from 22 July 1999

Vol. 4 (1999July-2000August)

『プルガサリ』

DVD がどかどかと入荷してきたので、さっそく見る。

まず最初はエビちゃんもびっくりの北朝鮮映画『プルガサリ』。おお、これは噂に違わぬバカ映画だ。北朝鮮というのはよくわからん国だと思っていたが、こういう心温まる映画を作る心優しき映画人がいるところをみると、なんだかフレンドリーな気分になってくる。

怪獣映画+共産主義プロパガンダ という図式が思いがけなくジャスト・フィット。

考えてみると、あらゆる怪獣さんたちは、それぞれに社会的な主張をもっていた。

ゴジラは水爆実験に怒り、キングコングは商業主義に怒り、T・レックスは遺伝子操作に怒り、モスラは自然破壊に怒り・・・総じて、資本主義的・帝国主義的・植民地主義的なるものに対して怪獣さんたちは怒っていたのであった。

とすれば、怪獣=共産主義的英雄という図式が成立するのはいささかも怪しむにたりない。じじつ、プルガサリはその生誕から死まで、一貫して共産主義的でありながら、すこしも不自然さを感じさせなかった。

かつて中国大陸で製作されたもっとも成功した反植民地主義的なプロパガンダ映画は『ドラゴン・怒りの鉄拳』であると私は思う。もし私が周恩来だったらブルース・リーに人民英雄の勲章を授与したであろう。

スターリンも『ヨーロッパの解放』なんて国策映画にお金をかけずに(戦後もっとも成功した反米映画である)東宝の『ゴジラ』の製作に軍事費の1%くらいを投資したらよかったと思う。すごい映画になっただろう。東宝も儲かり、スターリン体制も盤石だったのにね。

というふうに怪獣の政治性についていろいろ考えさせてくれる『プルガサリ』でした。



『モハメド・アリ』 (When we were Kings)

74年ザイールのキンシャサで行われたジョージ・フォアマンとの「世紀の一戦」のドキュメンタリー。スパイク・リーやノーマン・メイラーやジェームス・ブラウンやB・B・キングやドン・キングも出てくるにぎやかさ。

しかし圧倒的なのはやはりモハメド・アリというひとのすさまじいまでの表現力と存在感である。

「カリスマ」ということばがいまは軽々しく使われるけれど、ほんとうの意味の Charisma (神から授けられた超能力)を持っているひとは希有の存在であり、アリはその希有の一人である。映画のざらついたフィルムからでもアリのまわりにくっきり「オーラ」が出ているのが分かるほどに。

あの試合を大学生だった私はリアル・タイムでテレビで見ていた。

そして世界中の10億人の観衆と同じく、第一ラウンドが終わったとき、すでにアリの敗北であることを知って肩を落とした。

フォアマンはあまりに強かった。その筋肉は金属の甲冑のように堅く、そのショート・フックはアリの放ちうる最高のストレートよりも破壊力があった。

第一ラウンドを終えてコーナーにもどったとき、アリの顔は真っ青で、恐怖の汗が額を濡らしていた。

そのあとの第二ラウンドから第5ラウンドまで、ロープにもたれかかったアリは両手で顔を覆ったままフォアマンにサンドバッグのように殴られ続けた。

それは緩慢な死刑のように見えた。

それにもかかわらず、アリはブレークのたびにフォアマンの耳元になにごとかをささやき続けた。「おまえのパンチはそれだけか?それではポップコーンの一粒もつぶせないぞ」

フォアマンは怒り狂い、猛然と左右のフックを数百発アリに浴びせかけた。アリは歯を食いしばって激痛に耐えていた。

しかし、第5ラウンドの残り30秒で、フォアマンは不意に疲労感にとらわれる。腕をもちあげて前に送る作業が苦痛になってきたかのように、急にパンチのスピードが落ちた。ガードで顔を隠したアリの肩にのろいパンチを送って、そこで手を休めるように肘をのばした。

その瞬間にもの凄いスピードのアリのワンツーがチャンピオンの顔面をとらえた。すばらしいスピードのパンチだった。あれほど打たれたあとに、あれほどのスピードのワンツーパンチを繰り出せるの力がアリに残っているなどと10億人の観衆のうちのだれが信じただろう。

第六ラウンド。苦しげに息を切らし、まるで重たい鉄亜鈴をもちあげるように自分の腕を肩の高さまで引き上げるのに冷や汗を流しているチャンピオンを、アリはねらいすましたわずか二発のパンチでノックアウトした。

「20世紀最大のスポーツ・イベントは?」と誰かに訊かれたら、私は「1974年の世界ヘヴィー級タイトルマッチ」と答える。



『8mm』(ニコラス・ケイジ)

犯罪を摘発するものがいつのまにかその邪悪さに毒されてゆく、というストーリーラインには既視感がある。映画の中で「悪魔と踊るものは悪魔に魅入られる」とつぶやかれる言葉がおそらくこの映画の「テーマ」なのだろう。

『フェイク』のアンダーカヴァーFBI捜査官(ジョニー・デップ)もそうだったし、『フェイス/オフ』のFBI捜査官(ニコラス・ケイジ)もそうだった。『セブン』でも刑事(ブラッド・ピット)がいつのまにかシリアル・キラーの邪悪さが感染してしまう。

善良な探偵(ニコラス・ケイジ)が裏ポルノ業界にうごめく人々に触れているうちに抑圧されてきた破壊本能にめざめる。その一方で、最後に殺される殺人機械「マシーン」は敬虔なクリスチャンの家庭に育ったのに「生まれついて」邪悪な人間という設定である。

人は生まれつき邪悪なのか、それとも邪悪さにふれて邪悪になるのか、いずれなのか。

犯罪を生み出すのは環境か、遺伝形質か。

これはたぶん現代社会が選択を迫られてるラディカルな問いのうちのひとつだ。

犯罪体質遺伝説はチェーザレ・ロンブローゾが19世紀にとなえた。ロンブローゾは犯罪者の頭蓋骨に猿にはあるが人間にはほとんどみられない特徴を発見し、以後犯罪者の頭蓋骨383個を解剖し、5907人の犯罪者の骨格を調査した末に「犯罪人の人類学的特徴」というものが存在するとう仮説を立てた。そして遺伝的に邪悪な人間というものが存在する、という「生来犯人説」を提唱したのである。

この学問はその後多くのフォロワーを持つことになる。

ポール・ヴァレリーがジョルジュ・ヴァシェ・ド・ラプラージュの研究を手伝って「海辺の墓地」で頭蓋骨の発掘バイトをしたことはあまり知られていないが、その主な目的はアーリア人種と非アーリア人種の頭蓋骨の直径と湾曲の特性を調べることだった。犯罪者遺伝説と優生学、人種理論が理論的には同根であることは繰り返し指摘されてきたとおりである。ナチスのユダヤ人迫害が同時に障害者、ジプシーなどの隔離、殲滅と同時的に進められたが、その根拠となったのは「遺伝的に邪悪な存在がいる」という信憑であった。

ナチスの優生学政策のあまりの非道さのゆえに、それ以後、器質的な損傷を犯罪の原因としたり、生来邪悪な人間がいるという考え方そのものが一種のタブーになった。

マルクスは生来的な人間的本質などというものはみとめないから、マルクス主義が知識人のあいだで支配的なイデオロギーである時代においては、「犯罪は環境が作る」説が支配的な言説になる。「罪を憎んで、人を憎まず」である。

彼らは言う。犯罪は「心の病」だから、凶悪な犯罪者には厳罰ではなく、愛と癒しが必要なのだ、と。

美しい物語だ。けれどもそれが必ずしもすべての犯罪について妥当しないことを私たちは経験的に知っている。

1982年にレーガン大統領の暗殺を企てたジョン・ヒンクリーは女優ジョディ・フォスターの愛を得ようとしてこの冒険を試みた。精神鑑定は「ヒンクリーは狂人」と診断した。ヒンクリー自身はその診断に抵抗して、自分は正気であり、通常の裁判によってしかるべき刑事罰を受けたいと主張した。医師団はそのような途方もない申し出をすること自体が気が狂っている証拠であると反論した。

不思議なロジックだ。

医師たちは罪を犯した狂人を司法の手から奪還して、治療を施す。だが何のために?

刑罰の苦しみを「正気で」味わうことができるようにするために?

実際にフロリダ州のある死刑囚の弁護士は、刑の執行前に囚人の精神は異常であると申し立てて死刑の延期を求めた。弁護士は「刑を執行するなら病気を治してからにしてくれ」と主張している。死の苦しみを正気で味わえるように治療してから殺してくれ、というのである。不思議な訴訟だ。裁判は最高裁までもつれた。判決がどう下ったかは知らない。

犯罪を「心の病」で説明すると、罪人に必要なのは「ラヴィング・ケアー」だということになる。罪を犯せば「愛と癒し」が待っているという考え方が支配的な社会では、犯罪を抑止するロジックは育たない。自分の行為の責任をひとりで引き受けようとする主体の成熟は期待できない。

当然のことながら「愛と癒しの」教理が犯罪の増殖を阻止しえなかったアメリカ社会では「犯罪者的な生き方というのは環境の成果ではなく、主体的に選び取られた生き方なのだ」というロンブローゾ的な「生来犯人説」が息を吹き返すことになった。

とはいえ、まだ「愛と癒し」のイデオロギーはまだ完全には覆されていないので、ハリウッドはいまのところ「両論併記」の構えでこの問題を扱っている。

ある種の犯罪者は「環境がうみだすもの」であり、ある種の犯罪者は「生来のもの」である。どちらの陣営からつっこみを入れられても言い訳できるように作ってある。

相変わらずハリウッド映画はしたたかだ。

『8ミリ』はそういう点ですぐれてハリウッド的な映画であった。

ただ、この映画を見た人は誰でもそう思うだろうけれど、「善良なひとのなかにひそむ邪悪さ」より、「邪悪なひとのなかにひそむ邪悪さ」のほうが100倍くらい怖い。

これからしばらくは「生来邪悪なひとの底知れぬ邪悪さ」による犯罪を主題にすえたものがホラー映画の支配的な話型になることを私はここに予言する。



『大アマゾンの半魚人』

なんだろう。元祖環境保護映画かな。



『ダイヤルM』(マイケル・ダグラス、グイネス・パルトロウ)

グイネス・パルトロウが「いい人」顔なので、混乱してしまうが、要するに、愛人の共犯者を殺害し、夫に愛人を殺させ、最後に夫を殺して、全部で三人の殺人の原因となる。

その女が国連職員で難民救済活動をしていたり、いろいろな外国語が話せるので、マイノリティたちに好感をもたれるという伏線がはりめぐらしてあるので、なんだか生き残ってよかったね、というふうに映画は終わるが、よくよく考えると、かなりひどい女である。

まあ、マイケル・ダグラスがからんでいるから「女性嫌悪映画」というジャンルに分類すればいいのではないでしょうか。マイケル・ダグラスが「旬のいい女優」をつかまえてはひどい目に遭わせることに情熱を感じているのは間違いない。(『ローズ家の戦争』でキャサリン・ターナーを殺し、『危険な情事』でグレン・クローズを殺し、『氷の微笑』でシャロン・ストーンを殺人犯にし・・・まだきっとあるな)



『スライディング・ドア』(グイネス・パルトロウ)

この人も役柄を選ばずいろんな映画に出る女優さんである。きっとどんなオッファーがきても「あ、やりますやります!」という気のいい人なんだろう。ただたどんな役を演じても同じ、というのが気の毒。『シェークスピア・イン・ラブ』を超える作品に出会えないのも気の毒。ベッドでからむ相手役の男優がなんかみんな貧相なのも気の毒。



『ブレイド』(ウェズリー・スナイプス、クリス・クリストファーソン)

黒皮コートを翻してビルからビルへと宙を舞い、飛んでくる弾丸をひらりと避ける『マトリックス』のもろパクリが楽しい。



『シックス・ストリングス・サムライ』(ジェフリー・ファルコン)

マッド・マックス+子連れ狼+北斗の拳+エル・マリアッチ、というふうに図式的に書くとすごく面白そうな映画に思えるでしょう?

オープニングの字幕が「1957年、アメリカ合衆国はソ連に占領された。最後に残った自由の砦、ロスト・ヴェガスにはキング・エルヴィスが君臨していた。それから40年・・・キングの死後、その王座を狙ってロックンローラーたちが砂漠の都市をめざして集まり始めた・・・」

なんか期待させるではありませんか。アイディアは悪くない。

それなのに、これが・・・・つまらない。

これとロバート・ロドリゲスの『エル・マリアッチ』と小林旭の『ギターを抱いた渡り鳥』の三本立てで『ギターを抱いたサムライ・マリアッチ』というのはどうかしら。

「ギターもの」ではウォルター・ヒルの『クロスロード』が面白い。モーツァルトと伝説のブルース・ギタリスト、ロバート・ジョンソンに同時に憑依されたラルフ・マッチオ君がヘビメタ野郎と繰り広げるギターバトルのアイディアは卓抜。『嵐を呼ぶ男』の裕ちゃんのドラム合戦より面白い。ヒルの映画だから音楽監督はもちろんライ・クーダー。これはお薦めです。



『コリン・マッケンジー もう一人のグリフィス』

特別寄稿の松下正己さんです。(ほんとうは寄稿したわけではなく、個人宛のメールなんだけど、あまりに面白いので転載させて頂きました。)

コリン・マッケンジーという名前を御存知でしたか?

この映画は、ニュージーランド最初の映画作家であったコリン・マッケンジーの、失われていたフィルムを発見した映画監督ピーター・ジャクソン(『ブレインデッド』『乙女の祈り』等のユニークな作品で知られる)が、それをきっかけとして、忘れられていた彼の生涯を辿ったドキュメンタリー作品です。

ピーター・ジャクソン本人を始め、自分ではその価値を知らずにフィルムの整理をジャクソンに依頼したコリンの最後の妻ハナ、ニュージーランド出身の俳優サム・ニール、ニュージーランド・フィルムアーカイブの責任者等へのインタビューと多数の写真、新聞記事、わずかに残されていたフィルムの映像によって、コリン・マッケンジーの生涯が語られていくという非常にオーソドックスな構成になっていますが、その内容は驚くべきものであります。

1888年、ニュージーランドへ入植したイギリス人の家に生まれたコリンは、巡回上映にやってきたシネマトグラフの機械に興味をもち、試行錯誤の末に自己流の映画機械を製作してしまいます。撮影の際のフィルム走行は当時はクランクハンドルを手で回して行っていたので、一定の速度を維持することは不可能でした。

彼は撮影機を自転車に組み込むことでこの問題を解決しようとします。しかしこの方法では、前進移動撮影しかできない。この装置で撮影した、にわとりたちの中に突っ込んでいくフィルムの断片が残っています。さらに蒸気機関を応用した試みもなされましたが、火事を招いただけに終わりました。

また彼は、ニュージーランドの発明家ピアースが作り上げた飛行機の試験飛行の様子も撮影しています。飛行準備をしているスタッフの写真が残っていて、その一人の尻ポケットに入れられた新聞を拡大しデジタル処理してみると、新聞の日付けが読み取れるようになるのですが、何とピアースの試験飛行は、ライト兄弟より半年も前のことだったのです。

さらに残されたフィルムから、コリン・マッケンジーが世界最初のカラー撮影用フィルムを発明し、次いで世界最初のトーキー映画を完成させていたことが判明します。しかし、タヒチの女性たちを撮影したカラーテストフィルムは、公序良俗に反するとして没収され、ニュージーランドのゴールドラッシュをテーマにしたトーキー作品は、当時労働力として集められた中国人たちを主人公にしたために、台詞はすべて中国語で全く意味がわからず、観客からそっぽを向かれてしまったのでした。

こうした様々なトラブルにもめげず、彼は大作『サロメ』の撮影に取りかかります。資金の調達もうまくいき、密林の奥深くにつくられた巨大なエルサレムのセットで、撮影が敢行されました。しかし最終的にコリン・マッケンジーは消息を断ち、『サロメ』は忘れ去られてしまいます。

ピーター・ジャクソンとそのスタッフは、撮影場所の特定に成功し、現地に向かいます。このドキュメンタリーのクライマックスともいうべきこのシークェンスで、密林の奥深く分け入った一行は、遂に巨大な遺跡のようなセットを発見します。生い茂った木々の枝や地面に厚く堆積した朽ち葉を取り除いていくと、グリフィスの『イントレランス』のバビロンの神殿にも匹敵する、堂々たるエルサレムの神殿が姿を現わしたのです。

さらに驚くべき事実が明かされます。セットの一角に見つかった厚い木製の扉を開くと、そこは小道具部屋だったことがわかるのですが、その中に置かれた石棺の重い蓋を取り除くと、そこには、『サロメ』の現像済みフィルムの缶がぎっしりと詰められていたのです。

フィルムは修復され編集されて、1995年にニュージーランドで公開されました。その際のプレミアショーの様子と共に『サロメ』の見どころが紹介されます。映像は鮮明で、演技はダイナミック(預言者ヨハネは、コリン・マッケンジー自ら演じています)、とても70年も前の作品とは思えない程です。知られざるサイレントの傑作がここに甦ったのです。

そして遂にコリン・マッケンジーの最後が明らかにされます。彼の妻ハナがその価値を知らずに保存していたフィルムの中から、スペイン内乱の記録が発見されたのです。彼はこの戦いに義勇兵として参加し、戦いの様子を撮影し続けていました。戦闘のさなか、画面の中で味方の兵士が銃撃されます。コリンは、駆動したままの撮影機を地面に置いて、兵士に駆け寄ります。傾いた画面の中で、傷ついた兵士を抱きかかえたコリンに、敵の銃弾が降り注ぎます。動かなくなったふたりの姿を撮影機が撮影し続け、やがてフィルムが終わります。それが、コリン・マッケンジーの最後の姿でした。

BBC製作の『第三の選択』以来、これ程よく出来た「ドキュメンタリー」はなかったと言っていいでしょう。

ハラルト・シュテンプケの『鼻歩類』、スタニスワフ・レムの『完全な真空』『虚数』、ドミニク・ノゲースの『三人のランボー』『レーニン・ダダ』、マルコム・ブラドベリイの『超哲学者マンソンジュ氏』ジョアン・フォンクベルタの『秘密の動物誌』や『スプートニク』等々、驚くべき真実を語っている書物の例はいくつも存在するのですが、ドキュメンタリー映画の分野で同様のものを探そうとすると、意外に少ないことに気が付きます。それは多分、映画のリアリティが、常にスクリーン上に於ける「もうひとつ」のリアリティであることが前提になっているからではないかと思われます。スクリーン上の世界は、何はともあれ、スクリーン上に生成したもうひとつの世界なのです。テレビで放映されるビデオカメラで撮影されたドキュメンタリーを見るのとは異なり、スクリーンは常に多世界への入り口なので、その映像がわれわれの生の世界と地続きだと観客に信じさせることは実は非常に困難なのではないでしょうか。どのようなドキュメンタリーでも、それが事実そのものであると信じるよりはフィクションとして受容することの方が実際には容易なのであって、そのスクリーン上に「私自身」が登場してこない限り、スクリーン上の世界は常に「もうひとつ」の世界であり続けるのです。

そうした困難さを克服して、その上にさらにもうひとつのリアリティを仮構する作業に人を向かわせるのは、果たしてどのような情熱なのでしょうか。

 

はい、松下君、ありがとうございました。

めちゃめちゃ面白そうな話ですが、「驚くべき真実」って・・・これ「作り話」なんですか?(『フリッカー』のマックス・キャッスルみたいな・・・)ねえ。どっちなの?ドキュメンタリーなの、それとも「ドキュメンタリー仕立てのフィクション」なの?それとも「ドキュメンタリー仕立てのフィクション仕立てのドキュメンタリー」なの?



『ライアー』(ティム・ロス、クリス・ペン)

こういうの好きです。『レッサー・イーヴル』とか『ユージュアル・サスペクツ』とか『クライング・ゲーム』とか「あっと驚く大どんでん返し」が私が好き。

ただティム・ロスがどうみても「大富豪のおぼっちゃま、IQ158」には見えないというのが決定的な難点。



今日はゲスト・ライターをお迎えしました。松下くんは『マトリックス』をどうごらんになったのでしょう?(コピーライトはいいですよね)

Welcome to real world

こんにちは、松下正己です。

『マトリックス』を観てきました。評判に違わずいろいろと面白い作品でした。

われわれの生きているこの世界が実は仮想現実であって、本当の世界は別にある、という設定自体に目新しさはないのですが、それを納得させるべく構築された特殊効果には驚くべきものがあります。

われわれの世界とほぼ同一と思われる映画内世界が、主人公ネオの覚醒と共に徐々に仮想の世界のように見えてくるところが、何ともいえない不思議な感触で表現されています。通常の映画体験では、映画内世界は当然ひとつなのですが、この映画ではそれがふたつある。われわれ観客はそのふたつの世界を行き来することになります。そして映画の中では、そのふたつのうちのひとつは本来の現実世界ではないとされている訳です。しかしながら、映画の殆どの部分は、仮想現実の世界を舞台に進行していきます。世界が仮想現実だと認識した上で行動する主人公たち(と敵対する擬人化されたコンピュータ)は超人的な活躍を繰り広げ、そこが映画の見せ場ともなっているのですが、その間現実世界の主人公たちは、あたかも眠っているかのごとく(そして夢見ているかのごとく)機械装置の上に横たわったままなのです。これは実に奇妙な状況であるといわざるを得ません。

だからこの映画もまた、映画について語っているのです。

ホバークラフト艇「ネブガドネザル」号の中で夢見る主人公たち。彼等の夢はしかし、無限に並ぶ生命維持装置に浸かっている全ての人間たちの見る夢とは異なるいわば覚醒夢です。人々はマトリックスに囚われ、そうすることによってマトリックスに生き、いわば人生の意味をかたちづくっている訳です。しかし主人公たちだけは、その「世界」が、仮想のものであることを知っているから、その世界に囚われつつもその世界そのものの構造に介入することができます。

われわれは映画を観て、わずかの時間だけ映画の中の世界に生きるのですが、その世界をコントロールすることはできない。けれども映画の力は圧倒的で、われわれのコントロール以上の効果が映画によって与えられるから、コントロールしようなどとはそもそも考えたりしないのです。

この映画の主人公たちは、それに挑戦しようとしています。しかしわれわれが覚醒夢を見るときにするように、われわれを取り囲む仮構の世界そのものを変形させることはできない。マトリックスという仮想現実の中では、通常の運動能力が極端に増強されるという、本人にかかわる要素だけがクローズアップされています。超人的なふるまいを見せるネオとトリニティに投射=同一化を試みるわれわれ観客は、しかし、いつもの映画体験とは異なる奇妙な感覚に捉えられます。

主人公が動き回る世界が仮構のものであると知ってしまった観客は、では本当は自分は、「ネブガドネザル」号の内部で横たわったまま「ジャックイン」しているのだということを了解できるのでしょうか。映画館の椅子に座ったまま、「ネブガドネザル」号の中に横たわり、さらにそこからコンピュータに接続した仮想現実の中で、動き回るという心的操作を行えるのでしょうか。現実世界とマトリックス世界は、同一の映画の中の部分という意味では区別がつきません。

主人公たちのアクションは、その多くのショットがスローモーションで描かれ、さらにそのスローモーションの実際には数秒の動きが、時に高速度で回転する撮影機で撮影されたように表現されています。これは実際には360度円形に配置された120台のスチールカメラによる映像をつなぎ合わせたもので、視覚的には非常にユニークなのですが、これは、映画機械によるマトリックス世界の描写ということになります。現実の世界と異なるマトリックス世界の何らかの歪みといったものを表現し、両者を区別するためにこのような撮影の方法が考え出されたのでしょう。しかしこれはあくまでも撮影の技法であって、実際にそう見えている訳ではないはずです。結局この方法はマトリックス世界の異様ではあるが確固とした存在感をこそ体現してしまったのではないでしょうか。

映画の中の世界では、あらゆることが可能になる、ということから言えば、この映画もまた、映画を見ることについて語っているのです。荒廃し、コンピュータに支配された現実の世界、CGによってつくられたいわば超現実的でアンリアルな世界に囚われたままで夢見る世界は、一見見慣れたわれわれの世界のようでありながら、超人的な活躍の可能なもうひとつの世界です。スクリーン上の世界は、常に単一の構造、表面しかありません。その世界が「仮想現実」であるということはあり得ないのです。だからマトリックスこそが、われわれの世界そのものだと言えるのではないでしょうか。



『マトリックス』(監督:Andy & Larry Wachowski, 出演:キアヌ・リーブス、ロレンス・フィッシュバーン、キャリー=アン・モス)

こ、これは・・・お、面白い。

これはお薦めだ。ストーリーはP・K・ディック(『模造記憶』)+ウィリアム・ギブソン(『ニューロマンサー』)+『ターミネーター』で新味はなく、例によって「なーんにも考えてない」キアヌ・リーブスがどんどん事件に巻き込まれていくという話だけれどけれど、解放感にあふれた快適な映像。人間の身体がほんとうにこんなふうに動いたら気持がいいだろうなあという子供っぽい想像力がそのままに映像化されている。最初のキャリー=アンの逃走シーンから、カンフー訓練の場面、ビルの銃撃戦、地下鉄構内の格闘シーンと、とにかく登場人物が動いているときはスクリーンから目が離せない。

ブルース・リーによって開拓された「戦う身体の美しさ」へのこだわりはCG技術でここまで進化したのかと感嘆。これと比べると『エピソードI』のライト・セーバーでの剣戟シーンもはるか一時代前というほどに色褪せてしまう。

当然次は香港映画がツイ・ハーク+リー・リンチェイで『マトリックス』の柳の下の二匹目の泥鰌を狙いに来るだろう。こういうことにかけては素早いからなあ。わくわく。

しかし、はしゃいでいるだけでは精神科医の頼藤先生がなぜ『マトリックス』に興味を示したのか分からない。

もちろんこの映画には「裏読み」の筋がある。

この映画は全編が「転移」のメタファーになっているのだ。

「マトリックス」の作り出す仮想現実の「見方」を分析者モーフィアス(ロレンス・フィッシュバーン)に導かれて、分析主体ネオ(キアヌ)が習得する。そして、そこでのゲームのルールを習得し、コミュニケーションを成立させ、仮想現実=物語の世界を闘いの場として選び取って行く。その瞬間に「転移」が完成し、ネオは「治癒」される。

コンピュータが支配し、「イカ」がうごめく、汚水管の中の世界はラカンのいう「現実界」である。そこはたしかに現実だけれど、記号が有効に機能しない場である。(だから繰り返しモーフィアスは「言葉では説明できない」と言うのだ。)

人間が生き、闘い、意味を生成できるのは、「現実界」ではなく、「マトリックス」の世界である。(「マトリックス」にはエージェントという「相互に区別しがたい同胞」しか存在しないし、「父」が機能していないから、「マトリックス」は想像界だ。)

ネオはモーフィアスによる転移を経由して、現実界から想像界に踏み進んだ。となれば当然、このあと彼の仕事は彼自身が(映画の字幕では「救世主」と訳されていたけれど)「The One」に、つまり彼以外の全員にとっての「The Other」(「大文字の他者」)となって、「父なき」マトリックスの世界に「原父」として君臨すること以外にない。

あらゆる物語は必ずビルドゥングスロマンになってしまう。バカSF映画でさえ。

それにしても、どうしてラカン理論は何にでもあてはまってしまうのだろう。不思議だ。もしかすると、ラカンは真理を語っているのかも知れない。



『ダーティ・ハリー』(監督:ドン・シーゲル、主演:クリント・イーストウッド)

1971年の映画。画面がざらざらしている。そういえば、公開当時から、なんだか黄色っぽい、汚い画面だった。ベースをぶんぶん効かせたタイトルバックの音楽はラロ・シフリン。(『燃えよドラゴン』の「じゃーん、じゃじゃん!」というのとTVの『スパイ大作戦』の「じゃん、じゃん、じゃんじゃん、じゃんじゃん・・・」のシフリンである。・・・しかし私はすべての音楽を「じゃん」だけで表現できるとでも思っているのだろうか。)

70年代始めの「夢のカリフォルニア」の「花のサンフランシスコ」が舞台なのだが、とにかく街が汚い。町行く女の子たちはみんなストレートのロングヘアに狸顔メイクをして民族衣装みたいなものを着ているが、この人たちもみんな薄汚い。30年におよぶ歳月が記憶を浄化してしまっていたのだが、そういえばヒッピーとか全共闘とかいうのは、とにかく汚い人たちだったのを思い出した。

クリント・イーストウッドはTVの人気シリーズ『ローハイド』のロディ役で人気が出たがアメリカでは芽が出ず、イタリアに渡り、元祖マカロニ・ウェスタン『荒野の用心棒』でブレーク、ハリウッドに『ダーティ・ハリー』で凱旋した。大スターに列する直前の強烈なオーラを全身から発散しているこのときのクリント・イーストウッドはほんとうに素晴らしい。

ハリー・キャラハン刑事は犯罪者の人権をあまり尊重しない。令状なしの捜査と拷問による自白強要によって彼が発見した凶器は裁判における証拠能力を失い、シリアル・キラー『蠍座の男』は無罪放免となる。地方検事のオフィスで「容疑者にも人権はあるのだ。君は憲法修正4条、5条、6条に違反した」と告げる検事に対して「被害者の人権は誰が守るのか?」とキャラハン刑事は反問して部屋を出て行く。

「被害者の人権は誰が守るのか?」

そうか、この台詞は『ダーティ・ハリー』が典拠だったのか。

あるアメリカの批評家はアメリカ・ファシズムは『ダーティ・ハリー』から始まったと書いている。

キャラハン刑事の考えによれば、犯罪者には人権なんかない。

『ダーティ・ハリー』以後、70−90年代のアメリカの刑事映画の99%は、掟破りの「はみだし刑事」たちが警察のルーティンを無視し、憲法を破り、容疑者を殴り、蹴り、ぎりぎり締め上げて真犯人をつかまえるという話になってしまった。

これらの映画ではさいわいなことに「あぶない刑事」たちが直観的に「やつが犯人だ」と思い込んだひとが必ず犯人だからいいようなもの、勘違いだったらどうするんだろう。

自分が過失を犯す可能性をまったく顧慮せずに、銃を撃ち、暴行し、拷問で自白を強要する刑事たちと、それを責めて停職や退職に追い込もうとする小心な上司や内務調査官や検事たちの対立という説話原型をハリウッド映画はそれ以後膨大な数の刑事映画を通じて語ってきた。

ハリー・キャラハン刑事は「あぶない刑事」の一種のIdealtypus として機能してきた。その神話のoverdoseは間違いなく「世界の警察官」としてのアメリカ人のメンタリティに何らかの影響を及ぼしたはずである。



『がんばっていきまっしょい』(監督:磯村一路、主演:田中麗奈)

98年の映画賞新人賞を総なめにした田中麗奈のデビュー作。

期待にたがわずとてもよい映画であった。

「ちょっと前の・田舎の町の・少年少女の・平凡な日常を描いた」映画には名作が多い。大林宣彦の『時をかける少女』、『青春デンデケデケデケ』、『恋する女たち』(大森一樹)、『ラブレター』(岩井俊二)、思い出すだけでもいくつもある。

『がんばっていきまっしょい』はその「柳の下」の伝統に愚直なまでに忠実である。先行する傑作たちの「定型」をきちんと踏まえて、物語的にも映像的にもなまじな「新しさ」を加えない「伝統芸」への忠誠が美しい映画に結実した。

舞台は1976年、愛媛松山。「女子ボート部」を創部した平凡な少女たちが県大会の決勝戦にすすむまでの、二夏だけのきらめく日々が美しい四季の海と松山の古い町並みを背景に描かれる。

恋愛なし、暴力なし、争いごとなし、家庭不和なし、ミステリーなし・・・映画の「ダレ場」となるようなわざとらしい劇的要素は周到なまでに排除され、物語のすべては雪崩れ込むように二夏目の国体予選に向かって収斂してゆく。そして、「女子ボート部は県大会の決勝にすすむことができるであろうか」というほとんど学校新聞レベルの出来事にすぎないクライマックスへ向けて、私たちはいつのまにか(彼女たちと)期待と不安を共有しているのである。

主人公は高校にはいっても「何もすることがなく」、のちに述懐するとおり「ボートを取ったら何も残らない」くらいに内容のない少女である。勉強もできないし、感情も未発達だし、コミュニケーション能力もないし、べつに統率力もない。

その「何もやることがない」少女の中の何かに、海を進むレガッタが火をつける。退屈で凡庸な生活の隙間に点火したその小さな炎のゆらめきを、ガラスの能面のような田中麗奈の無表情がみごとに掬いとってゆく。

どんな平凡な人生にも身体がはじけるような一瞬の夏が訪れる。そして、残りの時間をひとびとはそれを回想してやり過ごして行くのである。 

準決勝の前夜、生涯でもっとも劇的な日を前にしてたかぶる五人のクルーは「このまま時間が止まればいいのに」と願う。それは彼女たちが、人生でもっとも輝かしい時間をいま過ごしており、そのかけがえのない時間は二度と帰ってこないことをすでに知っているからである。

かつて何かがあった。それは去ってしまって、いまはない。

私はそういう話に弱い。



『ザ・ロングキス・グッドナイト』(レニー・ハーリンご夫妻&サミュエル・L・ジャクソン)

合気道の合宿ですっかり疲労困憊してしまったので、あたまがカラカラするような映画がみたくなってAVセンターからこれと『ダーティ・ハリー』を借りてきた。

だいぶ前に見たので筋をあらかた忘れていた。ジーナ・デイビスは『プリティ・リーグ』がすごくよかったがその他にはあまり印象に残っていない。(『テルマ&ルイーズ』ではスーザン・サランドンにいいところを持って行かれてたし)この間、ある映画(題名を忘れた)を見ていて「あ、ジーナ・デイビスだ。ずいぶん若くなったなあ」と思っていたら、別人だった。よくある顔なのかもしれない。

亭主が監督なので、美人スパイが拷問されたり、殺されかけたりするのに、異常なまでに露出度が低い。敵に捕まって相方のサミュエルさんはぶたれて全裸にされて縛られて転がされているのに、ジーナ・デイビスは縛られて冷水につけられて「寒さ責め」にされるという拷問を受けるのにたくさん服を着ている。それでは拷問にならんぞ。

二度目の拷問も「寒さ責め」なのだが、なぜか上着をとられるだけで、下にまだ二枚も着ている。繰り返し言うが、それでは拷問にならんぞ。



『スネークアイズ』(ブライアン・デパルマ&ニコラス・ケイジ)

デパルマデパルマした映画だった。どういうのを「デパルマ」的というのかは定かでないが、おそらくそこらじゅうにヒッチコックへのオマージュがちりばめられているのであろう。

「スネークアイズ」というのは「親の総取り」という賭博用語らしい。ニコラス・ケイジの眼が爬虫類的だということではないようである。

私はこれがはじめて見るニコラス・ケイジの刑事もの映画であったので、題名が『ニコラス刑事』だったらよかったのに、と思った。



『ユーガッタメール』(トム・ハンクス、メグ・ライアン)

メグ・ライアンは同棲相手の男に「じつは好きな女性がいるんだ・・・」と告白されて、「え、実は私もあなたのこともう愛してなかったのよ」ということでばんざーいと二人で乾杯する。

トム・ハンクスは故障したエレヴェーターの中で恋人がちょっといらつくのを見ただけで別れを決意する。

トム・ハンクスのお父さんは四番目だかの妻と離婚したあと、せいせいした顔で「やあ、これでまた独身だ」と息子と乾杯する。

お祖父さんも何度目かの若い細君とおさかんなようである。

Shop around the corner の店員たちも、みんなくっついたり別れたたりしている。

この映画に出てくる人の中には「添い遂げる」ということに価値を見いだしているひとがひとりもいない。(すごいね)

これが当世風恋愛映画らしい。

だからエンドマークが出て、トム・ハンクスとメグ・ライアンがキスしていても、きっとそのうち別れてしまうんだろうな、と私たちは内心ではみんな思っている。

この中で恋愛と無縁なのは、トム・ハンクスのビジネス・パートナーの黒人青年だけである。おそらく彼はホモで、トム・ハンクスに岡惚れという設定なのであろう。決して裏切ることのない「純愛」はホモセクシュアルのプラトニックラブの片思いのひめごと、というかたちでしか生き延びられないのが現代アメリカの恋愛事情だ、というのがこの映画の教訓でした。

とほほ。



『パーフェクト・カップル』(Primary colours) (監督:マイク・ニコルス、出演:ジョン・トラヴォルタ、エマ・トンプソン、キャシー・ベイツ)

大学のAVライブラリーに行ったら新作があったので、『スネークアイズ』と『ユーガッタメール』を借りて帰ってくる。夕食が終わって、アイロンかけも終わって、食器も洗って、主婦の一日が終わり、ソファーに深々と座り、白ワインを片手に『スネークアイズ』を見ようとしたら、入れ物だけ『スネークアイズ』で中身は『パーフェクト・カップル』だった。前に借りた人が入れ間違えたのだ。あまりの落差に衝撃を受けるが、気を取り直して「これもご縁」と間違い映画を見ることにする。

春にどこかでこの映画の看板を見たときに「私の亭主はおたんこなす」とかいうようなすさまじいキャッチコピーが書いてあった。クリントン大統領夫妻のどたばたをパロディ化した志の低いコメディだろうと思っていたが、見てびっくり。なんと、正統派の「大統領選挙キャンペーン・バックステージもの」の力作でありました。

映画は指名選挙というもののダーティな部分をかなり強調して描いているが、基調は「告発」のトーンではない。出てくるすべての候補者はそれぞれにダーティであり、それぞれに美質を備えている。彼らのうちから、相対的に「より少なくダーティ」であり、「より多くクレヴァー」で、「よりタフな」政治家を選び出すのが指名選挙というふるい落としのシステムなのだということを映画は教えてくれる。

ジョン・トラヴォルタ演じるスタントン知事は計算高さと無防備さ、イノセンスと邪悪さ、志の高さと性根の卑しさを同居させた魅力的な人物である。こういう「悪い人なんだかいい人なんだかよく分からない役」をやらせるとトラヴォルタはほんとうに上手い。

政治は正義や真理を賭けたゲームではなく、相対的に「よりましなオプション」を絞り込むための散文的なプロセスであるということを、トラブル続きの騒がしい選挙活動をへらへらと乗り切って行くタフな候補者の姿を通じて、映画は平明な口調で語っている。

この映画では、スタントン候補がテレビ演説会や党支部集会で行う演説の部分がいちばんの山場である。意外なことに「むきだしの本音」が語られているはずのバックステージでの対話よりも、表舞台で語られる「きれいごと」のやりとりの方がスリリングでリアルなのである。

政治プロセスというものはそういうものであるべきだと映画は語っているようである。

大統領が「何もの」であるかではなく、「何を」行うつもりでいるのか、「何を」行う能力があるのか、それを問うべきだと。(事実、アメリカ国民のマジョリティはビル・クリントンの弾劾騒動のとき検察官とマスコミの過熱ぶりに水を差すように、「仕事さえちゃんとやれば、多少下半身がルーズでも、まあ、いいよ」というふうなクールな反応をしめした。)

「内面」に対するこの挑戦は映画のカット割りにも反映している。カットの切り替えがこちらの期待よりつねにわずかずつ早いのである。

ふつうはダイアローグが終わったあとも、一二秒は沈黙の場面を映し出して、「そこでヘビーな言葉が語られたので重い沈黙が場を支配している」というようなことを図像的に説明する。あるいは鼻先でドアをばたんとしめられたので「呆然としている」顔とか、電話を切ったあとの「困惑した」表情とか、決定的な言葉を口にしてしまったあとの「相手の反応をうかがうような」表情とか・・・そういうものを映画は「クリシェ」として乱用する。

ところが、この映画では「何かを言いたいが言葉にならない」表情のアップというものは狂言回しのヘンリー青年にだけ許されて、あとは一切ないのである。彼以外の登場人物は(主人公であるはずのスタントン知事でさえ)、台詞を言わないときににはカメラのフォーカスが合っていないし、台詞が終わった瞬間にカメラはその人から離れてしまう。まるで映画が関心を寄せるのは「言葉」だけであるかのように。

言葉にならない人間の「内面」や非言語的なメッセージを映画はみごとなまで徹底的に切り捨てる。

ヘンリー君だけが無言のアップを繰り返しスクリーンに広げるのは、彼の役の意味がおそらく「何かを言いたいが言葉にならない」「何かを決断したいが行動に移せない」という機能=内面性そのものだからである。

それゆえ、映画のラストは「思いといらだちだけがあってそれを現実に移せない」黒人青年と「言葉と行動だけがあって内面を持たない」スタントン知事がみつめあい、「内面」が屈服して終わることになる。青年の近代的・内省的自我が崩れ落ちて、スタントンという人格をまとった機能としての政治マシン=集合的自我のうちに統合されてゆくのである。

なるほど。

アメリカの政治的成熟を感じさせるなかなかに渋くまた奥の深い映画であった。このようなウェルメイドな映画をバカ・コメディとして売ろうとした配給会社の「おたんこなす」社員は可及的すみやかにリストラしてほしい。



『我が青春に悔いなし』(監督:黒澤明、出演:原節子、大河内傳次郎、藤田進)

高校生のころこの映画を見て、非情に感動した覚えがある。「感動した」ということだけ覚えていて、内容をまるで忘れていたのでLDで見直すことにした。

うーん、ちょっと図式的かな。(高校生には分かりやすいけど)

映画のラストで、「私、いまでは農村文化改良運動の輝ける指導者なのよ」と原節子が笑うところは、なんだか中国共産党のプロパガンダ映画を見せられているようで、見ている私が少し恥ずかしくなってしまった。原節子と杉村春子が田植えをしているときに「顧みて悔いのない人生」と言う言葉が繰り返されるのもちょっと照れくさかった。

恥ずかしかったり照れくさかったりするのは、私がその言葉を不快や違和感を感じているということではむろんない。私はその言葉を正しいと思い、それを受け容れたいと思っている。にもかかわらず「ちょっと待ってね・・・」というためらいを覚えるのは、やはりそれが語られる「口調」や「トーン」がたたえているある種の「教条性」に過剰反応してしまうからだろう。

もちろん戦前戦中にあっては、フレンドリーでオープンハーテッドな語法では、大勢にあらがうような思想的立場を貫くことはできなかっただろうということは分かる。しかし、その可能性を検討してみることも必要ではないのか。

野毛(藤田進)は左翼冒険主義から偽装転向をつうじてブランキ主義的な秘密結社組織に向かう。糸川(河野秋武)は微温的な学生運動から思想検察へシフトする。ここには自分の思想を「純化」させることへの固執だけがあり、おのれの思想を「ゆっくり深め、広げ、豊かなものにしてゆく」という指向が欠けている。

左翼運動はピュアなものを求める「青年」的なエートスとよく親和する。だから、左翼運動のサポーターは一貫して「青年」たちであった。そして、この「青年」たちが世の中の仕組みがわかってきて「おじさん」になると、(1)「世の中、そう簡単にはいかんよ、ははは」と大勢に順応してゆく(糸川の選択)(2)ピュアな政治目的のための高度に政治的な古典的陰謀組織を作る(野毛の選択)というふたつの選択肢のどちらかを選ぶことになるのである。

(1)はふつうのサラリーマンへの道、(2)は「党派」への道である。

でも「おじさん」にはふたつしか選択肢がないというのは、あまりにも貧しすぎないだろうか?

人間の精神の貧しさや醜さを事実としては受け容れつつ、「世の中の仕組み」が分かった上でなお「正義を求める」という生き方を選ぶことはできないのだろうか?

社会改革へ向けての提言は「糾弾」や「告発」以外の語法では語れないのだろうか?

赦し、受け容れるところから始めるものは現状維持、現状肯定に帰着するほかないというのは本当なのだろうか?

私がこの映画の中でひとり深い共感を覚えたのは八木原教授(大河内傳次郎)である。それはたぶんこの人が「第三の道」を模索するおじさんだからだろうと思う。

教授は、相手によって、状況によって、そのつど言うことの内容と口調を変える。それは、教授が「自分は何を言いたいのか」ということよりも、「この人は何を言ってほしくていま私の前に立っているのか」を考えながら対話しているからである。

相手の思考プロセスそのものへの高度の同調能力、相手の「欲望」への深い洞察、それが教授を登場人物全員にとって「知っていると想定されている人(sujet suppose savoir)」という特権的地位につける。そして、このそのつど言うことの変わるあいまいな人物が逆説的なことに「不動の定点」として、時代の変遷を超えて、ひとびとの「燈台」となっているのである。

軍国主義という愚劣な政治的オプションに対して、どうして戦前の日本社会は有効な反抗を組織できなかったのか?

この困難な問いへの答えのひとつの可能性として、日本社会が「八木原教授的なもの」、すなわち「父の機能」を社会的な制度として構築しえなかったことにあるからではないか、と私は映画を見ながら思った。

八木原教授や、『晩春』の曾宮教授や、『秋刀魚の味』の平山艦長のような「父」たち−赦し、受け容れ、孤独に耐える知的な家長たち、他の家族よりも多くを差し出し、少なく受け取り、より多くを担い、他に先んじて苦しむことを当然の役割だと信じている「父」たち−の構造的な欠落こそが日本社会の問題だったのではないだろうか。

社会が愚劣な方向へ向かうのをとどめようとするとき、必要なものは過激さや純粋さではなく、その語の厳密な意味での「父」たちとその分析的知性であるのではないだろうか。



『私をシャグしたスパイ』(マイク・マイヤーズ)

昨日、塚口サンサン劇場におきまして、KCMMFC(神戸女学院マイク・マイヤーズ・ファン・クラブ)の設立大会が滞りなく挙行されましたことをまずはご報告申し上げます。

インターネットをつかった全国の「隠れマイク・マイヤーズ・ファン」の掘り起こしを策したにもかかわらず、当日会場に結集したのは、「三杉会長」と「内田事務局長」の二名のみ。(お誘いした塚口在住のN先生にはきっぱりと「私はいきません」と断られてしまいました。)

案の定、ロードショー開始1週間目にもかかわらず、劇場は5時からの回の客が5組、7時15分からの回の客が4組というすさまじい「閑古鳥」。『オースティン・パワーズ』の業績不振にもかかわらず、アメリカでの人気をあてこんで大ロードショーを展開した配給会社はまだまだ日本の観客の「バカ映画」に対する許容量を甘く見ていたということでありましょう。おそらく、いまごろ配給会社内部では、全国紙に全面広告を打ったりしたバカ社員のリストラが真剣に討議されていることと思われます。

現に映画が終わったとき、エンド・クレジットのあとにまだ「おまけ」があって、それを見てゲラゲラ笑ってからふと辺りを見回すと、そこまで映画館に残っていたのは、私たち二人だけであったのでした。

映画そのものは私たちMMファンにはたまらん「バカ」ギャグの嵐でした。

前作よりも「エロス」度が低下した代わりに、「スカトロ」系、「肛門」系、「口唇」系のギャグがいっそう強調され、マイク・マイヤーズの確信犯的な幼児退行がいやがうえにも露出した映画でありました。

タイム・マシンがらみのプロットも「1967年から1999年のあいだを永遠に行き来する」という時間のリニアな進行に対する強い抵抗感を感じさせるものでした。

この過激な退行ぶりとあらゆるオリジナリティの決然たる拒否は、他の追随を許さぬものでありましょう。(封切館だったので、吉本興業のつくった安手のパロディを併映しておりましたが、それがまったくパロディになっていないところに改めてマイク・マイヤーズの底知れぬ才能を伺い知ったのでした。)

どうやら『オースティン・パワーズ3』を見越したような伏線が張られておりましたが、きっと『3』も愛する彼女がフェムボットだった、というところから始まるんでしょうね。バカですねえ。

映画のあと三杉先生と(そこだけ参加の)難波江先生と『ナジャ』でサンテミリオンなどを喫しつつ、映画は引用の織物であるなどと高尚な総括を行ったのでありました。

三杉先生はロブ・ロウがこんな映画に出て、これからさきの演技者としてのキャリアをどうやって再建するつもりだろうと心配しておられましたが、ロブ・ロウはアメリカではファンの女の子を***に連れ込んで***しているところを****されて、それが***されてしまって、いまでは「ただの***おじさん」という評価が定着しているということですから、ご懸念には及ばないかと思います。いずれにせよ、こんな映画に出てしまった以上、ロバート・ワグナーもマイケル・ヨークもみんな俳優としてのキャリアは「終わり」だと思います。



『非情城市』(監督:侯孝賢、出演:李天禄、トニー・レオンほか)

台湾映画を集中的に見て、ナショナル・アイデンティディの問題について考えることにした。

日本史のおさらいをしておくと、台湾は1895年の日清戦争のあと、下関条約で清朝に見捨てられて日本に割譲され以後1945年まで50年間日本統治下にあった植民地である。台湾には原住民の高砂族のほか、大陸から移住してきた漢民族がおり、もちろん沖縄とは指呼の間だから琉球系のひともいるし、植民地になってからはどかどかと日本人もやってきた。ある種の「るつぼ」である。しかし、やはり中軸をなしているのは「大陸文化」と「日本文化」のハイブリッドである。

林家の四男、林文清(トニー・レオン)が親友の寛栄といっしょに暮らしている部屋の掛け軸に書いてあるのは、日本人が大好きな張継の「楓橋夜泊」である。(「月落ち烏啼いて霜天に満つ」というあの七言絶句)

寛栄君をはじめとする台湾の青年知識人たちの革命的情念はレーニン主義的というよりは「壮士ひとたび去ってまた帰らず」の易水歌に「朝日ににおう山桜花」が混じった志士的エートスである。

戦後、外省人(45年以後の大陸からの移民)と本省人(それ以前の日本の皇民化教育を受けた人たち)のあいだで暴力的な抗争事件があったとき、本省人かどうかをチェックするときに台湾語と日本語で質問をする。答えられなければ外省人。

だから『非情城市』の登場人物たちは全員日本語と台湾語のバイリンガルという想定である。主人公たちは旧宗主国の居留民(まだ日本に帰還出来ずにいる人たち)とは日本語で会話する。

一方、戦後大陸から流入してきた大陸やくざと台湾やくざの長兄のあいだの会話は、同じ漢民族でありながら、なんと二重に通訳がいるのである。(長兄は台湾語しか話せない。上海やくざは上海語だけしか話せない。その両方を話せる人間がいないので、あいだにもう二人「台湾語を別の中国語(北京官話か、広東語か)に訳せるひと」と「別の中国語を上海語に訳せるひと」が入るのである。ややこしい)

このコミュニケーションの不調が原因で長兄は死に次兄は廃人となる。

言語のレヴェルだけに限って言えば、主人公たちは日本人とはコミュニケーションができるが、大陸の同胞とはコミュニケーションができない。

そして、国民政府の行政官は日本人以上の激しい収奪を台湾人民にたいして行い、暴力的な弾圧を行うことになる。その理由は「台湾の人々は日本の奴隷化教育を受けて、奴隷化しているから劣等民族である」というのである。文化的に一体感を感じるべき同胞と心が通じないのである。

ふたつの大国の両方から収奪され、疎外された台湾はおろすべき「根」をどこに見いだすべきなのか。この「ねじれ」の構造を侯孝賢は静かに描いている。

考えさせられる映画である。「考えさせられる」というのは「結論がだせない」ときの逃げ口上の常套句ではあるが、ほかに言葉がない。



『スターウォーズ』『スターウォーズ・帝国の逆襲』『スターウォーズ・ジェダイの復讐』(ジョージ・ルーカス&スターウォーズメン)

『エピソードI』を見たら、エピソードIV,V,VIも見たくなるのが人情というものである。ツタヤのVHSは全部貸し出し中だったので、AVセンターでLDを借り出す。わお、特別篇だからドルビーだし、最初の公開のときにはなかった場面も見られてお得。

22年前の公開時には最初に「Episode IV」ときっぱり書いてあるのに気が付かなかった。そうか、ルーカスさんはちゃんと九部作を作るつもりだったのか。

いずれも何回見たか覚えてないくらい見たので、いまさらコメントしようもないけれど、感想を述べます。

(1)マーク・ハミルはどんどん老けてオーラを失って行く。『エピソードIV』のときはお肌もつやつやしていて、かわいい。その後『光る眼』で再会したときはお父さんとても悲しかったよ。いっぽう、ハリソン・フォードはどんどんいい男になってゆく。『エピソードIV』のときは『アメリカン・グラフィティ』のにやけ兄ちゃんのままで見るからに「二流」だが、『VI』ではもうインディ・ジョーンズになっていて、きらきらしている。

(2)キャリー・フィッシャーは『V』と『VI』のあいだにすごく太ってしまって、クランクインまでにもとの体重にもどしてこいと言われてすさまじいダイエットをしたせいで、『VI』の撮影中ずっと額に青筋を立てていたそうである。(ご存じのように、ひとはダイエットするを不機嫌になる)でも、よくみると『IV』からずっと不機嫌だった。もとから、ああいう顔なんだよ。それにしてもマーク・ハミルといい、キャリー・フィッシャーといい、どうしてこんな貧相な俳優に主役をふったのだろう。

(3)ヨーダは『V』では800歳だったが、『VI』では900歳になっていた。あの間に100年も経っていたとは・・・最初に登場したときにヨーダは懐中電灯ちょうだいとかいってだだをこねるのはどうしてなのか、何度見てもよく分からない。誰が見たってただのボケ老人だ。その無理難題にうんざりしたルークが「えーかげんにせんかい」と怒ると「忍耐力がないから、ジェダイになれない」なんて、あんまりだと私は思う。

ヨーダに似ている人として、公開当時は「宮沢喜一」と「細野晴臣」の名があがっていた。あれから20年、二人ともまだ現役だというのが偉い。(ところで、ヨーダはちゃんとルークに「ジェダイになるには年を取りすぎている」と文句を言っておりました。ジェダイ騎士学校の入学規定についてのさきの非難は謹んで撤回させていただきます。)

(4)ジャヴァ・ザ・ハットはレイア姫をセミ・ヌードにしておいて「げへへ、いずれお前もわしの虜じゃ」なんてやにさがっていたけれど、何するつもりだったんだろう。あんたカエルでしょ?

(5)ルークとレイア姫は「双子」だったらしいけど(ぜんぜん似てない)字幕ではbrother を「兄」、sister を「妹」としてあった。双子の場合は「あとから出てきたほう」が年長者という規定らしいが、戸田奈津子はどうやって出生順を知ったのであろう。

などなど、言いたいことはいろいろあるけれど、楽しい三晩でした。次が楽しみ。



『戯夢人生』(監督:侯孝賢、出演:李天禄、蔡振南ほか)

『多桑』と同じように、この映画でも日本帝国の植民地支配が、「好意的」とはいわないまでも「中立的」であろうとする視点から描かれている。

旧植民地の映画では、旧宗主国の人間たちは極悪非道に描かれるのが「お約束」である。しかし、侯孝賢はそのような図式的な描き方をしない。どこの国にもちゃんとした人と、くだらない人がいる。一人の人間のうちにさえ邪悪さと天使性は同居している。(主人公自身がそうだ)

そういう当たり前のことが当たり前に描かれている。

「台北州文山郡米英撃滅推進隊」の愛国人形劇のプロデュースをしている郡役所の川上課長はこの映画のなかに出てくるただ一人の温厚で理性的な紳士である。「こういう一見フレンドリーなひとが、実はどたんばで植民地主義者のばけの皮がはがれて、暴力的な本性をあらわにする。そういう話だな」とあたりをつけて見ていたが、いっこうにそうならない。

川上課長は主人公をいじめる日本人軍属を謹慎処分にし、鮎の解禁を破って捕まった主人公の息子を「大岡裁き」で釈放し、さいごに「台湾は私の第二の故郷です」と静かに述懐する。

だからどうだ、というのではなく、ただ「そういう事実がありました」と李天禄は回顧しているのである。

日本の郡役所が組織した「米英撃滅推進隊」はニューギニアで名誉の戦死をとげた皇民「ドウキ」を讃える人形劇を演目にしている。「ステレオタイプ化」されて描かれるGI、天皇陛下万歳を叫んで死ぬ「ステレオタイプ化された」皇軍兵士。

映画はそのようなプロパガンダ人形劇をアイロニカルな視線で描いているわけではない。けっこう「感動的」に描いているのである。

戦争は人形劇だ。人形にはただひとつの「本性」しかない。そこには迷いもないし、屈託もない。

でも人間は違う。

李天禄は巡業先でちょっといい女がいると妻子のことを忘れて浮気してしまうし、人形劇団もよそからいい条件でひっぱられるとすぐにほいほい移籍してしまう。プリンシプルというものがない。

主人公の父(蔡振南)人は『多桑』でトーサンを演じた人である。この映画でも下駄をからからさせて、邪悪なんだか優しいんだか、一本気なのかパラノイアなのかよく分からない怪しいキャラクターを演じていた。

人間てよく分からない。

李天禄の回想からもうひとつ私は興味深い真理を発見した。

運命はなんの意味もなく、でたらめにひとを打ち倒す。にもかかわらず、いろいろな出来事はなぜか不気味な「偶然の一致」を示し、偶然はしばしば論理的な因果関係をはるかに超えて密度の濃い因果応報のうちに人間を巻き込む。

世の中ってよく分からない。

映画をみたあと、いろいろなことが「分かる」映画といろいろなことが「分からなくなる」映画がある。『戯夢人生』は間違いなく、あとのほうの映画であった。



『ザ・グリード』(監督:知らない人、出演:『ジェロニモ』だった人ほか)

『映画秘宝』の「この映画を見ろ!99」という特集号で怪獣マニアの人たちが「B級怪獣映画の王道をゆく快作」と絶賛していたので、借りてみる。

いや、みごとに「王道」ですわ。全編、これ「お約束通り」。

「ねえ、監督、ちょっとはオリジナリティっていうものがなくていいんですか?この怪物もろ『トレマーズ』じゃないですか」

「いいんだよ。意外性がひとつもない、というこの予定調和の安心感が怪獣映画の楽しみ方なんだから」

「監督、この出口探して水潜るのは『ポセイドン・アドヴェンチャー』でしょ。泳いでいるうちに後ろの人が食べられちゃうのは『エイリアン4』」

「『デイライト』でスタローンもパクってたな。ほら、お前にだって分かるだろ。それがいいんだよ。『あ、あれのパクリじゃん』と客は思うだろ。それを映画のあとに喫茶店で女の子にしったかぶりして話せるじゃないか。わざとやってんだよ、おれは。」

「へえ、監督ってけっこういろいろ考えてるんですね・・あ、じゃこの水上バイクで建物の中を走り回るのは『フラッド』のパクリで、怪獣の顔は『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のオードリーのパクリで、主演女優が着る白いランニングは『フェア・ゲーム』のシンディ・クロフォードのパクリなんですね?」

「なんだ、急に頭がよくなったじゃねえか」



『用心棒』(黒澤明:三船敏郎、仲代達矢、加東大介、東野英治郎、などなど)

AVライブラリーも夏休みになるのでその前に黒澤明のLDをごっそり借りた。『用心棒』がハメットの『血の収穫』の時代劇化で、それをウォルター・ヒルが『ラストマン・スタンディング』に再翻案したことを前に書いたけれど、その間にクリント・イーストウッドの『荒野の用心棒』があったのを忘れていた。『ラストマン・スタンディング』はただちに『その後の仁義なき荒野の用心棒』に邦題を改めるように。



『椿三十郎』(黒澤明:三船敏郎、仲代達矢、加山雄三)

ああ、どうして黒澤監督はこのシリーズの続編を作ってくれなかったのだろう。『どですかでん』やら『影武者』やら『乱』のようなつまらない映画を撮る暇があったら、『麦畑四十郎』『栗林五十郎』を作ればよかったのに。



『どですかでん』(黒澤明:伴淳三郎、松村達雄)

非常に・ひ・じ・よ・ぅ・に、つまらない映画であったけれど、(見始めて1分くらいでもう止めようかと思った)伴淳三郎と松村達雄だけがすごくよかった。

とくに伴淳のワンシーン・ワンカットの「にこにこ・逆上・にこにこ」の変化は息が詰まってしまった。個人的に〔さかのぼって)この年のアカデミー主演男優賞を授与します。ぱちぱち。

松村達雄というひとは、「気のいいおじさん」の役ばかりしているけれど、この「小心で小狡くて好色なおやじ」は絶品。あと、一瞬だけでてくる屋台のおやじ(三井弘次)。なんだ『浮草』で田中春男たちからお金をくすねてとんずらしたあと、こんなところで屋台をしていたのか。昔のまんまだね。やっほー。



『七人の侍』(黒澤明:三船敏郎、志村喬、木村功、宮口精二、千秋実、加東大介)

『サムライ・フィクション』の項に書いてしまいましたが、それは私の勘違いで、武術指導を香取神道流の杉野嘉男先生がしたのは、『用心棒』と『七人の侍』。『椿三十郎』は久世龍さんの殺陣でした。慎んで訂正致します。

宮口精二はこのときまでいちども剣をにぎったことがなく、これがはじめての殺陣だったそうである。武道をしている人間の目から見ても、この人はかなりできる(ように見える)。ちょっと足が「居着き」気味には見えますが、剣先の冴えが後ろ足の踏み込みできれいに出ている。センスがいいんですね。

志村喬の剣のあつかいも、千秋実の「まきわり流」も、なかなかのものである。(まきわりってけっこうむずかしい)

三船敏郎の動きは天才的。これほど鋭く速く剣を遣った時代劇俳優はこれまでいないのではないかしら。菊千代の使う長剣は三尺以上ある。あれを左ト全を相手に笑いながらすらっと抜くだけでもけっこう大変だと私は思う。

だめなのは木村功。入り口で上段に構えるのだけれど、肩肘に力が入って、ぜんぜんだめ。でもいいのか「ぜんぜんできない若侍」の役なんだから。



『虎の尾を踏む男たち』(監督:黒澤明、出演:大河内傳次郎、藤田進、榎本健一、志村喬、森雅之)

未見の黒澤作品。エノケンさんという黒澤と全然カラーの違うひとをどう処理するのか楽しみにみたけれど、うまくはまっていた。エノケンさんはぼくが子供の頃にはもう「おじいさん」で軽快な身動きがむしろ痛々しく見えたけれど、このころ(1945年)はまだ元気で身体の線がきれい。(この芸風は一部、木梨憲武君が継承したようです)

それにしても偉いのはどこにでも出ている志村喬。『鴛鴦』の後これを見たらこれにも出ていて、LDを見終わったらケーブルテレビで『日本のいちばん長い日』をやっていて、ちょうど志村喬が台詞をしゃべっているところだった。

それから憎まれ役の「梶原の使者」。白塗りで眉毛をきりきり描いてあるのがなんと久松保夫。『日真名氏飛び出す』を知っている人はもういないだろうけれど、『ララミー牧場』のロバート・フラーの声はこの人だったんだよ。うう、なつかしかった。



『トゥルーマン・ショー』(ジム・キャリー)

たしかに一理ある。もし「トゥルーマン・ショー」をほんとうに放映していたら、私もときどき見るかもしれない。「なすびの懸賞生活」はこれのパクリだったのか。(それもものすごく制作費の安い)

でもこれに「エキストラ」で出るのは楽しいだろうな。『スティング』を一都市全体でやるわけだから。



『鴛鴦歌合戦』(監督:マキノ正博、出演:片岡千恵蔵、志村喬、ディック・ミネ)

石川茂樹君この夏イチオシの『鴛鴦歌合戦』(おしどりと読むのだよ)

石川君のホームページの映画評で激賞してありましたが、期待にはずれぬ快作。これがノモンハン事件の年の作品ということがよく分からない。日本のいう国もなかなか底が深いということでしょうか。

片岡千恵蔵の軽い芝居もいいけど、ディック・ミネの軽薄お殿様が最高。うしろで大騒ぎしているバカ家来たちも徹底していて気持ちがよい。でもここで騒いでいる役者たちの何人かは、そのあと兵隊にとられて、このバカ・ミュージカルの底抜けに愉快な世界とはまったく異質の世界で死んでいったのだろうと思うと複雑な気持ちになる。

終戦記念日にはこういう映画を放映してほしいと思いました。



『プライヴェート・ライアン』(監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:トム・ハンクス、マット・デイモン)

『史上最大の作戦』のオマハ・ビーチではけっこうどきどきしたけれど、スピルバーグのオマハ・ビーチにくらべたらピクニックみたいなものだ。これは私がこれまで見た中で一番「痛い」戦争映画だった。「戦争は痛い」という素朴な真実をこれほど雄弁に伝えた映画はかつてなかったと申し上げてよいでしょう。



『スター・ウォーズ:エピソードI』(監督:ジョージ・ルーカス、主演:リーアム・ニーセン)

「じゃんじゃーん、じゃかじゃ、じゃーんじゃん」というテーマ音楽を聴くと、それだけで、最初に『スター・ウォーズ』を見たときの興奮が蘇ってきて、ちょっとどきどきした。劇評も何も見ないで見たので、どういう話かぜんぜん分からず、いろいろ悩んでしまった。

ナタリー・ポートマンの王女さまなのだけれど、この人は「国民に選出された」というようなことを言っていたけれど、「選挙制王政」ってどういうシステムなんだろう。気になる。

アナキン君たち奴隷は逃げられないように体内に爆弾が仕掛けてあると言っていたので、どうやってそれを外すのだろう、あの象と蜂のハイブリッドみたいな故買屋が「へへへ、そのまま渡すと思うなよ」とか言って、アナキン少年爆殺をたくらむのでは・・・といらぬ心配してしまった。

ジェダイの騎士になるには、年が行きすぎていると評議員さんたちは文句言っていたけれど、アナキン君なんて6歳くらいだぜ。ルークがヨーダに弟子入りしたのはぜったい20歳越えていたと思うけど、いつのまに「ジェダイ騎士学校入学規定」はそんなにアバウトになったんだよ。責任者、出てきて説明しなさい。

そのほか、いろいろ謎は多いのですが、それらはいずれ全作品完結時には氷解するでありましょう。

あと、ひとつ思いついたのだけれど、最初にストーリーを説明する字幕がでるけど、あれを延々と20分くらいやって、映画のストーリーを全部説明して終わるというのを誰かやらないかしら。これは私が知る限り、映画史上誰も試みていない「文字テクスト映画」だ。



『ストーカー』(アンドレイ・タルコフスキー)

うちのお兄ちゃんは算盤のシビアな会社経営者であるが、たまにアートすることがある。タルコフスキーはお兄ちゃんのアートな感覚にびりびりきたらしく、ある日『ストーカー』をダビングしたヴィデオを送ってきて「ぜひ見て下さい」と書いてあった。しかし私はその前に『ソラリス』を見て、心底へたばったので、『ストーカー』も敬して遠ざけたまま数年が閲したのである。

ある夜、何も見るものがなくなった。手元にはコンビニで買った『MIB』(もう二度見た)と石川茂樹君から送られた『鴛鴦歌合戦』と的場先生から貰ったブレヒトのオペラのヴィデオとこれと四つの選択肢しかなかった。何となく、その夜は「アートに耐えられる」ような気分だったので、この機会にタルコフスキーとの不幸な出会いをもう一度やり直してみようかと『ストーカー』を選んだ。

私が甘かった。謎に満ちた哲学と謎に満ちた詩と謎に満ちた映像が、豊かに、どっさり、うんざりするほど、気が狂うほど、ひたすら、終わりなく、2時間40分にわたって、私の前を流れ去って行った。

すまない。私が悪かった。もう二度とタルコフスキーには手を出しません。ごめんなさい。

これだけうちのめされたのはファスビンダーの『ケレル』以来のことである。

(追記:この件につきましては、兄ちゃんから「事実関係の訂正」についてメールがきましたので、慎んで訂正させて頂きます。

「あんちゃんが「ストーカー」を送ったのはアートに刺激されたというより、よく意味がわからなかったので、たっちゃんに解説してほしかったのだけど、あの文章じゃあ全然わからない。もう一度、書いて欲しい。

意味はよくわからなかったけど(あんちゃん2度観た)、暗いもの悲しさと、じめじめした多くの場面が記憶に鮮明に残っていてあんちゃんにとっては決して忘れられない映画のひとつなのだ。

よくわからなかったけどとても好きな映画でした。」

ということでした。あれを二度見たというのは凄いと思います。私は心底へばってしまったので、『ストーカー』についてその暗示的意味を解読する元気がありません。ごめんね、兄ちゃん。

でも「無意識が物質化する」話型にヒッチコックとタルコフスキーがともにが取りつかれていたというのは、ちょっと面白いですね。「ヒッチコックとタルコフスキー」ん。ちょっといいかも。でもそれを書くためにはタルコフスキーの映画みなくちゃいけないんでしょ?うう、どうしよう。)


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