なる「緊張感のなさ」を結果しているのである。
これはどういうことなのだろう。
それはたぶん「中枢的なコントロール・システム」を誰もまじめに動かそうとしていないからである。
だって、「大きなトカゲ」が街を走り回っているだけなんだから。
この程度の事件では、州兵の動員がせいぜいだろうし、指揮官が仕事のできない閑職の佐官クラスというのも、当然といえば当然だ。(「街に逃げ出したペットのニシキヘビ捕獲!」とかいうときにこわごわと虫取り網なんかかざしているのは、派出所の若いお巡りさんに決まっている。警視庁の刑事なんか現場に行くわけない。)
「ゴジラ、ニューヨーク上陸」はその程度の事件にすぎないのである。
だから、統合参謀本部も、FBIも,CIAも、そういう上級レヴェルの「国難対処関係者」はひとりも登場しない。これは東宝ゴジラ映画の「ゴジ対」が内閣総理大臣以下「御前会議」的なものものしさで彩られているのと好対照である。
「ゴジラがニューヨークに上陸しても、あまり誰も(本気で)パニックになっていない」というこの点に日米の「ゴジラ」観の違いは集約される。
それも当然である。
東宝のゴジラはある種の神話的「懲罰」を下すべく、北極海から魅入られたようにまっすぐに東京湾をめざして来るが、エメリッヒのゴジラは単に「産卵に便利」という実際的理由からマンハッタン島を選んだにすぎない。
だから市販の「妊娠判定剤」のようなちゃちなギミック(46ドルだと)で、その行動パターンのすべてを「読まれて」しまう。究極のゴジラ殺し薬剤「オキシゲン・デストロイヤー」の悲劇性と比すと腰が抜ける。
にじり寄るゴジラに対峙し、最後まで報道のマイクを手に実況を続け、「みなさん、さようなら」と絶叫しつつ鉄塔とともに崩れ落ちるアナウンサーにとってゴジラ報道は「運命との直面」という重々しい使命であったが、野球帽を後ろ前にかぶって、ヴィデオカメラ片手にゴジラの足の下で命がけの撮影にいそしむ「アニマル」君が求めているのは、内輪のTVクルーからのちょっとした拍手と(できればわずかなボーナス)である。
この落差はどこから来るのだろう。
どうやらそれはエメリッヒのゴジラが要するに「システム内的」なちょっとしたトラブルにすぎない、ということに起因しているようである。
ゴジラ・パニックは、はた迷惑な影響をいろいろもたらしはするが、それらも考えようによっては、それなりにプラグマティックに再利用可能なのである。(現に市長は、このパニックそのものを再選キャンペーンの一環として活用しようとしてする。ヒロインのバカ娘は「ゴジラ突撃インタビュー」で念願のジャーナリズムへの食い込みを果たす。おそらくアメリカのゼネコンさんたちはTV画面でニューヨーク崩壊を見て狂喜乱舞していたことだろう。)
だから、このパニック映画では、不思議なことに登場人物の誰一人として、不運にもゴジラに踏みつぶされたり「子ゴジラ」に食べられたりするリスクを冒していることを「理不尽だ」と思っていない。
それくらいのリスクを冒さないと、それなりのリターンは期待できないし、ま、仕事だし。というふうにみなさんクールにお考えのようなのである。(それってぜんぜん「パニック」になってないってことじゃんか)
つまり「うっかりすると死ぬかもしんない」を覚悟でみなさんゴジラに立ち向かっているのであるが、その理由は人類のために一身を捧げようというような悲劇的使命感なんかではなく、単にそれが「お仕事」だからなのである。(いまから放射能のせいででかく育ちすぎたイグアナつかまえにいかなきゃいけないんだけどさ。これが走んの、はやいのよ。いや、踏みつぶされたら、しゃれになんねーよ。ほんと。じゃ、あとでねー。)
これって、原発事故現場の調査に行く消防隊員とか、下水道の中で屍肉を漁る白い鰐をつかまえにいく市の水道局員とか、散弾銃を乱射しているジャンキーを逮捕にいくSWATとか彗星に穴掘りに行く油井掘りおじさんたちとかと同じ種類の、「危険だけど、ある意味では日常的な、よごれ仕事」なのである。
『アルマゲドン』でも同じことを感じたけれど、要するにアメリカ人の生活では、もう「未知」のものが神話的な恐怖をもたらす、ということはなくなってしまったらしい。
どんなわけのわからないパニック・ファクターも全部「既知のトラブル」に還元され、かねて用意の「トラブル・シューティング・マニュアル」通りに片づければ、ま、なんとかなるわなという感じでこの国のひとたちはその日その日を暮らしておられるようである。
きっと「戦争」なんかもそういう気分でやってるんだろうな。
『鉄道員(ぽっぽや)』(監督:降旗康男、主演:高倉健、小林稔侍、広末涼子)
こまったなあ。泣いちゃったよ。
「しかたないよ、ぽっぽやだもん」という広末の「お約束」の台詞で、「こんなことでは泣いては、敵の思うつぼではないか」とがんばったが、簡単に泣かされてしまった。
人を泣かせる言葉って、簡単だ。
「おれの気持なんか、誰にも分からない」と力んでるひとに、「分かるよ」って(分からなくても)言ってあげればいいのだ。
「分かるわけない」んだけど、「分かるよ」って(分からないのに)言ってくれるとじーんとしてしまう。
そうなのだ。
ほんとうの気持を知っている「せんちゃん」(小林稔侍)の「分かるよ」には泣かない健さんは、ほんとうの気持を知るはずもない「雪子」の「分かるよ」には泣いてしまうのだ。
嘘によってしか伝わらない真実があることに、嘘をついてでも超えたい距離があることに、嘘をつかないと超えられない距離があることに。私たちはすごく弱い。
『エネミー・オブ・アメリカ』(ウィル・スミス、ジーン・ハックマン、ジョン・ヴォイト)
アメリカという国は健全なのか、不健全なのかよく分からない。
CIAもNSAもFBIもぜんぶ悪の巣窟というような設定で「娯楽映画」をつくることができるというのは批判精神が機能しているということなのか、まるで機能不全に陥っているということなのか、どちらであろう。
前にも書いたけれど、90年代のアメリカ映画をあと100年後のひとが見たら、「アメリカってシステムが上から下まで全部腐っていたんだ」と思うだろう。
システムが腐っていることをけらけら笑いながら見ることが「システム・インサイダー」にとっての「娯楽」である、というのはいったいどういう「システム」なんだろう。
「したたか」というような言葉では尽くせない。
ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』を読むと、アメリカのひとはどうもシステムが腐っているということが常態であるみたいである。それで平気なのだろうか。
アメリカはディープだ。
『あの夏、いちばん静かな海』(監督:北野武、主演:真木蔵人)
サーファーってほんと頭悪い、という映画(のはずないんだけど)。
ちらっと出てくる金髪のバカサーファー(プロサーファーらしい。千葉君というひと)がとにかくリアル。もう全身から「頭の悪さ」がオーラを発していた。
『幕末太陽傳』(監督:川島雄三、主演:フランキー堺、石原裕次郎、南田洋子、左
幸子)
何度見ても素晴らしい。特にフランキー堺の動きの美しさ。体軸の決まった身のこなし。座る、立つ、振り向く、といった単純な動きがほんとうにため息がでるほど美しい。
そして口跡の鮮やかさ。たたみかけるような、まるでラップのようなアーティキュレーション。ひとつひとつの言葉がぜんぶ「立っている」。
こういうふうにすばらしくグルーヴ感のある日本語を話す俳優はもういなくなった。
『エルム街の悪夢』(ウェス・クレイブン)
前にリアルタイムでみたときは気がつかなかったけれど、居眠りこいてフレディに殺されてしまうバカ高校生ってジョニー・デップだったんだ。か・わ・い・い。
『2010年』(ロイ・シャイダー、ジョン・リスゴウ)
1984年にこの映画つくったときには、まさか1989年にソ連がなくなってしまうなんて想像もできなかったんでしょうね。事実はSFより奇なり。
『サボテン・ブラザース』(監督:ジョン・ランディス、主演:スティーヴ・マー
ティン、チェヴィ・チェイス、マーチン・ショート)
これは『ウェインズ・ワールド』とならぶ「SNL系バカ映画の踏み絵」。これを見て、心安らぐひとと怒り出すひとに世界は二分されるのだ。私はちょっと腰が抜けた。まだまだ修業が足りない。